菌床区画、静かに気持ち悪い
朝の外輪寄りの茶屋で、三船ローは配信のコメント欄を見て、静かに頭を抱えていた。
昨日の切り抜きは、思ったより回っていた。
灰環大迷宮、北深からも文が飛ぶ
監察局規制下でも止まらない荷の話
悪くない。
悪くないのだが、コメントの方向が少しおかしかった。
『また豪志いる?』
『豪志だけ見たい』
『冥門組って結局なんなの』
『右奥隔離って何』
『灰環、なんか前よりヤバくなってない?』
『国枝また出る?』
「何でだよ……」
ローが机に突っ伏す。
豪志は隣で上機嫌だった。
「いいじゃねえか。俺が求められてる」
「お前は騒音として求められてるんだよ」
「存在感だろ」
「違う」
「じゃあ今日は抑える」
「信じられねえ」
「本当だ。今日は“カチコミ”って言葉は二回までにする」
「言わなくていいんだよ!」
国枝が湯をすすりながら言った。
「回数制限で済む話ではありませんよ」
「だよな?」
とロー。
「ですが」
と国枝。
「数字が動いているのは事実です。監察局が灰環大迷宮を絞っているからこそ、“中へ通る話”に価値が出ている」
「ほんと、金の話ばかりだな」
「商人ですから」
豪志が身を乗り出す。
「で、今日はどうする?」
「今日は続報待ち」
とロー。
「昨日より深い話が出る」
「また誰か見に行ってるのか」
「行ってる」
「いいなあ」
「お前は行かなくていい」
「一回でいいから、“ここから先は堅気は下がってな”って言ってみたい」
「監察局に向かって言ってこい」
「それは怖い」
茶屋の窓の外では、監察局の札を見て引き返す探索者が二人いる。
人間界から見ても、灰環大迷宮は今、妙に静かだった。
その静かさが、逆に噂になっている。
ローはようやく顔を上げた。
「……とにかく、今日は中の続報待ちだ」
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同じ頃、本家では、牧人が出発を止められていた。
「親父は残る」
とナナ。
「はい」
とまめじい。
「絶対に」
「昨日も聞いたぞ」
と牧人。
「今日は昨日より強いです」
「何でだ」
「今日は、昨日見た寄せ場の、その先を確かめに行くからです」
「昨日より深いのか」
「少し」
「じゃあ見ないと」
「見たら助けようとか、余計なこと言い出しそうだから駄目だよ」
とヒナ。
「親父、そういうとこあるじゃん」
右奥の隔離部屋では、昨日のコボルトがまだ浅く息をしている。
隔ては増えた。
鍋も増えた。
列も増えた。
つまり、親父が残る理由も増えた。
まめじいが帳面を叩く。
「昨日で、誰がいて、何をしているかまでは掴みました」
「うん」
「今日は、その先に何が待っているかを確かめます」
「だから私なのよ」
とミズハ。
「湿った足場と、あの白いぬめりの道筋を見る役が要るでしょう」
「それ」
とヒナ。
「今日はミズハ姐いると助かる」
「珍しいわね」
「湿ったとこで私とイトだけでは、ちょっとやだ」
「正直で可愛いわ」
「やだ、そこ褒めなくていい」
壁際でザガが腕を組んだまま言う。
「昨日見た道筋は、崩れた石二つ越えた先から急に白が濃くなる」
「そこから先が今日の仕事、ってことね」
とミズハ。
「そういうことだ」
「分かった」
イトが壁を走る。
「いーと、みる」
「見ろ。でも近づきすぎるな」
と牧人。
「みる」
「しっかり見てこいよ」
「みる」
「ちゃんと会話になってきたじゃない」
とミズハ。
「奇跡ね」
「奇跡だよ」
とヒナ。
ヒナが翼を広げる。
「じゃ、行ってくる」
「気をつけろ」
と牧人。
「分かってる」
昨日は、誰がいて、何をしているかまでは掴んだ。
今日は、その先に何が待っているかを確かめる日だ。
ネムが何をしているのか。
寄せ場の先に、何があるのか。
そこまで見ないと、次に進めない。
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ヒナ、イト、ミズハは出た。
湿った空気に触れた瞬間、ヒナが顔をしかめた。
