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監察官を泊めたら、監察報告が困惑した


久慈野澄玲が本家に来たのは、昼前だった。


昨日と今日の映像が都市防衛局で議題に上がり、その日のうちに監察局へ照会が回り、監察局はいつものように一番面倒な仕事を一番真面目な人間に回した。澄玲はそれを断る理由を探したが、見つからなかったので来た。


ただし、一人で灰環大迷宮を歩いてきたわけではない。


外輪の監察局詰所から旧保全路入口までは、国枝の搬入便に合わせた。

荷運びが四人。

国枝の護衛が二人。

監察局の同行員が一人。

さらに、本家側からはゴルムの若い衆が途中の分岐まで顔を出していた。


灰環大迷宮は、歩き慣れた者でも一人で通る場所ではない。

まして、監察官が記録具を抱えて単独で歩けば、魔物より先に人間側のならず者に狙われる。


だから、移動は護衛付きだった。


珍しい判断だったのは、そこから先だ。


本家門前で、同行員と護衛は止まった。

澄玲だけが、調査対象の内部へ入る。


大人数で入れば、本家を刺激する。

武装した人間を連れて入れば、白閃牙の二の舞に見える。

本家の実態を確認するなら、監察官一人で入った方がいい。


それが監察局の判断だった。


澄玲本人は、その判断に納得していた。


納得はしていたが、胃が軽くなるわけではなかった。


その結果、澄玲は一人で雨よけの前に立っていた。


雨よけの下には、もう人間列と旧保全路列ができていた。


怪我人先。

小さいの先。

人間列。

旧保全路。

豪志は手伝い。


板は増えていない。

だが、減ってもいない。


澄玲はその前で、しばらく足を止めた。


「……昨日、雨よけでしたよね」


牧人が鍋の横から顔を上げる。


「雨よけだな」


澄玲は、石柱と屋根と武器置き場と列と糸を見た。


「雨よけに、列と武器置き場と糸がついています」


「便利だろ」


「便利、ではあります」


澄玲はそこで一度、言葉を切った。


便利で済ませてはいけない。

だが、便利ではある。

それが一番困る。


ローが少し離れたところで、記録石を構え直していた。

紋に指を当てると、淡く灯る。


「お、監察官だ」


国枝がすぐ横で言う。


「今日は、撮らない方向でお願いできますか」


「無理だって」


「では、せめて控えめに」


「努力はする」


「信用してよろしいですか」


「半分くらい」


「また、半分ですか」


澄玲はローを見た。


「撮影は、調査の妨げにならない範囲でお願いします」


「了解。妨げにならない範囲で、めちゃくちゃ撮る」


「めちゃくちゃ、は不要です」


ヒナが梁から降りてきた。


「やだ、今日は人間側の偉い人が泊まる日?」


「偉くはありません」


と澄玲。


「監察局の担当です」


豪志が干し芋を持って駆け寄ってきた。


「監察官さん! 俺もほぼ冥門組の一員として歓迎を——」


ナナが短く言った。


「芋」


「はい」


豪志は戻った。


澄玲はそれを見て、手帳に何かを書いた。


ベロが覗こうとする。


「何て書いたんですか」


澄玲は手帳を閉じた。


「関係者の自称が不安定、と」


「だいたい豪志のせいだな」


とザガ。


「俺ですか!?」


「お前だよ」


牧人は澄玲を見た。


「で、今日は何しに来たんだ」


「本家の実地調査です」


「調査か」


「はい。門前設備、配給列、避難者の扱い、魔物側との関係、夜間の安全状況を確認します」


「夜も見るのか」


「泊まり込みになります」


牧人は少し考えた。


「布団いるな」


澄玲が止まった。


「いえ、まず調査の説明を——」


「泊まるなら布団いるだろ」


「それは、そうですが」


牧人は振り返った。


「イシコ、人間用の寝る場所、空いてるか」


イシコが無言で立った。


「作る」


澄玲がすぐに言った。


「いえ、既存の場所で大丈夫です。新規に施設を作る必要はありません」


「すぐ」


とイシコ。


「そういう問題では」


石畳が鳴った。


澄玲が振り返る。


門前から少し奥まった場所に、石の壁が立ち上がっていた。

早い。

あまりにも早い。


四方に壁。

厚い床。

天井。

内側に石の寝台。

横に荷物置き。

さらに、なぜか避難路が三つ。


澄玲はしばらく黙った。


「……これは、何ですか」


イシコが答える。


「部屋」


「牢ではなく?」


「部屋」


「壁が厚すぎます」


「安全」


「扉が重いです」


「安全」


「窓がありません」


イシコが少し考えた。


