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助けた先に、寝床が足りない


《白閃牙》の朝は、近ごろで一番、空気が悪かった。


堂前烈牙は、監察局から返ってきた紙を机へ投げた。


乾いた紙だ。

だが、当たる音だけは妙に腹立たしい。


「却下か」


向かいの事務役が頷く。


「灰環大迷宮・深部追加立入申請、異常個体処理班の増員申請、どちらも通りませんでした」


「理由は」


「現在の灰環大迷宮は、攻略競争よりも、流動避難群と異常寄せ場の管理を優先すべき局面であり――」


「長い」


と八代玲臣が吐き捨てる。


「要するに、今のおれらは入れると邪魔ってことだろ」


「そう読めます」


八代が舌打ちした。


「ふざけんな。灰環A級の攻略で先頭張ってきたのはこっちだぞ」


「そうですね」


と事務役。


「でも、今は通行優先が違います」


「くそ!」


堂前は怒鳴らなかった。

怒鳴らないまま、もう一枚の紙を見る。


登録商人通行枠。

国枝市蔵。


今日も通っている。


昔、《白閃牙》の補給や売り払いを静かに回していた商人だ。

潜る前に要るものも、戻ってから要るものも、黙って揃えた。


今、その国枝が通しているのは、《白閃牙》の攻略物資ではない。

冥門組側の生活物資だった。


八代もそれを見て、顔を歪めた。


「またあいつか」


「今朝も藁束、包布、乾燥芋、鍋、塩が通ってます」


「攻略じゃなくて避難所じゃねえか」


「監察局の認識は、もうそちらでしょう」


八代は手元の端末を睨んだ。

朝から回っている切り抜きが、さらに腹立たしい。


【灰環大迷宮、右奥隔離が一つじゃ済まなくなってるらしい】

【国枝の生活物資便だけが今日も通過】

【冥門組、また部屋を増やした?】


コメント欄が流れる。


『白閃牙さん何してるんです?』

『置いてった側より拾ってる側が回ってるの草』

『八代ってあの時の扉閉めたやつだろ』

『国枝、完全に乗り換えてて笑う』


八代が机を叩いた。


「最後のやつ誰だよ!」


「世間です」


「うるせえ!」


堂前はようやく口を開いた。


「笑わせておけ」


「ギルド長」


「今は入れない。入れない以上、黙って積まれるのを見るしかない」


「それでいいんですか」


「よくはない」


堂前の声は低かった。


「だが、灰環の中で今起きているのは"勝つか負けるか"じゃない。だから監察局は、おれたちみたいな切って進む側を入れたがらない」


「……」


「騒ぎを起こさないやつの方が、今は通りやすい」


「冗談じゃねえな」


「冗談ではない」


八代は端末の画面を睨んだまま、低く言う。


「……あの補助やろう」


「そうだな」


と堂前。


「生きて戻っただけでも気に食わなかったのに、今度は家まで作った」


「しかもそれが通ってる」


「だから余計に気に食わん」


《白閃牙》はまだ灰環へ入れない。

その間に、気に食わない秩序だけが中で育っていく。


それが何より腹立たしかった。


---


本家の朝は、別の意味で空気が悪かった。


寝床が足りない。


正確には、寝床だけでは済まなかった。


「藁、足りない」


とナナ。


「包布、足りない」


とニコ。


「鍋、足りない」


とベロ。


「部屋も足りませんな」


とまめじい。


「親父」


とヒナ。


「全部足りない」


牧人は鍋の前で、芋を切っていた。

答えが出ない時、この人はだいたい芋を切る。


「右奥は」


「先に運んだコボルトがいます」


とまめじい。


「灰鼻は座っております。肩口の裂けたコボルトは立っておりますが、まだ弱ってます」


「外は」


「今朝だけで三つ増えました」


門前の端に、もう三匹いた。


