雨よけを作ったら、検問所扱いされた
朝、本家の床には、黒い輪が薄く残っていた。
昨夜、最深部の使者が置いていったものだ。
深名状、とリネアは呼んだ。
招きであり、記録であり、呼び出し。
使者の言葉は、まだ本家の空気に残っている。
「グラウヴィス」
「家を名乗るなら、最深へ名を出せ」
「次に呼ぶ時、これが開く」
牧人はその輪をしばらく見ていた。
それからクロを見た。
クロは梁の下で、三つ首をそれぞれ別の方向に向けて寝そべっている。
右と左は閉じている。
中央だけが、薄く開いて牧人を見ていた。
牧人は何も聞かなかった。
聞かないまま、隣に座って、しばらく一緒に輪を見ていた。
クロの中央が、ふっと目を閉じた。
それで朝が始まった。
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問題は、その朝が、湿っていたことだった。
灰環大迷宮の中に、空はない。
それでも、水の落ちる日というものはある。
上層の割れ目から染みた水が、古い通路を伝い、細い雨みたいに降ってくる。
門前の広場に、ぽつぽつと水が落ちていた。
本家の中はいい。
屋根も壁もある。
イシコが直した場所は、変に頑丈で、水一滴通さない。
問題は、門前で待っている連中だった。
国枝の荷を待つ若い衆。
怪我の手当て待ちの小型種。
旧保全路から来た蜥蜴頭。
様子見に来た人間の下働き。
ロー。
なぜか豪志。
豪志は昨日から「俺も手伝います」と言って、芋を干す以外の仕事を探しているらしい。
全員、微妙に濡れていた。
豪志だけは、なぜか妙に元気だった。
「いやあ、こういう雨も悪くないですなあ。親分が、こう、傘差してさ、ね」
「うるさい」
とナナ。
「はい」
豪志は黙った。
三秒だけ。
「でも、雨に濡れる男って絵になりますよね」
「うるさい」
「はい」
牧人は門前を見て、眉を寄せた。
「濡れてるな」
ヒナが翼を振る。
「濡れてるね」
「待ってる間に風邪ひくだろ」
「魔物も風邪ひくの?」
「冷えたら具合悪くなるだろ」
ベロが鍋をかき回しながら言う。
「飯の前に体冷やされると、こっちも面倒ですからね」
牧人は腕を組んだ。
「雨よけ、作るか」
その場にいた何人かが止まった。
ザガが、嫌な予感のする顔をした。
「親分」
「何だ」
「雨よけって、どのくらいの」
「待ってる間、濡れないくらいだな」
ザガはイシコを見た。
イシコはもう立っていた。
「作る」
「待て、姐さん」
とザガ。
「たぶん親分の言ってる雨よけと、姐さんの作る雨よけは、違う」
イシコは短く答えた。
「濡れない」
「そこだけなら合ってるけどよ」
牧人は頷いた。
「頼む。あと、通る時に邪魔にならないようにな」
「分かった」
イシコが門前へ出た。
石畳が、低く鳴った。
まず左右に、石柱が生えた。
次に屋根が張り出す。
その屋根が、思ったより厚い。
さらに横壁が半分伸びる。
風除けもつく。
床が少し高くなる。
水はけ用の溝までできる。
最後に、門前の左右へ、短い仕切りが生えた。
ヒナが目を丸くした。
「……立派」
ベロが首を傾げる。
「雨よけか?」
ザガが低く言う。
「関所だな」
「関所って何だ」
と牧人。
「人を止める場所だよ」
「止めるつもりはないぞ」
「見た目が止める気満々なんだよ」
イシコは無表情で言った。
「濡れない」
「それはそうだけどね」
とミズハ。
「たぶん、一滴も濡れないわ」
実際、完璧だった。
門前に立っていた小型種が、恐る恐る中へ入る。
水は落ちてこない。
床も滑らない。
壁際には、腰掛けのような石段まである。
その上から、細い糸が一本、すうっと下りてきた。
石柱の端に引っかかる。
反対側の壁へ、もう一本。
床すれすれに、さらに一本。
イトだった。
梁の影から、小さな顔だけを出している。
「イト?」
と牧人が見上げる。
イトは門前を指した。
「みる」
「何を?」
「足」
「来る」
「みる」
ザガが頭を抱えた。
「おい。雨よけに糸まで張られたぞ」
ヒナが翼をばたつかせる。
「それもう完全に関所っぽい!」