「窓、いるのか」


ヒナがこっそり澄玲の耳元で言う。


「イシコ、ずっと地面の中にいたから。人間の家、よく分からないんだよ」


「……なるほど」


澄玲は強く頷いた。


「窓、要ります」


イシコは壁に穴を開けた。

一つ。

二つ。

三つ。


澄玲が慌てる。


「そんなには要りません」


「風、通る」


「通りすぎます」


ヒナが笑った。


「イシコの人間用部屋、初回から強いね」


「初回でこれですか」


と澄玲。


ザガが小声で言う。


「次はもっと強くなるぞ」


「やめてください」


澄玲は手帳を開いた。


内部宿泊区画。

防御性が過剰。

ただし、内側からの退去は可能。

監禁目的というより、過保護。


そこまで書いて、手が止まった。


過保護。


危険組織の調査報告に書く単語ではない。


---


澄玲は調査用の荷物を部屋へ運び入れた。


記録具。

測定石。

緊急通信用の小型結晶。

魔力反応板。

携帯用の簡易結界符。


ぷるが、すぐに寄ってきた。


ぷるん。


澄玲は荷物を抱え直す。


「これは調査用具です。掃除しないでください」


ぷるは、ぷるん、と揺れた。


そして、澄玲の靴の泥だけを吸った。


「……靴は、ありがとうございます」


ぷるは満足そうに床へ戻る。


だが、次の瞬間、荷物の端から黒い小さな粒を吸い上げた。


澄玲の顔色が変わる。


「あっ、それは」


国枝が横から覗いた。


「盗聴石ですね」


「位置発信石です」


と澄玲。


「盗聴も兼ねていますね」


「兼ねていません」


「兼ねている型もありますね」


「……今回のは、位置発信のみです」


国枝は穏やかに頷いた。


「では、位置発信石ですね」


澄玲は職務用の声で繰り返した。


「位置発信石です」


ヒナが小声でぷるに聞く。


「ぷる、それ、何の味した?」


ぷるん。


「分からない味だったんだ」


ぷるは、黒い粒を体内で包んだ。

粒が、じゅ、と小さく音を立てて消えた。


澄玲は片手で額を押さえた。


「……壊しましたね」


ぷるん。


「壊しました、ではなく、食べましたね」


ぷるん。


ヒナが腹を抱えて笑う。


「ぷる、監察官の荷物を掃除しちゃった!」


「笑いごとではありません」


澄玲は深く息を吐いた。


「いまの石は、一定時間ごとに外部へ位置情報を送る装置です」


ザガが眉をひそめる。


「何でそんなもん持ってる」


「監察官が危険区域に入る時の標準装備です。生存確認と現在位置を送るためのものです」


「へえ」


ベロが言う。


「で、食われたらどうなるんだ」


澄玲は黙った。


「どうなるんだ」


「位置情報が途切れます」


全員が止まった。


国枝が静かに顔を上げる。


「外から見ると?」


澄玲は諦めたように言った。


「監察官の位置信号が、本家内部で消失したように見えます」


ヒナが翼をばたつかせた。


「やだ、泊める前から監禁疑惑じゃん!」


牧人はぷるを見た。


「ぷる、今の出せるか」


ぷるは、ぷるん、と揺れた。


出せないらしい。


澄玲は手帳を閉じた。


「すぐに外部へ連絡します。私の声で無事を伝えれば問題ありません」


その時、イシコが作った部屋の壁が、低く鳴った。


緊急通信用の結晶が、淡く光っている。

だが、声は入らない。


澄玲が結晶を見る。


「……遮断されています」


イシコが言った。


「壁、強い」


「強すぎます」


国枝が口元を押さえた。


「これは、外から見ればかなり悪いですね」


「かなり、では済みません」


と澄玲。


ローが小声で呟く。


「監察官、本家内部で信号消失。通信用結晶も遮断」


「言わないでください」


「言っただけ」


「書かないでください」


「書かないとは言ってない」


澄玲の目が鋭くなる。


ローは記録石を少し下げた。


「はい。書きません」


牧人は首をかしげた。


「じゃあ、外に出て連絡すればいいんじゃないか」


澄玲が固まる。


「あ」


ベロが鍋の蓋を閉めた。


「普通だな」


「普通ですね」


と国枝。


「では、すぐ外へ出ます」


澄玲は部屋を出ようとした。


その瞬間、梁の上から細い糸が下りてきた。


イトだった。


「みる」


「今は見なくていいです」


と澄玲。


イトは首をかしげる。


「出る?」


「出ます」


「親父?」


牧人が言う。


「一緒に行く」


イトはこくりと頷いた。


「みる」


ザガが頭を抱える。


「監察官が外に出るだけで、護衛がついたぞ」


ミズハが笑う。


