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最深部は、まだ黙っていない


色々なことがあった日の翌朝、本家はあまり静かではなかった。


門前はもう片づいている。

割れた床はイシコが直した。

血の跡はミズハとぷるが流した。

潰れた芋は豪志が拾って干した。


それでも、朝から人が来る。


最初に顔を出したのは国枝だった。

ローも一緒だ。


門前へ入る少し手前で、ローが声を落とした。


「なあ、ところでさ」


「何でしょう」


「黒冠の方にも、もう話が届いてるって本当?」


国枝は足を止めなかった。

ただ、荷の縄を一度だけ確かめる。


「本当です」


「隣のさらに隣街のS級だろ。早くないか」


「黒冠の裏は、噂に敏いのです。白閃牙の件、本家の件、昨日の不法侵入の件。あのあたりまで流れ始めています」


ローが嫌そうに笑う。


「鴉宮千景も?」


国枝は少しだけ間を置いた。


「名前は出ています」


「S級の裏を仕切る人間が、冥門組に興味を持つかもしれないってことか」


「興味で済むうちはいいでしょうね」


「済まなかったら?」


国枝は穏やかに答えた。


「取引になるか、接触になるか、面倒になるか。そのどれかです」


「全部嫌だな」


「全部、商売ではあります」


「商人のそういうところ怖いんだよ」


国枝は本家の門前を見た。


「ただ、この話は今ここで大きく出す必要はありません。親分さんに伝えるのは、確かな動きになってからでいい」


「黙ってていいのか?」


「隠すのではありません」


国枝は静かに言った。


「今は、目の前の火が先です。外、都市、国、深層。親分さんの前には、すでに多すぎるほど並んでいます」


ローは記録石を指で転がした。


「で、そのうえ黒冠か」


「ええ」


国枝は軽く息を吐いた。


「本家が大きくなるというのは、そういうことです」


そして国枝は門前に入るなり、軽く頭を下げた。


「親分さん。外がだいぶ騒がしくなっています」


牧人は鍋の前で振り向く。


「白閃牙か」


「それだけではありません」


と国枝。


「監察局は正式に動きました。都市圏でも、本家を放っておけないという話になっています」


「さらに、国にまで話が届いています」


豪志が干し芋を並べながら顔を上げた。


「国って、だいぶ大きいですね」


「大きいですね」


と国枝。


「その大きい方まで話が届き始めた、ということです」


「お前、ホントに泊まったのかよ」


とローが豪志に言った。


「もちろん、俺もほぼ冥門組の一員だからな」


と豪志が胸を張った。


「ほぼ、だけどな」


とベロ。


ローは記録石を掌で弄んでいる。


「昨日の映像、すごいよ。封鎖破り、不法侵入、門前での暴れ方、最後の埋まり方まで、きれいに回ってる。白閃牙はしばらく笑いものだね」


ヒナが翼を止める。


「おもしろい!」


「でしょ」


とロー。


「だいぶおもしろい」


ベロが鍋をかき回しながら言う。


「白閃牙の方はどうなった」


「八代は切られました」


と国枝。


「堂前さんが、かなりきつく処分したそうです。ただ、それで終わりではありません。白閃牙そのものへの処分も検討されています」


ザガが鼻を鳴らす。


「当然だろ」


「ええ」


と国枝。


「当然です」


牧人は、そこでようやく小さく息を吐いた。


「勝ったのに、面倒は増えたな」


「そうですね」


と国枝。


「とても増えました」


その時だった。


本家の奥、旧保全路の方で、石が一つ鳴った。


軽い音ではない。

深いところで、長く閉じていたものが少しだけずれたみたいな音だった。


イシコが最初に顔を上げる。

次にイト。

そのあとでクロの三つの頭が、同時にそちらを向いた。


ヒナが嫌そうな顔をした。


「今の、嫌なやつ」


「ええ」


とまめじい。


「だいぶ嫌なやつですな」


石戸の前の床に、白い線が浮いた。


細く、まっすぐで、冷たい線だ。

一本。

二本。

三本。


やがてそれが、丸と直線を組み合わせた印になる。


セクト。

ヴェク。

リネア。


石律機構だった。


三人は門から入ったのではなかった。

本家の石の向こうから、そのまま歩いて出てきたみたいに現れた。


ヒナが翼を畳む。


「相変わらず入り方が怖い」


セクトが短く言った。


「本家へ通知する」


ヴェクが続ける。


「次段階監査へ移行する」


リネアが言う。


「理由は三つ」

「北深層旧支配との正式衝突」

「深層秩序への接触」

「外部社会の注視の拡大」


牧人が聞く。


「つまり」


セクトが答えた。


「本家を、周辺の小競り合いとしては扱わない」

「深層秩序に触れた家として見る」


短かった。でも、足りた。


ヒナが顔をしかめる。


「えー、それどっちも面倒なやつじゃん」


