表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

46/57

深い方は、家を現象として見た


朝の本家は、最初から足りなかった。


藁が足りない。

包布が足りない。

寝床が足りない。

右奥も、左も、最初から余裕がない。


ニコの板だけが増えていく。


灰鼻。

肩裂け。

左耳。

細脚。

雑用痩せ。


呼び分けないと回らないから、板が増える。

板が増えると、ヒナが読む。

ヒナが読むと、ベロが「雑だな」と言う。

でも、雑でも分からないよりましだった。


「親父」


とヒナ。


「何だ」


と牧人。


「今日も足りない」


「見れば分かる」


「分かるけど、言いたいの」


「言ったところで増えるか」


「増えないけど、気が済む」


「気が済むなら言え」


「足りない」


「聞いた」


ベロが呆れる。


「朝から何の会話だよ」


「確認」


とヒナ。


「確認って」


「足りないって言うと、親父が増やすから」


「なるほどな」


右奥の隔離部屋では、先に運んだコボルトがまだ弱っている。

灰鼻は座っている。

肩口の裂けたコボルトは立っているが、立っているだけだ。

でも、鍋の匂いだけは追っていた。


門前の端には、戻れた二匹を見に来た連中が、まだ帰らずに残っている。


左耳の欠けた細いの。

脚の細いゴブリン。

群れの雑用をしていた痩せた小型種。


どいつも鍋を見る。

二匹を見る。

板を見る。

それでも、帰らない。


ミズハが静かに言った。


「終わりがないわね」


「何が」


と牧人。


「戻れたやつを見て、次が寄ってくるのよ」


まめじいが帳面を閉じる。


「親父殿」


「何だ」


「寝床が足りないだけではなく、流れが変わり始めております」


「流れ?」


「ええ。昨日までは、弱ったものは深い方へ落ちていった」


「うん」


「今日は逆です。上へ寄ってきております」


「……」


牧人は鍋を見た。

門前を見た。

右奥を見た。


足りない。

でも、追い返せない。


それが門前の連中にも、もう見えてしまっている。


---


その記録は、もう別のところへ届いていた。


本家の名前が決まった日の夜、門前へ来た白い観測使。

あの小さな白いものが持ち帰ったのは、言葉ではない。記録だった。


拠点名義更新。

局地設備再起動。

保護帰還点応答。

流向変化。


短い。

冷たい。

だが、深い側にはそれで足りた。


そこにいたものたちは、鍋も板も藁も見ていない。

見たのは流れだけだった。


本来、下へ落ちるものがある。

弱ったもの。

捨てられたもの。

戻る場所をなくしたもの。


そういうものは、浅いところで止まり、さらに深い方へ寄る。

それが長く灰環の深い側で観測されてきた自然だった。


だが今、そこに逆流がある。


下へ落ちるはずのものが、上で止まる。

止まったものが、消えずに戻る。

戻ったものを見て、さらに次が上へ寄る。


一つの場所。

一つの門前。

一つの鍋。


それだけで、落ちるはずの流れが曲がっている。


深い側から見れば、それは上へ向かって流れを変える異常秩序だった。


観測は、そこで止まらなかった。

止まらず、本家を観測対象として扱い始めた。


まだ来ない。

まだ正式には触れない。


だが、もう見られ始めてはいた。


---


女王ミレアは、浅い寄せ場のさらに下にいた。

白い帯が脈打つ先。


ミレアは、不機嫌だった。


上で止まる。

上で戻る。

しかも戻ったものが、また上で匂いになって、次を引く。


白い脈が、ひとつ強く打った。


だから、取り返す。


正面から噛みに行くつもりはまだない。

本家の中に何があるか、まだ見切っていないからだ。

だが、戻したものをもう一度下へ引くことならできる。


白い帯が、ゆっくりと脈を変えた。


それは怒りというより、回収だった。


ネムが顔を上げる。


「……上で連れ戻すの?」


返事はない。

だが、白はもう答えていた。


二つ戻ったなら、二つ取り返す。

そのくらいのことから始める。


ネムは、白い帯の端に立ったまま、上の方を見た。

いつもより長く見ていた。


あっちの家は忙しい。

列がある。

鍋がある。

寝床は足りていない。


足りていないのに、増やす。


その面倒くささが、少しだけ眩しかった。

だから余計に、回収が始まるのが嫌だった。


でも、止められない。


ネムは白い帯を見たまま、指先だけを少し離した。

