ご近所付き合いを始めたら、旧保全路がざわついた
朝。
牧人は粥を多めに炊いていた。
理由は単純だ。
昨日、怪我をして転がり込んできた二匹に飯を出したら、鍋の底が見えた。
足りないのは困る。だから多めに炊く。
それだけだった。
「まめじい、塩どのくらい残ってる」
「心もとないですな」
「だろうな。……そういえば昨日言ってたご近所さん、今度挨拶しに行くか」
空気が止まった。
ザガが粥の椀を持ったまま固まる。
ベロが天を仰ぐ。
ニコが板を抱えて一歩下がる。
まめじいだけが、にこやかだった。
「ご近所付き合いは大事ですからな」
「だろ? 昨日うちに怪我して来た奴ら、あっち方面だったんだろ。何かあったなら、顔くらい出しておいた方がいい」
ザガが小声でベロに言う。
「何かあったなら、じゃねえんだよ。何かあったんだよ」
「知らないのは親分だけだな」
「黙ってろ」
牧人には聞こえていない。
粥をかき混ぜている。
隅で粥を食べていた蜥蜴頭が、おずおず手を挙げた。
「あ、あの」
「お前、昨日の迷い込んだやつだよな。まだいたのか」
「飯がうまくて……」
「帰れよ」
とザガ。
「帰ったら怒られるんで……」
「知らねえよ」
蜥蜴頭は背筋を伸ばした。
「あの。“今度挨拶しに行く”って、ゴルム様に、ですか」
「ゴルムって昨日まめじいが言ってたご近所さんだろ。うん、そこ」
蜥蜴頭の顔から色が消えた。
「本気ですか」
「本気だけど。変か?」
その場にいた全員が、同時に目を閉じた。
「変です」
「変だな」
「変ですね」
全員一致だった。
ぷるまで足元で小さく震えていた。
「なんでだよ。ご近所に挨拶して何が悪い」
「昨日、喉元まで噛んでた相手だぞ」
とザガ。
「噛んでた? 誰が」
沈黙。
「……夢の話だ」
「夢って何だ」
「夢は夢だ」
「嫌な夢でも見たのか」
牧人は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
粥が焦げそうだったからだ。
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昼前。
門前の列が、おかしなことになっていた。
怪我。
飯。
相談。
そこまではいつも通りだ。
問題は、その後ろだった。
なんとなく並んでいるだけの連中が、じわじわ増えている。
「……何の列だよ、これ」
片耳イタチが手を挙げた。
「見物」
「帰れ」
牙ネズミが鳴いた。
「噂確認」
「確認して何する」
「広める」
「なんの噂だ」
ニコがすっと板を立てる。
怪我→
飯→
相談→
その他→
「“その他”で全部受けようとするな」
「便利だぞ」
とニコ。
「便利で雑さを許すな」
ザガが小声で言う。
「“その他”が一番長いの、終わってるだろ」
「だいぶ前から終わってる気はする」
とベロ。
その時だった。
クロが門前から短く言った。
「……来る」
全員が振り向く。
旧保全路の方から、三つの影がゆっくり近づいてきた。
先頭は昨夜の蜥蜴頭より一回り大きい。
両手で包みを抱えている。
後ろの二匹は槍を持っていたが、穂先を下げていた。
ザガが小声で言う。
「使いだ」
「使い?」
「そういう雰囲気だろ、あれ」
使いは門前まで来ると、ぴたりと止まった。
クロを見た。
喉が鳴った。
それでも、来た。
「旧保全路、鉄顎のゴルム様より」
隅の蜥蜴頭が「様」のところで姿勢を正した。
ザガが冷たく言う。
「お前もう半分こっち側だろ」
蜥蜴頭はうつむいた。
使いは両手の包みを差し出した。
「境界の品です」
「境界の品?」
「旧保全路との境を定めた印として。今後、そちらの通り道を乱しません」
牧人は包みを開けた。
中には乾燥肉が束になって入っていた。
その下に、薬草が丁寧に巻かれている。
「……ちゃんとしてるな」
「ちゃんとしてるじゃねえよ」
とザガ。
「お歳暮って書いてある!」
「今、春だよ!」
列がざわつく。
「手土産だ」
「鉄顎から品が届いた」
「ご近所っぽくなってきたな」
とニコ。
「最悪の方向にな」
とザガ。
牧人は薬草束を持ち上げた。
「ありがたいな。塩はないけど、薬草は助かる。じゃあうちからも返すか」
「何を」
とザガ。
「挨拶」
「やめろ」
「粥でも持っていけば――」
「そこなんだよなあ!」
ベロが頭を抱えた。
「親分が手土産持って挨拶に行くの、完全に別の意味になるだろ」
「別の意味って?」
「お礼参りだよ!」
牧人は本気で分かっていなかった。
粥を持って近所に行く。
それだけのことが、なぜこんなに騒ぎになるのか、本当に分からない。
「いいじゃん、お礼参りするか。粥と、乾燥肉少しで」
「怖い!」
ニコがもう板を持っていた。
旧保全路・届け物控え→
「書くな!」
まめじいが穏やかに言った。
「親父殿。お気持ちは立派ですが、まずは先方の出方を見るのも礼儀ですぞ」
「そういうもんか」
「そういうものです。届け物はまず受け取り、返礼は間を置く。焦る方が格を落とします」
牧人には“格”がよく分からなかったが、まめじいが言うなら従っておく。
分からないことは、まめじいに聞けばだいたい片付く。
理由は分からないが、片付く。
「分かった。じゃあ今日は受け取るだけにする」
ザガが心の底から安堵した顔をした。
「頼むからそうしてくれ」
その横で、小型種たちがひそひそやっている。
「やっぱ本当なんだ」
「鉄顎が折れた」
「寝てる間にだぞ」
ザガが振り返った。
「だからそういう言い方やめろって!」
でも遅かった。
列の後ろの方まで、じわっと広がっていく。
“鉄顎が折れた”
“寝床の親分に品が届いた”
“今日は境界の品まで来た”
牧人は列を見た。
少し前まで誰もいなかった門前に、列がある。
怪我、飯、相談、その他、見物。
わけの分からない連中まで並んでいる。
不思議だった。
別に大したことはしていない。
飯を出して、怪我を診て、追い出さない。
それだけだ。
まあいいか、と牧人は思った。
飯が足りなくなったら鍋を増やせばいい。
怪我人が増えたら薬草を探せばいい。
それ以上のことは、たぶん自分の頭では分からない。
「まめじい、薬草の在庫も書いといて」
「承知ですぞ」
まめじいが帳面にさらさら書いた。
『旧保全路方面。境界の品。乾燥肉、薬草。関係、静観中。』
その時だった。
イシコが屋根の端から声を落とした。
「親父殿」
「何だ」
「地下。昨日とは別の反応」
「またか」
クロの耳も動いた。
今度は外ではない。下だ。
「近い」
と、クロ。
牧人は薬草束を置いた。
「……今日は地上だけで手一杯なんだけどな」
「毎日言ってるな」
とザガ。
「毎日忙しいからな」
地下への階段の方から、かすかに音がした。
カチ。
カチ。
カチ。
昨日の単発じゃない。
今度は続いている。
何かが動いている。
列が静まる。
ニコがそっと板を持ち上げた。
怪我→
飯→
相談→
その他→
地下(たぶん急ぎ)→
「雑に増やすな!」
だが牧人は、もう階段の方を見ていた。
何が鳴っているのかは分からない。
でも、ほっといていい音には聞こえなかった。
「……飯の後に見に行くか」
昼の部は、今日も忙しくなりそうだった。




