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イト、穴から相手の台所を抜く


朝、本家の食堂で、ヒナは机に突っ伏した。


「イト、もう一回」


梁の上で、イトが前脚を上げる。


「ひーな」


「そう!」


ヒナはすぐ、下で床を拭いているぷるを指さした。


「ぷる!」


イトは少し考えた。


「ぷーゆ」


ヒナが飛び上がる。


「言えた!」


ヒナは嬉しくなりすぎて、余計なことまで言った。


「イトすごい! ぷるよりしゃべれる!」


ぺたり。


ぷるが止まる。


食堂が一瞬止まる。


ベロが吹いた。


「うわっ」


ミズハが肩を揺らす。


「言っちゃった」


ぷるは、ゆっくり顔を上げた。


それから何も言わず、いつもの二倍の勢いで床を拭き始めた。


ぺた。

ぺたぺた。

ぺたぺたぺた。


「怒ってる!」


とヒナ。


「違う違う!ぷるはしゃべれなくてもすごい!床きれいにできるし!跡も消せるし!ぷるじゃないとできないこともあるし!」


ベロが笑う。


「必死にフォローしてるな」


ぷるはまだ止まらない。


その時、梁の上のイトが、ぺっ、と何かを落とした。


赤い布の切れ端。

塩で白くなった麻糸。

干し肉の繊維。


ヒナが止まる。


「……どこで拾ったの」


イトが前脚で廊下の奥を示した。


「みーた」


食堂の空気が、すっと変わった。


ヒナが立ち上がる。


「行く!」


牧人が椀を持ったまま言う。


「どこへ」


「イトが見たとこ!」


「気を付けろよ」


「大丈夫!」


---


イトが見つけたのは、寝台区画の裏だった。


正確には、寝台区画の壁裏を抜けて、空き部屋の裏へ通じる小穴だ。


ヒナは壁の外。

イトは壁の中。


「こっち?」


「こっち」


「ほんとに会話になってる」


壁の継ぎ目の向こうで、


かさ。

ぴた。

ぴん。


小さい足音と、糸を渡す音がする。


しばらくして、イトが戻ってくる。

口に咥えていたのは、


塩袋の切れ端と、

脂の染みた布と、

赤牙の赤布だった。


「当たり」


ヒナがにやっと笑う。


「穴の向こう、ちゃんと使ってる」


イトはまた消える。

今度は少し長い。


戻ってきた時には、糸が一本、するすると壁穴から伸びてきた。


それは、空き部屋の裏から物置の陰へ。

そこからさらに、捨て場みたいに見えるガラクタの奥へ続いている。


「……倉だ」


ヒナは目を細めた。


「捨て場に見せた倉」


イトが前脚をちょいと下へ向ける。


「にーく」


「そう。肉」


「しーお」


「塩も」


ヒナは笑った。


「やだ、すごい。あんた、ほんとにスパイみたい」


昼前、食堂の机の上に、昨日より複雑な地図ができた。


根菜二本。

藁紐三本。

塩皿二つ。

赤布の切れ端。

干し肉の繊維。

小穴の位置。

壁裏の抜け道。

捨て場に見せた備蓄場所。


「分かった!」


ヒナが机を叩く。


「赤牙、流してるだけじゃない!小穴で抜いて、壁裏に隠して、捨て場みたいに見せた倉に溜めてる!」


ザガが腕を組む。


「細けえな」


ベロが前のめりになる。


「上から見えた流れが、下で全部繋がったわけか」


「そう!」


ヒナが胸を張る。


「上は私! 下はイト!」


梁の上から、ちょうどよく声がする。


「みーた」


「そう! 見た!」


ミズハが指で顎を触りながら言う。


「空はヒナ。穴はイト」


まめじいの筆が止まらない。


「親父殿」


牧人は机を見る。

かなり大雑把だ。

だが分かる。


「分かった」


と牧人。


「見せる路と、本当に通す路と、隠し倉が全部出たのか」


「出た!」


とヒナ。


「えらい!」


「えへへ」


ヒナがちょっと照れる。


牧人はそこで立ち上がった。


「じゃ俺、畑戻るから」


ベロが笑う。


「まずは畑かよ」


「重要だろ」


「はいはい」


ヒナが翼を振る。


牧人はまめじいを一度だけ見た。


「喧嘩はするな。あと、下の食い扶持まで全部取るな」


