帰還命令
翌朝、右奥の静けさが、まだ広場に残っていた。
灰鼻は止まった。
肩裂けも、そこでふらついた。
でも、止まっただけだ。
白い線を薄くしただけで、元はまだ生きている。
なら、また来る。
牧人はそれを、嫌というほど分かっていた。
「まめじい」
「はい」
「行く」
「でしょうな」
即答だった。
止める言い方ではない。
もう止めても無駄だと分かっている声だった。
ヒナが羽を上げる。
「親父、今の"行く"って、寄せ場までじゃないよね」
「元だ」
「やだ、行くんだね」
ミズハが白い線を見たまま言う。
「寝床を増やすだけじゃ守れない。だったら、そうなるわよね」
ザガが槍を取る。
「で、誰が行く」
「俺」
と牧人。
「ヒナ」
「うん」
「ミズハ」
「ええ」
「イト」
「みる」
「ザガ」
「分かった」
その時、食堂の奥で、重いものが立ち上がった。
クロだった。
右が先に低く鳴る。
「親父が行くなら、俺も行く」
中央は何も言わない。
だが起き上がる。
左も、珍しく寝たふりをやめていた。
ヒナが息を止める。
ベロも、まめじいも、そこで黙る。
当然だった。
クロが黙って残るわけがない。
牧人はクロを見る。
「駄目だ」
右がすぐに唸った。
「何でだ」
「今回は家を空けられない」
「イシコがいる」
「門はな」
と牧人。
「でも今、守るのは門だけじゃない」
右奥を見る。
門前を見る。
戻ってきた灰鼻たちを見る。
外で立ち止まっている左耳や細脚たちも見る。
「右奥も、寝床も、戻ったやつもだ」
右がまだ睨む。
中央は、少しだけ目を細めた。
左は先に理解したみたいに、低く鼻を鳴らした。
牧人は一歩だけ前へ出た。
「クロ」
三つの頭が、同時に止まる。
「本家を頼む」
広場が、そこで静かになった。
たった一言だった。
だが、空気が変わるには十分だった。
クロの足元で、影がひとつ濃くなる。
三つの頭の位置が揃う。
喉の奥で鳴る音が、いつもより低く、重い。
ヒナが目を丸くする。
「……親父」
牧人は答えない。
答えないまま、もう一度言った。
「うちの若頭だろ」
右が、そこで初めて言い返さなかった。
中央が短く頷く。
左も、低く言う。
「分かった」
クロの輪郭が、ほんの一瞬だけ大きく見えた。
本当に身体が大きくなったわけじゃない。
でも、三つの頭の位置が揃ったまま、もう動かなかった。
まめじいが、珍しく帳面から顔を上げる。
「親父殿」
「何だ」
「もう何人か連れて行った方がよろしいのでは」
「いや、十分だ。喧嘩じゃない。大勢は目立つし、向こうを余計に刺激する。弱ったやつらを連れ戻せればそれでいい」
「私がいるから大丈夫よ」
とミズハが言う。
ヒナが、クロに向かって小さく笑う。
「やだ、若頭素直だ」
「何が」
とクロ
「親父は私に任せて」
「不安だな」
「えー!」
とヒナ。
クロの右がまだ不満そうに唸る。
「……親父」
「何だ」
「……家は任せろ」
牧人は少しだけ笑った。
「任せた」
そこでようやく、広場が動き出した。
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クロがまめじいに言った。
「本当に大丈夫か?あとを追うか?」
まめじいは自分の肩を揉みながら言った。
「心配ないでしょう。イト殿に見てきていただきました」
「女王のところをか」
「ええ、あそこには戦力になるものはおりません。厄介そうなのは女王だけです」
「そうか、じいさんがそう言うなら、大丈夫なんだろう」
そう言って、クロは門前に歩いて行った。
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寄せ場までの道は、もう見えている。
崩れた石を越える。
湿った細路を折れる。
白が濃くなるところを避ける。
ミズハが水を薄く走らせ、イトが高いところから白の濃淡を見る。
今日は、迷いが少ない。
迷いがない分だけ、嫌な予感が近い。
ヒナが低く飛ぶ。
「やだ」