「やだ」
「やだって、早いわね」
とミズハ。
「まだ出たばかりよ」
「だって、もういやなんだもん」
湿層は、昨日よりもっと嫌な感じがした。
昨日は“気持ち悪い”で済んだ。
今日は、見る場所が増えた分だけ、気持ち悪さもはっきりしていた。
音が薄い。
壁が近い。
水の気配はあるのに、水音が響かない。
ぬめりが床の線を消していて、元の導線がどこだったのか、一歩ごとに分かりにくい。
ミズハが先に立つ。
「今日は石の縁で見て。色じゃなくて、濡れ方」
「やだ、分かりにくい」
「だから私がいるの」
「そういう時だけ頼もしい」
「“だけ”って付けると刺すわよ」
「やだ、怖い」
イトは壁の高いところから小穴を覗いている。
「しーろい」
「見えた?」
とヒナ。
「しーろい、ぬるい」
「ぬるい?」
とミズハ。
「触ったの?」
「ちょん」
「ちょんじゃないのよ」
壁際の白は、昨日より増えて見えた。
粉みたいに薄いのに、粉ではない。
線みたいに細いのに、糸でもない。
ぬめりに紛れて、静かに導線を上書きしている感じがある。
廃液層へ入ると、足場はさらに悪くなった。
踏んでいい石。
踏むと沈む石。
同じ色に見えるのに、返ってくる硬さが違う。
ミズハがしゃがみ込む。
「溜まる方は柔い。弾く方は硬い」
「分かるの?」
とヒナ。
「ちゃんと見ると感じるわ」
「なんか、急に真面目」
「こういう時は真面目よ」
「普段もそうでいてよ」
「普段はあなたがうるさいから、喋る隙がないの」
「うわ、刺さる」
ヒナは低く飛び、羽ばたきを抑えながら進む。
「やだ。音、吸われる」
「昨日より?」
とミズハ。
「昨日より。今日は“静かだな”じゃなくて、“静かにされてる”って感じ」
「最悪ね」
「ほんと、最悪」
その先、胞子層寄りへ入ったところで、三人とも自然に声を落とした。
生き物の形が、戻りきっていない。
壁際で白く丸まった何か。
元は小型種だったのかもしれない。
眠っているようにも見えるし、侵されて固まりかけているようにも見える。
見分けがつかない。
ヒナが小さく言う。
「起きてる?」
「起こしたくないわね」
とミズハ。
「起きてこっち見たら、もっと嫌だわ」
「同意」
イトが急に止まった。
壁の裂け目の向こうを見て、前脚で小さく叩く。
「いーた」
「何が」
とヒナが先を見て、羽が少しだけ止まる。
「ネム」
「名前まで覚えてるのね」
とミズハ。
「昨日聞いたもん!」
三人は崩れた石の陰へ寄った。
ヒナが羽を体に押しつけ、ミズハが水気を引いて気配を絞る。
イトは壁の裂け目に張りつき、六つの目だけを向こうに向けた。
そこにいたのは、昨日見たネムだった。
今日は昨日より近い。
近いが、まだ飛び込む距離ではない。
細い。
白い。
頭から肩へ、胞子みたいなものをまとっている。
でも、ただの化け物みたいには見えない。
立ち方が、人のそれに近い。
周囲には、減った連中がいた。
灰鼻。
肩口の裂けたコボルト。
群れの雑用をしていた痩せた小型種。
みんな妙に静かで、焚き火も鍋もないのに、そこに座っている。
だが今日は、昨日と違うものも見えた。
減った連中のさらに奥。
白いぬめりの薄い帯が、もっと深い方へ続いている。
道ではない。
道みたいに使われているだけだ。
その帯の先で、白が脈打った。
一度。
二度。
呼吸みたいに。
ヒナの羽が固まる。
「……やだ」
「見えたわね」
とミズハ。
「見えた」
「何あれ」
「本命の気配」
ネムが、そこにいる減った連中の方を少しだけ見た。
それから昨日と同じやわらかい声で言った。
「また来た」
ヒナは思わず返す。
「来たよ」
「今日は、昨日の続き」
とミズハ。
「あなたがどこまで流してるのか、見に来たの」
ネムは怒らなかった。
笑いもしない。
ただ、首を少しだけ傾けた。
「ここ、あったかいよ」
「昨日も聞いた」
とヒナ。
「今日は、その先を聞きに来たの」
「その先?」
「女王のところまで、流してるのかってこと」
「……」
その沈黙の間に、灰鼻の指が少しだけ動いた。
