焼かれるはずだった影が、天井裏に残った
本家の朝は、油差しの音で始まった。
守谷牧人は玄関脇の蝶番に油を注ぎながら、壁に並んだ板を数えた。九枚。昨日の夜は確かに九枚だった。
今は十枚ある。
「ナナ」
「はい」
「増えてる」
「朝、一枚足しました」
「……理由は」
「夜中に天井を叩いた奴がいたので。『天井を叩くな』」
牧人は十枚目の板を見た。確かにそう書いてある。墨が乾ききっていない。
「叩いたのは誰だ」
「不明です。音だけして姿がなかったので、板だけ先に出しました」
原因不明で板が増える家。牧人は油差しを傾けたまま、黙った。
「……まあいい」
「はい。板が足りなくなったら倉庫に予備があります」
「予備があるのか」
「まめじいが昨日のうちに十二枚ほど削ってます」
需要予測が早すぎる。牧人はそれ以上聞かないことにした。
朝の本家は静かな時間がない。
食堂ではミズハが水瓶の残りを確認しながら配膳の準備をしている。台所の奥からぷるが転がるように出てきて、体の表面に昨晩こぼした粗塩がまだ張りついていた。
「ぷる、塩ついてる」
ぷるは自分の体を見下ろし、ぷるん、と一回震えた。何粒か落ちた。全部は取れていない。
ミズハが小桶を寄越した。ぷるが半身を突っ込んで一回震えると、塩が全部落ちた。水が飛び散った。
「……次からは外でやって」
ミズハはそれだけ言って桶を下げた。
玄関の外が騒がしくなったのは、牧人が食堂に入って粥をよそった直後だった。
「親父ィ、客ですぜ」
ベロの声が廊下に響いた。客という言い方に妙な力が入っている。
牧人が粥の椀を置いて玄関に出ると、門前に二体の魔物が立っていた。どちらも中層の下位種で、背丈は牧人の腰ほど。片方は甲殻系の、蟹とも虫ともつかない四足歩行の個体。もう片方は毛の長い獣系で、耳が三つある。
甲殻系のほうが前足で何かを抱えていた。
籠だった。
編み方が雑で、中に布が敷いてある。布の上に何かが丸まっている。拳二つ分ほどの、黒い塊。目が多い。脚がある。一部が焼け焦げている。
「……何だ、これ」
「拾いもんです」
三つ耳の獣系が言った。声が若い。
籠の中の黒い塊が、かすかに動いた。脚が一本、籠の縁を掴もうとして、滑って戻った。焼けた脚だった。
三つ耳が続けて言った。
「中層、東寄りの古い倉区画が、昨夜まるごと焼かれたんです。人間の掃除屋が入って」
甲殻系が続ける。
「何を焼いたのかは分かりません。ただ、火が回ったあとで瓦礫をどけてたら、こいつが奥から出てきた」
「巣の残りか?」
「たぶん。糸と卵殻と焦げた殻が周りにあったんで」
「焼けたあとにいたのか」
「そうです。こっちは見つけただけです。見つけた瞬間、籠に突っ込んで全力で逃げました」
牧人は籠を覗き込んだ。
黒い塊の目が——数が多くてどれが正面か分からないが——こちらを向いた。火傷の痕が脚の付け根から広がっている。目の周りにも焦げた跡がある。
牧人はしゃがんで、焼けた脚にそっと指を近づけた。触れるか触れないかの距離で止めて、熱を確認するように手のひらをかざした。
「……まだ熱持ってるな」
黒い塊が、その手に向かって一本の細い糸を伸ばした。糸は牧人の人差し指の先にふわりとくっついた。引っ張る力はほとんどない。ただ、触れている。
「うっ」
小さな声が籠の中から聞こえた。言葉にはなっていない。息が漏れたような音だった。
牧人は振り返った。
「ヒナ、治療区画に布と水持ってきてくれ。火傷用の。ザガ、薬草の箱から塗り薬探して」
ヒナが窓枠から飛び降りた。「はいはい」と言いながら廊下を走っていく。ザガが倉庫の方へのそのそ動き出した。
三つ耳の獣系がにやりと——たぶんにやりと——笑った。
「やっぱ面倒見がいいや、ここの親分」
「面倒見がいいんじゃなくて、怪我してる奴を放っとけねえだけだ」
「それを面倒見がいいって言うんですぜ」
甲殻系が籠を地面に置いて、三つ耳と一緒にさっさと門を出ていった。