「至れり尽くせりね」


「外から見れば、見張り付き移動です」


と国枝。


澄玲が深く息を吐いた。


「本当に、説明が難しい」


---


澄玲は門前の雨よけまで出た。


ナナが短く言う。


「武器、置く」


「私は監察官です」


「武器、置く」


澄玲は腰の短剣を外した。


「これは護身用です」


「置く」


澄玲は置いた。


澄玲は雨よけの端で、予備の通信結晶を取り出した。

こちらは外部回線に繋がった。


小さな光が立ち上がる。


『久慈野監察官。位置信号が途切れました。状況を報告してください』


澄玲は背筋を伸ばした。


「久慈野です。無事です。本家内部で、安全確認用の石が破損しました」


『破損?』


澄玲は一瞬だけぷるを見た。

ぷるは床を掃除している。


「清掃担当個体により、異物と判断されました」


『清掃担当個体』


「はい」


『監禁、拘束、脅迫の有無は』


澄玲は背後を見た。


牧人。

クロ。

ザガ。

ヒナ。

イト。

ナナ。

ロー。

国枝。

ぷる。

そして、板。


武器はここに置け。

親父に全部聞くな。

監察官、外部連絡中。


最後の板が増えていた。


澄玲はニコを見た。


「今、書きましたね」


ニコは頷く。


「書いた」


「消してください」


「なんで」


「外部に見えると説明が増えます」


ニコは少し考えた。


「説明、いる?」


「要ります」


ニコは板を裏返した。


裏には、別の文字があった。


監察官、生きてる


澄玲の動きが止まった。


「……ニコ」


「うん」


「無事、と書いてください」


「同じ」


「違います」


「違う?」


「生きてる、と書くと、人質交渉に見えます」


ニコは少し考えた。


「人質、ちがう?」


「違います」


「じゃあ、なに」


澄玲は口を開きかけて、閉じた。


ローが横でこらえきれずに笑う。


「監察官、説明が全部詰まってる」


「黙っていてください」


ニコは板をもう一度裏返した。

最初の面に戻った。


監察官、外部連絡中


「これでいい?」


「……それで結構です」


澄玲は目を閉じた。


「ありがとうございます」


『監察官?』


通信の向こうから声がする。


澄玲は深く息を吸った。


「監禁、拘束、脅迫はありません」


『現在地周辺の魔力反応について、報告を』


澄玲は背後を見た。


クロがいた。


ただ座っているだけだった。

だが、その存在感だけで、向こう側の計測機が振り切れているのは、見なくても分かった。


牧人が言う。


「クロ、ちょっと下がるか」


クロの右が笑った。


「下がると、守れん」


澄玲は通信に向き直る。


「災厄級個体が、至近距離にいます」


『……拘束ですか』


「護衛、だそうです」


『誰の』


澄玲は一瞬、黙った。


「私の、ようです」


通信の向こうが静かになった。


『……久慈野監察官、もしや現在、何かを向けられて、台本を読まされて——』


「向けられていません。台本もありません。極めて自発的な、対象側の善意に基づく、結果としての近接警護です」


通信の向こうが、深く重い沈黙に包まれた。


『……久慈野監察官』


「はい」


『言葉が、固いです』


「……職務上の用語選択です」


『分かりました』


通信の向こうの声は、何も分かっていない響きだった。


ヒナが小声で言う。


「やだ、また説明しづらいやつ」


澄玲は職務上の顔で言った。


「状況は安定しています。調査を継続します。位置信号については、手動報告に切り替えます」


『了解。ただし、三時間ごとに生存報告を』


「承知しました」


通信は切れた。


澄玲はその場でしばらく動かなかった。


ローが、ようやく記録石を一度切った。

紋の光が、すうっと消える。


「……今の、出していい絵じゃなかったね」


国枝が静かに頷く。


「賢明です」


ローは少し考えてから、別の角度に石を向け直した。

牧人が、雨よけの下で小型種に椀を渡している絵だった。


「こっちなら、出せる」


国枝が頷く。


「それなら、穏当です」


ローは小さく題を呟いた。


「冥門組、監察官を丁重に迎える」


澄玲が振り返った。


「……それは、撮るんですか」


「これくらいなら」


「副題は」


ローは少し迷ってから、言った。


「※見た目はほぼ内部調査」


国枝が目を閉じた。


「やはり半分でしたか」


澄玲は深く息を吐いた。


「半分、で済んでよかったです」


ローが少し意外そうな顔をする。


「監察官、諦めるの早くない?」