ヒナは見逃さない。
「今、動いた」
「見たわ」
とミズハ。
「こっちを、思い出しかけてるわ」
ネムが静かに言う。
「つかれた子は、ここでやわらかくなる」
「やわらかく?」
とヒナ。
「もう、がんばらなくていいように」
「最悪ね」
とミズハ。
「その後は」
「……下」
「やっぱり」
ヒナの顔から、笑いが消える。
「女王のところ?」
「女王様は、もっとやさしいです」
その言った直後だった。
白いぬめりの帯の先で、脈がひとつ、大きく打った。
ひく、と小さな音がした気がした。
本当に音がしたのか、引かれる感じが音みたいに聞こえただけなのかは分からない。
だが、灰鼻の身体が、ほんの少しだけ奥へずれた。
ヒナの羽が止まる。
「……やだ」
「見たわ」
とミズハ。
「下が引いてる」
肩裂けコボルトの方も、遅れて肩を揺らした。
自分の足で動いたようには見えない。
床の白に、身体の向きだけを変えられたみたいだった。
ネムの肩が、びくりと震える。
「……もう、来る」
ヒナが目を丸くする。
「来る?」
ネムは灰鼻ではなく、その奥の白を見たまま言った。
「下が、取る」
その言い方は、見慣れている者が、ただ事実を言っただけの声だった。
ミズハが低く言う。
「ヒナ、あれ」
「やだ、なにあれ!」
「イト、止めて」
「いーと」
イトが壁から壁へ糸を渡す。
ヒナが灰鼻に飛びつく。
ミズハが足元の白いぬめりへ水を走らせる。
ネムは、それを見ていた。
ただ、下の方を見て、少しだけ怯えた顔をしていた。
白い帯が、また脈打つ。
今度は、はっきり嫌な感じがした。
奥の方で、何か大きいものが気づいたみたいな圧だった。
灰鼻の身体が奥へ引かれる。
ヒナが逆に引く。
腕に返ってくる重さが、妙に薄かった。
痩せているだけじゃない。
自分で踏ん張る力が、ほとんど残っていない。
持ち上げても、生き物を抱えた感じがしない。
「やだ、これ……力入ってない!」
「文句言わない! 持って!」
とミズハ。
コボルトの方は、完全には白から剥がれなかった。
脚はこっちへ出た。
だが上半身だけが、まだ奥へ引かれているみたいに残っている。
ミズハが一歩前に出る。
水が、足元で薄く広がる。
「まだこっちを見てるわ」
「肩口の裂けたコボルト?」
「ええ。鍋を覚えてる顔してる」
「そんな顔ある?」
「あるのよ。親父が言ってるでしょう」
白い帯が三度目に脈打つ。
今度はもっと近い。
もっと露骨だ。
下の方から、まとめて引こうとしているみたいな圧だった。
ヒナが叫ぶ。
「姐さん!」
「分かってる!」
ミズハは迷わず言った。
「灰鼻は持つ。コボルトは呼ぶ」
「呼ぶ?」
「ヒナ!」
ヒナが肩裂けコボルトへ向かって怒鳴る。
「親父!鍋!」
肩裂けコボルトの目が、ほんの少しだけこっちを向いた。
ヒナがもう一度叫ぶ。
「帰るなら今!親父が待ってる!」
肩裂けコボルトの脚が、一歩だけこちらへ出た。
ミズハの目が細くなる。
「親父と鍋に反応した」
イトが糸を引く。
ヒナが灰鼻を抱え直す。
ミズハがコボルトの腕を掴み、そのまま自分の方へ引いた。
ミズハが低く言う。
「ヒナ、引き上げるわよ」
「分かった!」
「イト!」
「かーえる」
今日は見るだけで終わらなかった。
灰鼻と、肩裂けコボルト。
完全に助けたとはまだ言えない。
でも、下へ渡される直前の二匹を、白から剥がして引いた。
背を向ける方が怖い場所だった。
だが今日はもう、見た。
寄せ場の先があることも、
下が本当に引いていることも。
そして今は、抱えて帰る方が先だった。
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帰り道、ミズハが肩裂けコボルトを少し休ませたあと、やさしく訊ねた。
「あなたはどうする。本家に行く?」
すると、頷いて自分で歩き出した。ミズハたちも歩き出すと、その後ろをついてきた。
白い帯から完全には剥がれていなかったはずのコボルトが、ふらふらしながら、こっちの足音を追っている。
ヒナが振り返る。
「ついてきた」
