表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/18

水を通したら、風呂が先に生き返った


「親父殿。うさぎが泥だらけですぞ」


朝一番、まめじいはそこから入った。


牧人は粥の椀を持ったまま止まった。


「うさぎは昨日も泥だらけだっただろ」


「本日は"かなり"ですぞ」


「差分が分からん」


「見れば分かります」


見た。


苔角兎が十二匹、そろって汚れていた。泥。草。何かよく分からない黒い粉。一匹など、耳の先に干からびた葉っぱまで引っかけている。


「……汚いな」


「かわいいけど汚いですな」


「うん」


牧人は素直に頷いた。


うさぎの次は怪我人だった。寝台区画から出てきた小型種の足元も泥だらけ。居候の蜥蜴頭も妙にくさい。ザガとベロは昨日の配管掃除の名残で、まだ少し黒い。


本家全体が、うっすら土くさかった。


ナナが即答した。


「洗浄路を開ける」


「畑は?」


「後」


「お前が後って言うの珍しいな」


とザガ。


「汚れたまま培養区画へ入るな。全部腐る」


「言い方やめて」


ミズハが壁にもたれたまま言う。


「水は通したんだから、洗浄側を起こせばいいのよ」


「起こせるのか」


「たぶん」


「"たぶん"なのか?」


「でも、ほぼ大丈夫よ」


「大丈夫寄りか?」


「大丈夫寄りね」


「信じるぞ」


「どうぞ」


---


探索組は、牧人、クロ、ナナ、ミズハ、ザガ、ベロ、ぷる。


「俺も——」


「だめだ」と全員。


ニコが口を開く前に潰された。新記録だった。


地下水路室。昨日より明るかった。流れが戻ったせいか、水の色も濁っていない。


ミズハが水面に手を入れた。六本の指が広がり、水の流れを読むように動く。


「洗浄路はこっちよ」


水路の横、昨日は見えなかった細い扉があった。格子状の排水溝。その奥から、乾いた風が来る。


ナナが指で示す。


「詰まってる」


「またか」


「旧設備はだいたい詰まってる」


「夢のないこと言うな」


詰まりの正体は泥ではなかった。


布だった。古い布。しかも大量。絡まり、腐り、何かの毛まで巻き込んでいる。


ザガが嫌そうな顔をする。


「最悪だな」


「洗浄路だからだろ」


とベロ。


「分かるけど最悪だ」


ミズハが六本指で布の端を摘まんだ。引っ張る。千切れた。


「……駄目ね。奥で固まってるわ」


「ぷる」


ぷるが、ぺたりと排水溝に張りついた。震える。吸う。吐く。吸う。吐く。絡まった布が、ずるずる出てくる。


「お前、ほんと便利だな」


「ぷるん」


クロが、奥で引っかかった金具を前足で払った。がこん、と音がした。何かの蓋が外れた。


その瞬間。


排水溝の奥から、黒い塊が飛び出した。


「うわっ!」


牧人が後ろに跳んだ。ザガが槍を構えた。


黒い塊は——動いた。丸い。小さい。甲羅がある。六本の短い脚で走り回っている。


「何だこれ!」


「排水蟲よ」


とミズハ。


「敵か!?」


「害はないわ。詰まった配管に巣を作るの。掃除したから追い出されただけよ」


排水蟲は五匹。手のひらサイズ。パニックを起こして通路を走り回っている。一匹がザガの足を駆け上がった。


「ぎゃあっ!」


「騒ぐな」


とクロ。


「足の上にいるんだよ!」


ミズハが手のひらから水を飛ばした。細い水流が、排水蟲を一匹ずつ弾いて排水溝の別の穴へ押し込む。正確だった。五匹、三秒。


「……やっぱりお前すごいな」


「この程度、仕事のうちよ」


ザガが足を押さえながら言った。


「仕事で助かったけど、もう少し早く言ってくれ」


「悲鳴が早すぎるのよ」


---


最後の布束が抜けた。


ごぼっ、と低い音。次に、ざあっと水が走った。


扉の向こうで何かが動いた。止まっていた歯車が回る。乾いた風が、少しだけあたたかくなった。


「開くわよ」


扉が、ゆっくり開いた。


——水が、噴き出した。


「うわっ!」


正確には噴き出したわけではなかった。長年止まっていた配管に水が一気に通り、圧力が弾けたのだ。天井の配管の継ぎ目から、水が四方八方に飛んだ。


全員が濡れた。


牧人が濡れた。ザガが濡れた。ベロが鍋蓋で顔を覆ったが横から濡れた。ナナが初めて悲鳴に近い声を出した。