自分でも気づかないくらい、小さい動きだった。


「……また、やるの」


脈が強く打った。


女王は、決めていた。


---


夜、本家はようやく少しだけ静かになっていた。


飯の列は終わった。

礼の列も散った。

残っているのは、寝る前に湯気だけ見ている連中と、眠そうな若い衆と、仕事が終わっていない帳場だけだ。


ニコが最後の板を壁に掛ける。


「親分、板、もう置くとこない」


「任せる」


と牧人。


「必要か?」


とベロ。


「足りないなら」


「邪魔にならなきゃいいけど」


ヒナが梁の上で笑う。


「やだ、また増やすの」


「増え方が早いのよ」


ミズハは水桶を置いた。

イシコは壁を見ている。

まめじいは帳面を閉じない。

ナナは右奥の様子を見ていた。


その時だった。


右奥の隔離部屋の方で、き、と小さい音がした。


最初に動いたのはクロだった。

三つの頭が同時に上がる。


次に、ミズハの顔から笑みが消えた。


「……親父」


「何だ」


「今、水が逆に引かれた」


牧人が立つ。

ベロも立つ。

ヒナが梁から降りる。

ナナはもう右奥へ走っていた。


右奥の隔ての前で、空気が変わっていた。


静かすぎる。


嫌な静けさだった。

寝ている静けさではない。

何かに耳を傾けさせられているみたいだった。


灰鼻が、座ったまま、扉の方を見ている。

肩口の裂けたコボルトも、同じだった。

目が薄い。

でも、外を見ている。


「おい」


とベロ。


「何だこれ」


ミズハが足元を見た。


部屋の隅から、白いものが出ていた。


目立たない。

糸ほど細くはない。

ぬめりほど露骨でもない。

でも、昨日見た帯と、同じ質の白さだった。


床を伝い、

壁際を伝い、

右奥へ入っている。


ヒナの羽が逆立つ。


「やだ」


「来たわね」


とミズハ。


「向こうから取り返しに来てる」


灰鼻が、ゆっくり立ち上がろうとした。

自分の意思みたいに見える。

でも、目が違う。

鍋を見る顔じゃない。

右奥の外を見ている目だった。


肩口の裂けたコボルトも、半歩だけ扉へ寄る。


ナナが短く言う。


「戻るな」


止まらない。


「親父」


とヒナ。


「これ、寝床増やすだけじゃ駄目だ」


「分かってる」


と牧人。


まめじいが、白の線を見たまま言う。


「親父殿」


「何だ」


「来ましたぞ」


「何が」


「回収です」


その一言で、広場が静かになった。


戻したものを、下がもう一度引く。

それはつまり、本家の中にいても安全、ではないということだった。


ミズハが水を走らせる。

白の線へ薄く被せる。

線の端が一瞬だけ鈍る。


「切れる?」


とヒナ。


「薄くはできる」


とミズハ。


「でも、元を止めないと、また来る」


灰鼻の脚が止まる。

肩裂けも、そこでふらついた。

完全ではない。

でも、一瞬だけ"こっち"へ戻る。


牧人は、その顔を見た。

鍋を思い出しかけている顔だ。

完全に持っていかれる前の顔だ。


そこで、もう迷わなかった。


「まめじい」


「はい」


「寄せ場までの行き方を、今夜のうちに決める」


「……親父殿、明日の朝ではなく?」


「今夜」


「寝床も足りないのに、睡眠まで削りますか」


「やだ、そこだけは勘弁にして」


とヒナ。


「ミズハ」


「ええ」


「白い線の切り方、見てくれ」


「見るわ」


「ヒナ、イト」


「うん」


「みる」


「寄せ場までの行き方を、もう一回確かめる」


「ザガ」


「行くんだな」


「行く」


「そう言うと思った」


ベロが顔をしかめる。


「親分、早えよ」


「早くない」


と牧人。


「取り返しに来たんだろ」


「……」


「じゃあ、元を止める」


右奥の静けさが、そこで少しだけ割れた。


ヒナが羽を広げる。

ミズハが水桶を持ち直す。

ザガは槍に手をかける。


まめじいがそっとイトを呼んだ。


「イト殿、女王を探って来ていただけませんかな」


「みる」


とイトが頷いて、天井へ消えた。


寝床が足りない。

藁も足りない。

包布も足りない。

でも、それ以上に、時間が足りなかった。


守るだけでは、また取られる。


だから本家は、初めてはっきり決めた。


女王ミレアのところまで行く。


深い方は、本家を現象として見た。

そして本家は、

その現象の元を、止めに行くと決めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