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ご近所さんにお礼に行ったら、傘下が増えた


今日も朝からにぎやかだった。


本家の洗浄室には、列ができていた。


怪我人。小型種。苔角兎。居候の蜥蜴頭。


そして、列の半分以上が旧保全路の連中だった。


「親分」


ザガが小声で言った。


「今日、向こうの若い衆が十二匹来てるぞ」


「多いな。人気だな、風呂」


「そういう話じゃねえ」


「怪我してるやつもいるな。薬、足りるか」


「そこじゃねえ」


「どこだよ」


ザガは頭を抱えた。まめじいが横で帳面に書いていた。


『旧保全路側洗浄利用、本日十二名。累計四十七名。』


「まめじい、それ何の記録だ」


「ご近所付き合いの記録ですぞ」


「ご近所付き合いって言い方やめろ」


とザガ。


「親父殿がそう呼んでおりますので」


「だからだよ!」


牧人は粥を配りながら、ふと思った。


「なあ」


「何だ」


とザガ。


「ゴルムさんって、来ないな」


全員が止まった。


「……来ない方がいいだろ」


とザガ。


「でも部下ばっかり来て、本人が来ないのは寂しくないか」


「寂しいかどうかの話じゃ——」


「お礼、行ってないんだよな。ずっと」


ザガの顔から色が消えた。


「前に行こうとした時、体調不良って言ってたろ。もう治ったんじゃないか」


「治ったかどうかの問題じゃ——」


「粥、持ってくか。体調悪い人に粥は基本だろ」


「待て」


「差し入れだ。お礼代わりに」


「待てって」


「クロ、行くぞ」


「行く」


クロが立ち上がった。短い一言。尻尾が一回だけ揺れた。


ザガがまめじいを見た。まめじいは静かに帳面を閉じた。


「……止められますかな」


「無理だろ」


「ですな」


「俺も行く。見てないと何が起きるか分からん」


「お気をつけて」


「まめじい、その顔やめろ。葬式みたいだぞ」


「まさか。ご近所訪問ですぞ」


---


旧保全路。


ゴルムは、一人だった。


正確には三匹いた。ゴルムと、古株の下っ端二匹。残りは全員、朝から出払っていた。


どこへ行ったかは分かっている。


「親分」


古株が言った。


「今日も静かっすね」


「うるせえ」


「いや、事実として」


「事実を言うな」


ゴルムは座っていた。顎を鳴らす気力もなかった。


朝起きたら、若い衆がいなかった。昼前に数匹戻ってきたが、きれいな顔をして、腹がふくれていた。

「どこ行ってた」と聞くと「別に」と言った。全員同じ顔で「別に」と言った。


もう、縄張りとしての体を成していなかった。


流れが、完全にあっちへ向いている。


水がある。飯がある。風呂がある。怪我を診る。追い出さない。


自分の縄張りにあるのは、暗い穴と、ゴルムの顎だけだった。


顎で石は砕ける。


だが、顎で粥は作れない。


「親分。あの、ちょっと聞きたいんすけど」


「何だ」


「俺らも、ちょっとだけ——」


「行くな」


「でも」


「行くな!」


「……はい」


沈黙。


長い沈黙。


古株がもう一度口を開きかけた。


その時だった。


足音が聞こえた。


三つ。


一つは軽い。人間。


一つは重い。大きい。


一つは普通。中型。


ゴルムの目が開いた。


古株が外を見て、顔が白くなった。


「お、親分」


「何だ」


「来た」


「誰が」


「人間の親分と——黒いのと——槍のやつ」


ゴルムは立ち上がった。


「……来やがった」


心臓が跳ねた。


なぜ今日なのか。


なぜ若い衆が全員いない日なのか。


知ってるのか。全部知った上で来たのか。


「親分、どうしますか」


