空き部屋を探したら、灰環大迷宮に家認証された
灰色の線は、朝飯のあとも消えなかった。
雨よけの床から右奥へ。
右奥から、さらに本家の奥へ。
細く、薄い。
けれど、確かに見える。
ぷるが近づき、線の上を掃除しようとした。
ぷるん。
けれど、吸えない。
ぷるはしばらく線を見てから、線の左右だけを丁寧に磨き始めた。
ヒナが翼を震わせる。
「やだ、ぷるが掃除できない汚れだ」
「汚れではないのでしょうな」
まめじいが低く言った。
牧人は線を見下ろす。
「汚れじゃないなら、何だ」
「道、でしょうな」
「道?」
「本家の奥へ続く、古い道です」
「じゃあ、寝床を探すのにちょうどいいな」
まめじいは返事をしなかった。
右奥から、ネムの声がする。
「いる」
「寝るところ、ない」
それで、話は決まった。
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奥へ行く人数は絞った。
牧人。
クロ。
まめじい。
イト。
久慈野澄玲。
イシコも立とうとしたが、ザガが止めた。
「石の姐さんまで行ったら、門前が薄くなる」
牧人は頷いた。
「イシコは残ってくれ。右奥と雨よけ、頼む」
「守る」
イシコは短く答えた。
ザガは門前。
ヒナは梁の上。
ミズハは右奥。
ベロは鍋。
ナナは戸。
ネムは寝床。
ぷるは灰色の線の横。
豪志が雨よけの端から身を乗り出す。
「親分さん、俺も行きます!」
ナナが言った。
「豪志、残る」
「はい!」
ザガが呆れる。
「早いな」
「ナナさんが直属の兄貴分ですから」
ヒナが笑った。
「やだ、子分になってる」
澄玲は手帳を持ったまま、灰色の線を見ていた。
「私も同行します」
「澄玲さんも行くのか」
「調査対象が深層側へ移動するなら、確認しないわけにはいきません」
「仕事、増えたな」
「増えました」
牧人は頷き、それ以上は聞かなかった。
ヒナが翼の下から呟く。
「親父、聞かないんだ」
「聞いたら長いだろ」
「……そうだね」
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灰色の線は、本家の右奥から、さらに奥へ続いていた。
そこから先は、まめじいですら「あまり行かぬ方」と呼んでいる場所だった。
通路は細い。
天井は低い。
壁は、本家の他の場所と違い、石ではなく、もっと古い何かでできている。
イトが壁に張りついた。
「石、ちがう」
「古い」
「分かるのか」
イトは首をかしげる。
「上、息」
「壁、寝てる」
澄玲の筆が止まった。
「壁が寝ている、という記録は、どう処理すればいいのでしょう」
まめじいが言う。
「そのまま書かぬ方がよろしいかと」
「同意します」
クロの三つの首が、それぞれ別の方向を向いていた。
右は後ろ。
左は上。
中央は、まっすぐ前。
警戒ではなく、確認の構えだった。
牧人は聞く。
「クロ、知ってる道か」
クロは答えない。
答えないことが、答えのようだった。
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線は、突き当たりで止まっていた。
そこには、扉があった。
扉、と呼んでいいのか迷う形だった。
壁に輪郭だけが彫られている。
取っ手はない。
蝶番もない。
ただ、扉の形をした線が、深く刻まれている。
中央には、丸い窪みがひとつ。
窪みの底に、灰色の点が薄く光っていた。
牧人は扉の前に立つ。
「ここか」
「ここ、でしょうな」
まめじいの声は低い。
「親父殿。ここは、空き部屋では済まぬ場所かもしれませぬ」
「でも、空いてはいるんだろ」
「……空いては、おりますな」
「じゃあ、ちょうどいいな」
まめじいは何も言わなかった。
扉の手前には、低い石台がある。
その上に、三つの痕が残っていた。
牙の痕。
菌糸の痕。
骨の痕。
まめじいが石台を見る。
「三つの旧支配より、さらに前の台でしょうな。あの三つは、後から痕を置いていっただけのこと」
