帳場を片づけたら、親父の名前を書く場所だった
明日も、掃除だ。
その言葉は、次の朝、本当になった。
雨よけの下に、また灰粉が浮いていた。
昨日より少ない。
けれど、消えてはいない。
灰色の線の周りに、うっすらと粉が出ている。
飯の列が始まる前に、ぷるはもうそこへいた。
ぷるん。
一度、揺れる。
それから、床に薄く広がった。
灰粉だけを選り分ける。
泥は残す。
水気も残す。
灰だけを包んで、体の中で沈める。
ヒナが梁の上から言った。
「やだ、朝の授業始まってる」
ベロが鍋の前で顔をしかめる。
「授業じゃねえよ。掃除だよ」
ニコは板を持っていた。
ぷる先生、朝の床掃除
ザガがそれを見て、無言で板を裏返した。
「書くなって昨日から言ってるだろ」
「朝だから」
「どういう理由だ」
ぷるは答えない。
答えないまま、床を磨く。
けれど、昨日と違うことが一つあった。
ぷるが磨いたそばから、ほんの少しだけ、灰が戻る。
ぷるん。
ぷるが揺れた。
いつもの掃除の揺れではない。
少しだけ、困ったような揺れだった。
ネムがしゃがむ。
「ぷる、終わらない?」
ぷるん。
ネムは頷いた。
「終わらない」
牧人は床を見た。
「どこから出てるんだ」
まめじいが灰色の線を見た。
「奥でしょうな」
「奥か」
「昨日、門が目を覚ましました。ですが、門だけが起きたとは限りませぬ」
ザガが槍を持ち直す。
「また奥へ行くのか」
「いや」
まめじいは首を振った。
「奥に行かずとも、向こうから来ております」
「灰がか」
「灰も、記録も」
牧人は首をかしげた。
「記録?」
まめじいは、いつもの帳面を閉じた。
「親父殿。古い帳場を見に行きましょう」
ヒナが翼を止める。
「帳場って、まめじいの仕事場じゃないの?」
「これは本家の帳場ではありませぬ」
まめじいの声は低かった。
「灰環大迷宮の、古い帳場です」
---
奥へ行く人数が決まった。
牧人。
まめじい。
クロ。
イト。
澄玲。
ぷるも行こうとした。
ぷるん。
だが、ネムがその前に立った。
「ぷる、ここ」
ぷるん。
「灰、出る」
「ここ、見る」
ぷるは少しだけ揺れた。
牧人も頷いた。
「ぷるは雨よけを頼む。ここが汚れると飯が出せない」
ぷるん。
ぷるは短く揺れた。
納得したようだった。
ヒナが梁の上で言う。
「ぷる先生、留守番授業だね」
ベロが即座に返す。
「だから授業じゃねえ」
ミズハが桶を持って笑った。
「こっちは任せて。灰が増えたら、ぷるとネムと私で止めるわ」
イシコが戸の横に立つ。
「守る」
ザガも門前に出る。
「外は俺が見る」
豪志が胸を張った。
「俺も見ます!」
ナナが短く言う。
「お前は見なくていい」
「はい!カチコミに備えます」
「お前、カチコミされたら真っ先に人質になるだろ」
とザガ。
「人質としての、伸び代を見てください!」
「どんな伸び代だよ」
「人質になって、敵を内側から疲弊させます!」
「……敵に同情する」
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灰色の線は、昨日よりはっきりしていた。
右奥を越え、古い通路へ伸びている。
昨日の扉へ続く道とは、途中で少しだけ分かれた。
イトが先に壁へ張りつく。
「こっち」
「低い」
「古い」
「かくれてる」
「隠れてる?」
牧人が見ると、ただの壁に見えた。
まめじいが壁の前に立つ。
帳面を抱えたまま、深く息を吐いた。
「帳場は、目立たぬものです。表に出るのは店先。裏で名を書くのが帳場ですからな」
澄玲が手帳を開いた。
「比喩ですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「本当です」
澄玲は書く手を止めた。
「困ります」
まめじいが壁に向かって言った。
「本家の帳場役、まめじいにございます」
「掃除の灰が、こちらへ流れ込んでおります」
「受け口を、確認したく存じます」
壁の奥で、かすかに音がした。
乾いた石が、紙をめくるような音だった。
牧人が眉を寄せる。
「今の、紙か?」
「石ですな」
「石がめくれるのか」
「古い帳場なら、めくれます」
「そういうもんか」
「そういうものではありませぬ」
壁に、細い線が走った。
縦に一つ。
横に三つ。
まるで、古い引き出しの輪郭だった。
イトが言う。
「出る」
壁の一部が、低く前へせり出した。
そこにあったのは、石の卓だった。
小さい。
けれど、重い。
表面には浅い溝がいくつも走っている。
溝の端には、古い線の跡が残っていた。
ひとつは、湿った黒い線。