「承知しておりますぞ」


まめじいは頭を下げた。


---


牧人が食堂を出る。

クロは門前へ戻る。

イシコも踏み板を見に外へ出る。


まめじいが顔を上げた。


「では」


ヒナがすぐ言う。


「それ絶対なんかやる顔!」


「当然ですな。なにかはやります」


ベロが笑う。


「開き直ったな」


まめじいは帳面を閉じた。


「昨日の時点で、ドルグ殿とゴルム殿には外側の路を押さえていただいております。本日は、親玉の隠し倉を抜きます」


ヒナの目が光る。


「奪うの?」


「奪います」


「全部?」


「全部は取りません」


ベロが眉を上げる。


「取れるんだろ?」


「取れます」


「じゃあ何で残す」


まめじいは淡々と言った。


「親父殿が怒るからです」


それだけだった。


ヒナが頷く。


「だよね。親父、“全部奪う”の嫌うもん」


「はい」


まめじいは机の地図を指した。


「赤牙の親玉が溜め込んでいる肉と塩は抜く。だが、下働きや小型種が抜ける細穴は残す。親玉の台所だけを空にする。下の逃げ道だけは消さぬ」


ミズハが笑う。


「うちのやり方ね」


ヒナはすぐ乗る。


「じゃあ、ここの倉は抜く! でも、この小穴の先は残す! ここから逃げてきた小さいのは、本家に流れていい!」


「そうですな」


とまめじい。


「イト」


梁の上から顔が出る。


「ひーな」


「こっちは、まめじい」


「まーめ」


ベロが吹いた。


「まめまでは言えるのかよ!」


まめじいは少しだけ嬉しそうだった。


「イト殿、この穴。倉へ繋がる方と、逃げ穴の方、もう一度」


イトはそれを見て、糸を二本落とした。


一本目が、捨て場に見せた倉の方へ垂れる。


「にーく。しーお」


ヒナが頷く。


「そう! そっちは赤牙の親玉が肉と塩を溜めてる倉! 抜く!」


二本目が、寝台区画の壁裏を抜ける細い穴の方へ垂れる。


イトは前脚を小さく丸めて、ちょいちょいと振った。


「ちっち」


ベロが首をかしげる。


「ちっち?」


ヒナが通訳する。


「小さいやつが通る穴、ってこと!」


「分かるのかよ」


「分かる!」


ヒナは机を叩いた。


「もっかい確認! こっちは抜く! こっちは残す! 親玉の倉は空にする! でも下働きが逃げる細い穴は残す!」


ぷるがそこで、ぺたりと机の脚を叩いた。


ヒナが振り向く。


「ぷる!」


ぷるはじっと見ている。


「……そうだ! ぷるは、抜いた倉の前の跡を消す! 荷を動かした跡、足跡、匂いの線!」


ぷるは少しだけ機嫌を直したらしく、

ぺたりと一回だけ跳ねた。


ミズハが笑う。


「役がもらえたから、やる気になったわね」


ヒナが胸を張る。


「上は私! 下はイト! 床はぷる!」


ベロが鼻を鳴らす。


「役割ができたな」


---


実際に、そこからの動きは早かった。


ドルグは南根道側の外れで、赤牙の見せる路をわざと騒がせた。

大声。

重い足音。

わざと見える位置を横切る影。


「そっちだ!」


「本線だ!」


赤牙の若い牙がそちらへ寄る。


その間に、ゴルムは旧保全路側から無言で入った。


捨て場に見せた倉の裏。

壁裏へ通じる細い継ぎ目。

そこを、イトの糸がまっすぐ示している。


まめじいが小さく言う。


「そこですな」


ゴルムは短く頷いた。


石がずれる。

板が外れる。

奥から、袋が二つ、三つ、四つ。


肉。塩。獣脂。


「当たり」


とベロ。


「やっぱり親玉、溜め込んでたな」


ヒナは上から見ていた。


「そっちは全部!」


「はいはい」


とまめじい。


「太い方だけですぞ」


その横に、もう一本の細穴がある。

小さいのが一匹で抜けるのがやっとの穴。


そこへまめじいは目を向けただけで、何もしない。


ヒナが確認する。


「そっちは残すんだよね」


「もちろん」


ぷるが、その足元をぺたりと通った。

荷を引いた跡を消す。

匂いの線を切る。

散った塩を舐めて、床をきれいにする。


ベロが笑う。


「ぷる、仕事してるなあ」