「どちらも面倒です」


とセクト。


ベロが鍋の蓋を閉めた。


「使者が来ても、飯の時間は変わらねえからな」


「変わりませんね」


と国枝。


牧人はもう一度聞く。


「監査が上がると、何が変わる」


ヴェクが答えた。


「見る範囲が変わる。目の前の騒動ではなく、家の形そのものを見る」


リネアが続ける。


「人の出入り」

「深層との接触」

「保全路の使用」

「拡張の意図」

「全部、監査対象に入る」


豪志が小さく言う。


「だいぶうるさいですね」


「お前が言うな」


とベロ。


「そのとおりです」


素直だった。


---


石律機構の通知だけでも十分重かった。


だが、それで終わらなかった。


牧人が粥を一口啜ったところで、旧保全路の奥で、もう一つ音が鳴った。


今度は石ではない。


もっと低い。

遠い底の水が向きを変えるみたいな、長くて嫌な音だった。


クロの右が、そこで初めて低く言った。


「……来る」


牧人がそちらを見る。


「知ってる気配か」


中央の耳がわずかに動く。

だが、まだ答えない。


ミズハが壁にもたれたまま、低く言った。


「……これは、少し違う感じ」


イシコが石戸の前から半歩だけ引く。

通さないためではない。

通すために引いたのだと分かる動きだった。


旧保全路の奥から、一つの影が出てきた。


背が高い。

細い。

黒い外套のようなものをまとっている。

顔は白い面で隠れていた。

手には細い黒杖。


人間ではない。

骸骨公領とも違う。

もっと奥の、もっと古い匂いだった。


国枝が息を呑む。


「……何ですか、あれは」


まめじいが低く答える。


「深層側の正式な使いですな」


影は本家の真ん中まで来ると止まった。


最初に見たのは牧人ではない。

クロだった。


白い面が、三つの頭の真ん中を見る。


そして、はっきり言った。


「グラウヴィス」


本家の空気が止まった。


ヒナが目を丸くする。

ザガが眉をひそめる。

ミズハの笑みが薄くなる。


牧人だけが、すぐにクロを見る。


「……クロか」


中央の耳が動く。


右が低く言った。


「……古い名だ」


それ以上は言わなかった。

だが、否定もしなかった。


使者は続ける。


「現名がクロなら、それで呼べばいい。だが、最深側の記録には、グラウヴィスで残っている」


牧人が前へ出る。


「どこの記録だ」


使者は黒杖を床へついた。


「最深外縁の記録だ。かつてその牙は、最深の外縁に置かれていた。最深へ通じる古い境界を守る、三つの守牙のひとつ。失われたはずの番だ」


全部を言ったわけではない。

だが、輪郭は見えた。


クロはただ強い災厄級だったのではない。

もっと古い場所で、もっと重い役目を持っていた。


豪志ですら、この時だけは黙っていた。


ザガが小さく言う。


「……若頭」


右が笑わないまま返す。


「昔のことまで、いちいち名乗ってねえだけだ」


それはクロらしい返しだった。

少なくとも、何も知らない顔ではない。


使者は今度は本家全体を見る。


「拾ったつもりで、ずいぶん大きくしたな」


まめじいが低く笑う。


「拾っただけでは、こうはなりませんぞ」


「知っている」


と使者。


「だから来た」


牧人が聞く。


「何のために」


白い面が答える。


「名乗りを求めるためだ」


「名乗る?」


「そうだ」


と使者。


「家を名乗るなら、最深へ名を出せ」

「家の名。主の名。守る範囲。抱える牙」

「それを出さずに深層秩序へ触れた家は、賊か、異物か、そのどちらかになる」


ヒナが翼を強張らせる。


「やだ、それどっちも嫌」


「当然だ」


と使者。


本家はもう、ただの変わった家では済まない。

クロを抱え、骸骨公領とぶつかり、石律機構を呼び、人間社会まで動かした。


最深部から見ても、知らないふりのできる家ではなくなっていた。


牧人が聞く。


「名乗らなかったら」


「最深は、黙って見ていない」


と使者は答えた。


セクトが横から言う。


「本家は、すでに最深側の視界に入った。だから監査は上がった」


ヴェクが続ける。


「都市圏も、国家側も、今後は本家を放置しない」


リネアが言う。


「石律機構も同じだ」


国枝が小さく息を吐く。


「都市も、国も、深層も、全部ですか」


「我々は、もう無視できない」


と使者。


ローが苦い顔で笑う。


「最悪に面倒なやつだ」


ぷるが床をぺたりと撫でる。

ぷるの体が少しだけ震えていた。


牧人はすぐにしゃがんだ。


「大丈夫だ」


ぷるは喋らない。

でも、ぺたりと牧人の足へ寄った。


右奥の仕切りが、少しだけ開いた。


ネムがそこに立っていた。


いつもなら眠そうな目をしているのに、今はちゃんと開いている。

手には、小さな木札を一枚持っていた。