ひとつは、骨のように白く硬い線。
もうひとつは、名前のない灰色の輪だった。
牧人はそれを見た。
「壊れてるのか」
まめじいは静かに首を振った。
「壊れたのではありませぬ。緩んだのです」
「緩んだ?」
「深層菌床は押し返され、骸骨公領もこちらへ踏み込む力を失いました。どちらも滅んではおりませぬ。ただ、この奥を塞ぐ力としては、弱まった」
まめじいは、三つ目の灰色の輪を見た。
「そして、ここには元より、名のない封じがあったのでしょうな」
「名がないのか」
「名を持たせぬための場所だったのかもしれませぬ」
澄玲の顔が変わった。
「勢力の記録ではなく、封じが緩んだ記録……」
まめじいは頷いた。
「おそらく、その端です」
---
石卓の上に、灰粉が浮いていた。
雨よけの粉より濃い。
触る前から、古い匂いがする。
イトが短く言う。
「さわらない」
「分かってる」
牧人は手を引っ込めた。
まめじいが帳面を置こうとした。
その瞬間、クロの中央の首が低く鳴った。
まめじいの手が止まる。
「……やはり、置くだけでも反応しますか」
澄玲が聞く。
「置くとどうなりますか」
「本家の帳が、向こうの帳と重なります」
「それは危険では?」
「危険ですな」
「では、なぜ持ってきたのですか」
まめじいは静かに答えた。
「持ってこぬと、向こうが勝手に書きます」
空気が重くなった。
牧人は石卓を見た。
「勝手に書かれるのは困るな」
「はい」
「じゃあ、こっちで書くのか」
「書きすぎても困ります」
「面倒だな」
「帳場は、だいたい面倒でございます」
まめじいは帳面を石卓の端に置いた。
全部ではない。
角だけを触れさせる。
灰色の溝が、ぴくりと動いた。
石卓の上に、薄い文字のようなものが浮かぶ。
灰、流出。
掃除、確認。
家、確認。
帳、接続。
澄玲が手帳に書こうとして、やめた。
「もう、書きたくありません」
「書かないのか」
と牧人。
「書きます。書きますが、今ではありません」
イトが石卓の上を見た。
「名前」
「空いてる」
まめじいの顔がさらに重くなる。
牧人は覗き込む。
石卓の中央に、空白があった。
そこだけ、他の溝より深い。
名前を書くための場所だと、見ただけで分かった。
牧人は言った。
「ここ、空いてるな」
まめじいが即座に止める。
「親父殿。感想だけに留めてくだされ」
「何も書かないぞ」
「言葉も、ここでは筆になります」
牧人は口を閉じた。
---
その時、後ろから小さな足音がした。
全員が振り返る。
ニコだった。
板を抱えている。
灰色の線を、まっすぐ歩いてきていた。
線は、ニコの足元だけ薄く光っている。
牧人が眉を寄せた。
「ニコ、どうした」
「板、呼ばれた」
「板が?」
「うん」
ニコは自分の板を抱え直した。
「書く場所、ある」
「だから、来た」
澄玲が小さく息を吸った。
ニコは石卓を見た。
それから、自分の板を見た。
板には、前のままの文字が残っていた。
親父、仮
まめじいが一歩踏み出す。
「置いてはなりませぬ」
ニコは首をかしげる。
「置かない」
「見せる」
「見せてもなりませぬ!」
遅かった。
石卓の灰色の溝が、ニコの板を見た。
本当に、見た。
文字が浮かぶ。
呼称、親父。
仮記録、確認。
名、未記入。
牧人は眉を寄せた。
「また未記入か」
澄玲が低く言った。
「未記入で済んでいるのが、問題であり、救いでもあります」
まめじいは額に手を当てた。
「ニコ殿。板を裏返しなされ」
ニコは素直に板を裏返した。
石卓の文字は止まった。
まめじいが深く息を吐く。
「危うございました」
ニコは短く言った。
「親父、名前じゃない」
「はい」
「でも、みんな呼ぶ」
「はい」
「じゃあ、分かりやすい」
「分かりやすいから危ないのです」
ニコは少し考えた。
「難しい」
「帳場とは、そういうものです」
---
石卓の端から、細い灰が落ちた。
雨よけへ向かって流れようとする。
牧人が顔を上げた。
「これが、朝の灰か」
「でしょうな」
「止められるか」
まめじいは石卓を見た。
「止めるのではなく、受ける場所を作るのがよろしいでしょう」
「受ける?」
「流れるものを無理に塞ぐと、別の場所へ出ます」
澄玲が頷いた。
「水の通し方に近いですね」
「灰ですがな」
「承知しています」
まめじいは帳面を開く。
そこに一行だけ書いた。
灰受け、雨よけ端。
掃除係、ぷる。
石卓が反応した。
灰、受け口、確認。
掃除、ぷる、確認。
ニコが板を裏返したまま、言った。
「ぷる先生」
まめじいが目を閉じる。
「ニコ殿」
石卓が一瞬だけ光った。
掃除、ぷる。
呼称、先生。