「培養区画に水を回せと言ったのに!」


「まず止めろ!」


ミズハが両手を上げた。


六本の指が、全部開いた。


水が——止まった。


噴き出していた水流が、空中で停止した。ミズハの指の動きに合わせて、水が配管へ戻っていく。継ぎ目を塞ぐように水膜が張られ、圧力が均される。


五秒で、静かになった。


全員がずぶ濡れだった。


ミズハだけが濡れていなかった。


「……お前だけ濡れてないのずるいだろ」


とザガ。


「水の管理者ですもの」


「くそー」


牧人は水を払いながら、洗浄室を見回した。


広い。思ったより広い。床は浅い水路状で、左右に細い槽が並んでいる。壁には古い棚。奥には、まだ使えそうな木桶まであった。


「……風呂だ」


「洗浄室だ」


とナナ。


「風呂っぽい」


「洗浄室だ」


ミズハが水を流した。細い槽に、透明な水が順番に満ちていく。六本指で水面をなぞると、奥の配管から少しだけ湯気が上がった。


「あったかい?」


とザガ。


「地熱管が生きてるのよ。深層の熱を引いてるの。ぬるま湯くらいにはなるわ」


ザガが目を見開く。


「最高じゃねえか!」


「お前が一番反応するんだな」


と牧人。


「配管掃除のあとで汚れたから、最高だぞ!? 泣くぞ!?」


ベロが鍋蓋を置いた。


「親分、これ怪我人にもいいな」


「だよな。傷も洗える」


ナナが黙っていた。少し考えている顔だった。


「何だ」


「……衛生は大事だ」


「素直だな」


「今回はな。だが、この水量なら培養区画にも回せる。無駄にするな」


「分かった分かった」


---


本家へ戻った。


牧人がまだ何も言っていないのに、ザガが開口一番叫んだ。


「風呂があった!」


三秒後、ニコが板を持っていた。


洗浄室あり


「早いな!」


「聞こえたからな」


「聞こえてから書くまで三秒だぞ」


「板は速度だ」


「名言みたいに言うな」


本家の門前は、妙に浮き足立った。怪我人がざわつく。居候の蜥蜴頭が尾を振る。小型種が足元を見下ろす。苔角兎は何も分かっていない。


まめじいだけが落ち着いていた。


「親父殿」


「何だ」


「順番を決めましょう」


「うん」


「怪我人」


「うん」


「次に泥だらけ」


「うん」


「その次に、臭う者」


「言い方ひどい!」


と居候の蜥蜴頭。


「事実ですぞ」


「そうだけど!」


牧人は苔角兎を一匹抱き上げた。


「よし、行くぞ」


「親父殿。怪我人が先では」


「うさぎも怪我してる」


「してないですぞ」


「泥が付いてるのは心の怪我だ」


「屁理屈ですな」


「親分、うさぎ基準だな」


とザガ。


「うさぎ基準だ」


「開き直ったな……」


---


洗浄室。


最初に洗われたのは、結局うさぎだった。


牧人が抱えて、そっと水に入れる。最初の一匹は固まった。次の一匹は全力で逃げた。ぷるが出口を塞いで戻した。三匹目は、なぜか気持ちよさそうに目を閉じた。


「お、これ好きなやついるな」


「うさぎにも個体差があるんだな」


とベロ。


四匹目が暴れた。水が跳ねた。ミズハが手で水を制御して、暴れた分だけ押さえた。うさぎは不満そうだったが、きれいになった。


「ミズハ、すまん」


「いいわよ。こういう仕事、嫌いじゃないの」


六本指でうさぎの耳の泥を落としている。指が長くて器用だった。濡れた髪が肩に落ちて、鰓膜がゆったり揺れている。


ザガが目をそらした。うさぎを洗っているだけなのに目をそらした。


泥が落ちる。草も落ちる。葉っぱも流れる。苔角兎は一段白っぽく、ふわっとした。


「……洗ったらもっとかわいいな」


牧人が笑顔で言う。


「かわいいしか言ってない」


とザガ。


「かわいいだろ。みんなかわいい」


「だろうな……」


次に怪我人を洗浄した。浅い傷を流し、泥を落とし、ミズハがぬるま湯の水圧を調整して、傷口に触れないように水を回す。


「しみないか?」


と牧人。


怪我人の小型種が、ふるふると首を振った。


「ミズハ、上手いな」


「管理者ですもの」


さらりと言う。髪が肩にかかっていた。濡れた表皮が水路の光を反射して、やけにきれいだった。


ベロが鍋蓋で顔を隠した。隠す必要がないのに隠した。


