旧保全路の顔役は、寝床の前で止まった
その夜、南西旧保全区画の外れ、崩れた見張り塔で、鉄顎のゴルムは低く唸っていた。
旧保全路の顔役。
通路と水場を押さえ、この一帯の流れを噛んでまとめる区域ボスだ。
ここ数日で、その流れが狂った。
はぐれ者が来ない。
傷物も来ない。
腹を空かせた小型種まで、みな南西の廃区画へ吸われている。
飯が出るからだ。
寝床があるからだ。
怪我まで診るらしい。
下っ端の蜥蜴頭が、おそるおそる口を開く。
「親分。最近、ほんとに誰もこっちへ流れてきません」
「知ってる」
「しかも、あそこ……“黒の三首”がいるって噂が」
「聞いてる」
黒の三首。
深層の災厄。
区域ボスがまともに相手をする存在ではない。
本来なら、噂だけで避けて終わる。
だが今は違う。
「弱って転がり込んだって話もある」
「転がり込んだ災厄が元気だったらどうするんですか」
「見りゃ分かる」
ゴルムは立ち上がった。
「流れを変えるなら、同じだ。今夜で止める」
十二匹が、その背中に続いた。
誰も楽しそうではなかった。
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同じ頃、廃区画では、牧人が床に沈んでいた。
地下を見た。
備蓄を運んだ。
地上に戻ったら列が増えていた。
飯を出し、怪我を診て、相談まで受けた。
もう限界だった。
「今日は終わり……地下の続きも明日……全部、明日……」
言い切る前に、寝た。
まめじいが毛布をかけた。
ぷるが足元の泥を吸おうとして、クロに目で止められた。
ザガたちは「帰る」と言ったまま入口の横で転がっている。
イシコは扉脇で翼を畳み、壁のように動かなかった。
夜半。
最初に立ったのはクロだった。
右が風を拾う。
左が地の震えを読む。
中央が静かに前へ出る。
「来る」
まめじいが目を開ける。
「数は」
「十二。後ろにでかいの一つ」
「親父殿は」
「寝てる。起こすな」
ザガも起きた。
耳が立つ。
「……ゴルムだな」
外で、重い足音が止まった。
「中の連中」
扉越しに、ゴルムの声が響く。
「そこは旧保全路の流れの上だ。勝手に群れるな。勝手に食わせるな。出てこい」
クロは扉の前に立った。
「親父殿は寝てる」
外が、一瞬だけ静まる。
「……なら起こせ」
「要らねえ」
「誰が決める」
「俺だ」
短かった。
それだけで、夜が切れた。
「やれ」
と、ゴルム。
下っ端が一斉に来る。
だが、二歩目でもう終わっていた。
壊れた窓枠から、黒い影が出る。
クロだった。
最初の一匹は、何が起きたかも分からないまま壁へ飛んだ。
二匹目は喉を裂かれ、声も出せずに沈む。
三匹目の槍は、持ち手ごと噛み砕かれた。
喚かない。
追わない。
迷わない。
前へ出たやつから順に、前へ出られない形へ落としていく。
下っ端たちが止まる。
「ひっ」
「親分!」
「下がれ!」
「もう下がってます!」
ゴルムが前へ出た。
大きい。
顎は鉄板のように厚い。
噛めば石まで割る。
だが、クロは動かなかった。
正確には、動いたのが見えなかった。
ゴルムが踏み込んだ瞬間には、左が前脚を払っていた。
巨体がわずかに崩れる。
中央が胸から押し込む。
右が喉元へ入る。
それだけだった。
ゴルムの喉に、牙が当たっている。
深い。
正確だ。
少しでも動けば終わる位置だった。
沈黙。
下っ端も、ザガたちも、息を止めた。
ゴルムの目が、初めて揺れた。
噂は噂ではなかった。
弱ってもいなかった。
格が違った。
「区域の外ではまずい……引く」
クロは動かない。
ゴルムが血を吐き捨てる。
「そこは、お前の縄張りか」
返事は一言だけだった。
「親父殿の場所だ」
ゴルムの目が細くなる。
深層の災厄が、人間をそう呼ぶ。
噂より、よほど気味が悪かった。
「退け」
下っ端たちが倒れた仲間を引きずって下がる。
ゴルム自身も、喉元から血を垂らしたまま暗がりへ消えた。
静かになった。
ザガがようやく息を吐く。
「……終わったのか」
「終わりましたな」
と、まめじい。
「若頭、一匹ずつ数える必要すらなかったな」
とニコ。
ベロは鍋の蓋を握ったまま、まだ固まっていた。
奥では、牧人が寝返りを打った。
「……鍋……」
まめじいが牧人の方をみた。
「親父殿は熟睡中ですな」
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朝。
牧人は目を開けた。
外へ出た。
扉の前の地面が抉れている。
壁に深い爪痕がある。
折れた槍の柄が転がっている。
見知らぬ蜥蜴頭が隅で丸まって寝ていた。
「…………」
まめじいを見た。
まめじいは、にこやかに言った。
「おはようございます、親父殿。平穏な夜でしたぞ」
「平穏で地面こうなるか」
ザガを見た。
ザガは目を逸らした。
「少し揉めた」
「少しで壁えぐれるか?」
ベロを見た。
「夜、うるさいのが来た」
「何が」
「うるさいの」
「雑すぎるだろ」
ニコを見た。
ニコは板を差し出した。
「被害報告です。壁一面、地面三箇所、槍の柄二本、庭の端が消失――」
「消失って何だよ」
クロを見た。
クロは門前に座ったまま、目を閉じている。
「クロ。何かあったよな」
右の頭だけが、薄く開いた。
「……別に」
「その別にが一番怪しいんだよ」
返事はなかった。
その時、隅で寝ていた蜥蜴頭がびくりと起きた。
全員の目がそいつに集まる。
蜥蜴頭は一瞬で察した。
「あ、あの、その、迷い込んだだけです!」
まめじいが頷く。
「迷い込んだそうですぞ、親父殿」
「ほんとか?」
「はい! たぶん!」
「たぶんって何だよ」
牧人は疑ったが、追及する元気がなかった。
「腹減ってるか」
「……はい」
「じゃあ飯の列に並べ」
蜥蜴頭は飛び起きて、飯の列に走った。
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昼前。
怪我した小型種が二匹、門前に転がり込んできた。
片方は背中に噛み痕、もう片方は足を引きずっている。
ザガが見て、小さく呟く。
「……ゴルムんとこの奴だな」
牧人が顔を上げる。
「ゴルム? 誰それ」
ザガが止まる。
ベロが目を逸らす。
ニコが板を裏返す。
まめじいだけが、にこやかに答えた。
「ご近所の方ですぞ」
「なんだ。ご近所さんか。今度挨拶しなきゃ」
「ご近所付き合いは大事ですからな」
牧人は、いつも通り傷を診て、粥を出した。
二匹は怯えながら食べ、食べ終わる頃には少しだけ目が落ち着いていた。
門前の小型種が、ぽつりと言った。
「……ここが、鉄顎を止めた寝床?」
ザガが顔を覆った。
「最悪だ」
「何が」
「噂になるぞ。色々と面倒ごとが増えそうだ」
ニコはもう板を持っていた。
「相談列の前に、噂確認列を――」
「増やすな!」
だが、もう遅かった。
門前の小型種たちは、完全に信じた顔をしていた。
親分は寝ていた。
若頭が出た。
旧保全路の顔役が引いた。
そういう夜だったらしい。




