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一晩泊めただけなのに、保護制度が始まった


朝の本家は、いつもより少し早く動いていた。


久慈野澄玲は、石の客間から出ると、すぐに手帳を開いた。

目の下には少し疲れがある。

けれど、髪は整っていて、声もいつもの硬さに戻っていた。


「本家内部宿泊、一日目明け。夜間襲撃なし。拘束なし。睡眠は可能。ただし、監視感あり」


その欄は、それで埋まった。


手帳の裏に残した一行だけが、まだ意味を持たないまま残っている。


三旧支配域、境界部、灰色反応。同時。意味、不明。


澄玲は手帳を閉じ、雨よけの方へ歩き出した。


梁の上から、イトが顔を出す。


「みた」


澄玲は上を見た。


「見なくて大丈夫です」


「みる」


「……それも含めて、監視感あり、です」


ヒナが横から覗き込んだ。


「やだ、朝から報告書?」


「三時間ごとの手動報告もあります」


「寝ても仕事なんだ」


「泊まり込み調査ですから」


牧人は鍋の前で、あくびをしながら言った。


「寝られたならよかったな」


澄玲は少しだけ黙った。


「……そこは、否定しません」


雨よけの下には、まだ男がいた。


外しかけの探索者証を腰に下げ、腹を空かせた顔で本家に来た男である。

牧人が椀を渡し、イトが「行くとこ、ない」と見た。

そのあと、ネムが毛布を掛けた。


男は石段の端で膝を抱えていた。

寝ていたのか、起きていたのかは分からない。

ただ、毛布だけは肩に残っていた。


牧人が鍋の前に出ると、男は慌てて立ち上がった。


「あの、すみません。すぐ出ます」


「飯は?」


「え?」


「朝飯」


男は少しだけ口を開けて、それから閉じた。


「……いただいて、いいんですか」


「腹減ってるんだろ」


「でも」


「朝飯だ。食え」


男は何か言いかけて、言えなかった。


澄玲はそのやり取りを、手帳を開いたまま見ていた。


「すでに一名、継続滞在者がいますね」


牧人が首をかしげる。


「継続?」


「一晩だけのはずが、朝になっても行き先が決まっていない人です」


「朝飯前だからな」


澄玲は手帳に書いた。


一晩の定義、要確認。


雨よけの端には、真木レンもいた。


人間列の板の前で固まっていた若い荷運びである。

まだ本家の一員ではない。

だが、今は新しく来た者に、小声で教えていた。


「武器は、あそこに置けばいいです」

「飯は、鍋の列です」

「親父には、いきなり全部聞かない方がいいです」


言ってから、真木レンは困った顔をした。


「……俺も、来たばかりなんですけど」


ヒナが笑う。


「本家、少しいると案内係になるんだね」


「案内係になるつもりはないんですけど」


ザガが低く笑った。


「もうなってるだろ」


真木レンは何も言い返せなかった。


その時、雨よけの外に二人の影が立った。


一人は若い女。

片腕に荷包みを抱えている。

もう一人は子どもだった。


二人とも、板の前で立ち尽くしている。


武器はここに置け。

鍋の列はこちら。

寝床は右奥。

親父に全部聞くな。


さらに、ニコが新しく立てた板がある。


困ったら、まずナナ。


ナナがその板を見た。


「ニコ」


「いる」


「私に来る」


「親父に全部行くよりいい」


ナナは少し黙った。


「……そう」


女はナナを見て、牧人を見た。


「あの。ここ、行くところがない人を、一晩だけ休ませてくれるって聞いて」


ベロの手が止まった。


ザガが低く言う。


「誰から聞いた」


「外輪の、共有板で……」


ヒナが頭を抱えた。


「もう広がってる!」


ローが雨よけの外から顔を出した。


「広がってるね」


国枝も一緒だった。


「少し前から、外でそういう話になっています」


牧人が聞く。


「何が」


ローが記録石を回す。

紋に指を当てると、淡く灯る。