イトは、きょとんとしていた。
「みる」
「うん。イトは見てるだけなんだけどね」
とヒナ。
「外から見たら、すごく見張ってるんだよ」
イトは少し考えてから、もう一本、細い糸を張った。
「親父、みる」
牧人は首をかしげた。
「俺を見るのか?」
イトは首を振った。
「親父、近寄るの、みる」
ザガが低く言った。
「余計に関所だな」
ヒナが笑った。
「雨よけ、どんどん強くなるね」
牧人は石屋根と、張られた糸を見た。
「いいじゃないか」
ザガが頭を抱える。
「いいのはいいんだけどよ……」
そこへ、ニコが板を持ってきた。
「板、いる」
「何の板だ」
と牧人。
「並ぶ場所」
「ああ、そうだな。濡れない場所ができたなら、列も分けた方がいいか」
ニコは頷いた。
そして、石柱の横に、板を立てた。
武器はここに置け
ザガが叫ぶ。
「最初にそれか!」
ニコは二枚目を立てた。
鍋の列はこちら
ベロが頷く。
「これは大事だ」
三枚目。
寝床は右奥
ネムが右奥から顔を出して、短く頷いた。
「合ってる」
四枚目。
若頭に勝手に触るな
クロの右が、薄く笑った。
「触る度胸があるなら、見てみたいな」
ヒナが翼で顔を覆う。
「やだ、怖いこと言わない」
五枚目。
親父に全部聞くな
牧人が止まった。
「これは、なんだ?」
ニコは真顔で頷いた。
「親父は、最後」
「最後?」
「雑魚の質問、ここで弾く」
「弾かなくていい。というか、雑魚って言うな」
まめじいはその板を見て、静かに帳面を開いた。
「門前待機所、仮運用開始」
「待機所?」
と牧人。
「雨よけだろ」
「雨よけ兼待機所ですな」
「兼ねるのか」
ヒナが笑う。
「もう兼ねてるよ、親父」
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ローは、少し離れた場所で、記録石を構えていた。
掌ほどの黒い石。
中央に薄い魔導紋が走り、ローが指で軽く触れると、紋が淡く灯る。
それで、見たものを刻み始める。
古い型だが、A級迷宮の魔波干渉に強い、現役の機種だった。
国枝が横に立っている。
「撮るんですか」
「これは撮るでしょ」
とロー。
「雨よけ作っただけでこの絵だよ。絶対回る」
国枝は門前を見た。
石柱。
厚い屋根。
左右の仕切り。
武器置き場。
掲示札。
クロ。
ザガ。
イシコ。
ニコ。
そして、石柱から壁へ張られた、細い糸。
梁の影には、イトがいた。
じっと門前を見ている。
ローが小さく笑った。
「イト、見てるね」
国枝は目を細めた。
「外から見れば、侵入検知の糸です」
「本人は、たぶん来る者を見てるだけだよ」
「ええ」
そして、中央にいる、牧人。
国枝は、静かに言った。
「これは、外から見ると少々まずいですね」
「少々?」
「かなり」
ローは笑いをこらえた。
「だよね」
「親分さんは、雨を避ける場所を作っただけでしょう」
「うん」
「しかし映像だけ見れば、門前に検問設備を作ったように見えます」
「武器置き場もあるし」
「通行列も分かれています」
「災厄級もいるし」
「石の防壁もあります」
「親父に全部聞くな、もある」
国枝は、少しだけ目を閉じた。
「最後の札が、一番まずいかもしれません」
「何で?」
「組織の命令系統があるように見えます」
ローはそこで吹き出した。
「実際は、親父に全部聞くと親父が困るからなのに」
「ええ」
国枝は穏やかに言った。
「真実とは、時に説明しづらいものです」
ローは記録石の向きを変えて、もう一度門前へ向けた。
紋が、わずかに明るくなる。
「うちのチャンネル、最近伸び悩んでてさ」
「それで」
「これ、絶対回る」
「回さないでくださいとは言いません」
「言わないんだ」
「言っても、回るので」
国枝は目を細めた。
「ただ、題は穏当にしてください」
「任せて」
「信用していいのですか」
「半分くらい」
「半分ですか」
ローは少し考えてから、仮の題を呟いた。
「冥門組、門前に雨よけを作る」
国枝が、少し安心した顔をする。
「それなら」
ローが、続けた。
「※見た目はほぼ検問所」
