飯の列を整えただけで、自治領と言われた
朝飯の時間になると、雨よけの下に人が増えた。
昨日までは、濡れない場所だった。
今朝は、違った。
濡れない場所に、座る場所と、壁と、武器置き場と、板が揃っている。
それだけで、人と魔物は集まる。
ベロが鍋を持ち出す前から、もう列の頭ができていた。
牧人は鍋の前で、それを見ていた。
「増えたな」
ベロが鍋をかき回しながら言う。
「増えましたね」
「昨日より多くないか」
「昨日、濡れないって分かりましたからね」
「便利だな」
「便利すぎるんですよ」
ヒナが梁の上から覗き込む。
「やだ、親父。今朝、すごいよ。人間もいるし、小型種もいるし、旧保全路の子もいるし、ゴルムのとこの若い衆もいるし、豪志もいる」
「最後は別に数えなくていいだろ」
とザガ。
雨よけの下で、豪志が手を上げた。
「数えてくださいよ! 俺もほぼ冥門組の一員なんで!」
「ほぼ、だけどな」
とベロ。
「相変わらず、うるせーな」
ザガが頭を抱えた。
まめじいはすでに帳面を開いていた。
「門前待機所利用者、本日朝の時点で二十七。うち人間五、旧保全路側七、小型種八、その他七」
牧人が聞いた。
「その他って何だ」
「豪志殿ですな」
「俺、分類不能!?」
豪志が叫んだ。
ナナが雨よけの下で短く言う。
「並べ」
「押すな」
「鍋、倒すな」
けれど、列はすでに崩れかけていた。
怪我をした小型種が、鍋の匂いに引かれて前へ出る。
片脚を引きずっていた。
毛の間に泥が固まり、傷口の周りだけ熱を持っている。
その後ろで、人間の下働きが腹を押さえていた。
昨日からあまり食べていない顔だった。
旧保全路の蜥蜴頭が、小型種を先に通そうとする。
「小さいの、先だろ」
人間の下働きが、一瞬だけ顔をしかめた。
「……こっちも、昨日から食ってないんですけど」
声は小さかった。
だが、雨よけの下ではよく聞こえた。
空気が止まる。
旧保全路の若い衆が、ぎろりと人間を見る。
人間の方も、すぐに目を逸らした。
でも、腹を押さえた手は離さなかった。
豪志が「俺が間に入ります!」と言いかけた瞬間、ナナが短く言った。
「黙れ」
「はい」
ヒナが翼を少し広げる。
「やだ。鍋の前で空気悪くなった」
ベロの額に、青筋が浮いた。
「鍋の前で揉めるな!」
その声で、全員が止まった。
クロまで片目を開けた。
ベロは木杓子を握ったまま、鍋の前に立つ。
「飯は逃げねえ! でも鍋を倒したら、全員、朝飯抜きだ!」
「それは困る」
と牧人。
その時、右奥からネムが出てきた。
眠そうな顔をしている。
けれど、目はちゃんと小型種を見ていた。
「その子、熱」
「足、痛い」
ネムは小型種の前にしゃがんだ。
小型種がびくっと震える。
ネムは何も言わず、白い胞子をふわりと出した。
胞子が傷口の周りに落ちる。
細い菌糸が、泥を避けるように傷の縁へ伸びた。
薄い白い膜が張る。
出血が止まった。
荒かった息が、少しだけ静かになる。
震えていた脚が、床についた。
ぷるが横から、泥だけを吸った。
ミズハが小さな水を指先から落として、熱を冷ます。
ネムは小型種の頭に手を置いた。
「先」
雨よけの下で、誰もすぐには言わなかった。
人間の下働きも、何も言えなくなっていた。
腹は減っている。
それでも、今のを見れば、先に通す理由は分かった。
牧人は頷いた。
「怪我してるやつと、小さいのが先だな」
ザガが嫌な顔をした。
「親分」
「何だ」
「それ、また外から変なふうに見えるぞ」
「でも、このままだと揉めるし、鍋も倒れる」
ベロが即座に頷いた。
「列、分けましょう」
「お前は鍋が絡むと早いな」
とザガ。
「当然だろ」
まめじいが帳面を閉じる。
「では、仮に分けましょう。怪我人、小型種、人間、旧保全路側、その他」
豪志が叫ぶ。
「だから俺だけその他にしないで!」