左耳の欠けた細いの。

脚の細すぎるゴブリン。

群れの雑用をしていた痩せた小型種。


どいつも戻ってきた二匹を見ていた。

鍋も見る。

右奥を見る。

だが、帰らない。


ミズハが壁際で言う。


「始まったわね」


「何が」


と牧人。


「戻れた二匹を見て、外のやつらが寄ってきたのよ」


「……ああ」


「助かったのが見えた。だから次が来る」


ニコが板を増やした。


右奥 隔離中

左 寝床待ち

白いの薄い こっち

泣くやつ 座れ

勝手に混ざるな


ベロが顔をしかめる。


「最後、もうよく分からねえ感じだな」


「でも大事」


とニコ。


「当たり前が一番守られない」


イシコが、旧保全路寄りの壁を一つずらした。

空き部屋がまた半分広がる。


ぷるは床を磨きながら、露骨に機嫌が悪そうに鳴いた。

白いのを持ち込まれるのが嫌らしい。


「怒ってるわね」


とミズハ。


「誰が?」


とヒナ。


「ぷるよ」


「今日は機嫌わるい?」


とヒナ。


「そうよ」


まめじいが帳面を閉じた。


「親父殿」


「何だ」


「助けて戻した二匹を見て、門前の連中が動きました」


「ああ」


「戻れたやつがいると分かると、次が来ます」


「来るな」


「今夜の寝床が足りません」


「早いな」


「親父殿が戻したので、早いです」


ヒナが梁の上で笑う。


「出た」


「何だ」


「親父のせいなんだよね。どうするの」


「足りないなら増やすだろ」


「それはそうなんだけど、迷いがないんだよ」


とヒナ。


その時、右奥の隔離部屋から浅い咳が聞こえた。

先に入れたコボルトだ。


門前の端にいた左耳欠けが、びくっと肩を震わせる。

逃げるかと思ったが、逃げない。

代わりに、鍋を見る。


牧人がその顔を見た。


「鍋の匂い、嗅いでるな」


灰鼻は返事をしない。

だが視線だけが、湯気を追っている。

肩口の裂けたコボルトも、立ったまま、同じように鍋を見ていた。


「食いたそうだな」


と牧人。


「分かるの?」


とヒナ。


「分かる。腹が残ってる顔だ」


「顔で分かるの?」


「分かる!気がする」


ヒナが羽をバタバタさせて笑った。


---


その時、門前の向こうから荷車の音がした。


乾いた車輪が止まる。

藁束、包布、乾燥芋、塩、安い木椀、それと大鍋が二つ。


国枝市蔵が、いつもの穏やかな顔で手を挙げた。


「おはようございます」


「早いな」


と牧人。


「そろそろ、足りなくなる頃かと」


「なんで分かるんだ」


「勘です」


ヒナが吹く。


「やだ、国枝さん、さすが」


「商人ですから」


と国枝。


「足りなくなる前に持ってくるのが仕事です」


その後ろから、豪志がひょこっと顔を出した。


「俺も参上させていただきました!」


「何でだよ」


とベロ。


「いや、親分さんとこが炊き出しと増築で回してるって聞いて」


「増築って言うな」


「いや、いろいろ大変そうで。義理人情に熱い俺が黙ってられるかって話ですよ!」


「お前来ても、役立たないから」


豪志は楽しそうなまま、藁束を担いだ。


「どこ置く?」


「ホントに働くのか」


とベロ。


「来たからには仁義を」


「意味わからん」


とザガ。


「任せて下さい」


「騒々しさが増した」


国枝の荷が届いたことで、本家の朝は一段だけ現実になった。


藁は少し足りる。

包布も少し足りる。

鍋も増える。

だが、それでも部屋が足りない。


イシコが壁をもう一つ動かした。

空き部屋が、また半分広がる。


「姐さん、早えな」


とベロ。


「足りない」


とイシコ。


「親父が増やすから」


「そうなんだよな……」


門前の痩せた小型種が、ふら、と列へ一歩混ざった。


