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ヒナ、風の中に赤牙の癖を見る


朝、本家の屋根の上は、風が気持ちよかった。


乾いている。下の騒ぎがちょうどよく小さくなる。


ヒナは屋根の端に腹ばいになって、頬杖をついていた。その横で、イトが細い糸を一本、ぴんと張っている。


「イト」


ヒナが自分を指さす。


「ヒナ」


イトがじっと見る。前脚がちょっと動く。


「ひー」


「そう、ひー」


「ひーな」


ヒナの顔がぱっと明るくなった。


「言えた!」


下で藁束を運んでいた若い衆が、何事かと見上げる。


ヒナはもう一回、自分を指さした。


「ヒナ」


「ひーな」


「よしよし、えらい」


今度は、下で籠を持っていた牧人を指さす。


「親父」


イトは少し考えた。


「おー」


「うん」


「おーや」


「うんうん」


「おーやーい」


ヒナが両翼で口を押さえた。


「アハハ……惜しい」


「でもすごい」


窓からミズハが顔を出す。


「しゃべったの?」


「しゃべった!」


「かわいいじゃない」


ミズハはふっと笑った。少しやわらかい顔で。


下で牧人が見上げる。


「誰がしゃべった?」


「イトだって」


とヒナ。


「本当か?」


「でも惜しかったよ」


クロは門前で寝そべったまま、右だけが鼻を鳴らした。左は寝ている。中央は短く言う。


「成長してるな」


「してるよ」


とヒナ。


「しゃべれた」


イシコは無言だった。ただ、口元がほんの少しだけやわらいだ。


ヒナはイトの頭をつつく。


「じゃ、続きはあとで」


「今日はヒナ、仕事あるから」


イトがすぐ返す。


「ひーな」


「うん。ヒナ」


そのやり取りだけで十分だった。朝の本家が、ちょっとだけやわらかくなる程度の、小さな出来事だった。


その時、風向きが変わった。


ヒナの顔が、遊んでいた顔から、外を見る顔に変わる。


「……来た」


下から牧人が言う。


「何だ」


「赤牙の匂い」


「朝の流れじゃない」


ヒナは立ち上がる。


「見てくる!」


「飯は」


と牧人。


「帰ってから!」


「気を付けろよ」


「分かった!」


そして飛んだ。


---


ヒナは、高いところから見るのが得意だ。


高いところから見ると、隠している流れの方が浮く。


見せたいものほど、逆に目くらましに見える。


南外輪へ出る風に乗りながら、ヒナはすぐ気づいた。


赤牙は、まず“見せる荷”を動かしていた。本当に通したい荷は、その影で別に流している。


藁束が二つ。板を組んだだけの荷台が一つ。赤い布を腕に巻いた若い牙が三匹。わざと大きい声を出して、表の通路を横切る。


「はいはい」


ヒナは屋根の上に爪をかけた。


「あんたたち、見せる方ね」


本物は別だ。


解体場の裏。壁際の細い影。誰も通らないように見える低い路。そこを、小さい運び手が無言で流れていく。


背中の荷は小さい。でも歩幅が重い。


「そっちだ」


ヒナは笑った。


「やだ、分かりやすい」


さらに高く上がる。


風が抜ける。匂いが広がる。


肉。塩。獣脂。泥。乾いた藁。それと、血。


赤牙は、大きい荷を本線で回していない。


表では「ここが本線だ」と見せる。


本当に回しているのは、細かく切った荷を、半端な時間に、使っていないように見える路へ流すやり方だった。


朝飯の前後には動かない。昼の切れ目にも動かない。夕方の人が多い時間にも、わざと動かない。


代わりに、「今は止まってる」と思う半端な時間に、小さい荷を何本も滑らせる。


「うわ、やな感じ」


ヒナは壁の上に腹ばいになる。


その下で、赤牙の若い牙が大声で喧嘩している。聞かせるための騒ぎだ。本物の目は別にいる。


風下。水抜きの横。使っていないように見せた細い横道。そこに、ちゃんと見張りがいる。