「冥門組、行くところのない人間に飯を出す。雨よけの下で一晩だけ休ませてもらえるらしい。武器を置けば追い返されにくいらしい。って感じ」


「追い返されにくいって何だ」


「実際、追い返してないから」


「雨よけの下にいただけだろ」


国枝が静かに言う。


「外から見れば、短期避難者の受け入れです」


ベロがため息をついた。


「また名前が増えた」


牧人は女と子どもを見る。


「腹、減ってるか」


女は答えなかった。

子どもが、女の袖を掴む。


牧人はそれで分かった。


「ベロ、粥あるか」


「あるにはありますけど」


「出してくれ」


ベロは椀を二つ出した。


「親父、先に決めといた方がいいですよ。どこまで入れるか」


雨よけの下が静かになった。


雨よけに残っている男も、真木レンも、女も、子どもも、牧人を見た。


牧人はしばらく考えた。


「一晩だけならいいだろ」


まめじいが帳面を開く。


「一晩泊まり対象、三名」


「書くの早いな」


「必要ですからな」


ニコが板を持ってきた。


一晩だけの者はこちら


ヒナが翼をばたつかせる。


「分かりやすい!」


ベロは顔をしかめた。


「分かりやすすぎるんだよ」


澄玲も額を押さえた。


「外から見ると、完全に申告制の短期保護です」


「一晩だけだぞ」


と牧人。


「一晩だけ、と書いてあるため、余計に制度に見えます」


「分かりやすいだろ」


「分かりやすいからです」


ヒナが笑う。


「やだ、分かりやすいと制度になるんだ」


「その通りです」


「冗談で言ったんだけど」


ネムが右奥から顔を出した。


「子ども、寝てない」

「目、まだ起きてる」

「足、ふらふら」


ネムは白い胞子を少しだけ出した。

子どもの冷えた指の色がわずかに戻り、こわばっていた肩が少し落ちた。


「寝床、あとで」


女は深く頭を下げた。


その時、イトが梁の上で低く言った。


「来る」

「三」

「人間」

「怒る」


ザガが槍を取る。


「面倒なのが来たな」


真木レンの顔がこわばった。


「外輪の口入れ屋です」


「知ってるのか」


とザガ。


「白閃牙が荒れてから、ああいう仕事が増えました。紙に残らない仕事です」


ザガは少しだけ真木レンを見た。


「……そうか」


それ以上、何も聞かなかった。


---


来たのは三人の男だった。


革鎧を着て、短剣を下げている。

一人は鎖を持っていた。


女の顔から血の気が引く。

子どもが椀を抱えたまま固まる。


先頭の男が言った。


「そいつら、こっちの預かりだ」


牧人は鍋の横から聞いた。


「預かり?」


「仕事を飛んだ。連れ戻す」


女が震えた。


「違います。あの仕事は、もう……」


「黙れ」


その一言で、クロの右が目を開けた。


男の喉が鳴る。


ヒナが小声で言う。


「やだ。朝飯の列で取り立て?」


「最低ね」


とミズハ。


男は声だけ張った。


「人間同士の話だ。魔物は関係ねえ」


牧人は首を傾げる。


「ここにいるなら、うちの門前の話だろ」


男は笑いかけた。

笑いきれなかった。

クロが見ていた。


牧人は女を見る。


「戻りたいのか」


女は首を横に振った。


「戻りたくありません」


「子どもは」


子どもも、小さく首を振った。


牧人は男に向き直る。


「じゃあ、今日は返さない」


「は?」


「一晩だけなら、ここにいていいって言った」


男が一歩出ようとする。


床すれすれの糸が、足首に触れた。


イトが言う。


「止まる」


ナナが短く言った。


「武器、置け」


「何で俺が」


「武器、置け」


ニコが板を持ち上げる。


武器はここに置け


男たちは、しぶしぶ短剣を置いた。


ザガがぼそりと言う。


「完全に検問だな」


ベロが返す。


「鍋の前で刃物抜かれるよりいいだろ」


「それはそうだ」


男は歯ぎしりする。


「契約がある。仕事を飛んだんだ! 耳を揃えて払うか、身を粉にして働くか、どっちか選べ!」