牧人は台を見た。
「寝台にちょうどいい高さだな」
「親父殿」
「分かってる。寝ない」
イトが石台の端に張りつく。
「古い」
「空いてる」
「ほら」
と牧人。
まめじいは少しだけ頭を抱えた。
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扉は開かなかった。
押しても、引いても、何も起こらない。
「無理か」
「無理でしょうな」
「じゃあ、帰るか」
イトが壁の上で言った。
「待つ」
「待つ?」
「向こう」
「見てる」
クロが扉の前に座った。
三つの首が、それぞれ違う方向を見る。
右は来た道。
左は天井。
中央は、扉の中央の窪み。
まめじいが低く言った。
「開けるのではなく、見せるものかもしれませぬ」
「何を」
「家を、です」
「扉に?」
「はい」
牧人は扉を見た。
何も思いつかなかったので、思いついたことを言った。
「うちの家、寝床が足りない」
扉は反応しなかった。
まめじいが遠い目をする。
「親父殿。迷宮の古い門に、いきなり家の困りごとを言っても、伝わりませぬ」
「ダメか」
「リフォームの相談に来ているわけではございませぬ」
「じゃあ、まめじいが言ってくれ」
まめじいは扉へ向いた。
「親父殿の家には、雨よけがあります」
「飯の列があります」
「寝床の右奥があります」
「帳の係がおります」
「掃除の主がおります」
「見張りの牙があります」
「門前を守る者がおります」
「戸を守る者がおります」
「寝床を守る者がおります」
「書く者もおります」
牧人は首をかしげた。
「最後いるか?」
「本家ですので」
扉の中央の点が、薄く震えた。
灰色の点が、輪郭の線に沿って流れる。
扉の形が、はっきり浮かび上がった。
まめじいは続ける。
「親父殿の家には、家を家として扱う者がおります。ただ、それだけのこと」
低い音がした。
石が動いた音ではない。
骨が鳴った音でもない。
もっと古いものが、眠りの中で返事をしたような音だった。
家、確認。
門前、確認。
帳、確認。
飯、確認。
寝床、確認。
見張り、確認。
掃除、確認。
牧人は少し安心した顔をした。
「掃除も分かるのか」
確認は、そこで止まらなかった。
家主、未記入。
牧人は首を傾げる。
「未記入って、書類か」
まめじいの顔が強張った。
「親父殿。今、名を返してはなりませぬ」
「名を返す?」
「この門は、聞いております。誰が家主かを」
牧人は扉を見る。
まめじいが珍しく、強い声で言った。
「親父殿」
まめじいは、扉から目を離さずに続ける。
「ここで親父殿が認めれば、門はそれを名として刻みます」
「刻む?」
「はい。家の主としてではなく、封じられた層の主として」
空気が重くなった。
牧人は眉を寄せる。
「俺は、支配するつもりはないぞ」
「だからこそ、今は言わぬが吉です」
扉の灰色の線は、未記入のまま脈打っていた。
牧人は口を閉じた。
扉は開かなかった。
けれど、もうただの壁ではなかった。
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戻ると、雨よけの下の空気が張っていた。
ザガが門前に立っている。
ヒナは梁の上。
ミズハは右奥の入口。
イシコは戸の横。
ナナは、女と子どもの前。
雨よけの外に、男が二人いた。
一人は紙束を持っている。
もう一人は、腰に短い棒を下げていた。
イトが梁の上で、ちらりと雨よけの横を見る。
「いる」
ザガが低く聞いた。
「何人だ」
「さん」
「三人か」
イトは頷いた。
「いる」
真木レンの顔がこわばる。
「外輪の口入れ屋です」
紙束を持った男が笑う。
「こっちは書類を持ってきた。そこの女と子どもは、うちの預かりだ」
澄玲が前に出た。
「書類をその場で広げてください」
「信用してねえのか」
「はい」
ヒナが小声で言う。
「やだ、即答」
男は紙束を広げた。
澄玲が見る。
国枝も横から覗く。