澄玲は答えなかった。

ただ、手帳を開いて、一行書いた。


配信者:要観察。ただし、判断はある。


ローは横から覗き込もうとした。


「何書いた?」


「業務記録です」


「俺のこと?」


「業務記録です」


「俺のことだ」


「業務記録です」


---


夜までの調査で、澄玲の手帳は何度も止まった。


門前。

配給。

寝床。

武器置き場。

雨よけ。

糸。

治療。

清掃。

案内板。


一つ一つは、必要なことだった。


怪我人が来るから治す。

濡れるから屋根を作る。

腹が減るから飯を出す。

揉めるから列を分ける。

危ないから武器を置かせる。

迷うから板を立てる。

汚れるからぷるが掃除する。

小さい者が寝られないからネムが見る。

牧人に全部来るから、親父に全部聞くなと書く。


どれも分かる。


だが、全部並べると、危険組織の機能そのものになる。


澄玲は手帳に書いた。


危険。

ただし、危険の方向が想定と違う。


次に、少し考えてから書き足した。


監禁ではない。

過保護に近い。


さらに、そこで止まった。


監察報告に、過保護と書いていいのか。


澄玲は額に手を当てた。


「書くしかないですね……」


ヒナが横から覗こうとする。


「何書いてるの?」


「見ないでください」


「やだ、気になる」


「業務記録です」


「親父、澄玲が難しい顔してる」


牧人は鍋の方から顔を上げた。


「飯にするか」


澄玲は一瞬だけ、真顔で固まった。


調査中だ。

報告書もまとまっていない。

外部連絡は三時間ごと。

位置信号は復旧していない。

宿泊部屋は過剰防御。

清掃担当に位置発信石を食べられた。


それでも、飯の匂いはしていた。


「……いただきます」


ベロが椀を出した。


「監察官用ってわけじゃないぞ。普通の飯だ」


「それで構いません」


椀の中身は、薄い粥と干し苔と小さな芋だった。


普通だった。


澄玲は一口食べた。


温かかった。


それだけで、少し肩の力が抜けた。


牧人が聞く。


「足りるか」


「足ります」


「無理するなよ」


「調査対象に心配されるのは、少し複雑です」


「そうか」


牧人はよく分かっていない顔で頷いた。


その顔を見て、澄玲はまた手帳を開いた。


守谷牧人。

危険組織の中心人物。

自覚、薄い。

周囲への影響、極めて大きい。

本人の行動原理、飯と寝床と放置できない者への対応。


最後の一行で、また手が止まる。


それは危険なのか。

必要なのか。


両方だ。


澄玲は、そう書いた。


---


澄玲は手帳を閉じて、少し立ち上がった。


服の襟を直すと、土と石の匂いがした。

半日歩いて、半日調査して、半日説明していた。


「……汗を、流したいのですが」


牧人が鍋の片付けの手を止めた。


「風呂か」


「あれば、ですが」


「ある」


澄玲は止まった。


「あるのですか」


「ある」


澄玲は手帳を開きかけて、閉じた。


ますは汗を流そうと思った。


---


澄玲は、湯を覗き込んだ。


「……綺麗ですね」


ベロが横で言った。


「ぷるが、お湯まで掃除するんですよ」


「お湯を、掃除」


「汚れだけ吸うんで、お湯は減りません」


ぷるん。


「……便利ですね」


「便利でしょう」


澄玲は、しばらく湯を見ていた。


便利だった。

便利すぎた。

危険組織の調査対象に、清掃機能付きの天然温泉があるのは、報告書のどこに書くべきなのか、澄玲には分からなかった。


澄玲が湯に入ろうとした、そのときだった。


岩の隙間から、細い糸が下りてきた。


イトだった。


「みる」


澄玲の動きが止まった。


「……イト」


「みる」


「今は、見ないでください」


「みる」


「これは、業務外です」


イトは首をかしげた。


「ぎょうむがい?」


「業務外です」


「……みる?」


「見ません」


イトはしばらく考えた。


それから、糸を一段、上に巻き取った。


「見ない」


「ありがとうございます」


イトはもう一段、糸を巻いた。


「でも、いる」


「いるのですか」


「親父、近いの、見る」


「親父殿は、近くにおられるのですか」


「いない。けど、見る」


理屈は通っていなかった。

でも、悪意もなかった。


澄玲は深く息を吐いた。


「……見ないで、いてください」


「うん」


イトは天井の隅で、目を閉じた。


目を閉じたまま、そこにいた。


澄玲は、湯に肩まで沈んだ。


肩まで沈んでから、もう一度天井を見上げた。


