親父は、かわいそうに弱い
コボルトは、右奥の空き部屋へ運ばれた。
門前のままだと列が死ぬ。
かといって食堂の近くへ置くわけにもいかない。
そこでイシコが旧保全路寄りの空き部屋をひとつ切り、ナナが導線を分け、ぷるが床を磨き、ニコが板を立てた。
右奥 隔離中
覗くな
入るな
ヒナが板を読んで笑う。
「やだ、対応が早い」
「緊急ですからな」
とまめじい。
「ちゃんとせんと混乱します」
ニコはもう一枚立てた。
右へ寄るな
寄ったやつ運ぶ
「これはなんだ?」
とベロ。
「どこに運ばれるんだよ」
「手伝わせる」
とニコ。
「人手が足りない」
「人手不足だなあ」
とヒナ。
コボルトは縄の内側、古い木台の上に寝かされた。
耳の裏の白いものは、近くで見るとますます嫌な感じがした。
傘みたいに覗いている。
小さい。
小さいのに、いかにも広がりそうで嫌だった。
牧人は縄の外から見ていた。
近いが、触ってはいない。
そこだけは守っていた。
「親父殿」
とまめじい。
「あまり近づいてはいけません」
「見えないと困る」
「見ても今は手を出せません」
「分かってる」
「半分しか分かっておらん顔ですな」
「半分は分かってるなら十分だろ」
「十分なら、もう一歩下がっております」
ヒナがすぐ乗る。
「そこがあまいんだよ」
「あまいか?」
「あまいよ」
今度はヒナも笑っていない。
「家を守るより先に、目の前のかわいそうを中へ入れようとするの、あまい」
「それは」
「親父らしいけど、あまい」
ベロが腕を組む。
「親分、それ中へ入れたら、飯食うとこまで菌が来るかもしれねえぞ」
ザガも続ける。
「門前で切るのは後味悪い。だが、家の中へ入れるのはもっとよくない」
牧人はコボルトを見たままだった。
「門前で死なせるのは嫌だ」
「嫌、で済む話ではありませんな」
とまめじい。
「済ませない。だから隔てた」
「そこです」
まめじいははっきり言った。
「親父殿のあまさは、斬れぬことではありません」
「違うのか」
「ええ。目の前に戻ってきたやつがおると、"まだ捨てなくていい理由"を先に探してしまう。そこがあまい」
「……」
「長としては危うい。だが、その危うさでここまで大きくなったのが本家です」
ミズハが笑う。
「ほんとにその通りね」
「褒めてるのか?」
と牧人。
「褒めてないわよ」
「こんな親分は嫌いか」
「嫌ってたらここにいないわ」
クロの右が低く唸った。
中央はコボルトを見たまま、短く言う。
「中へ入れるなら、次を決めろ」
「次?」
「助けるか、処分するか」
「まだ処分はしない」
右が唸る。
「早い」
「早くない。まだ生きてる」
左が珍しく起きたまま、小さく言った。
「親父、助けを求めてきたやつにあまい」
「……そうかもな」
「拾う。いつも拾う。でも、拾えねえ時がある」
「ある」
「先に捨てるのは違う。でも、だから厄介だ」
牧人は少しだけ笑った。
「悪いな」
「悪いと思ってる顔じゃねえ」
中央が短く言う。
「困ってる顔だ」
「同じだ」
ヒナが吹く。
「やだ、同じなんだ」
「親父らしいわ」
とミズハ。
コボルトが、木台の上で浅く息を吸った。
牧人が反射で一歩出る。
ミズハが袖を引いた。
「だめよ」
「見ないと」
「見えてるでしょ」
「近くで」
「近くで見たいのは分かるわ。でも今はだめ」
コボルトの口が動く。
「……あったかい」
牧人が思わず返す。
「大丈夫か」
「親父殿」
まめじいが牧人を制す。
「あとは任せて下さい」
牧人は口を閉じた。
閉じたが、諦めた顔ではない。
順番を飲み込んだ顔だった。
コボルトの目が少しだけ動く。
「……むこうも、あったかい」
「どこだ」
「……しろいの」
「白いの?」
と牧人。
「……つれてく」
空気が、そこで少しだけ変わった。