ぺたり。


ちょっと得意そうだった。


ゴルムが短く言う。


「もう一つ」


イトの糸が、さらに奥の壁裏へ伸びる。

そちらにも小さい備蓄がある。


肉袋を抜く。

塩袋を抜く。

だが、抜け穴は潰さない。


それで十分だった。


「あいつら、単純だから簡単だったな」


ゴルムが笑いながら言う。


喧嘩はしていない。

だが、親玉の倉は、きれいに空になった。


---


夕方には、結果が出た。


南外輪の捨て場に見せた倉は、空になった。

壁裏を回していた塩袋も消えた。

だが、寝台区画の裏を抜ける細穴だけは、そのまま残った。


赤牙の中で、すぐに揉め事が起きた。


風の中に、怒鳴り声の断片が混じる。

隠し倉を抜かれた赤牙の中で、取り分をめぐる声が上まで響いてきていた。


ヒナは屋根の上から、それを見ていた。


「見張り長の分を先に出せ!」


「若牙の分が先だ!」


「下のやつは後だ!」


赤牙の上の方が、残った分を自分たちで押さえ始める。


本線はもう細い。

隠し倉は抜かれた。

だから、下へ回る分が一気に薄くなる。


ヒナは小さく笑った。


「来るね」


その予想どおり、本家の門前に、赤い布を腕に巻いた小型種が一匹、ふらふら現れた。


背負い籠は空。

腹が減っている。

武器はない。


門前で止まる。

クロの右が鼻を鳴らす。

中央は黙って見る。

左は寝ている。


小型種は、その場で膝をついた。


「……飯を」


ヒナが小さく言う。


「ひとり、来た」


ちょうど牧人が畑から戻ってきていた。


土のついた手で、相手を見る。


「赤牙か」


門前で、ナナが確認した。


「下働きです」


「武器は」


「ないです」


「追われてるのか」


そして、牧人が聞いた。


「たぶん」


「腹減ってるか」


「減ってます」


牧人は平然と言う。


「じゃあ飯だ」


ヒナが笑う。


「親父、ほんとそこぶれない」


ミズハが椀を持ってくる。


「はい。薄いけど温かいわよ」


小型種は椀を受け取って、少し震えた。


ベロが横から言う。


「赤牙なら、下のやつは切るだろ」


まめじいが静かに答える。


「赤牙ではそうでしょうな。本家ではそうしません」


小型種が顔を上げた。


「……追い返さないのか」


牧人は眉をひそめる。


「何でだ。腹減ってんだろ」


それだけだった。


---


一匹で終わらなかった。


夜には、もう一匹。

今度は解体場の下働き。

その次は、見張りから外された小さい獣系。


どれも、正面から大きく転ぶわけじゃない。

でも流れは変わり始めていた。


親玉の倉は抜かれる。

細い逃げ道は残る。

本家は、弱ったやつには飯を出す。

寝床も、空いていれば流す。

即座に追い返さない。


その噂は、早かった。


「あそこへ行けば食いっぱぐれない」


その一言が、赤牙の下で広がり始める。


---


夜、屋根の上で、ヒナは風の向きを見ていた。


昨日まで赤牙へ流れていた細い線が、

今日は少しずつ本家へ曲がっている。


ヒナは笑った。


「ほんとにこっちに来てる」


その横で、イトが小さく言う。


「ひーな」


「なにー?」


「みーた」


「うん、見たね」


下では、ぷるが床を拭いていた。

今日はちょっとだけ機嫌がいい。

痕跡を消すたびに、得意そうにぺたりと跳ねる。


ヒナが見下ろして笑う。


「ぷるもすごいよー」


ぷるが一回だけ、ぺたりと大きく跳ねた。

たぶん、もう許した。


イトは少し考えてから、ぷるの方を見た。


「ぷーる」


ぷるが止まる。


食堂の下から、ベロの声が響く。


「おっ! ちゃんと言えた!」


ヒナが屋根の上で大笑いした。


「引き分けだね!」


その笑いの下で、赤牙を切る線は、もう動き始めていた。


上はヒナ。

下はイト。

床はぷる。


広く見て、細く拾って、跡を消す。


本家の偵察網は、そこでようやく一つに噛み合った。


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