「何だよ」
とザガ。
「今日は、行って終わりじゃないよね」
「終わりじゃねえだろ」
「だよね」
「分かってて来たんだろ」
「分かってるけど、言いたいの」
「言ってろ」
牧人は答えない。
鞄には、さっき鍋の縁を拭いた布が入っていた。
本家の鍋の匂いが残っている。戻るやつは、こういう匂いを覚えていることがある。
ミズハがちらりと見る。
「親父、そろそろよ」
「そうか」
イトが壁で止まった。
「ねむ」
いた。
昨日と同じ寄せ場。
昨日と同じネム。
だが、空気は違った。
ネムの肩より先が、昨日より薄い。
白い帯の流れも、浅いところで止まらず、もっとせわしない。
ネムが顔を上げる。
「来た」
「来たよ」
とヒナ。
「今日は止めに来た」
と牧人。
ネムは、そこで初めて牧人をまっすぐ見た。
「……女王様は、返さない」
「知るか」
とザガ。
ネムは何も言わない。
ただ、寄せ場のさらに奥を見る。
「もう、始まってる」
「分かってるわ」
とミズハ。
「だから通るわよ」
牧人たちは、ネムの横を抜けた。
ネムは止めなかった。
止めないこと自体が、誘っているようだった。
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女王ミレアのいる場所は、寄せ場の延長ではなかった。
寄せ場が"止める場所"なら、
ここは"使う場所"だった。
壁が白い。
床も白い。
帯も白い。
でも全部、同じ白じゃない。
乾いた白。
湿った白。
糸みたいな白。
そして、生きた白。
その中央に、ミレアはいた。
上半身だけなら女に見えた。
細い。
長い髪みたいに白が垂れている。
顔も、遠目には静かだった。
だが、下半身が違う。
座っているのではない。
根を張っていた。
白い帯が全部そこへ集まっている。
この場所そのものが、ミレアの身体みたいだった。
そして、その周りにいた。
弱った魔物が、何匹も。
眠っているように見える。
でも違う。
帯に包まれ、
細く吸われ、
薄くなっている。
一匹は、まだ目が開いていた。
だが開いているだけだった。
見ているのに、どこにも焦点がない。
天井近くの窪みには、半分埋まった小型種が三つ。
壁際には、帯に足を取られたまま動けないやつが二つ。
床の浅い窪みには、もうほとんど形の崩れたものまであった。
ヒナの羽が総立ちになる。
「……うわ」
ミズハの笑みが消える。
「ひどいわね」
ザガの声が低くなる。
「養分にされてるみてえだ」
ミレアは、その反応を見て少しだけ笑った。
「弱いものは、ここへ来れば静かになれるわ」
「食ってるだけだろ」
とザガ。
「違うわ。使っているの」
その言い方が、余計に酷かった。
ミレアは続ける。
「上では、痛い。寒い。足りない。追い出される」
「……」
「でもここなら、いずれ全部なくなる」
「なくすな」
と牧人。
ミレアが視線を向ける。
「あなた、上の家からきたのね」
「そうだ」
「面倒なことをするのね」
「そうだな」
「弱いものを弱いまま抱えて、何になるの」
「家になる」
「愚か」
ミレアの目が、冷たく細くなる。
「弱いものは、強いものの糧になるから意味があるのよ」
「ない」
「あるわ」
「ない」
牧人は、そこで一歩前へ出た。
「戻りたいやつを、お前が止めるな」
白い帯がざわりと動く。
ミレアは、笑った。
やさしい顔で笑った。
だから余計に嫌だった。
「戻っても、また捨てられるでしょう?」
「そんなことはしない」
「傷ついて、減って、足りなくなって、それでも抱えるの?」
「抱える」
「やはり、愚か」
「そうかな」
ネムの肩が、そこで大きく震えた。
ミレアは、いつも同じことを言った。
痛くない方がいい。
静かな方がいい。
何もしなくていい方がいい。
弱いものは、そうやって下へ来ればいい、と。
でもネムは、ずっと見てきた。
弱ったやつが連れてこられる。
浅いところで止まる。
返事が遅くなる。
目が薄くなる。
呼んでも、前より遠い。