ヒナが翼を止める。
「やだ」
「何だ」
と牧人。
「今、“つれてく”って」
「案内役がいるってことですな」
とまめじい。
牧人はコボルトを見たまま聞く。
「自分で行ったのか」
「……」
「それとも、連れていかれたのか」
コボルトの喉が、小さく動く。
「……ついてった」
「どこへ」
「……した」
「下?」
ベロが眉を寄せる。
「深い方か」
「そのようですな」
コボルトの口がもう一度だけ動く。
「……らく」
「楽?」
と牧人。
「……いたくない」
「何がだ」
「……しろいの、いう」
「何て」
「……もう、がんばらなくていい」
空気がそこで冷えた。
ミズハの笑みが薄くなる。
「嫌な感じね」
「何だ」
と牧人。
「それ、助けてるように感じないわ。弱ったやつ集めてなにかしてるようだわ」
まめじいが静かに言う。
「親父殿。こやつは今、“戻ってきた者”ではあります。ですが同時に、“向こうのやり方”を持ち帰ってきた者でもある」
「……」
「助けるかどうか、よく見極めねばなりません」
牧人は、そこでようやく頷いた。
「じゃあ助ける」
「即答ですな」
「助けるのは決めた。そのうえで、何をしているのか見ないと駄目だ」
「それでようやく、親分の言い方ですな」
まめじいは帳面を閉じた。
「では、二本で動きます」
「二本?」
「こやつは右奥で隔離する。外は、東寄りの旧路から湿ったところまで、消えたやつらの行き先を拾います」
「じゃあヒナとイトか」
「それにザガ殿をつけます」
「俺?」
とザガ。
「今回は要るでしょ」
とヒナ。
「空と穴だけで湿ったとこ行くの、やだし」
「分かったよ。そういう時は、俺の出番だな」
ベロがすぐ言う。
「じゃあ俺も」
「お前は門前」
とナナ。
「何でだよ」
「列が増える」
「くそ、しょうがねえな」
「親父の面倒の後始末は、門前が一番忙しいんだよ」
とヒナ。
ニコが新しい板を書いた。
右奥 隔離中
門前 騒ぐな
ベロ 手伝い
「三枚目なんだよ」
とベロ。
「一応、逃げられると困る」
とニコ。
「逃げねえよ!」
「ちょっと、付いて来たそうだったもんな」
とザガ。
ぷるが床を磨きながら、ぷる、と鳴いた。
イシコは部屋の石戸を半分だけ落とし、隔ての線を固定する。
本家がこういう時に速いのは、もう慣れているからではない。
親父がこういう面倒を拾ってくると、みんな知っているからだ。
ヒナが翼を広げる。
「じゃ、見てくる」
「気をつけろ」
と牧人。
「分かってる。親父も気をつけて」
「何を?」
「弱い者にあまいとこ」
イトが壁へ走る。
「いーと、みる」
「見ろ。でも近づきすぎるな」
「みる」
「だから近づきすぎるなよ」
「みる」
「会話になってねえ」
とザガ。
「でもまあ、いつものことだな」
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三匹は東寄りの旧路へ出た。
湿りが混じる手前までは、いつも通りだった。
崩れた石。
細い抜け道。
はぐれが身を寄せるくぼみ。
赤牙がいた頃に比べれば、ずいぶん静かだ。
だが、静かすぎた。
ヒナが上から言う。
「やだ」
「何だよ」
とザガ。
「道は前のままなのに、人だけ減ってる」
「昨日も言ってたな」
「今日はもっとやだ。戻る匂いが少ない」
イトは壁の小穴から小穴へ移る。
止まる。
前脚で床を叩く。
「しろい」
「またか」
とザガ。
道の端に、白い粉みたいなものが薄くついていた。
でも粉ではない。
湿りを吸って、ぬめりかけている。
ヒナがふいに低くなる。
「上、見て」
「何だ」
ザガが見上げる。
天井近くの裂け目に、細い糸みたいな白が渡っていた。
蜘蛛の糸ほどはっきりしていない。
苔ほど自然でもない。
何かが、静かに繋いだみたいだった。