仮記録。
牧人は目を丸くした。
「ぷるも仮なのか」
澄玲が顔を押さえた。
「冥門組、仮記録が増えています」
イトが短く言った。
「増えた」
まめじいは、しばらく石卓を見ていた。
見て、深く息を吐いた。
「……今は、仮で済んだことを喜びましょう」
「ただし、仮の数が増えるほど、いずれ問われます」
「問われる?」
「本記録に変えるか、消すか、です」
牧人は首をかしげた。
「消せるのか」
まめじいは答えなかった。
石卓の端から出ていた灰の流れが、細く変わった。
来た道を戻る。
雨よけの方へ。
ただし、今度は床全体には広がらない。
一本の細い筋になって流れていった。
まめじいが言った。
「これで、雨よけの端へ集まるでしょう」
「ぷるが掃除しやすいのか」
「はい」
牧人は少し安心した。
「なら、いいな」
澄玲が低く言う。
「灰環大迷宮の旧帳場に、掃除係としてぷるが仮記録されました」
「掃除しやすくなったなら、いいだろ」
「そこだけ見れば、そうです」
「他を見ると?」
澄玲は手帳を閉じた。
「見たくありません」
---
雨よけに戻ると、ぷるが待っていた。
灰色の線の横に、新しい細い筋が出ている。
そこへ灰粉が集まっていた。
床全体には広がらない。
ぷるはその筋を見た。
ぷるん。
それから、ゆっくり体を伸ばした。
灰粉をまとめて包む。
昨日より楽そうだった。
ネムが小さく言う。
「ぷる、楽?」
ぷるん。
「楽」
ネムは頷いた。
「よかった」
ヒナが梁から降りてきた。
「やだ、ぷる先生専用の掃除道できてる!」
ベロが鍋の前から言う。
「先生専用とか言うな」
ニコが板を持ち上げた。
ぷる先生の道
ザガが叫んだ。
「書くな!」
まめじいが静かに言った。
「いえ、それは……」
ザガが固まる。
「まさか、いいのか?」
「外へ出さぬなら、分かりやすいかもしれませぬ」
ザガは頭を抱えた。
「まめじいまで負けるな!」
牧人は灰が一か所に集まっているのを見た。
「掃除が楽になったな」
「はい」
まめじいは答えた。
「ただし、旧帳場に通りました」
「通った?」
「本家の掃除が、向こうの記録に載りました」
牧人はぷるを見た。
ぷるは黙って、灰を吸っている。
「ぷる、すごいな」
ぷるん。
ぷるは短く揺れた。
子どもが近づいて、言った。
「ぷる先生、すごい」
ぷるはもう一度、短く揺れた。
ヒナが小さく笑う。
「やだ、照れてる」
---
その日の夕方、澄玲は報告書を書いた。
灰環大迷宮旧帳場の一部反応。
灰粉流出経路を確認。
本家側に灰受け口を設定。
掃除係「ぷる」、呼称「先生」、仮記録。
そこまで書いて、手が止まった。
消したい。
だが、これは起きたことだった。
隣でローが言った。
「出したら、どう見えます?」
澄玲は即答した。
「冥門組が、灰環大迷宮の旧帳場に清掃担当を登録したように見えます」
ローは黙った。
国枝も黙った。
少しして、ローが言う。
「実際は?」
澄玲は雨よけの下を見た。
ぷるが灰を吸っている。
子どもが足を出している。
ヒナが笑っている。
ベロが鍋を守っている。
澄玲は言った。
「掃除をしやすくしただけです」
ローが苦い顔をした。
「それ、外に通じないやつですね」
「はい」
国枝が静かに言った。
「通じないでしょうね」
---
夜。
雨よけの下は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
灰粉はもう床全体へ広がらない。
細い筋を通って、端へ集まる。
ぷるがそこを掃除する。
子どもたちは、もう足を勝手に出さない。
ナナが決めた順番を守っている。
豪志だけが、列に並ぼうとしていた。
ナナが短く言う。
「豪志、違う」
「はい!」
ザガが笑う。
「お前、何の列だと思ってんだ」
「ぷる先生への挨拶です!」
「帰れ」
「はい!」
牧人はその様子を見て、少し笑った。
「何とかなったな」
まめじいが隣で言う。
「はい。今日のところは」
「明日は?」
「帳場は、明日も帳場です」
「面倒だな」
「ええ」
まめじいは低く笑った。
「家というのは、だいたいそういうものです」
牧人は少しだけ考えた。
それから、雨よけの下で眠る子どもと、灰を掃除するぷるを見た。
「面倒でも、まあ、いるだろ」
まめじいは頷いた。
「はい」
灰色の線の奥で、古い帳場は静かに眠っていた。
ただ、片目だけは、もう閉じていなかった。
その端には、薄い文字が残っていた。
掃除、ぷる。
呼称、先生。
仮記録。
そして、その下に、もう一行だけ、ごく薄く浮かんでいた。
家主、未記入。
待機中。