「おい、待て」
「預かりよろしくお願いしまーす」
走って消えた。
牧人は籠を抱えたまま玄関に立ち尽くした。指先の糸は切れない。黒い塊は微動だにしない。ただ、目だけがこちらを見ている。
「うっ」
もう一度、小さな声。さっきより少しだけはっきりしていた。
ベロが腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「親父。また拾いましたね」
「拾ったんじゃない。置いていかれたんだ」
「結果は同じですがね」
まめじいが廊下の奥から静かに現れた。帳面を小脇に挟んでいる。
「見せてもらっても?」
牧人が籠を差し出すと、まめじいは中を覗き込んだ。片目を細め、低く唸った。
「王蜘蛛の幼体ですな。……素質は悪くない。育てば災害級くらいにはなりましょう。災厄級の一つ下ですな」
「十分やばいだろ」
「本家の面子を考えれば、むしろ頼もしい方ですが」
「面子で拾ったんじゃないっての」
まめじいは帳面を開いた。何か書き込もうとして、筆先を止めた。
「名前は?」
「まだだ」
「では手当てが先ですな」
ヒナが布と水の入った椀を抱えて戻ってきた。ザガが塗り薬の小瓶を口にくわえて、のしのしとついてくる。
「はい、布と水。……うわ、ちっちゃ」
ヒナが籠を覗いて声を上げた。
「目が多くない?」
「蜘蛛だからな」
「やだ、近くで見ると目が多い!」
牧人は布を水に浸し、軽く絞って、幼体の焼けた脚にそっと当てた。幼体の体がびくりと跳ねた。
「あっ」
短い声。痛みか、驚きか。
「悪い。もうちょっとだけ我慢しろ」
牧人は布を当てたまま、空いた手で塗り薬の蓋を開けた。ザガが小瓶を支えていてくれた。
火傷の範囲は脚三本と胴の一部。幼体の体が小さいから、布一枚で足りた。塗り薬を薄く伸ばすと、幼体は動かなくなった。目だけがじっと牧人の手を見ている。
「う」
今度は痛みの声ではなかった。力が抜けたような、小さな息だった。
「……よし。あとは乾かす」
牧人は幼体を籠に戻した。布を巻いたまま、籠ごと食堂の長机に置いた。
食堂の反応が分かれた。
クロの三つの首が同時に籠を覗き込んだ。右の首がふんと鼻を鳴らし、中央の首が匂いを嗅ぎ、左の首が興味なさそうに逸れた。
「小せえな」
「蜘蛛だ」
「焼けてる」
三首が別々のことを言った。
イシコは無言で籠を見下ろし、それから牧人を見た。牧人が何か言う前に、イシコは小さく頷いて自分の席に戻った。了解、という意味だろう。
ぷるが机の端から近づいてきた。体を伸ばして籠の縁に乗り上がり、中を覗いた。
幼体が動いた。
一本の糸がぷるの表面にぺたりとくっついた。
ぷるは動かない。
「ぷる、糸ついてるぞ」
ぷるはゆっくりと体を傾けて、糸がくっついた部分を見た。見たまま、三秒止まった。
それから何事もなかったかのように机を降りた。糸はぷるの体の弾力で伸び、ぴんと張って、ぱちんと切れた。
幼体が籠の中で小さく跳ねた。
「あっ」
驚いたらしい。初めて出した、はっきりした声だった。
「切れた」
とベロが言った。
「ぷるの体が弾いたんでしょう」
とナナが冷静に言った。
「つまりぷるは蜘蛛の糸を無効化できるのか」
「たまたまです」
ぷるは何の反応も示さず、台所の方へ転がっていった。
幼体は籠の中から、ぷるが消えた方向をじっと見ていた。初めて糸を切られた相手のことが気になるのかもしれない。
「飯だな。ヒナ、粥の薄いの一杯」
「はいはい」
ヒナが飛び跳ねながら台所に入っていった。ザガはもう自分の定位置に戻って丸くなっている。仕事が早いのか、興味がないのか。
ヒナが薄めた粥を小皿で持ってきた。匙はつけず、そのまま籠の横に置いた。
「どうやって食べるんだこれ」
「顔を突っ込むのでは」
とまめじいが言った。
幼体は皿の匂いを確認するように数秒止まり、それからゆっくりと籠から這い出た。火傷の脚を引きずりながら、皿の縁に前脚をかけ、顔を粥に沈めた。