ニコが板を持ってきた。
「板、いる」
「また板か」
とザガ。
「いる」
ニコは一枚目の板を立てた。
怪我人先
ネムが右奥へ戻りかけて、短く頷いた。
「合ってる」
二枚目の板。
小さいの先
ヒナが笑う。
「分かりやすい」
三枚目の板。
人間列
雨よけの端で、若い男が固まった。
昨日、国枝の荷運びに混じって来た一人だ。
白閃牙が荒れて仕事を失い、誰かの手伝いでここまで流れてきたらしい、というのは、ベロが朝のうちに聞き出していた。
名は真木レン、と本人は名乗った。
痩せていて、荷紐の跡が肩に残っている。
誰もまだ名前までは覚えていない。
「人間列って、俺そこですか」
「人間だろ」
とザガ。
「いや、そうなんですけど、ここで改めて言われると怖いというか」
ヒナが飛び降りてきた。
「大丈夫だよ。人間だから人間列。蜥蜴頭は旧保全路列。ぷるは踏まない列」
「ぷるは列なんですか」
「ぷるは床」
ぷるが、ぷるん、と揺れた。
ニコは四枚目の板を立てた。
旧保全路
ゴルムの若い衆が、その板を見て妙な顔をした。
「俺ら、堂々と並んでいいんすか」
「いいだろ」
と牧人。
「飯食うんだから」
「親分に聞いてからじゃなくて?」
「ゴルムに?」
「はい」
「あとで言っとく」
若い衆は顔を見合わせた。
「あとででいいんだ……」
「本家、ゆるい……」
ザガが低く言った。
「ゆるいんじゃねえ。親分がそうなだけだ」
最後に、ニコが五枚目の板を立てた。
豪志は手伝い
豪志が胸を張った。
「ついに俺専用板が!」
ベロが木杓子を向ける。
「手伝いなら、干し芋を奥に持っていけ」
「はい!」
豪志は走った。
三歩で滑った。
ぷるが床を吸っていた場所だった。
「うわっ!」
ヒナが笑う。
「豪志、手伝い板の下で転んだ!」
「縁起悪いわね」
とミズハ。
ナナが短く言う。
「走るな」
「はい……」
---
列を分けると、飯は驚くほど早く回った。
怪我人には先に薄い粥。
小さい魔物には少なめで柔らかいもの。
人間には普通の椀。
旧保全路側には少し濃いめ。
豪志には干し芋運び。
先ほど顔をしかめた人間の下働きにも、椀はちゃんと回った。
牧人が渡すと、男は少し気まずそうに頭を下げた。
「……さっきは、すみません」
「腹減ってたんだろ」
「はい」
「なら、食え」
男は何も言えず、椀を受け取った。
ベロは鍋を守りながら満足そうに頷いた。
「やっぱり列は大事だな」
牧人も頷く。
「食いやすいな」
まめじいは帳面に書く。
「朝配給、列分け運用、問題なし」
ザガがその文字を覗き込んで、嫌な顔をした。
「配給って書くな」
「飯配り、と書きましょうか」
「そっちにしろ」
まめじいは少し考えた。
「朝飯配り、列分け運用、問題なし」
「なんか余計に庶民的だな」
「本家らしくてよろしいですな」
その時、梁の上から細い糸が一本、すうっと下りてきた。
石柱の端に絡む。
床すれすれに張られる。
列の横に、もう一本。
牧人が見上げる。
「イト?」
梁の影から、小さな顔が出た。
「みる」
「何を?」
イトは下を指す。
「足」
「ならぶ」
「みる」
ヒナが笑った。
「イト、列を見てくれるの?」
「みる」
ザガが腕を組む。
「雨よけに列ができて、糸まで張られたぞ」
「完全に検問ね」
とミズハ。
イトは首をかしげた。
「けん、もん?」
「知らなくていい」
とザガ。
イトは少し考えてから、もう一本、糸を張った。
「親父、近いの」
「みる」
牧人が困る。
「俺に近い人を見るのか」
イトは頷く。
「みる」
「見るだけにしてくれよ」
「みる」
ヒナが小声で言った。
「イトの見る、ちょっと怖い時あるよね」
ぷるが、ぷるん、と同意した。
---
ローはまた撮っていた。
国枝も横にいる。
「今日は撮らなくていいんじゃないか」
と国枝。
「いや、昨日より回る」