国枝は、目を閉じた。
「やはり、半分でしたか」
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ローは門前の中継石まで戻ってから、短く編集した映像を外輪の回線へ流した。
深部から直接ではない。
だから少し遅れて、しかし妙に綺麗な映像だけが外へ出た。
その日の昼前には、外で話が回り始めた。
──広域魔導端末・灰環中層共有板/話題の枝:『門前』──
『冥門組、門前に関所できてないか』
『今朝の話な。雨よけって書いてあるけど、石壁が厚すぎる』
『画像きた。武器置き場・鍋の列・寝床案内・掲示板。完備』
『立て札に「親父に全部聞くな」って書いてあるんだが』
『命令系統、完成してんじゃねえか』
『「若頭に勝手に触るな」も追加されてた。触ったら消し炭だろ常考』
『これもう自治領では?』
『よく見たら石柱の間に糸あるぞ』
『蜘蛛の子が見てる』
『雨よけって書いてあるだろ』
『雨よけ(防御力:特大)』
『雨よけ(門番:災厄級)』
『雨よけ(配給機能付き)』
『雨よけの定義、揺らぐな』
『ローの映像見た。タイトル「冥門組、門前に雨よけを作る」』
『穏当でよかった』
『副題「※見た目はほぼ検問所」』
『本人が認めてんじゃねえか』
『ローだから信用度:半分』
ローの映像は、すぐに広がった。
小型種が、石の屋根の下で安心して座っている。
人間の下働きが、濡れた荷を拭いている。
ぷるが床の水を吸っている。
ネムが毛布を抱えて、右奥へ戻る。
ニコが板を立て直す。
クロが、門前で目を閉じている。
牧人が「濡れなくなったな」と言っている。
映像を最後まで見た者は、少し困惑した。
危険そうではある。
でも、やっていることは、雨よけである。
雨よけに、災厄級がいるだけで。
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都市防衛局の会議室で、その映像は、止められていた。
画面には、門前の石屋根と、武器置き場の札が映っている。
水越篤臣は、無言でそれを見ていた。
歳は四十半ば。
紺の制服に、襟元だけが少し緩い。
机の上には、書類と、冷めた茶。
隣の職員が、抑えた声で言う。
「本日午前、灰環大迷宮内、冥門組本家前に、新たな構造物が確認されました」
別の職員が、資料をめくる。
「門前待機所、あるいは検問設備と思われます」
水越が低く言った。
「思われます、では弱い」
職員は言い直した。
「検問機能を持つ可能性があります」
「掲示は」
「武器置き場、鍋の列、寝床の誘導が確認されています」
「鍋の列」
水越の眉が、わずかに動いた。
「はい」
「鍋の列とは、何だ」
誰もすぐには答えられなかった。
映像の中で、ベロが鍋をかき回している。
その前に、魔物と人間が、並んでいる。
水越はしばらく、それを見ていた。
「配給列、と読むこともできるな」
「は」
「読むこともできる、と言っただけだ」
職員が頷く。
水越は腕を組んだ。
「映像内で、守谷牧人本人の発言は」
「『濡れなくなったな』と」
「他には」
「『よかった』と」
「それだけか」
「それだけです」
水越は、しばらく黙った。
それから、画面の中の石屋根を、指で示した。
「左右に張り出した仕切り。あの角度を見ろ」
職員が画面に寄る。
「は」
「門前で正面から押された時、押し手を左右に逸らす形だ。馬防柵の理屈と同じだ。雨を避けるための仕切りなら、あの角度はつけん」
「……はい」
「それから、入って最初に目につく位置に、武器置き場がある」
「はい」
「来た者は、まずそこに武器を置く。置かなければ、後ろの列から見られる。実質的な武装解除手続きだ」
職員が、ゆっくりと頷いた。
水越は続けた。
「鍋の列、寝床の誘導、掲示板。順路が完全に決まっている。中で迷う余地がない。これは、人を捌く設計だ」
「……設計、ですか」
「設計だ。誰が描いたかは知らんが、結果としてそう動く」
水越はそこで、画面の端に映った細い線に気づいた。
「止めろ」
職員が映像を止める。
「この線は何だ」