「黙れ。考えてる」


「逃げますか」


「逃げてどうする! ここは俺のシマだぞ!」


「シマにしては人が少なすぎるんですけど!」


「それはお前らが風呂行ってるからだろうが!」


「俺らは行ってない! 行ってないです!」


足音が近づく。


ゴルムは覚悟を決めた。ここで逃げたら、もう終わりだ。顔役としての最後の面子すら残らない。


座り直した。背筋を伸ばした。顎を引いた。


「いいか。何を言われても動じるな。三匹だが、旧保全路の顔役として堂々と——」


「ゴルムさーん」


明るい声が響いた。


---


牧人は笑顔だった。


鍋を片手に、通路を歩いてきた。粥の入った鍋だった。まだ温かい。湯気が出ている。


その横に、クロがいた。黒い体。静かな足取り。深層災厄級が、ただ歩いている。それだけで空気が重かった。


後ろにザガ。顔がひきつっていた。


牧人は通路の奥に三匹を見つけた。


「こんにちは。ゴルムさんって、どの人ですか」


最悪の一言だった。


深層災厄級を連れて乗り込んできた人間が、笑顔で「どの人ですか」と聞いている。


古株二匹が同時にゴルムを指さした。


「お前ら!」


「す、すみません親分、反射で……」


牧人はゴルムを見た。


「あなたがゴルムさんか。初めまして」


「な、何しに来た!」


「お礼に」


ゴルムの顎が止まった。


「——お礼参りか!」


「いろいろ世話になってるし」


「世話!?」


「だから、クロと一緒にお礼に来ました」


「ひっ……!」


クロが一歩前に出た。何もしていない。牧人の横に並んだだけだ。だが、ゴルムの古株二匹が壁に張りついた。


「お礼をッ……クロを連れてッ……」


ゴルムの声が裏返っていた。


お礼参り。


本物のお礼参りだ。


向こうの親分が、深層災厄級を従えて、直接殴り込みに——


「これ、粥。持ってきた」


牧人が鍋を差し出した。


ゴルムは鍋を見た。


湯気が出ている。


温かそうだった。


温かそうだった——が。


「……何が入ってる」


「粥だけど」


「本当に粥か」


「粥だよ。塩と、干し苔と、ちょっとだけ苔魚の出汁」


「それだけか」


「それだけだよ」


ゴルムの目が細くなった。


粥を持ってくる。


わざわざ、お礼に来ましたと言って。


深層災厄級を連れて。


手下がいない日を狙って。


そして——鍋を差し出す。


「…………毒か」


「は?」


「毒だろ! 毒入りだろ!」


「入ってねえよ!」


「じゃあお前が先に食え!」


「いいけど」


牧人は鍋の蓋を開けて、指で粥をすくって舐めた。


「うん、美味い」


「…………」


「ほら、毒なんか入ってないだろ」


「……先に食えば疑わないと思ったか。きっと毒耐性のスキル持ちだろ」


「疑い深いな!」


「疑い深くなるわ!」


ザガが後ろで天を仰いでいた。


「親分。もう少しこう……段階を踏んでくれ」


「段階?」


「相手はビビってるんだよ」


「何にビビるんだよ。粥だぞ」


「粥じゃねえところにビビってんだよ!」


クロが、ゴルムの横を通り過ぎた。


何もしていない。ただ、奥の壁を見に行っただけだ。匂いを嗅いだ。壁の苔を見た。それだけだった。


だが、通り過ぎた瞬間、ゴルムの背中に冷たいものが走った。深層災厄級の気配が、至近距離を通過した。


古株の一匹が腰を抜かした。


「あの黒いの、何してるんですか……」


「散歩」


と牧人。


「散歩で来るところじゃねぇだろ!」


とゴルム。


「いいだろ。ご近所なんだから」


「ご近所!?」


ゴルムの頭がぐるぐる回っていた。


この人間は、何を言っているのか。お礼参りに来て、毒入りの粥を差し出して、深層災厄級に散歩させて——ご近所?


