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若頭と門番は、誰のために立つか


最深部の名が落ちてから、三日で、本家はようやく当座を回す形を作った。


右奥の隔離は、仕切りを入れて二つに分かれた。

旧保全路寄りの壁は、イシコがさらに半枚押した。

寝床は奥へ一列増えた。

鍋は二つ。

朝は薄い粥、夜は芋を増やす。

若い衆は畑も広げた。前の筋の横をもう二列起こし、まだ小さい苗でも、とにかく数を植え足した。


余裕ができたわけじゃない。

だが、しばらくは回る。


ナナが右奥から出てきて、短く言った。


「熱のあるの、二」

「寝床、今夜までは足りる」


ナナの後ろから、ネムも顔を出した。


小さな毛布を二枚、胸に抱えている。

抱えすぎて、前がほとんど見えていない。


「ネム、前」


とナナ。


「……見えてる」


見えていなかった。

そのまま柱にこつんとぶつかった。


ヒナが梁の上で目を丸くする。


「ネム、だいじょうぶ?」


「だいじょうぶ。毛布は落としてない」


「自分より毛布なんだ」


ネムは短く頷いて、右奥へ戻ろうとした。

その途中で、ぷるが磨いたばかりの床を見て、足を止める。


「ここ、すべる」


ぷるが、ぷるん、と揺れた。


「怒ってないよ。きれい」


ネムはそう言って、毛布を抱え直した。

ぷるは少しだけ得意げに震えた。


ベロが鍋を見た。


「親分、今日はちょっとだけ勝ってますね」


「勝ってるのか?」


と牧人。


「回ってるからね」


とミズハ。


「回ってるな」


と牧人。


ぷるは新しく広げた寝床の境目を、何度も何度も磨いていた。

白い胞子の名残が気に食わないらしい。

気に入らない場所だけ、露骨にしつこい。


ヒナが見下ろして笑う。


「本家、ほんとに村みたいになってきた」


「村じゃねえ」


とベロ。


「でも、畑広がったよ」


「広がった」


と牧人。


「鍋も増えた。寝床も増えた」


「増えた」


「親父、ようやく落ち着いてきたね」


とヒナ。


「何がだ」


「最近ずっと“足りない”ばっかりだったから」


まめじいが帳面を閉じた。


「ええ。当座は持ちますな」


「当座か」


と牧人。


「当座です」


「でも持つんだな」


「持ちます」


牧人が腕を組んだ。


「……ようやく、ちょっと楽になったか」


ミズハが半目で見る。


「親父がそれ言うと、だいたい次の厄介事が来るのよね」


「来るか?」


「来るわよ」


実際に来た。


---


最初に変わったのは、音だった。


北側の路が、静かすぎた。


いつもならどこかで鳴っている小さい骨擦れの音が、遠くで揃っている。

散っていない。まとまっている。


三つ首の頭が、同時に上がる。


右が低く唸る。

左が鼻を鳴らす。

中央だけが、じっと北を見た。


その時、天井の梁からイトが降りてきた。

まめじいの肩へ、するりと乗る。


「北、そろってる。多い」


牧人が顔を上げる。


「来るか」


クロの中央が短く言う。


「来る」


ザガがすぐに槍を取った。


「どれくらいだ」


右が答える。


「多い」


「多いって、何だ。飯の話か喧嘩の話か」


と牧人。


「喧嘩ですな」


とまめじい。


ヒナが翼を傾ける。


「嫌だね」


「そうね、嫌ね」


とミズハ。


まめじいがイトの頭を軽く撫でた。


「親父殿」


「何だ」


「北が押してまいります」


「軍か」


とベロ。


「まだ本隊ではありますまい」


とまめじい。


「ですが、前哨はもう出ています」


「何で、急に?」


とヒナ。


まめじいが答える。


「理由は単純です」


「うん」


「本家が、北から落ちてくるものを拾い始めたからです」


「……」


「旧支配から見れば、弱ったものはそのまま深い方へ落ちていくのが普通だった」


「うん」


「ところが今は、落ちる前にうちへ寄る」


「うん」


「しかも旧保全路まで、我々の手が届き始めた」


「……」


「放っておけば、向こうの支配の線が削れる」