「ええ」
とミズハ。
「来てる」
「……自分の意志で歩くなら、見守りましょう」
コボルトの目はまだ薄い。
でも、さっき叫んだ“親父“や“鍋”の言葉を、まだ追っているみたいだった。
鍋の匂いか、親父の声か、その両方か。
とにかく、完全には切れていない。
イトが小さく言う。
「ふーたり」
「そうね」
とミズハ。
「今日は二人帰るわよ」
ヒナは灰鼻を抱え直した。
「こっちは力入ってないし、あっちは半分ぼんやりだし、でも帰る」
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本家へ戻ると、門前の鍋はまだ湯気を出していた。
ベロが列をさばき、
ナナが睨み、
ニコが板を足し、
まめじいが帳面を開き、
親父は右奥の隔ての外にいる。
変わらない。
……と思ったのは、一瞬だった。
「帰ってきた!」
とベロ。
「灰鼻と、コボルトか!」
門前が一気に動く。
ナナが前へ出る。
ニコが板を持ち替える。
まめじいが帳面を閉じる。
親父はもう走っていた。
「親父」
とヒナ。
「大丈夫か」
「うん!」
灰鼻はぐったりしている。
コボルトの方は立っているが、立っているだけだ。
目はまだ薄い。
でも、鍋の匂いだけは追っている。
牧人が一瞬だけネムの方角を見る。
見て、それからすぐ灰鼻へ戻る。
「……助けたのか」
「なんとかね」
とミズハ。
「で」
とベロ。
「向こうは?」
「寄せ場の先があった」
「先?」
「もっと下」
とヒナ。
「白い帯の先で、脈打ってた」
「ネムとかいうものは、どうでしたか」
とまめじい。
「浅いところの案内役で間違いなさそうよ」
とミズハ。
「自分で全部やってるんじゃない。下に渡してる」
「断定できますか」
「まだ早いわ」
「そうですか」
とまめじい。
門前が、そこで少しだけ静かになる。
その静けさを壊したのは、門前の端にいた小型種だった。
さっきまで様子を見ていただけのやつが、
灰鼻を見て、
コボルトを見て、
ふら、と列に一歩混ざった。
ベロの顔が引きつる。
「……おい」
「何」
とヒナ。
「これ、一匹戻ると後ろが寄ってくるやつだ」
「習性かな」
「習性じゃねえよ!」
もう一匹、来た。
今度は、左耳の欠けた細いのだ。
鍋の匂いと、戻ってきた二匹の顔を見て、立ち止まる。
立ち止まって、それでも帰らない。
ナナが短く言う。
「寝床、足りない」
「確かにな」
と牧人。
「もっと足りなくなるわよ」
とミズハ。
ニコが板を増やした。
右奥 隔離中
左 寝床待ち
白いの薄い こっち
勝手に混ざるな
藁足りない
ベロが顔をしかめる。
「最後、書くのか?」
「足りないから」
とニコ。
「見れば分かる」
イシコが壁を一つ動かした。
旧保全路寄りの空き部屋が、また半分広がる。
ぷるは床を磨きながら、露骨に不機嫌そうに鳴いた。
白いのを持ち込まれるのが嫌らしい。
ヒナがへたりこむ。
「疲れた」
「珍しいな」
とベロ。
「今回は、嫌なことが多くて疲れた」
「お疲れ様」
牧人は、灰鼻の前にしゃがんでいた。
「食うか」
「……」
「寝るか」
「……」
「どっちだ」
「生気のない顔ね」
とミズハ。
「でも匂いは追ってる」
「腹減ってるか」
と牧人。
そこで、まめじいが深く息を吐いた。
「親父殿」
「何だ」
「本日は、さらに忙しくなりますぞ」
「そうだな」
「寝床、隔離、飯、仕分け」
「増やすか」
「そう言うと思いました」
「足りないなら増やすしかないな」
「出たよ」
とヒナ。
「もう迷わないとこ、そこだけだよね」
「親父らしいわ」
とミズハ。
門前の端では、また次の影が様子を見ていた。
戻れた二匹を見て、
鍋の匂いを見て、
立ち去らない。
助けた先に、寝床が足りない。
足りないから切る、ではなく、
足りないから増やす、と言ってしまう。
それが本家の親父だった。
そして湿った深い方では、
ネムがたぶん、
減った数と、戻った数の両方を見ている。
そのさらに奥で、
まだ見えない女王もまた、
本家を見返し始めていた。