「なあ、ゴルムさん」


「……何だ」


「体調、どうだ。前に悪いって聞いてたから心配してたんだ」


心配。


心配していた。


「……まだ少し悪い」


「じゃあ尚更だ。粥は胃にやさしいぞ。うまいよ」


「うまいよって言う時点で怪しいんだよ……」


「じゃあクロにも食わせるか。な、クロ」


クロが振り返った。牧人が粥を指ですくってクロの前に出した。クロが舐めた。


「ほら。クロも食った。毒なら自分の相棒に食わせないだろ」


「…………」


否定できなかった。


深層災厄級に毒を食わせるわけがない。


「食え。冷めるぞ」


ゴルムは鍋を見た。


湯気が上がっていた。


古株が小声で言った。


「親分……食っちまった方が早くないですか」


「うるせえ」


「でも、食わないと帰らない気がするんですけど」


「…………」


それは正しかった。この人間は、食わせるまで帰らない顔をしていた。


ゴルムは、鍋に手を伸ばした。


一口。


温かかった。


塩気がちょうどよかった。干し苔の風味がして、苔魚の出汁がふわっと広がった。


美味かった。


腹が減っていた。朝から何も食っていなかった。若い衆は全員出払って、飯を作るやつもいなかった。


二口目。三口目。


止まらなかった。


「美味いだろ」


「……黙れ」


「美味いって顔してるぞ」


「してねえ!」


「してる」


とザガ。


「してるな」


とクロ。


「お前らは黙れ!」


---


鍋が空になった。


ゴルムは空の鍋を膝に置いたまま、黙っていた。


牧人が言った。


「なあ、ゴルムさん」


「……何だ」


「うちの風呂、いつでも使っていいからな。部下の人たちだけじゃなくて、ゴルムさん本人もさ」


「…………」


「怪我してたら診るし。飯も出す。遠慮すんな」


「遠慮じゃ……」


「あと、縄張りの境目がどうとか、前に聞いたんだけど」


ザガが天を仰いだ。


「境目なんて気にしなくていいだろ。困った時はお互い様だ。ゴルムさんとこの若い衆が怪我したら、うちで診る。うちが足りないものがあったら、ゴルムさんに相談する。そういうもんだろ、ご近所って」