ヒナが翼を止める。


「ちゃんと来る理由あるやつだ」


「あるんだよ。会談の時も、大人しく引き下がる感じじゃなかったしな」


とザガ。


「向こうから見りゃ、うちはだいぶ邪魔だ」


牧人が腕を組んだ。


「……なあ」


「何です」


「うちが飯出してるだけで、北の支配が削れるって」


「はい」


「飯の力、すごくないか」


ベロが即座に顔を上げた。


「でしょう?」


「そういう話じゃないよ」


とヒナ。


牧人は立ち上がった。


「中に入れるな」


「こっちからも出て行くんじゃないのね」


とミズハ。


「出て行かない」


と牧人。


「門前で止める」


「壊さないために?」


とヒナ。


「そうだ」


と牧人。


「向こうを止めたいが、全面的にやり合いたくない」


ベロが顔をしかめる。


「面倒な喧嘩ですね」


「面倒だな」


と牧人。


若頭が前へ出た。


「最初は俺が立つ」


ヒナが梁の上から見下ろす。


「ここは若頭の出番だね」


牧人はクロを見た。

何も言わなかった。


中央が一度だけ、こちらを見て、前へ向き直った。

それだけで十分だった。


ザガが鼻を鳴らした。


「若頭なら心配ねえな」


---


北の路に先に見えたのは、数ではなく形だった。


揃った槍。

崩れない列。

一定の歩幅。

骨の足音。


骸骨公領の前哨隊だ。


前列は槍骨。

後列は弓骨。

間に重装骨――骨の大盾を抱えた、動く壁みたいなやつだ。

左右に斥候。


右が低く唸る。


「三十は超えてる」


多い。

だが、ただ多いだけではない。

精鋭を集めたようだった。


ヒナが高みに飛び移る。


「何あれ」


「“軍”って感じする?」


とミズハ。


「する」


その列の先頭から、一体が前へ出た。


大きい。


骨の巨体。

肩幅が広い。

腕が太い。

通路そのものが詰まったような立ち方だった。


まめじいが低く言う。


「墓騎士グラードですな」


ヒナが目を細める。


「誰それ」


「骸骨公ヴァルドレイク直属の門番」


とまめじい。


「北深層の封鎖路を預かる、向こうの一番槍です」


ミズハが目を細めた。


「ただの大きい骨じゃないわね」


グラードの胸骨の奥に、黒い刻印があった。

歪んだ王冠の形をした印だ。

見ただけで分かる。あれは飾りではない。


まめじいの声が少し低くなる。


「ヴァルドレイクがグラードに刻んだ王墓刻印ですな」


「何それ」


とヒナ。


「一定時間だけ、能力を一段押し上げる刻印です」


「ずるい」


「強敵はだいたいずるいものです」


若頭の右が低く笑った。


「なるほどな」


グラードは一歩だけ前へ出た。

それ以上は出ない。

出ないまま、ただ道そのものみたいに立つ。


その背後の前哨隊も、まだ踏み込んでこない。


グラードが先に言った。


「返せ」


短かった。


牧人が目を細める。


「何をだ」


「北の路から落ちるものだ」


とグラード。


「旧支配の流れへ戻せ」


「嫌だな」


と牧人。


「そうでしょうな」


とまめじい。


若頭が前へ出る。

三つの頭が同時に低くなる。


対するグラードは、骨の門番。

主の命で路を塞ぐ側の形だった。


ミズハが小さく言う。


「似てるわね」


「何が」


とヒナ。


「どっちも主の前で門を守る」


「そうなんだ」


「でも、立ってる理由が違いますな」


とまめじい。


グラードが若頭を見る。


「退け」


右が笑う。


「嫌だな」


「旧支配の路だ」


とグラード。


「従え」


「従わん」


と中央。


「うちは、そういう家じゃねえ」


グラードの眼窩の火がわずかに揺れた。


「家?」


「家だ」


と右。


「誰を守るか分かってる場所だ」


「違う」


とグラード。


「家や門は、支配のためにある」


左が低く鳴った。


「違うな。門は、帰るためにある」


その一言で、空気が切れた。


ヒナが息を呑む。


「……今の、好き」


「そうか」


と牧人。


「でも始まる」