---


全員の洗浄が終わりかけた頃だった。


「あの」


声がした。


洗浄室の入口に、小型種が立っていた。煤だらけ。耳が焦げている。見たことがない個体だった。


その後ろに、もう三匹。四匹。さらに後ろにもいた。


「……洗浄の噂を聞いて来たんだろ」


とザガ。


「早すぎるだろ!」


「ニコの板が早いからだ」


「あいつの板の伝達速度おかしくないか!?」


煤だらけの小型種が、震えながら言う。


「ぬるい水、あるって……」


「あるけど」


「ちょっとだけ、洗いたい」


「いいけど」


「親分、即答かよ!」


とザガ。


「煤かぶったまま嫌だろ」


「そこなんだよな……」


列ができた。


洗浄室の前に、列ができた。


まめじいが帳面を持って立っていた。いつの間にか地下に来ていた。


「いつ来たんですか」


とベロ。


「洗浄希望が増えたので降りてきた」


「仕事が早いな……」


怪我人優先。次に本家の住人。その次に外から来た者。まめじいが淡々と順番を仕切った。


ニコも来ていた。板を三枚持っていた。


怪我優先

静かに待て

走るな


「地下にまで持ってくるのか」


とザガ。


「必要だろ」


「必要なのが怖い」


---


そして、事件が起きた。


列の後ろに、見覚えのある影があった。


小さい。蜥蜴型。角が——片方、欠けている。


居候の蜥蜴頭が、はっと振り返った。


「お前——」


片角の蜥蜴頭が、ぎくっと固まった。


ゴルムの偵察だった。


「……違う。俺は、その」


「お前、ゴルムんとこの——」


「違う! 偶然だ! 偶然通りかかっただけだ!」


煤だらけだった。汚れていた。そして、震えていた。


まめじいが穏やかに言った。


「洗浄希望ですかな」


「……ち、違う」


「並んでおりますが」


「並んでない! 列があったから、つい——」


「つい並んだ、と」


「…………」


沈黙。


片角の蜥蜴頭は、唇を噛んでいた。


「……ぬるい水が、あるって」


「ありますぞ」


「ちょっとだけ」


「どうぞ」


ザガが牧人の袖を引いた。


「親分。あいつ、ゴルムの——」


「ああ、ご近所さんとこの子か」


「ご近所……」


「前に挨拶しそびれたからな。こういうとこから仲良くなればいいだろ」


ザガは口を開けた。閉じた。


まめじいと目が合った。まめじいは静かに首を振った。言うな、という顔だった。


「……そうだな、親分」


「だろ? 汚れたまま帰る方が嫌だろ」


ザガは黙った。この人には一生わからないんだろうな、と思った。


片角の蜥蜴頭は、列の最後尾で小さくなっていた。


洗浄が終わったあと、片角の蜥蜴頭は一言も喋らずに帰った。入口で一度だけ振り返った。何か言おうとして、やめて、走って消えた。


居候の蜥蜴頭が、それを見ていた。


「……あいつ、来るかな。また」


---


夜。


牧人は寝台で天井を見ていた。


水が通った。洗えるようになった。怪我人の傷も流せた。うさぎもきれいになった。


配管を掃除して、布を引っ張って、虫を追い出して、水を浴びて。


やったことは、全部そういう地味なことだった。


でも、列に並んだやつらの顔は、少しだけ明るかった。


煤を落として、泥を流して。それだけで、少し楽になった顔をしていた。


飯と、寝床と、怪我の手当てと、今度は風呂。


——廃墟のくせに、どんどん住みやすくなってくる。


隣で、クロが丸くなって寝ていた。足元で苔角兎が三匹、洗いたてのふわふわで丸くなっていた。


牧人は目を閉じた。


---


同じ頃。旧保全路。


片角の蜥蜴頭が、こそこそと戻ってきた。


「偵察は」


とゴルム。


「洗浄施設が動きました。ぬるま湯が出ます。列ができてました」


ゴルムの顎が鳴った。


「……水路の次は風呂か。次は何だ。宿屋でも始めるのか」


「もうほぼ宿屋では」


「うるせえ」


ゴルムは片角の蜥蜴頭を見た。


「……お前、なんかきれいだな」


「気のせいです」


「そうか」


沈黙。


「……別に、羨ましくはねえからな」


蜥蜴頭は聞こえないふりをした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