「昨日よりですか」
「昨日は雨よけが検問所っぽいだけだった。今日は飯の列までできた。しかも、怪我人と小さいのが先って、その場で決まった」
国枝は目を閉じた。
「言い方に気をつけてください」
ローは記録石を構え直した。
紋に指を当てると、淡く灯る。
雨よけ。
板。
列。
鍋。
武器置き場。
クロ。
イトの糸。
ベロの木杓子。
ニコの案内板。
ナナの短い指示。
ネムの治癒胞子。
ぷるの掃除。
ミズハの水。
そして、牧人が怪我をした小型種に椀を渡している。
「いい絵だろ」
とロー。
「とてもいい絵です」
と国枝。
「ただし、外に出ると意味が変わります」
「冥門組、朝飯の列を整理する」
「それなら穏当です」
ローは続けた。
「※見た目はほぼ配給制度」
国枝は、静かに息を吐いた。
「やはり半分ですな」
ローは笑った。
「昨日から学んだじゃん」
「悪化しています」
---
昼前、外輪の回線へ映像が流れた。
──広域魔導端末・灰環中層共有板/話題の枝:『鍋』──
『昨日の雨よけ、今日もう運用進化してるぞ』
『進化って何』
『列ができた』
『飯の列だろ』
『怪我人先、小さいの先、人間列、旧保全路列』
『完全に配給制度じゃねえか』
『いや朝飯だろ』
『朝飯に分類板出る?』
『出るんだよ冥門組では』
『先に揉めかけてたぞ。怪我した小型種と腹減った人間』
『ネムって子が治したやつ?』
『白い胞子で傷ふさいでた』
『あれ回復役じゃん』
『本家、医療まであるの?』
『親父に全部聞くな、の次は豪志は手伝いで草』
『豪志、分類されてよかったな』
『よく見たら糸張ってある』
『列監視?』
『蜘蛛の子が見てるだけ』
『見てるだけで怖い』
『若頭は?』
『寝てる』
『災厄級が寝てる横で朝飯の列と治療が動いてるの、情報量おかしい』
『これもう自治領では?』
『昨日もそれ言ってた』
『今日は昨日より自治領』
映像を見た者の反応は割れた。
白閃牙の件で少し気が晴れていた者たちは、面白がった。
下働きや荷運びたちは、少し安心した。
都市の警備関係者は、黙った。
ギルド関係者は、顔をしかめた。
飯を配っているだけに見える。
だが、誰を先にするかを決め、列を分け、板を立て、糸で見ている。
怪我人には、治療までしている。
それは確かに、ただの朝飯ではなかった。
ただし、本家側は、ただの朝飯のつもりだった。
---
都市防衛局の会議室では、昨日と同じ画面が、また止められていた。
今度は鍋の前である。
水越篤臣は、冷めた茶を見もせずに言った。
「昨日の雨よけか」
「はい。本日朝、運用が追加されました」
「運用」
「列分けです」
画面には、ニコの板が映っている。
怪我人先
小さいの先
人間列
旧保全路
豪志は手伝い
水越は最後の板で少しだけ眉を寄せた。
「豪志とは何だ」
職員が資料を確認する。
「梶間豪志。先日、骸骨公領に人質として連行された人物です。現在、本家周辺で雑用をしているようです」
「分類板に名前が出る程度には馴染んでいるのか」
「そのようです」
水越は、そこで一度だけ目を閉じた。
「本題に戻れ」
「はい」
職員が映像を進める。
怪我をした小型種が前へ出る。
腹を押さえた人間が一瞬だけ顔をしかめる。
旧保全路の魔物が睨む。
空気が止まる。
ネムが出てきて、白い胞子を出す。
傷口の周りに薄い膜が張る。
牧人が頷く。
ニコが板を立てる。
怪我人が先に粥を受け取る。
小型種が次に椀を受け取る。
人間の下働きが少し迷いながら並ぶ。
旧保全路の魔物が別列で待つ。
ベロが鍋を守る。
イトの糸が列の横に張られている。
水越は映像を止めた。
「優先順位がある」
「はい」
「怪我人、小型種、人間、旧保全路。雑だが、分類されている」
「はい」
「治療能力もあるのか」
「白い胞子による治癒補助のようです。軽傷、熱、痛みの緩和程度と推測されます」