始まった。


グラードが前へ出る。

一歩だけで、地面が鳴る。


若頭も出る。

三つの頭が同時に低くなる。


ぶつかった音は、岩が正面から噛み合うような音だった。


グラードは重い。

若頭は低い。


押し合う。

噛み合う。

下がらない。


グラードの腕が振り下ろされる。

中央が正面で受ける。

右が横から喉を狙う。

左が脚へ回る。


だが、グラードはただ硬いだけではなかった。


胸骨の王墓刻印が、打ち合うたびに暗く光る。

そのたび、骨の軋みが消える。

本来なら崩れるはずの衝撃を、無理やり踏みとどまる形へ戻している。


ヒナが叫ぶ。


「硬い! 何あれ!」


「硬いですな」


とまめじい。


「正面で踏みとどまる限り、あれは簡単には落ちません」


衝撃が足元を伝って、後ろまで揺れた。


ぷるが転がった。

磨いたばかりの寝床の境目に、砂埃がかぶる。


ぷるは一瞬だけ戦ってる方を見た。

それから、砂埃の方を見た。


砂埃を選んだ。


ぷるぷると震えながら、もう一度境目を磨き始める。


ヒナが振り返る。


「ぷる!?」


ぷるは答えない。

境目の方が大事らしい。


ザガが低く聞く。


「親分」


「何だ」


「ここ、手ぇ出すか?」


「まだ出さない」


と牧人。


「若頭に任せるのか」


「当然だろ」


と牧人。


ミズハが横目で見た。


「親父、そういう時だけちゃんと親分なのよね」


「そういう時だけって何だ」


「さっき“飯の力すごくないか”って言ってた人と同じ人?」


「同じだよ」


「……まあ、嫌いじゃないけど」


軍勢はまだ動かない。

冥門組側も動かない。


両方とも分かっていた。

ここで先に崩れた方の士気が、戦線を決める。


グラードが言う。


「支配なき家は崩れる」


右が吐き捨てる。


「崩れてねえから立ってんだよ」


「慈悲は邪魔だ」


とグラード。


「遅い」


と中央。


「うちは、それでも間に合うやつを拾う」


グラードの拳が中央の肩を打つ。

嫌な音が鳴る。

左が逆に喉元へ食いつく。

グラードは、そこで初めて半歩だけ引いた。


ヒナが翼を上げる。


「押した!」


「押してるわね」


とミズハ。


まめじいは、しかし首を振った。


「いえ。まだ向こうも様子見ですな」


「何で?」


とヒナ。


「ここで本隊まで入れれば、向こうも“押し込みすぎ”になるからです」


「……あ」


「つまり、向こうも壊したくはない」


とミズハ。


「ただ、こちらを削りたい」


「そうですな。面倒なことですな」


とまめじい。


「面倒だな」


と牧人。


骨と牙の音が、広い路へ散った。


---


そして、前哨隊の後ろで槍が少しだけ揃い直した、その瞬間。


北のもっと深い方で、何かが一度だけ、静かに鳴った。


右奥の方から、小さい足音がした。


ナナが出てきて、短く言った。


「……来る」


ヒナが振り返る。


「ナナ?」


「奥の白いのが、同時に怯えた」


とナナ。


「あの音のあと、一斉に震えた。北、もっと大きいの見てる」


まめじいの顔が変わる。


「親父殿」


「何だ」


「……もっと奥も見ておりますな」


牧人は北を見た。


嫌な話だった。

だが、もう引けない。


ザガが横目で見る。


「親分。若頭に何か言わねえのか」


牧人は前を見たまま、何も言わなかった。


クロの中央が、前哨隊だけを見ている。

右が低く笑っている。

左が、もう唸り始めている。


ミズハが小さく笑った。


「言わないわよ、親父は」


「何でだ」


とザガ。


「信じてるからでしょ」


牧人はやっぱり何も言わない。


ベロが鍋の蓋を押さえ直した。


「……親分がああいう顔の時は、大丈夫ですよ」


「どういう顔だ」


とザガ。


「若頭に全部預けてる顔です」


中央の耳がわずかに動いた。

聞こえていたかもしれない。

だが振り返らない。


前だけを見て、低く一歩、踏み込んだ。


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