「最悪だな」
「やだ」
「お前、今日はやだしか言わねえな」
「だってやだもん」
その先、湿りの匂いが少し強くなったところで、ヒナが急に翼を止めた。
「いた」
「何が」
「灰鼻」
ザガが身を低くする。
岩陰の向こう。
鼻先が灰色の、あの細いゴブリンがいた。
生きている。
争った跡はない。
血もない。
ただ、座っていた。
ひとりではない。
その向こう、湿りの奥に、いくつか小さい影が見える。
はぐれ。
傷物。
下働き崩れ。
みんな妙に静かだった。
焚き火もない。
鍋もない。
なのに、そこで落ち着いているみたいに見える。
ザガが眉を寄せる。
「何だあれ」
「家っぽく見える」
とヒナ。
「でも違う」
「見りゃ分かる」
焚き火はない。
鍋もない。
寝床らしい寝床もない。
なのに、弱った連中だけが妙に静かにそこへ寄っている。
ザガが低く言う。
「ここ、留まる場所じゃねえ」
「え?」
とヒナ。
「溜めてるんだよ。浅いとこで弱ったやつら、一回ここへ集めてる」
「その先があるってこと?」
「あるな」
その時だった。
奥の影のひとつが、少しだけ動いた。
人型。
細い。
頭から肩にかけて、薄い胞子みたいな白をまとっている。
顔はよく見えない。
でも、声だけは聞こえた。
「だいじょうぶ」
やわらかい声だった。
近いのに遠い。
湿っているのに、妙にやさしい。
「ここは、あったかいから」
灰鼻が、その声の方へ少しだけ顔を向ける。
逃げない。
立たない。
ただ、そこにいる。
ヒナの羽が止まる。
イトが、壁に張りついたまま動かない。
ザガは、剣に手をかけたが抜かなかった。
白い人型は、そこにいる弱った連中のさらに奥を、ほんの少しだけ見た。
その視線の先は、こっちではない。
もっと深い方だ。
ザガが目を細める。
「こいつが案内役か」
「うそ」
とヒナ。
「運んでるんだよ。弱ったやつを、もっと下へ」
「下って」
「深層の本命がいる」
ヒナが小さく言う。
「やだ」
「やだで済む話じゃねえな」
とザガ。
「間違いねえ、こいつが例の案内役だ」
白い人型が、今度ははっきりこちらを見た。
「あなたたちも、つかれてるでしょう」
イトが壁に張りついたまま固まる。
ザガは身を低くした。
ヒナだけが目を丸くする。
「そういう言い方するんだ」
「つかれてるなら、下までいかなくていいよ」
「下まで?」
とヒナ。
白い人型は首を傾ける。
「ここで、やわらかくなれるから」
「最悪だな」
とザガ。
ヒナは珍しく笑っていなかった。
「帰る場所があるから、いらない」
「ここも、あるよ」
「ここは、うちじゃない」
「ちがうの?」
白い人型は、その言葉をしばらく考えるみたいに黙った。
それから、静かに言った。
「ネム」
名乗ったのは、自分の名前だった。
ヒナが少しだけ目を丸くする。
「やだ。名前あるんだ」
「でも、ここの主じゃねえな」
とザガ。
「使われてる」
「使われてる?」
「弱ったのを、下へ流すために」
ネムは怒らない。
笑いもしない。
ただ、そこにいる減った連中の方を少しだけ見る。
「女王様は、やさしいです」
「出たよ」
とヒナ。
「やだ、その言い方」
「ここまで来ると、いたくなくなるから」
「最悪」
とザガ。
「こいつらから、助ける必要があるな」
ザガが判断した。
「だが、今日はここまでだ」
「助けなくていいの?」
とヒナ。
「今は駄目だ。この子が寄せて、その下で何が待ってるかまで見えた」
「……うん」
「今日は、“誰が案内して、どこへ流してるか”を持って帰る日だ」
ヒナは一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。
「分かった。今日は持って帰る」
「見た感じ。あれ、ただの巣じゃない」
「分かってる」