音はしない。吸っているのか舐めているのか分からないが、粥の水面がわずかに下がった。
「うー」
粥の中から声が聞こえた。顔を突っ込んだまま声を出すな。
ヒナが笑いをこらえて口元を押さえた。
「食べながら喋ってるんだけど」
「喋ってるっていうか、声が漏れてるだけだろ」
「かわい……いのか? これは。判断が難しい」
牧人はそれを見ながら椀に残った自分の粥をすすった。
食堂はしばらく穏やかだった。クロが欠伸をし、ヒナがかかとで椅子の脚を蹴り、イシコが黙って座り、ベロが壁に寄りかかった。
幼体が顔を粥から上げた。目の周りに粥粒がついている。
「あー」
今までで一番長い声だった。満足なのか、もっと欲しいのか。
「足りねえのか」
「あー」
「……もう一杯か。ヒナ」
「もう呼ばれてる! はいはい!」
ヒナが台所に引っ込んだ。ザガが薄目を開けて、すぐ閉じた。
二杯目を平らげた幼体は、しばらく皿の横で動かなくなった。食後の休憩らしい。目がいくつか半分閉じている。
「さて」
牧人は椀を置いて、天井を見上げた。それから籠の中の幼体を見た。
「名前、つけるか」
言ったのは牧人自身だった。ベロが「来たな」という顔をした。ナナが帳面を開いた。まめじいは既に筆を持っていた。準備が良すぎる。
牧人は幼体を見たまま考えた。
糸。蜘蛛。糸。
「イト」
短い名前が食堂に落ちた。
ベロが真顔になった。
「……またそういう付け方か、親父」
「何が悪い」
ヒナが台所から顔を出した。
「相変わらず適当! 蜘蛛だから糸でイトって、そのまんまじゃん!」
「分かりやすいだろ」
「分かりやすいとかの問題じゃなくて——」
クロの中央の首が鼻を鳴らした。
ナナが帳面に筆を走らせた。
「記録します。異議がなければこのまま——」
「異議しかないんだけど!?」
とヒナが叫んだ。
まめじいの筆はもう走っていた。異議は記録に反映されなかった。
籠の中の幼体が、顔を上げた。粥粒がまだついたまま。
「あー」
返事だった。名前を呼ばれたことが分かったのか、ただ声に反応しただけなのか。どちらでもいい。本家では、返事があれば返事だ。
「イト。お前の名前だ」
「あー」
もう一度。今度は少しだけ、声が前に出た。
まめじいの帳面に、筆が一行を刻んだ。
「『イト、王蜘蛛幼体、本日付で本家預かり』」
ニコが顔をのぞかせた。
「板、要りますか!」
ナナが板を一枚持って現れた。いつ取りに行ったのか分からない。
「追加します」
「何て書くんだ」
「『天井は先住者に確認を取れ』」
「先住者って誰だ」
「今この瞬間から、イトです」
「決めるの早っ」
とヒナが言った。
牧人は天井を見上げた。まだイトは籠の中にいるが、ナナの中ではもう天井裏の住人として確定しているらしい。
ヒナが首を傾げた。
「板、何枚目?」
「十一枚目です」
「板の理由がどんどん生き物寄りになってない?」
ナナは一拍置いて答えた。
「本家が生き物で出来ているので、当然かと」
「それ当然って言い切るの怖くない?」
ナナは板を壁に掛けた。真顔だった。
昼過ぎ、イトは食堂の天井に移動した。
誰も手を貸していない。粥を食べ終わったあと、籠から這い出て、壁を登り、梁を渡り、天井の隅に糸を数本渡しただけの足場を作り、そこに丸まった。
「早えな」とベロが見上げて言った。
「蜘蛛は高い場所を好みますからな」
とまめじいが答えた。
「あー」
天井から声が降ってきた。イトが足場の上で丸くなりながら、下を見ている。何を言いたいのかは分からない。でも声が出るようになってきている。
午後、イトは天井裏を動き回った。
梁から梁へ、壁の継ぎ目を辿り、配管の隙間を抜け、本家の上部をぐるりと一周した。牧人が気づいたのは、夕方になってからだった。
「ヒナ。天井裏、見たことあるか」
「あるよ。埃だらけ。虫もいる」
「イトが巡回してる」
「え?」
ヒナが天井を見上げた。梁の影に、小さな黒い点が動いているのが見えた。点は壁際で一度止まり、また動き出した。
