水を通したら、風呂が先に生き返った
「親父殿。うさぎが泥だらけですぞ」
朝一番、まめじいはそこから入った。
牧人は粥の椀を持ったまま止まった。
「うさぎは昨日も泥だらけだっただろ」
「本日は"かなり"ですぞ」
「差分が分からん」
「見れば分かります」
見た。
苔角兎が十二匹、そろって汚れていた。泥。草。何かよく分からない黒い粉。一匹など、耳の先に干からびた葉っぱまで引っかけている。
「……汚いな」
「かわいいけど汚いですな」
「うん」
牧人は素直に頷いた。
うさぎの次は怪我人だった。寝台区画から出てきた小型種の足元も泥だらけ。居候の蜥蜴頭も妙にくさい。ザガとベロは昨日の配管掃除の名残で、まだ少し黒い。
本家全体が、うっすら土くさかった。
ナナが即答した。
「洗浄路を開ける」
「畑は?」
「後」
「お前が後って言うの珍しいな」
とザガ。
「汚れたまま培養区画へ入るな。全部腐る」
「言い方やめて」
ミズハが壁にもたれたまま言う。
「水は通したんだから、洗浄側を起こせばいいのよ」
「起こせるのか」
「たぶん」
「"たぶん"なのか?」
「でも、ほぼ大丈夫よ」
「大丈夫寄りか?」
「大丈夫寄りね」
「信じるぞ」
「どうぞ」
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探索組は、牧人、クロ、ナナ、ミズハ、ザガ、ベロ、ぷる。
「俺も——」
「だめだ」と全員。
ニコが口を開く前に潰された。新記録だった。
地下水路室。昨日より明るかった。流れが戻ったせいか、水の色も濁っていない。
ミズハが水面に手を入れた。六本の指が広がり、水の流れを読むように動く。
「洗浄路はこっちよ」
水路の横、昨日は見えなかった細い扉があった。格子状の排水溝。その奥から、乾いた風が来る。
ナナが指で示す。
「詰まってる」
「またか」
「旧設備はだいたい詰まってる」
「夢のないこと言うな」
詰まりの正体は泥ではなかった。
布だった。古い布。しかも大量。絡まり、腐り、何かの毛まで巻き込んでいる。
ザガが嫌そうな顔をする。
「最悪だな」
「洗浄路だからだろ」
とベロ。
「分かるけど最悪だ」
ミズハが六本指で布の端を摘まんだ。引っ張る。千切れた。
「……駄目ね。奥で固まってるわ」
「ぷる」
ぷるが、ぺたりと排水溝に張りついた。震える。吸う。吐く。吸う。吐く。絡まった布が、ずるずる出てくる。
「お前、ほんと便利だな」
「ぷるん」
クロが、奥で引っかかった金具を前足で払った。がこん、と音がした。何かの蓋が外れた。
その瞬間。
排水溝の奥から、黒い塊が飛び出した。
「うわっ!」
牧人が後ろに跳んだ。ザガが槍を構えた。
黒い塊は——動いた。丸い。小さい。甲羅がある。六本の短い脚で走り回っている。
「何だこれ!」
「排水蟲よ」
とミズハ。
「敵か!?」
「害はないわ。詰まった配管に巣を作るの。掃除したから追い出されただけよ」
排水蟲は五匹。手のひらサイズ。パニックを起こして通路を走り回っている。一匹がザガの足を駆け上がった。
「ぎゃあっ!」
「騒ぐな」
とクロ。
「足の上にいるんだよ!」
ミズハが手のひらから水を飛ばした。細い水流が、排水蟲を一匹ずつ弾いて排水溝の別の穴へ押し込む。正確だった。五匹、三秒。
「……やっぱりお前すごいな」
「この程度、仕事のうちよ」
ザガが足を押さえながら言った。
「仕事で助かったけど、もう少し早く言ってくれ」
「悲鳴が早すぎるのよ」
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最後の布束が抜けた。
ごぼっ、と低い音。次に、ざあっと水が走った。
扉の向こうで何かが動いた。止まっていた歯車が回る。乾いた風が、少しだけあたたかくなった。
「開くわよ」
扉が、ゆっくり開いた。
——水が、噴き出した。
「うわっ!」
正確には噴き出したわけではなかった。長年止まっていた配管に水が一気に通り、圧力が弾けたのだ。天井の配管の継ぎ目から、水が四方八方に飛んだ。
全員が濡れた。