「見せる路」


「隠す路」


「積む時間」


「抜く時間」


「使ってないように見せる路」


ヒナの頭の中で、線が増える。


一つ。二つ。三つ。


その時、頭上を小さい影が横切った。


「えっ」


イトだった。


黒い小さい体が、屋根から屋根へ、細い糸を渡していく。風に流されそうで流されない。そして、ヒナが見ている隠し路の真上へ、ぴたりと止まった。


「なに、あんたも来たの?」


「ひーな」


「そうだけど。下見た?」


イトは下を見て、短く言う。


「みーた」


ヒナが止まる。


「……見た?」


「みーた」


イトが前脚をちょいと下へ向ける。ちょうど、壁際の陰路。赤牙が本当に使っている方だ。


ヒナは一拍、黙ってから笑った。


「やだ、あんた、ちゃんと見てるじゃん」


イトは得意そうに糸を一本、そこへ落とした。


「みーた」


「うん。じゃあ今日は、ヒナとイトで二つの目だ」


---


昼前、ヒナは本家へ戻った。


速かった。翼の先が少し汚れている。でも目が光っていた。


食堂へ飛び込み、そのまま机の上へ着地する。


「分かった!」


椀が揺れた。


「何が」


とベロ。


「赤牙の癖!」


ヒナは机の上の物を勝手に使い始める。


根菜一本。塩皿一つ。藁紐一本。ぷるは邪魔なので半歩横へ。


「これが見せる路」


根菜をどんと置く。


「で、これが本物の路」


藁紐を壁際へ這わせる。


「ここで積む」


「ここで隠す」


「で、ここを"使ってないように見せる"」


塩皿を机の端の影へ押し込む。


まめじいの筆が止まらない。


ザガが腕を組む。


「なるほどな」


ベロが前のめりになる。


「朝の騒ぎは囮か」


「そう!」


ヒナは嬉しそうに胸を張る。


「でっかい藁束とか、音立てて運んでるやつとか、あれ全部"見てください"の方!」


「本当に回してるのは、小さい荷を細かく! 半端な時間に! 使ってないみたいな路で!」


ミズハが顎に指を当てる。


「見せる線と、回す線を分けてるのね」


「うん!」


「いやらしい」


「うん!」


牧人は机を見る。根菜と塩皿と藁紐の、だいぶ雑な地図だった。でも分かる。


「つまり」


と牧人。


「相手の台所を見たのか」


ヒナが胸を張る。


「見た!」


その言い方が、少しだけ大人だった。


牧人は頷く。


「よく見たな」


ヒナが少しだけ照れた。


「えへへ」


ベロが吹く。


「照れてんじゃねえよ」


「いいでしょ!」


クロの右が鼻を鳴らす。中央だけが短く言った。


「使える」


ヒナがそっちを向く。


「若頭、それ今かなり嬉しいやつ!」


左は寝たままだった。


梁の上から糸が一本落ちる。ヒナの翼にぴたり。


「わっ」


イトだった。


「ひーな」


「なにー?」


「みーた」


今度は、藁紐の隠し路の上へ、もう一本糸を落とす。


まめじいが目を細める。


「イトも見ておりますな」


「勝手についてきてた」


とヒナ。


「でもちゃんと見てた」


イトはちょっと得意そうだった。


「みーた」


牧人はそこで頷いた。


「よし」


「癖は分かった」


それから、椀を持って立ち上がる。


「俺、畑戻る」


「まずは畑かよ」


ベロが笑う。


「親分には畑なんだな」


「早く収穫しないとな」


「はいはい」


ヒナが翼を振った。


「親父、あとはこっちで考えとく!」


「やりすぎるなよ」


「はーい」


牧人はそこで一度、まめじいを見る。


「喧嘩にするな」


「承知しておりますぞ」


まめじいは真顔だった。


だが、その真顔が一番危ない。


---


牧人が食堂を出る。イシコも、踏み板の様子を見るために一度外へ出た。クロは門前へ戻る。右は起きている。左は寝ている。中央だけが一度、まめじいを見た。


「親父は止めた」