ニコが『豪志は手伝い』の横に、素早く新しい板を立てた。


『身を粉にして働く列』


豪志が嬉しそうに叫んだ。


「やった! ついに俺に同僚が! おっさん!一緒に頑張ろうぜ!」


男が顔を真っ赤にして叫んだ。


「なんで俺が働くんだよ!! 取り立てに来たんだよこっちは!!」


ザガが頭を抱えた。


「勝手に新規採用すんな! うちが人攫いの手口になってるよ」


澄玲がすかさず手帳に書き留めた。


「……就労の強制、および脅迫。ただし対象は口入れ屋」


「澄玲さん、それ書かないで!?」


とザガ。


澄玲は筆を止めず、前へ出た。


「契約書はありますか」


男の顔が変わる。


「誰だ」


「監察局です」


「……何で監察局がここにいる」


「調査中です」


ローが小声で言う。


「これ、また絵が強い」


国枝が止めた。


「黙っていましょう」


澄玲は男を見る。


「契約書、身柄拘束の根拠、未払い債務の明細を提示してください」


男は黙る。


その前に、真木レンが小さく言った。


「たぶん、持ってないです」


澄玲が振り返る。


「なぜですか」


「外で働かせる時は、紙には書かないんです。書面にすると、逆に突かれるので」


澄玲の目が変わった。


「証言として、後で詳しく聞かせてください」


真木レンは少し迷ってから、頷いた。


「……はい」


男が真木レンを睨む。


「お前、余計なことを」


クロの左が低く鳴った。


男は黙った。


澄玲は改めて聞く。


「契約書はありますか」


「持ってねえよ」


「では、本日は連れ戻せません。本人が拒否しています。未成年と思われる子どもも同行しています。明細がないなら、少なくとも今日この場では認められません」


男は歯ぎしりした。


「こんな場所で、監察局が人間同士の話に口を出すのか」


澄玲は淡々と言った。


「こんな場所で人間を引きずっていく方が、今は目立ちます」


男は言い返せなかった。


牧人は短く言った。


「帰れ」


男たちは短剣を受け取り、雨よけを出た。


出る直前、先頭の男が女と真木レンを睨んだ。


その瞬間、クロの左が低く鳴る。


男は何も言わずに去った。


イトが言う。


「帰った」

「でも、外」


牧人は頷いた。


「まだ見るか」


「みる」


まめじいが帳面を閉じた。


「一晩だけで終わらぬ気配ですな」


ヒナが頭を抱えた。


「親父、それ、絶対一晩で終わらないやつ」


---


その後、雨よけの下は静かだった。


女は何度も頭を下げた。

子どもは粥の椀を抱えている。

雨よけに残っていた男は、自分も追い出されると思ったのか、石段の端で小さくなっていた。


真木レンは女に場所を空けた。


「そこ、座れます」


女は小さく頭を下げて座った。


真木レンは慌てて目を逸らす。


「いや、別に、俺の場所じゃないんですけど」


ヒナがにやにやした。


「馴染んでる」


「馴染んでません」


牧人は三人を見る。


「一晩だけなら、右奥で寝ればいい」


女が震える声で言った。


「本当に、いいんですか」


「今そう言っただろ」


ベロが三人分の椀を出す。


「今さら三人増えたくらいで、鍋は驚きません。俺は驚いてますけど」


ネムは毛布を三枚持ってくる。

前が見えなくなって、ぷるにぶつかった。


ぷるん。


ネムは毛布の端の泥を吸ってもらう。


「ありがとう」


子どもが、それを見て小さく笑った。


---


子どもは、毛布を一枚、ぎゅっと抱えていた。


毛布の端に、小さな縫い目があった。

不揃いで、太い糸で、丸の中に点が一つ。

目のような形だった。


子どもが、ぼそりと言った。


「みる、って」


梁の上のイトは、何も言わなかった。


ヒナがネムを見た。


「ネム、これ縫ったの」


「うん」


「いつ」


「夜中」


「……寝てないじゃん」


ネムは少し考えた。


「破れてたら、縫う」