牧人が濡れた。ザガが濡れた。ベロが鍋蓋で顔を覆ったが横から濡れた。ナナが初めて悲鳴に近い声を出した。
「培養区画に水を回せと言ったのに!」
「まず止めろ!」
ミズハが両手を上げた。
六本の指が、全部開いた。
水が——止まった。
噴き出していた水流が、空中で停止した。ミズハの指の動きに合わせて、水が配管へ戻っていく。継ぎ目を塞ぐように水膜が張られ、圧力が均される。
五秒で、静かになった。
全員がずぶ濡れだった。
ミズハだけが濡れていなかった。
「……お前だけ濡れてないのずるいだろ」
とザガ。
「水の管理者ですもの」
「くそー」
牧人は水を払いながら、洗浄室を見回した。
広い。思ったより広い。床は浅い水路状で、左右に細い槽が並んでいる。壁には古い棚。奥には、まだ使えそうな木桶まであった。
「……風呂だ」
「洗浄室だ」
とナナ。
「風呂っぽい」
「洗浄室だ」
ミズハが水を流した。細い槽に、透明な水が順番に満ちていく。六本指で水面をなぞると、奥の配管から少しだけ湯気が上がった。
「あったかい?」
とザガ。
「地熱管が生きてるのよ。深層の熱を引いてるの。ぬるま湯くらいにはなるわ」
ザガが目を見開く。
「最高じゃねえか!」
「お前が一番反応するんだな」
と牧人。
「配管掃除のあとで汚れたから、最高だぞ!? 泣くぞ!?」
ベロが鍋蓋を置いた。
「親分、これ怪我人にもいいな」
「だよな。傷も洗える」
ナナが黙っていた。少し考えている顔だった。
「何だ」
「……衛生は大事だ」
「素直だな」
「今回はな。だが、この水量なら培養区画にも回せる。無駄にするな」
「分かった分かった」
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本家へ戻った。
牧人がまだ何も言っていないのに、ザガが開口一番叫んだ。
「風呂があった!」
三秒後、ニコが板を持っていた。
洗浄室あり
「早いな!」
「聞こえたからな」
「聞こえてから書くまで三秒だぞ」
「板は速度だ」
「名言みたいに言うな」
本家の門前は、妙に浮き足立った。怪我人がざわつく。居候の蜥蜴頭が尾を振る。小型種が足元を見下ろす。苔角兎は何も分かっていない。
まめじいだけが落ち着いていた。
「親父殿」
「何だ」
「順番を決めましょう」
「うん」
「怪我人」
「うん」
「次に泥だらけ」
「うん」
「その次に、臭う者」
「言い方ひどい!」
と居候の蜥蜴頭。
「事実ですぞ」
「そうだけど!」
牧人は苔角兎を一匹抱き上げた。
「よし、行くぞ」
「親父殿。怪我人が先では」
「うさぎも怪我してる」
「してないですぞ」
「泥が付いてるのは心の怪我だ」
「屁理屈ですな」
「親分、うさぎ基準だな」
とザガ。
「うさぎ基準だ」
「開き直ったな……」
---
洗浄室。
最初に洗われたのは、結局うさぎだった。
牧人が抱えて、そっと水に入れる。最初の一匹は固まった。次の一匹は全力で逃げた。ぷるが出口を塞いで戻した。三匹目は、なぜか気持ちよさそうに目を閉じた。
「お、これ好きなやついるな」
「うさぎにも個体差があるんだな」
とベロ。
四匹目が暴れた。水が跳ねた。ミズハが手で水を制御して、暴れた分だけ押さえた。うさぎは不満そうだったが、きれいになった。
「ミズハ、すまん」
「いいわよ。こういう仕事、嫌いじゃないの」
六本指でうさぎの耳の泥を落としている。指が長くて器用だった。濡れた髪が肩に落ちて、鰓膜がゆったり揺れている。
ザガが目をそらした。うさぎを洗っているだけなのに目をそらした。
泥が落ちる。草も落ちる。葉っぱも流れる。苔角兎は一段白っぽく、ふわっとした。
「……洗ったらもっとかわいいな」
牧人が笑顔で言う。
「かわいいしか言ってない」
とザガ。
「かわいいだろ。みんなかわいい」
「だろうな……」
次に怪我人を洗浄した。浅い傷を流し、泥を落とし、ミズハがぬるま湯の水圧を調整して、傷口に触れないように水を回す。
「しみないか?」
と牧人。
怪我人の小型種が、ふるふると首を振った。
「ミズハ、上手いな」
「管理者ですもの」
さらりと言う。髪が肩にかかっていた。濡れた表皮が水路の光を反射して、やけにきれいだった。