イトは、目を閉じたまま、そこにいた。


「……これは、見ていることになるのでしょうか」


イトは答えなかった。


答えない代わりに、糸が一本、ぴくりと揺れた。


---


外で、ヒナの声がした。


「監察官、湯加減どう?」


「適温です」


「やだ、リラックスしてる」


「……職務上の」


「お風呂に職務は関係ないよ」


澄玲は答えなかった。


代わりに、湯の中で、ゆっくり、一度だけ、息を吐いた。


肩の力が、抜けた。


抜けてしまった。


抜けてはいけなかった。


澄玲は、湯の縁に手をかけた。


かけたまま、しばらく動かなかった。


湯気の向こうで、ぷるが、ぷるん、と揺れていた。


---


風呂から上がると、ベロが手拭いを差し出した。


「あったまりました?」


「……はい」


ベロは笑って、椀を差し出した。


「湯上がりに、これ」


椀の中は、薄い甘酒だった。


「……これも、本家で」


「米、国枝さんとこから」


「麹は」


「まめじい」


「……分かりました」


澄玲は甘酒を一口飲んだ。


温かかった。


澄玲は、手帳を開いた。

開いて、しばらくペン先を浮かせた。


そして、書かなかった。


書かない代わりに、もう一口、甘酒を飲んだ。


---


深夜。


澄玲は、イシコが作った部屋で眠ろうとしていた。


窓は三つ。

壁は厚い。

扉は重い。

避難路はなぜか三本ある。

布団は普通に柔らかい。


外から見ると収容区画。

中から見ると、妙に安全な客間。


澄玲は横になった。


だが、眠れない。


天井の隅に、イトがいた。


「……イト」


「みる」


「見なくて大丈夫です」


「みる」


「私は逃げません」


イトは少し考えた。


「逃げない?」


「逃げません」


「じゃあ、みる」


「その結論になる理由が分かりません」


「みる」


澄玲は、ため息をついた。そして諦めて目を閉じた。


少しして、部屋の入口にネムが来た。


毛布を抱えている。

前が少し見えていない。


「寝た?」


「まだです」


「寝る?」


「努力しています」


ネムは部屋の中を見た。


「こわい?」


澄玲は少し考えた。


「怖くは、ありません」


「じゃあ、眠れる」


「そう単純ではありません」


ネムは近づいて、毛布を一枚置いた。


「寒いと、寝ない」


「ありがとうございます」


ネムは頷いた。


それから、澄玲の手元の手帳を見た。


「字、多い」


「仕事です」


「寝た方がいい」


「それは正論です」


ネムは短く言った。


「おやすみ」


そして部屋を出ていった。


澄玲は毛布を見た。


少し土の匂いがした。

でも、清潔だった。

ぷるが泥を取った後の匂いだ。


澄玲は手帳を閉じた。


眠る前に、最後の一行だけ書く。


本家内部宿泊、一日目。


危険。

過保護。

説明困難。


その下に、小さく書き足した。


ただし、眠れる。


澄玲は目を閉じた。


外では、クロの低い寝息が聞こえていた。

梁の上では、イトがまだ見ていた。

右奥では、ネムが小さい者たちの寝床へ戻っていた。


本家の夜は、危険なほど守られていた。


---


その同じ夜、都市防衛局には、監察局からの一次速報が届いていた。


冥門組本家は、すでに共同監視対象に入っている。

監察官の位置信号が途切れた以上、都市防衛局にも共有される。


水越篤臣は、机の上に置かれた一枚を、しばらく無言で読んだ。


久慈野監察官、本家内部に単独入域。

位置発信石、内部にて消失。

通信、断続。

三時間ごとの手動報告により生存確認済み。

至近距離に災厄級個体一体。

拘束ではなく護衛、と本人申告。


水越は、最後の一行をもう一度、目で追った。


護衛、と本人申告。


職員が抑えた声で聞いた。


「監察局へ、引き上げ要請を出しますか」


水越は少し考えた。


「いや」


「よろしいのですか」


「向こうが、護衛と言って通している。こちらも、まず、それで通す」


「はい」


水越は紙を裏返して、机の端に置いた。


それから、低く呟いた。


「向こうが言葉を選んでいる間は、こちらも選ぶ」


職員は何も聞かなかった。


水越は冷めた茶に手を伸ばした。


今日も、冷めていた。

それでも、一口飲んだ。


「……鍋の列、雨よけ、護衛」


呟きは、誰にも聞こえなかった。


会議室の壁の時計が、深夜を一つ打った。


その頃、本家の夜は、もう静かだった。


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