ゴルムの顎が鳴った。


一回。


鳴ったが、いつもと違った。怒りでも、威嚇でもなかった。


何かが折れる音だった。


ゴルムは、この旧保全路で十年以上、顎だけで生きてきた。噛み砕いて、脅して、従えて。それが縄張りの作り方だった。


目の前の人間は、粥を持ってきた。


風呂を使えと言った。


怪我を診ると言った。


境目なんて気にするなと言った。


そして、隣には深層災厄級がいた。壁の苔を舐めていた。


勝てるわけがなかった。


腕力でも。流れでも。粥の味でも。何一つ勝てなかった。


ゴルムは息を吐いた。


長く、深く。


それから——膝をついた。


「……世話になる」


「え?」


「世話になると言ってんだ!」


「いや、そんな大げさな——」


「旧保全路の鉄顎ゴルムは、今日からお前んとこの傘下だ」


「傘下?」


「子分だ! もういい、好きに呼べ!」


牧人が固まった。


「いや、俺はお礼に来ただけで——」


「もう遅ぇ! 膝ついちまった!」


「戻せばいいだろ」


「戻せるか! 顔役が膝ついたら戻せねぇんだよ!」


古株二匹が、主人の姿を見ていた。


十年間、顎だけで旧保全路を仕切ってきた男が、膝をついていた。


片方が、ぼそっと言った。


「……俺らもですか」


「お前らもだ!」


「はい……」


二匹も膝をついた。


牧人は三匹が膝をついているのを見下ろしていた。


困っていた。


ザガが小声で言った。


「親分、もう受けろ」


「受けるって何を」


「全部だ」


「全部って何だよ」


「……とりあえず、粥食え。冷めるぞ」


「もう全部食った」


「じゃあ帰るか」


「帰る」


牧人は立ち上がった。ゴルムを見た。


「ゴルムさん」


「何だ」


「鍋、今度返してくれ。急がなくていいから」


「…………鍋の話かよ」


「大事だろ。鍋」


ゴルムは空の鍋を抱えたまま、座り込んだ。


---


帰り道。


ザガが、長い沈黙のあとに言った。


「親分」


「何だ」


「お礼に行って傘下にするやつ、初めて見たぞ」


「傘下って何だよ。ご近所だろ」


「もうご近所じゃねえよ」


「ご近所だろ。粥持ってって、お礼して、仲良くなっただろ」


「仲良くなったっていうか……」


「いい人だったな、ゴルムさん。粥全部食ってくれた」


ザガは空を見た。空は見えなかった。地下だった。


「……そうだな、親分」


クロは何も言わなかった。欠伸をした。


---


本家に戻ると、まめじいが帳面を開いて待っていた。


「おかえりなさいませ。ご近所訪問、いかがでしたかな」


「うん。ゴルムさん、いい人だった。粥食ってくれた」


「それはよかった」


ザガがまめじいの横に立った。小声で、手短に伝えた。


まめじいの筆が止まった。


「……傘下、ですか」


「傘下だ」


「粥一杯で」


「粥一杯と、風呂の誘いと、ご近所付き合いの提案と、深層災厄級の散歩で」


まめじいは帳面に書いた。


『旧保全路・鉄顎ゴルム、本家傘下入り。口頭確認済み。条件:粥。』


筆を置いた。


「……条件のところ、もう少し格好つかないですかな」


「つかねえよ」


「ですな」


ニコが板を持ってきた。


旧保全路 ご近所(傘下)


「括弧で書くな!」


とザガ。


「事実だろ」


「事実だけど括弧で書くな!」


ミズハが小さく笑った。


「粥で傘下。歴史に残るわね」


「残すな」


とナナ。


「残るわよ。こういうのが」


イシコが入口脇で静かに言った。


「本家、拡大」


牧人は首を傾げていた。


「俺、お礼に行っただけなんだけどな」


全員が黙った。


誰も訂正しなかった。


---


夜。


牧人は寝台で天井を見ていた。


ゴルムさんは粥を食べてくれた。最初は警戒してたけど、美味そうに食ってた。少し目が赤かった気がする。


いい人だった。


ご近所にいい人がいると、安心する。


隣で、クロが丸くなって寝ていた。足元で、苔角兎が三匹、丸くなっていた。


明日は畑の水を引く日だ。ナナが朝から来るだろう。ミズハも手伝うだろう。ゴルムさんのところの若い衆も、また風呂に来るだろう。


忙しくなる。


でも、悪くない。


牧人は目を閉じた。


---


同じ頃。旧保全路。


若い衆が戻ってきた。きれいな顔で、腹をふくらませて。


ゴルムは座っていた。鍋を抱えていた。


「親分、ただいまっす」


「おう」


「あれ、親分、何か食いました?」


「……もらった」


「誰にです?」


「向こうの親分に」


若い衆が固まった。


「えっ」


「今日から向こうの傘下だ」


「えぇっ!?」


「うるせえ。お前らが先に流れてたんだ。俺は最後に認めただけだ」


若い衆は顔を見合わせた。


片角の蜥蜴頭が、恐る恐る聞いた。


「じゃあ、俺ら、堂々と風呂入っていいんですか」


「…………」


「親分?」


「……いい」


歓声が上がった。


「やった!」


「堂々と飯食える!」


「うさぎも触れる!?」


「うさぎは知らねえ!」


ゴルムは鍋を見ていた。


空だった。


温かかった。


粥がではない。鍋が、まだ温かかった。


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