次に見る時には、もう少しだけ減っている。
嫌だった。
最初から、嫌だった。
でも、命じられると動いてしまった。
連れていけと言われれば、浅いところで待った。
やさしいと言えと言われれば、そう言った。
帰らなくていいと言えば、弱ったやつは少しずつ軽くなった。
ネムは、それがずっと嫌だった。
嫌だったのに、逆らえなかった。
今、目の前で牧人が言う。
「抱える」
短い嫌な一言だった。
でも、ミレアのやさしい声より、ずっと響いた。
嫌なのに、そっちの方が痛かった。
痛いのに、そっちの方がましだった。
ネムは、天井に埋まった小型種たちを見る。
壁際で薄くなっているやつを見る。
自分の足元を流れる白を見る。
「……違う」
声は小さかった。
でも、自分で出した声だった。
ミレアの白が、ざわりと揺れる。
ネムの目に、初めてはっきりした怒りが浮かんだ。
「連れてくの、ずっと嫌だった」
白が、もう一度ざわりと鳴る。
ネムはそこで黙った。
ミレアを見る。
天井の窪みに埋まった小型種たちを見る。
壁際で薄くなっているやつも見る。
まだ動けば、また命じられる。
逆らえば、今度こそ自分も下へ引かれる。
それが分かるから、足が止まる。
でも、そのまま見ている方が、もっと嫌だった。
ネムは唇を噛んだ。
「……もう、やだ」
その声は、さっきより少しだけ強かった。
その時、牧人は鞄から、鍋の縁を拭いた布を取り出した。
湿った白の中へ、鍋の匂いが広がる。
一瞬だけ、
天井の窪みの一つで、埋まった小型種の目が動いた。
ヒナが叫ぶ。
「見た!」
ミズハも見ていた。
「まだ匂いに反応してるわ」
ミレアの笑みが、そこで少し薄くなる。
「嫌な匂い」
「うちの匂いだ」
と牧人。
「食える匂いだ」
「それはまた苦しむ匂いよ」
「でも生きる匂いでもある」
イトが上で鳴く。
「うえ、さん」
「三?」
とヒナ。
「さん」
ザガが槍を構える。
「どこだ」
「脈の集まるとこ」
とミズハ。
「一番吸ってる根元。そこを切れば、助けられるはずだわ」
「分かった」
ミレアがそこで初めて、声を低くした。
「返さない」
白い帯が、一斉に脈打つ。
床の白が、生きたものをさらに深く引こうとする。
天井の三つも、壁際の二つも、まとめて飲み込みにかかった。
「イト!」
とミズハ。
「糸!」
糸が飛ぶ。
天井の窪みに引っかかる。
ヒナが低く飛ぶ。
一つを抱える。
ザガが槍の石突きで、白の束を横から叩く。
鈍い音がした。
「手応えある!」
「あるならもう一回!」
ミズハが床へ水を叩きつける。
水は広がらない。
広がる前に、白へ吸われる。
でも、吸われるから分かる。
「そこ!」
「見えた!」
ザガの槍が、脈の根元へ突き立つ。
だが、止まった。
刺さっている。
刺さっているのに、最後まで入らない。
白の下にある硬いものが、槍を噛んでいた。
ザガの腕が震える。
「……っ、硬え!」
ミレアが笑う。
「届かないわ」
「まだ足りない?」
とヒナ。
ザガは踏み込む。
踏み込むが、白の床が逆に足を取る。
槍は入る。
だが、そこで止まる。
あと一押し。
その一押しが足りない。
ミズハが目を細める。
「親父!」
牧人はもう動いていた。
白を避けず、
まっすぐザガの横まで行く。
ザガが歯を食いしばったまま言う。
「下がれ、親分!」
「大丈夫だ」
牧人は、白に噛まれた槍を見る。
ザガの踏ん張る脚を見る。
折れかけているのは槍じゃない。
押し切る前に、ザガの踏ん張りの方が先に切れそうだった。
だから、名前を呼んだ。
「ザガ」
ザガの目が、一瞬だけ牧人へ向く。
「踏ん張れ」
たったそれだけだった。
でも、その瞬間、空気が変わった。
ザガの足元で、白がびり、と鳴る。
槍を握る腕に、もう一段だけ力が入る。
肩が落ちない。
膝が沈まない。
さっきまで押し返されていた身体が、逆に前へ出た。
ヒナが息を呑む。
「親父……」
ミズハの目が細くなる。
「今、なにが起こったの」
牧人はザガから目を離さない。
「もう一息だ!」