奥の人型は、もうこちらを見ていた。
距離はある。
見えているだけの距離だ。
なのに、見られている感じは近かった。
イトが小さく言う。
「やさしー」
「え?」
とヒナ。
「しーろい、やさしー」
「……それが一番やなんだよね」
ザガはそれ以上粘らなかった。
今は帰る方が先だった。
---
本家へ戻った時、門前の鍋はまだ湯気を出していた。
ベロが列をさばき、ナナが睨み、ニコが板を増やし、まめじいが帳面を書いている。
親父は隔ての外にいる。
部屋の中のコボルトを見ながら、鍋の匂いも気にしていた。
ヒナは降りるなり言った。
「親父」
「どうだった」
「最悪」
「なにか分かったか」
「湿ったとこの手前に、いる」
「誰が」
「減ったやつら」
ザガが続ける。
「争った跡なし。血なし。座ってる。落ち着いてるみたいに見える」
「捕まってるのか」
「違う」
「じゃあ」
「寄せられてる」
まめじいの目が細くなる。
「巣ではない?」
「巣というより」
とヒナ。
「浅いところの寄せ場」
「寄せ場?」
と牧人。
「弱ったやつを、一回そこへ集めてる」
「その先がある」
とザガ。
「もっと深い方だ」
門前が静かになる。
ヒナが息を吐いた。
「白い女の子っぽいやつがいた」
「っぽい?」
「細くて、白いのまとってて、声がやさしいやつ」
「人間か」
「たぶん違うけど、分かんない。でも名前はあった」
「名前?」
「ネム」
「ネム、ですか」
とまめじい。
ザガが続ける。
「ただし、あいつが主じゃねえ」
「違うのか」
「違う。あいつは、弱った連中を浅いところで止めて、もっと深い方へ流す案内役だ」
「……深い方」
「女王様って言った」
とヒナ。
「“女王様はやさしいです”って」
「出ましたな」
とまめじい。
「本命が」
隔ての内側で、コボルトが浅く息をした。
右奥の板が少し揺れた。
鍋の湯気はまだ上がっている。
本家の外には、
弱った者を寄せて、
楽にして、
最後は下へ流す線がある。
ザガが低く言う。
「親分の“あったかい”とは別物だ」
「どう違う」
と牧人。
「向こうは、楽にして終わりだ。こっちは、生かして共存」
「……」
「だから、見逃すわけにはいかねえ」
とザガ。
牧人は、右奥の隔てを見る。
それから湿った方角を見る。
「自分でいたいのと、流されてるのは違う」
「……そう言うと思った」
まめじいが静かに言う。
「親父殿」
「何だ」
「今見えている限りでは、あれは弱った者を助けておるのではなさそうです」
「……」
「浅いところへ寄せて、さらに深い方へ流しておるように見えますな」
「断定できるのか」
「まだできません。ですが、助ける側の動きではありません」
ヒナが小さく笑う。
「やだ、敵としては分かりやすくなった」
「分かりやすくて最悪だ」
とザガ。
牧人はしばらく黙って、それから言った。
「じゃあ、助ける理由は足りたな」
「そこなんだよ」
とベロ。
「親分、ほんとそこから動かねえな」
「動かないわねえ」
とミズハ。
ヒナが屋根へ跳んだ。
「じゃあ明日、もっと近くまで見る?」
「みーる」
とイト。
「親父は?」
「行かせません」
とまめじい。
「絶対に」
「即答だな」
とベロ。
「当然です。余計にややこしくなります」
「確かに、そうだ」
ヒナが笑った。みんなにも少し笑いが戻った。
だが、戻った笑いの奥で、全員が同じものを見ていた。
湿った深い方。
減ったやつら。
やさしい声。
何もしなくていいみたいに見える場所。
そして、それを前にして、親父が気にするのは、
奪い返せるかどうかではなく、
そこで本当に苦しくないのか、
帰りたいのに帰れないやつが混じっていないのか、だった。
厄介で、危なくて、甘い。
だが、その甘さでしか届かない場所が、
たぶん、もう目の前にあった。