「何してんの、あいつ」
「さあ。見回りじゃねえか」
とザガ。
「誰に頼まれたわけでもないのに?」
「蜘蛛は巣の周囲を確認する習性がありますからな」
まめじいが廊下の向こうから声だけ飛ばしてきた。姿は見えない。帳面に書き込んでいる音だけが聞こえる。
「まめじい、どこにいるんだよ」
「帳場です」
「まめじい、たまに声だけなの怖い!」
ヒナがぼやいた。
夕方、イトが天井裏の巡回から戻ってきた。食堂の梁に止まり、牧人の肩に向かって降りてきた。糸一本で、するすると。肩に乗った。重さはほとんどない。
「うー」
「……どうだった」
「あー」
返事になっているのかいないのか。ただ、イトの脚が一本、牧人の襟元を掴んだ。
しばらくして、ナナが牧人のところに来た。
「イトが壁裏に穴を見つけたようです」
「何?」
「寝台区画の壁裏に小さな穴が一つ。拳半分ほど。外には繋がっていませんが、隣の空き部屋に通じています」
「いつの間に報告したんだ」
「糸を一本、穴の位置に張ってありました。それで気づきました」
牧人は肩の上のイトを見た。イトは牧人の肩で丸くなっている。目がいくつかこちらを見ているが、特に何も主張していない。
「お前、それ報告のつもりか」
「うー」
「……まあいいか」
「やりますな」
とまめじいの声が廊下から聞こえた。
「だからどこにいるんだよ」
ヒナが本日三度目のぼやきを入れた。
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夜。
本家の灯りが落ちる頃、牧人は玄関の板を確認して回った。十一枚。朝から一枚増えた。予備が十二枚あることを考えると安心はできない。
食堂の机の上に、粥の小皿が空になって残っていた。イトが夕食も食べたらしい。皿の周りに糸が数本散らばっている。
牧人は皿を片付け、糸を指で払った。糸は簡単に切れた。
天井を見上げると、梁の上にイトがいた。糸の足場が朝より少しだけ広がっている。居住環境の拡張を始めたらしい。
「イト」
天井の黒い塊が動いた。目がいくつかこちらを向いた。
「明日も飯は出す。落ちてくるなよ」
「あー」
今日一番はっきりした声だった。
牧人が食堂を出ようとした時、背中に糸が一本くっついた。振り返ると、天井から一本の糸が垂れている。先端が牧人の背中に触れている。
引っ張る力はない。ただ、触れている。
牧人は糸を切らずにそのまま歩いた。廊下に出たところで糸の長さが限界を迎え、ぱちん、と小さな音を立てて切れた。
天井裏から、かさ、という音が聞こえた。
脚が動く音だ。小さくて、乾いていて、何かを確認するような音。
「おやすみ」
「うー」
小さな返事。言葉ではない。でも、返事だった。
牧人は廊下を歩きながら、背中の糸が切れた場所を一度だけ手で触った。何も残っていない。糸の痕も、温度も。
でもまあ、明日にはまたくっつくだろう。
翌朝、牧人が食堂に入ると、天井から糸が一本垂れていた。
糸の先に、何かがくっついている。
壁裏の欠片だった。小指の爪ほどの、古い壁材の破片。イトが巡回中に見つけたのだろう。
「……これ、報告か」
天井の上で、かさ、と音がした。
「あー」
ナナが食堂に入ってきて、糸の先の壁材を見た。
「報告ですね」
「糸で垂らすのが報告の形式なのか」
「イトの中ではそうなのでしょう」
「板に書くか? 『報告は糸で垂らせ』って」
ナナは一拍置いて答えた。
「それは蜘蛛にしか適用されないので、板にするほどでもないかと」
「そうだな」
牧人は天井を見上げた。イトの目がこちらを見ている。
壁の板は十一枚。予備は十二枚。増加の原因は、だいたい生き物だ。
まめじいの帳面の新しいページには、「イト」の名前の横に小さく「天井裏・巡回・糸報告」と書かれていた。行間が、いつもより少し広い。
余白を残しているのだ。まだ書くことが増えると分かっているから。