その一言で、ザガの顔つきが変わった。
そこで折れない顔になる。
ザガが低く唸る。
「……ぅおおおお」
踏み込む。
槍が、もう一段深く入る。
白の根元が、びし、と音を立てた。
ミレアの身体が揺れる。
「……っ」
ザガがさらに押す。
白が腕に巻く。
脚を取る。
それでも止まらない。
さっきまでのザガなら、ここで止まっていた。
だが今は違った。
「行け!」
と牧人。
ザガが吠えた。
「おらあっ!」
槍が最後まで入る。
白の根が、真ん中から裂けた。
その瞬間、
ミズハの水が裂け目へ流れ込み、
イトの糸が二匹目を引き、
ヒナが三匹目を抱え上げる。
全部が、一呼吸だけ揃った。
白が、裂けた。
大きな音ではなかった。
長く張っていたものが、ようやく切れた音だった。
脈が止まる。
止まった瞬間、
天井の窪みから、埋まっていた三つが落ちた。
ヒナが一つ。
イトが糸で一つ。
ミズハが水の力で一つを受ける。
壁際の二つも、そこでようやく白から離れた。
ミレアの帯が逆流する。
上半身の輪郭が薄くなる。
それでも声だけは残った。
「……弱いまま残すから、また苦しむのに」
「苦しむだろうな」
と牧人。
「でも戻るやつがいる」
ミレアの目が、初めてはっきり憎しみに細くなる。
「嫌な家」
「そうだな」
「面倒で、遅くて、効率が悪い」
「そうだな」
「なのに、取るのね」
「お前に吸われるくらいなら、取る」
白が、そこで崩れた。
全部が消えたわけではない。
でも、この場の脈は死んだ。
浅い寄せ場へ流す回収の力も、今は切れている。
ネムが膝をつく。
ヒナが振り返る。
「ネム!」
「……」
「来る?」
ネムはすぐには答えなかった。
崩れた白を見る。
牧人の鍋布を見る。
それから、小さく言う。
「……まだ、戻れるかな?」
牧人がネムを見る。
「ネム」
ネムが顔を上げた。
「戻れる」
その一言を牧人が言った。
ネムの輪郭が、そこで少しだけ戻る。
完全ではない。
でも、さっきまでよりずっと人だった。
「……はい」
その返事は、小さかった。
でも、自分で返した声だった。
牧人は短く言う。
「うちに来るなら、一緒に来い」
「……行く」
ミレアの残った白が、最後にざわりと揺れた。
怒りとも、悔しさともつかない濁った動きだった。
だがもう遅い。
寄せ場の根は切れた。
養分にされるはずだった連中も引き抜いた。
ネムも、もう浅い帯へ戻らない。
---
帰り道は、行きよりずっと速かった。
ヒナが一つ。
ザガが二つ。
イトの糸が一つ。
牧人が一つ。
ミズハはネムの腕を引き、もう一匹の肩を支える。
「歩ける?」
とミズハ。
「……少し」
「少しでいいわ」
「……」
「今はそれで足りる」
寄せ場を抜ける時、ヒナが息を切らしながら言う。
「やったよ」
「何」
とザガ。
「今回は元を止めた」
「止めたな」
「その結果、また寝床が足りない」
「それは最初から分かってただろ」
「分かってたけど、言いたいの」
「言ってろ」
---
本家へ戻ると、門前の空気が変わった。
右奥の静けさが消えている。
灰鼻は座ったままだが、目が戻っていた。
肩裂けも、鍋の方を見ている。
床を這っていた白い線は、もうどこにもない。
ミズハが白い線のあった床を見る。
「脈を切ったら、末端まで枯れたわね。繋がってたのは一本だけだったってこと」
ナナが最初に言う。
「切れた?」
「切ったわ」
とミズハ。
「根本から」
「そうよ」
ベロが鍋の蓋を開けた。
「親分」
「何だ」
「寝床、足りないぞ」
「増やすか」
「出た!」
ヒナがへたりこんで笑う。
「どこに増やすの」
「知らん」
とベロ。
牧人は、ネムの前にしゃがんだ。
「食うか」
ネムは少しだけ止まった。
それから、小さく頷いた。
「……食べる」
ヒナの羽が止まる。
ミズハが少しだけ笑う。
まめじいは帳面を開いた。
「本日、六名追加。寝床、致命的に不足」
ヒナが笑う。
「やだ、帳面にまで書かれた」
ニコはもう板を探していた。