ベロが鍋蓋で顔を隠した。隠す必要がないのに隠した。
---
全員の洗浄が終わりかけた頃だった。
「あの」
声がした。
洗浄室の入口に、小型種が立っていた。煤だらけ。耳が焦げている。見たことがない個体だった。
その後ろに、もう三匹。四匹。さらに後ろにもいた。
「……洗浄の噂を聞いて来たんだろ」
とザガ。
「早すぎるだろ!」
「ニコの板が早いからだ」
「あいつの板の伝達速度おかしくないか!?」
煤だらけの小型種が、震えながら言う。
「ぬるい水、あるって……」
「あるけど」
「ちょっとだけ、洗いたい」
「いいけど」
「親分、即答かよ!」
とザガ。
「煤かぶったまま嫌だろ」
「そこなんだよな……」
列ができた。
洗浄室の前に、列ができた。
まめじいが帳面を持って立っていた。いつの間にか地下に来ていた。
「いつ来たんですか」
とベロ。
「洗浄希望が増えたので降りてきた」
「仕事が早いな……」
怪我人優先。次に本家の住人。その次に外から来た者。まめじいが淡々と順番を仕切った。
ニコも来ていた。板を三枚持っていた。
怪我優先
静かに待て
走るな
「地下にまで持ってくるのか」
とザガ。
「必要だろ」
「必要なのが怖い」
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そして、事件が起きた。
列の後ろに、見覚えのある影があった。
小さい。蜥蜴型。角が——片方、欠けている。
居候の蜥蜴頭が、はっと振り返った。
「お前——」
片角の蜥蜴頭が、ぎくっと固まった。
ゴルムの偵察だった。
「……違う。俺は、その」
「お前、ゴルムんとこの——」
「違う! 偶然だ! 偶然通りかかっただけだ!」
煤だらけだった。汚れていた。そして、震えていた。
まめじいが穏やかに言った。
「洗浄希望ですかな」
「……ち、違う」
「並んでおりますが」
「並んでない! 列があったから、つい——」
「つい並んだ、と」
「…………」
沈黙。
片角の蜥蜴頭は、唇を噛んでいた。
「……ぬるい水が、あるって」
「ありますぞ」
「ちょっとだけ」
「どうぞ」
ザガが牧人の袖を引いた。
「親分。あいつ、ゴルムの——」
「ああ、ご近所さんとこの子か」
「ご近所……」
「前に挨拶しそびれたからな。こういうとこから仲良くなればいいだろ」
ザガは口を開けた。閉じた。
まめじいと目が合った。まめじいは静かに首を振った。言うな、という顔だった。
「……そうだな、親分」
「だろ? 汚れたまま帰る方が嫌だろ」
ザガは黙った。この人には一生わからないんだろうな、と思った。
片角の蜥蜴頭は、列の最後尾で小さくなっていた。
洗浄が終わったあと、片角の蜥蜴頭は一言も喋らずに帰った。入口で一度だけ振り返った。何か言おうとして、やめて、走って消えた。
居候の蜥蜴頭が、それを見ていた。
「……あいつ、来るかな。また」
---
夜。
牧人は寝台で天井を見ていた。
水が通った。洗えるようになった。怪我人の傷も流せた。うさぎもきれいになった。
配管を掃除して、布を引っ張って、虫を追い出して、水を浴びて。
やったことは、全部そういう地味なことだった。
でも、列に並んだやつらの顔は、少しだけ明るかった。
煤を落として、泥を流して。それだけで、少し楽になった顔をしていた。
飯と、寝床と、怪我の手当てと、今度は風呂。
——廃墟のくせに、どんどん住みやすくなってくる。
隣で、クロが丸くなって寝ていた。足元で苔角兎が三匹、洗いたてのふわふわで丸くなっていた。
牧人は目を閉じた。
---
同じ頃。旧保全路。
片角の蜥蜴頭が、こそこそと戻ってきた。
「偵察は」
とゴルム。
「洗浄施設が動きました。ぬるま湯が出ます。列ができてました」
ゴルムの顎が鳴った。
「……水路の次は風呂か。次は何だ。宿屋でも始めるのか」
「もうほぼ宿屋では」
「うるせえ」
ゴルムは片角の蜥蜴頭を見た。
「……お前、なんかきれいだな」
「気のせいです」
「そうか」
沈黙。
「……別に、羨ましくはねえからな」
蜥蜴頭は聞こえないふりをした。