画面が拡大される。
石柱と壁の間に、細い糸が張られていた。
一本ではない。
床すれすれに一本。
腰の高さに一本。
屋根の影にも一本。
その奥、梁の影に、小さな影がいる。
「蜘蛛系の個体か」
「はい。小型の個体です。記録上では、イトと呼ばれているようです」
映像の中で、イトは門前をじっと見ていた。
水越は短く息を吐いた。
「雨よけに、見張りの糸」
職員は答えられなかった。
「本人たちがどう呼ぶかは知らん。だが、これは侵入検知にも、通行管理にも使える」
「……はい」
「待機所だけではないな」
水越は、ようやく腕をほどいた。
「設備としては、過剰だ」
「はい」
「雨を避けるだけなら、屋根があればいい。壁も、仕切りも、武器置き場も、順路も要らん」
「はい」
「過剰なのか、必要だから過剰になったのか、それを分けたい」
職員が、少し意外そうな顔をした。
「分けるのですか」
「分ける」
水越は、止まった映像をもう一度見た。
牧人が、濡れた小型種に布を渡していた。
水越は、表情を変えなかった。
ただ、机の端を、指で一度だけ叩いた。
「観察を続けろ。判断は、まだしない」
「は」
「議題には上げる。ただし、項目名は、雨よけ、で構わん」
職員が、わずかに目を見開いた。
「雨よけ、ですか」
「向こうがそう呼んでいるなら、こちらもまずそう呼ぶ」
水越は、茶に手を伸ばした。
冷めていた。
それでも、一口飲んだ。
「呼び方を変えるのは、もっと、何かが分かってからでいい」
会議室の誰も、何も言わなかった。
水越は、最後にもう一度、画面を見た。
そこには、雨に濡れない石屋根の下で、小型種が一匹、安心して目を閉じている絵が、映っていた。
水越は、そっと言った。
「……鍋の列、か」
それから顔を上げる。
「雨よけとして扱う。だが、都市防衛局の正式議題には上げる」
職員が顔を上げた。
「名称は、雨よけのままで、ですか」
「ああ」
水越は止まった映像を見た。
「雨よけのまま、危険度を再評価する」
---
その頃、本家では、牧人が石屋根の下を見て、満足していた。
「濡れなくなったな」
ヒナが梁から降りてくる。
「うん。濡れなくなったね」
「よかった」
「外、騒がしくなると思うよ」
「何で」
「見た目が強いから」
牧人は石屋根を見る。
「丈夫そうでいいだろ」
「そういうことじゃないんだよね」
ニコが新しい札を持ってきた。
雨よけ
ザガが頷いた。
「それだ。それを最初に出せ」
ニコは石柱の一番上に、その札をかけた。
雨よけ
その下に、すでに並んでいる札がある。
武器はここに置け
鍋の列はこちら
寝床は右奥
若頭に勝手に触るな
親父に全部聞くな
ザガはしばらく、見上げた。
「……余計に、怪しくねえか?」
ベロが鍋を持って通りかかる。
「雨よけに鍋の列があるからな」
ミズハが笑う。
「雨よけに若頭もいるしね」
クロの右が、片目を開けた。
「雨は、避けられる」
「そういう問題じゃないよ、若頭」
ヒナが笑いながら言う。
牧人は、首をかしげた。
「でも、濡れないだろ」
全員が、黙った。
間違ってはいなかった。
間違っていないのが、一番困った。
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夜、門前は静かだった。
雨は止んでいた。
石屋根の下に、小型種が一匹、丸まって眠っている。
誰も追い出さなかった。
誰も入れた覚えもなかった。
ただ、濡れないから、そこにいた。
牧人は、それを見て、少しだけ笑った。
「いていいぞ」
小型種は、聞こえたのかどうか、尾の先だけ、ぴくりと動かした。
その様子を、奥からネムが見ていた。
ネムは何も言わず、毛布を一枚、そっと運んできて、小型種の横に置いた。
そして、奥へ戻った。
掲示板の最上段の札が、夜風にわずかに揺れる。
雨よけ
その下の、一番下の札も、揺れる。
親父に全部聞くな
床の隅には、まだ、黒い輪が薄く残っていた。
誰も、それには触れなかった。
クロの中央の首だけが、夜の間、ずっと、その輪の方を向いていた。