真木レンは雨よけの端で、唇を噛んでいた。
澄玲は一枚目を見た。
「署名がありません」
「簡易証明だ」
「債務額がありません」
「後で計算する」
「対象者の名前も違います」
女が右奥で肩を震わせた。
真木レンが小さく言う。
「それ、使い回しです」
男が真木レンを睨む。
「お前、いい加減にしろよ」
クロの右が目を開けた。
男は黙った。
澄玲は淡々と言う。
「この書類では、身柄引き渡しの根拠になりません」
「魔物の側につくのか」
「書類の側です」
ヒナが吹き出した。
「やだ、監察官、強い」
その時、イトが梁の上で言った。
「下」
雨よけの横から、隠れていた男が動いた。
低く走る影。
狙いは、子どもだった。
イトの糸が落ちる。
男の足首に絡む。
男は前のめりに倒れる。
だが、手だけは伸びた。
子どもの毛布へ。
右奥の内側へ。
ネムが子どもの前に立った。
「だめ」
小さな声だった。
けれど、右奥の空気が止まった。
男の手が、灰色の線の手前で止まる。
何かに弾かれたわけではない。
何かに焼かれたわけでもない。
ただ、そこから先へ入るには、足りないものがあるように、男の体が止まった。
男は自分の手を見た。
線の向こうに、子どもがいる。
手が届く距離にいる。
届くはずの距離にいる。
届かなかった。
男の顔から、血の気が引いた。
イトが梁の上で言う。
「ここ」
「家」
ナナが続けた。
「入るな」
ザガが男の襟を掴み、引きずり戻した。
「人の寝床に手を伸ばすな」
男は青ざめたまま、何も言えなかった。
豪志が震える声で言う。
「これ、親分さんの家の敷居をまたぐには筋を通せってやつですよね」
ベロが鍋の前から言った。
「違うと思うぞ」
ミズハは灰色の線を見ていた。
「でも、外してもいないわね」
本家の奥で、低い音がした。
牧人が顔を上げる。
「奥か」
まめじいの表情が変わった。
「親父殿。今のは、門です」
男たちは逃げた。
紙束を落とし、短い棒も置いていった。
三人目は、ザガに入口の外へ放り出された。
負傷はない。
ただ、全員が青ざめていた。
澄玲が紙束を拾う。
「偽造ですね」
国枝が頷く。
「粗いです。脅し用でしょう」
牧人は子どもを見た。
子どもは起きていた。
けれど、泣いてはいない。
ネムの服の裾を握っている。
「大丈夫か」
子どもは小さく頷いた。
ネムが言った。
「まだ、寝る」
「寝られるか?」
「寝る」
ネムは毛布を掛け直した。
子どもは少し震えていたが、やがてまた目を閉じた。
ヒナが息を吐く。
「やだ……本当に寝た」
牧人も少しだけ安心した。
「寝られるなら、いいな」
まめじいは灰色の線を見ていた。
「親父殿。今のは、ただの寝床ではございませぬ」
「でも、寝てるだろ」
「はい」
まめじいの声は低い。
「奥が、本家の内側を認めたのでしょうな」
牧人は首をかしげる。
「奥が?」
「はい。少なくとも、あの子を外の手から守る側に置いた」
澄玲は手帳を開いた。
本家の居住範囲、拡張。
迷宮による保護反応。
灰環大迷宮、避難児童を本家内側として扱った可能性。
どれも書けなかった。
結局、こう書いた。
避難児童、再睡眠確認。
ヒナが覗いて言う。
「記録も大変だね」
「断定を避けています」
澄玲は手帳を閉じた。
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牧人は灰色の線の先を見た。
右奥。
さらに奥。
さっきの扉。
「扉に、礼を言った方がいいのか」
全員が黙った。
ザガが低く言う。
「親分、それはやめた方が」
まめじいも言う。
「軽々しく声をかけるのは、危うございます」
しかし、ネムが子どもを見て、小さく言った。
「言う」
牧人はネムを見る。
「言った方がいいか」
ネムは頷いた。
「寝た」
「守った」
「ありがとう、いる」
ナナも短く言った。
「礼、いる」
ヒナが翼をすぼめる。
「言った方がいいかも」
牧人は灰色の線の上に立った。
線は何も反応しない。