「親父」


牧人が振り向く。


「どうした」


ネムは床に置かれた黒い輪を見た。

それから、旧保全路の奥を見た。


「奥の小さいの、みんな黙った」


ヒナが翼を止める。


「泣いたんじゃなくて?」


「泣いてない」


とネム。


「黙った」


その言い方で、広場の空気が少しだけ重くなった。


泣くなら、まだ分かる。

怯えて騒ぐなら、まだいつものことだ。


だが、黙った。


ネムは木札を両手で握ったまま続けた。


「寝てたのも、起きた。起きたのも、鳴かなかった。みんな、あっちを見てた」


ネムが旧保全路の奥を指す。


「名前を呼ばれたみたいだった」


まめじいの顔が、そこで変わった。


「……ネム殿、それは確かですかな」


「うん」


ネムは小さく頷く。


「でも、親父の声で戻った。だから、今は大丈夫」


牧人は少しだけ黙った。


「そうか」


「うん」


ネムは黒い輪をもう一度見て、ぽつりと言った。


「これ、置きっぱなしはだめ」


「何でだ」


「みんな、眠れない」


それは理屈ではなかった。

けれど、本家の奥で小さい者たちを見ていたネムの言葉だった。


牧人は黒い輪を拾い上げる前に、布を一枚取った。

それで輪を包む。


ネムはようやく、少しだけ目を細めた。


「それなら、いい」


そう言って、ネムは仕切りの奥へ戻った。

小さい者たちのところへ戻る背中だった。


使者は、その様子まで見ていた。


「変わった家だ」


「そうかもな」


と牧人。


「でも、うちはこれでやってる」


「知っている」


と使者。


「だから、最深が呼ぶ」


クロの右が、そこで初めて小さく笑った。


「呼ばれるのかよ」


「お前だけではない」


と使者。


「家ごとだ」


左が低く鳴る。

中央はまだ黙ったままだ。


だが、逃げる顔ではなかった。


使者は最後に、黒い輪のような印を床へ置いた。


石ではない。

骨でもない。

もっと古い、乾いた重さだった。

手のひらに収まるほどの大きさだが、見た目より重い。


「深名状だ」


使者の口調が重くなった。


「次に呼ぶ時、これが開く。その時は、今みたいな門前の家の顔だけでは済まぬ」


牧人が呼び止める。


「待て」


白い面が止まる。


「クロは、何だった」


使者は少しだけ沈黙した。


「今は全部言わぬ。だが、一つだけ伝えておく。グラウヴィス。最深外縁の番。失われた三つの守牙のひとつ」


使者が徐々に奥へ消えていく。


「その名が今ここにある時点で、本家はもう深層秩序の外ではいられない」


それだけ残して、使者は旧保全路の奥へ完全に消えた。


勝って一息ついたあとの静けさではなかった。


---


ヒナが最初に口を開いた。


「やだ、全然終わってなかった」


「そうね」


とミズハ。


「むしろ広がったわね」


国枝は門前の外を見た。


「外も、中も、もう本家を見ます。勝ったからこそ、です」


ローも記録石をしまいながら言う。


「昨日の勝ちはちゃんと勝ちだよ。でも、その勝ち方が次の面倒を全部呼んだ」


牧人は少しだけ困った顔をした。

でも、逃げる顔ではない。


「……面倒だな」


「ええ」


と国枝。


「とても」


「でも」


とヒナ。


「親父、勝ったよ」


短かった。


でも、その一言で本家の空気が少し戻る。


ザガが槍を持ったたまま言う。


「勝った」


イシコが言う。


「家、守った」


イトは高いところから言う。


「かった」


豪志は言う。


「俺もいた!」


「お前はいたな」


とベロ。


それで、みんな少しだけ笑った。


勝ちは勝ちだ。

ここまで積み上げたものも、ちゃんと残っている。


牧人は床の黒い輪を見る。


「……これ、踏んだらまずいやつか」


「踏まないでください」


と国枝。


「冗談だよ」


牧人は輪を拾い上げた。


重かった。

見た目よりずっと重い。呼ばれた証そのものだった。


次に、クロを見る。


「クロ」


中央の耳が動く。


「グラウヴィス、か」


右が少しだけ笑う。

左が低く鳴る。

中央はしばらく黙ってから、短く言った。


「今は、クロでいい」


まめじいが目を細める。


「名は増えましたが、やることは一つですな」


「そうだな」


と牧人。


牧人は黒い輪を懐にしまった。


「飯にするか」


ヒナが笑う。


「そうだね」


ベロが鍋の蓋を開けた。湯気が上がる。


「冷めてるぞ」


「温め直せ」


「はいはい」


クロの右が、ようやく少しだけ笑った。

左が低く鳴る。

中央は、黒い輪があった場所を見てから、もう一度だけ旧保全路の奥を見た。


最深部は、黙っていない。

そして本家も、もう黙って見られるだけの家ではなかった。


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