「推測か」
「映像上では、致命傷を治したわけではありません」
「それでいい。過大評価するな」
「はい」
水越は画面を指す。
「ただし、あるだけで意味は変わる」
職員は黙った。
「飯、雨よけ、武器置き場、寝床案内、優先順位、糸の見張り。そこに治療が加わった」
「はい」
「これは善意であっても、配給と応急救護の拠点として機能している」
職員は頷いた。
水越は続ける。
「配給量は」
「映像上では、小型種は少なめ、旧保全路側は濃いめに見えます」
水越は少しだけ職員を見た。
「よく見ている」
「はい」
「なら分かるな」
「……はい」
水越は画面をもう一度見る。
「昨日の設備に、今日の列分け。これで、人間と魔物が揉めずに動いている」
「危険、でしょうか」
水越はすぐには答えなかった。
画面の中で、牧人が小型種に椀を渡している。
小型種は両手で受け取り、雨よけの端へ戻る。
そこへ、ネムが毛布を持って来る。
水越は低く言った。
「危険だ」
職員が姿勢を正す。
だが、水越は続けた。
「ただし、無秩序より危険かどうかは、まだ分からない」
「は」
「本家がなければ、この連中はどこへ行く」
職員は答えられなかった。
「旧保全路か。外輪の闇業者か。白閃牙の残党か。都市の下層か」
水越は茶に手を伸ばした。
まだ冷めている。
「善人であることと、危険でないことは別だ」
職員は頷く。
「ですが」
水越は映像をもう一度見た。
「危険だから潰せばいい、という段階かどうかも、別だ」
会議室は静かになった。
水越は短く言った。
「観察を継続。正式議題に追加しろ」
「項目名は」
「門前雨よけ、および朝食列の運用」
職員が少しだけ困った顔をした。
「朝食列、ですか」
「向こうが飯だと言っているなら、まず飯として扱う」
水越は画面の中の鍋を見た。
「ただし、都市防衛上の評価は上げる」
職員は頷いてから、少しだけ躊躇って付け足した。
「あの……一点、よろしいですか」
「言え」
「あの組織、外から見ると、すでに『自治領』と呼ばれ始めています」
水越は短く目を上げた。
「誰が呼んでいる」
「広域端末の共有板で、数件」
「数件か」
「はい」
「数件で呼び名は決まらん」
水越は茶を一口飲んだ。
「だが、十件、百件と増えれば、決まる」
「は」
「呼び名が決まれば、そこにあるものも、決まる」
水越は画面を閉じた。
「向こうが飯と呼んでいるうちに、こちらは見ておく」
---
本家では、朝飯が終わっていた。
ベロは鍋底を見て満足している。
「今日は倒れなかった」
「そこなんだ」
とヒナ。
「そこが一番大事だ」
ぷるが床に残った粥の一滴を吸い取る。
ニコが板を片づけようとして、まめじいに止められる。
「そのまま置いておきなさい」
「置く?」
「昼にも使いますぞ」
ニコは頷いた。
「昼も、列」
ザガが嫌そうな顔をした。
「完全に定着するやつだな」
牧人は首をかしげた。
「便利ならいいだろ」
「便利すぎるんだよ」
ネムが右奥から顔を出した。
「小さいの、寝た」
「飯食って?」
「うん」
「よかったな」
「うん」
ネムは少し考えて、付け足した。
「豪志、うるさい」
「それは知ってる」
雨よけの下では、豪志が干し芋を抱えて立っていた。
「親分! 次は何を手伝えば!」
ベロが即答する。
「黙って芋を並べろ」
「はい!」
豪志は芋を並べ始めた。
今度は走らなかった。
イトは梁の上から、それを見ていた。
「みた」
「何を見たの?」
とヒナ。
「ごうし」
「走らない」
ヒナが笑う。
「さっき転んだからね。少し覚えたんだ」
イトは、こくりと頷いた。
「えらい」
「うん。豪志、今日はちょっとえらい」
雨よけの下で、豪志が干し芋を並べながら胸を張った。
「聞こえてますよ! 俺、成長してます!」
ベロが即座に言った。