ただ、奥へ続いている。
牧人は奥に向かって言った。
「助かった。子どもが寝られた」
まめじいの顔が強張る。
灰色の線が、淡く光った。
牧人は続ける。
「ただ、俺は支配するとか、そういうつもりはない」
灰色の線の光が、少し強くなる。
まめじいが慌てる。
「親父殿」
「家っていうなら、帰ってくる場所のことだろ。ここに来たやつが、寝られるなら、それでいい」
線の光が、雨よけから右奥へ走った。
右奥から、さらに奥へ。
本家の奥で、低い音が響いた。
今度は、はっきり聞こえた。
古い門が、目を開けた音だった。
イトが梁の上で言う。
「返事」
ナナが続けた。
「大きい」
クロがゆっくり立ち上がった。
中央の首が、奥を見ている。
まめじいは、もう止めなかった。
ただ、深く息を吐いた。
「……言うてしまわれましたな」
牧人は困った顔をした。
「まずかったか?」
まめじいは答えなかった。
答える前に、奥から声が届いた。
声というより、意味だった。
家、確認。
門前、確認。
内側、確認。
客、確認。
寝所、確認。
謝意、確認。
豪志が震える。
「謝意まで確認されたんですか!?」
ベロが真顔で言った。
「奥、律儀だな」
確認は、そこで止まらなかった。
家主、未記入。
呼称、確認。
牧人は眉を寄せた。
「呼称?」
ニコが板を抱えたまま、奥を見た。
見て、迷って、それでも、いつもの呼び方を選んだ。
「親父」
ザガが叫んだ。
「言うな!」
遅かった。
灰色の線が、ニコの声に反応した。
奥で、低い音がもう一度響く。
呼称、親父。
仮記録。
空気が止まった。
牧人だけが、よく分かっていなかった。
「呼び名がどうしたんだ」
まめじいは額に手を当てた。
「……名ではありませぬ。仮で済むうちは、まだ救いがございます」
澄玲が手帳を落としかけた。
「仮記録、ですか」
ヒナが翼をばたつかせる。
「やだ、親父。迷宮に親父で登録された!」
「登録って何だ」
ザガがニコを見る。
「ニコ!」
ニコは首をかしげる。
「いつも、呼ぶ」
「そういう問題じゃねえ!」
豪志は感動していた。
「親分さん、ついに迷宮からも親父扱いに……!」
「豪志、黙れ」
とナナ。
「はい!」
クロの中央の首だけが、奥を見ていた。
右も左も黙っている。
その沈黙が、一番重かった。
---
澄玲は、手帳を開いた。
書くべきではない。
書かなければならない。
灰環大迷宮、本家を家として仮認識。
守谷牧人、家主として未記入。
呼称「親父」、仮記録。
書いて、すぐに消したくなった。
しかし、消せなかった。
これは、起きた。
澄玲は手帳を閉じた。
「これは、報告しなければなりません」
牧人が聞く。
「何を」
「本家が、灰環大迷宮に認識されました」
「前からあるだろ」
「場所としてではありません」
澄玲は奥を見た。
「家としてです」
牧人は少し考えた。
「家としてなら、いいんじゃないか」
まめじいが低く言う。
「よくもあり、悪くもありますな」
「どっちだ」
「親父殿らしいことを申し上げれば、両方です」
ヒナが笑った。
「やだ、まめじいまで本家っぽいこと言ってる」
まめじいは否定しなかった。
---
夜になった。
子どもはまた眠っていた。
今度は、女もその横で浅く眠っている。
ネムは入口に座っている。
イトは梁の上。
ぷるは線の横。
クロは雨よけの外側。
本家は、少しだけ静かだった。
牧人は灰色の線を見た。
「結局、寝床は増えたのか?」
まめじいが隣で言う。
「増えた、と言えば、増えましたな」
「じゃあよかった」
「ただし、家の範囲も増えました」
「同じことじゃないのか」
「似て非なるものです」
牧人はよく分からなかった。
よく分からなかったが、子どもが眠っているなら、それでいいと思った。
雨よけの外で、また雨が降り始める。
灰色の線は、その夜、眠る子どもと女の横で、静かに息をしていた。
奥の扉は、開かなかった。
けれど、もう眠ってはいなかった。