ベロが指さす。


「見ろ」


「なに?」


とヒナ。


「まだ、増えそうだ」


「……ほんとだわ」


とミズハ。


「どんどん次が来るわね」


今度は細脚のゴブリンだ。

鍋の匂いと、戻った二匹の顔を見て、立ち止まる。

立ち止まって、それでも帰らない。


ナナが短く言う。


「寝床、もう足りない」


「確かにな」


と牧人。


「確かに、じゃねえよ、もう門前だけで収まる数じゃねえっての!」


とザガが頭を抱える。


そんな喧騒をよそに、ニコは真顔のまま、新しい木板をカンカンと壁に打ち付けていた。

そこには炭で、乱暴かつ的確な文字が書かれている。


『灰鼻』

『肩裂け』

『左耳』

『細脚』

『雑用痩せ』

『※勝手に入れ替わるな』


それを見たヒナが、こらえきれずに梁の上で腹を抱えて吹き出した。


「あはははっ! ちょっと下から二番目の『雑用痩せ』ってなんなの!? 悪口じゃん!」


「悪口じゃない。事実」


ニコはスンとした顔で胸を張る。


「ずっと雑用係やらされてた、ガリガリに痩せたやつ。見れば一秒でわかる」


牧人は、その身も蓋もないネーミングボードと、門前の端で所在なさげに立っている『細脚』や『雑用痩せ』を交互に見比べた。


「この名前には、欠陥があるだろ」


「欠陥、ない。的確」


「いいや、ある」


牧人はさらに続ける。


「じゃあ、俺が治療してあの『肩裂け』の傷が完治したら、『ツルツル肩』になるぞ」


「やだ、ツルツル肩、かわいい」


とヒナが梁の上で笑った。


「そうですな」


とまめじい。


「ようやく親父殿も管理の話をなさる」


「管理の話か?」


「そうですな。管理の話ですぞ」


その様子を見ながら、ミズハがクスクスと笑った。


「ふふっ。親父、どんなヤバい魔物より、管理の話が一番苦手みたいね」


---


その頃、湿った深い方では、ネムがじっと上を見ていた。


戻った。

二つ、戻った。


白い帯の先で、脈が小さく打つ。

女王ミレアの不機嫌は、言葉より先に湿りの温度で分かる。


昔から、弱ったものは流れてきた。

浅いところで止まり、

楽になり、

やわらかくなって、

最後には下へ来た。


それが最近、少しずつ減っている。


あっちに取られる。


飯を出す家。

寝床を作る家。

分けたまま守ろうとする、面倒な家。


ミレアから見れば、それは失敗した保護だった。

弱いものを楽に溶かす方が、ずっと優しいのに。

なのに、あっちは戻してしまう。

しかも戻したものが、また上で匂いになって、次を引く。


ネムは、白い帯の端で小さく肩を震わせた。


「……また、へった」


脈が打つ。


帰る場所なんて、揺れるだけでしょう。


湿りの奥から、そう言われた気がした。


ネムは答えない。

答えないまま、上の方を見る。


あっちの家は忙しい。

鍋があって、板があって、列があって、寝床が足りない。

足りないのに、増やす。


その面倒くささごと、少しだけ眩しかった。


ネムは手を握った。


「……でも、あっちは、戻る」


脈が、少し強く打った。


女王は、不機嫌になり始めていた。


---


夜、本家の寝床は結局、また足りなかった。


正確には、寝床だけでは済まなかった。


寝かせる場所。

隔てる場所。

白いのを払う場所。

泣くやつと、静かすぎるやつを分ける場所。

そして、呼び分けるための仮の名。


助けた先に、寝床が足りない。


足りないから増やす、と言ってしまう親父の顔を見て、ヒナは梁の上で小さく笑った。


「これ、明日も足りないやつだ」


そして、その"増やす"が見えたせいで、

門前にはもう、次の影が立ち始めていた。


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