「寒いと、寝ない」

「寝ないと、治らない」


ヒナは黙った。


母親が、毛布の縫い目を見て、頭を下げた。

下げたまま、上がらなかった。


ベロが、鍋の蓋を、わざと大きな音で閉めた。


「粥、おかわりありますからね」


母親の頭が、ようやく上がった。

目が、少し赤かった。


ザガが横で低く笑った。


「毛布が頑張ったって、本家でしか聞かない話だな」


ベロが鍋から顔を上げる。


「本家、毛布まで働きますから」


---


まめじいは帳面に書く。


一晩泊まり対象、三名。

外輪口入れ屋との接触あり。

真木レン、外輪口入れ屋について証言。


真木レンが慌てた。


「俺も書かれるんですか」


「証言しましたからな」


「証言ってほどじゃ」


澄玲が言う。


「知っていることを、必要な時に言えるのは重要です」


真木レンはまた黙った。


ニコの板が、風に揺れていた。


一晩だけの者はこちら


牧人はその板を見て、少し困った顔をした。


「一晩だけ、なんだけどな」


澄玲は静かに答えた。


「問題は、一晩が終わっても、行き先がないことです」


牧人は返事をしなかった。


右奥から、ネムの声がした。


「寝床、足りない」


ベロが鍋をかき回しながら言う。


「ほら、増えた」


ザガが頭を抱えた。


「だから言っただろ」


牧人は右奥を見た。


「寝床、作るか」


澄玲が一歩早く言った。


「イシコに作らせる場合は、窓を最初から指定してください」


イシコが無言で立つ。


「窓、いる」


「はい」


「壁、薄くする?」


「できれば」


「弱い」


「弱くていい部分もあります」


ヒナが笑う。


「やだ、監察官がもうイシコの部屋作りに慣れてる」


澄玲は否定しなかった。


ネムが右奥からもう一度言う。


「右奥、いっぱい」

「毛布、足りない」

「寝るところ、ない」


まめじいが、そこで帳面を閉じた。


「親父殿」


「何だ」


「空き部屋なら、さらに奥にございます」


「奥?」


「赤牙、菌床、骸骨公領。三つの旧支配が崩れたあと、奥が静かすぎました」


牧人は眉を寄せた。


「静かだと駄目なのか」


まめじいは、雨よけの奥を見た。


「迷宮で長く静かな場所は、だいたい眠っておるだけです」


その時、床の割れ目に、細い灰色の光が走った。


雨よけの下から、右奥へ。

右奥から、さらにその先へ。


まるで、本家の奥に向かって、古い道が息を吹き返したようだった。


イトが梁の上で、ぴたりと止まった。


「奥」

「起きた」


ナナが短く言う。


「線」


ぷるが、ぷるん、と震える。

床の汚れではないものを感じ取ったように、動きを止めた。


クロの中央の首が、ゆっくりと目を開けた。


牧人はクロを見る。


「何だ、これ」


クロは答えなかった。


まめじいの声が低くなる。


「寝床を探すだけでは、済まぬかもしれませぬ」


牧人は、まだよく分かっていない顔で言った。


「でも、寝床はいるだろ」


ヒナが小さく笑った。


「やだ。親父、そこは変わらないんだ」


灰色の線は、奥へ続いていた。


その先で、何か古いものが、ゆっくりと目を覚ましていた。


---


そして、その同じ瞬間。


雨よけの端で、澄玲の手帳の裏が、わずかに熱を持っていた。


澄玲が指で押さえると、裏に書いた一行の上に、薄く灰色の点が浮いていた。


三旧支配域、境界部、灰色反応。同時。意味、不明。


床の割れ目を走った灰色の光と、手帳の裏の灰色の点は、同じ色をしていた。


澄玲は何も言わなかった。


ただ、手帳を閉じて、雨よけの奥を見た。


奥、という言葉が、ただの場所を指していないことだけは分かった。


それでも、口には出さなかった。


職務上の用語で、まだ説明できなかった。


奥で何が起きたのか。

本家の誰も、まだ名前を持っていなかった。


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