とクロの中央が低く言った。


「はい」


とまめじい。


「ですので、喧嘩にはいたしませぬ」


ヒナが机の上で笑う。


「出た」


「そういう時のまめじい、絶対なんかやるやつ」


その時、食堂の入口が陰る。


ドルグだった。その後ろにゴルムもいる。


どちらも、来るのが自然すぎる。


ドルグが腕を組む。


「じいさん」


「なにかな」


とまめじい。


「いいかげん面倒になってきな」


とドルグが言った。


「赤いの、どうする」


ゴルムはもっと短かった。


「親分が止めるんだよ」


とベロ。


「そろそろ手を打たなきゃいけない段階じゃないか?」


ドルグが言った。


ヒナが机の上で前のめりになる。


「やるの?」


まめじいが帳面を開く。


「親父殿は"喧嘩にするな"と仰った。よって、喧嘩にはいたしませぬ。ですが、親玉の倉へ届く線は押さえますぞ」


ドルグが笑う。


「つまり、明日抜けるように外を囲うんだな」


ゴルムが短く頷く。


「太い方だけ止める」


ヒナが机の地図を指す。


「この見せてない本線! ここを押さえる!でも、この細い穴は残す!小さいのが逃げる方まで潰したら、親父が怒る!」


「その通りですな」


とまめじい。


「親玉の台所は空にする。ただし、下の逃げ道までは絶たぬ。やりすぎてはいけません」


とまめじい。


「親父殿に気づかれます」


ヒナが地図を指さす。


「この細い路!」


「ここ、見せてない本線」


「あと解体場の裏!」


「半端な時間にしか動かないから、そこだけ重し置くとか、泥をちょっと寄せるとか、藁をわざと崩すとか!」


ドルグが顔を寄せる。


「ほー」


「見えてんなあ」


ゴルムは塩皿の置き方をじっと見た。


「こっち、使ってないふり」


「でも使ってる」


「そう!」


ヒナは嬉しそうに言う。


「そこ!」


「そこと、そこ!」


イトが梁の上から糸を一本落とす。ちょうどヒナが指した隠し路の上。


「ひーな」


「うん!」


「みーた」


「見たね!」


ドルグが笑う。


「空の目と、天井の目か」


ミズハが微笑む。


「ふふ。目が増えたわね」


まめじいが帳面へ書く。


「ヒナ嬢、本家の目」


「イト殿、天井裏の目」


「それ書くんだ」


とヒナ。


「大事ですぞ」


ドルグがもう入口へ向かう。


「じゃ、こっちは準備しとく」


ゴルムも続く。


「俺もだ」


「やり過ぎないでね!」


とヒナ。


「親父にバレたら止められるから!」


ドルグが振り返る。


「親分に何て言う」


ヒナがにやっと笑う。


「なんか適当に言って、押し切ろう」


ベロが吹く。


「雑!」


ミズハが楽しそうに笑う。


---


梁の上で、イトがまた小さく言った。


「ひーな」


ヒナが上を向く。


「なにー?」


イトは少し考えてから、


「おーやーい」


と言った。


食堂がふっと緩む。


ミズハが笑った。


「今日の締め、またそれなのね」


ヒナがけらけら笑った。


「親父に言ったら喜ぶかな」


ベロが肩を揺らす。


「喜ばないだろ」


まめじいが帳面を閉じる。


「では、本家の目の報告に基づき、少々流れを整えてまいりますかな」


「喧嘩じゃないよね?」


とヒナ。


「ええ、暮らしを守る細工ですぞ」


「それ、言い方だけでだいぶ怖いんだけど」


でも、誰も止めなかった。


赤牙を切る線は、もう引かれていた。


親父が知らないうちに、まめじいが帳面で動かし、ドルグとゴルムが足で押さえる。


その上で、ヒナが風から拾い、イトが細いところを見る。


本家は今日も、親父が全部を決める前に、家の方が勝手にでかくなっていく。


それが一番、本家らしかった。


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