「黙って芋を並べろ」
「はい!」
クロの右が、低く笑った。
牧人は雨よけの下に並ぶ板を見た。
怪我人先。
小さいの先。
人間列。
旧保全路。
豪志は手伝い。
「分かりやすいな」
ザガが言う。
「外から見たら、分かりやすすぎるんだよ」
「何が」
「本家が、何をどう動かしてるか」
牧人は少し考えた。
「飯を配ってるだけだろ」
「そうなんだけどな」
ヒナが翼を揺らして笑う。
「親父、便利な家、作っちゃったね」
「便利だと駄目なのか」
「駄目じゃないよ。駄目じゃないんだけど」
「けど?」
「便利すぎる家には、人がもっと来るよ」
ベロが鍋を洗いながら頷いた。
「来ますね」
ザガも頷いた。
「来るな」
牧人は雨よけの外を見た。
門前に、また誰かが来ていた。
濡れてはいない。
怪我をしているわけでもない。
でも、腹を空かせた顔をしていた。
牧人は少しだけ困った顔をした。
「……飯、余ってるか」
ベロは天を仰いだ。
「ほら、増えた」
ヒナが翼で口を覆って笑った。
「親父、ほんと、増やすね」
「増やしてないだろ」
「増やしてるよ」
ザガが低く言った。
「親分が増やすんじゃねえ。来るやつが増えるんだ」
牧人は少し黙った。
「……そうか」
「分かったか」
「分からん」
「分からんでいい」
ベロは小さい鍋を奥から出してきた。
「一杯だけならある」
牧人は頷いた。
「じゃあ、出すか」
新しく来た男は、雨よけの端で、おずおずと立っていた。
歳の頃は三十前後。
着ているものは破れていないが、何度も洗った跡があった。
腰のあたりに、外しかけの探索者証がぶら下がっている。
ナナが短く言った。
「並べ」
男はびくっと肩をすくめてから、ゆっくり、人間列の最後尾に並んだ。
ニコが板を一枚、男の前に出した。
武器はここに置け
男は腰の短剣を抜いて、置き場へ置いた。
手が、少し震えていた。
それを見て、ベロが小鍋から椀をひとつ盛った。
普通の椀だった。
特別、多くも少なくもなかった。
牧人が受け取って、男に渡した。
「冷めないうちに」
男は椀を両手で受け取って、しばらく動かなかった。
「……あの、お礼と言ってはなんですが、これ。本当に、つまらないものですが」
「なんだ?」
男が申し訳なさそうに懐から差し出したのは、泥のついた平べったい小石だった。
ザガが吠えた。
「いや、本当につまらねえよ!」
だが、ニコがその石をひったくり、看板の足元にすかさず差し込んだ。 少し傾いていた『豪志は手伝い』の板が、ぴたりと水平に固定される。
「ガタガタ、直った」
牧人が感心したように頷いた。
「おー、便利だな。ありがとう」
男は、自分の拾った小石が看板の水平を保つ重要部品になったのを、照れくさそうに見つめていた。
「冷めないうちに食え」
牧人に言われて、男は雨よけの端の石段に座って、椀に口をつけた。
一口で、肩が落ちた。
二口で、目を閉じた。
三口目あたりで、椀を持つ手が、もう一度、震えた。
イトの糸が、その男の足元に、そっと一本下りた。
「みる」
ヒナが小声で聞いた。
「危ない人?」
イトは首を振った。
「ちがう」
「じゃあ何」
イトは少し考えてから、短く言った。
「行くとこ、ない」
ヒナの翼が、少しだけ静かになった。
ザガもベロも、何も言わなかった。
牧人だけが、いつもの調子で言った。
「おかわり、まだあるぞ」
男は、椀を持ったまま、首を横に振って、もう一度、頭を下げた。
まめじいは、静かに帳面を開いた。
朝飯列、継続。
昼飯対応、要検討。
そして、その下に小さく書き足した。
本家、また少し大きくなる。
帳面を閉じて、まめじいはもう一行だけ、口の中で呟いた。
「行くとこのない者が、来るようになりましたな」
牧人には、聞こえなかった。
クロの中央の首だけが、その呟きの方を、ほんの少し向いた。




