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13/20

親分が留守の日を狙って、旧保全路の顔役はやけくそになる


ナナが玄関で待っていた。二日連続だった。


「配管だ」


「おはよう、ナナ」


「おはよう。配管だ」


挨拶を返すようになったのは進歩だった。要件が先なのは変わらない。


「水路の西配管、泥が詰まってる。今日中に抜く」


「わかった。飯食ったら——」


「食べた」


「俺がまだなんだけど」


「急げ」


居候の蜥蜴頭が、隅で粥を啜っていた。ゴルムのところから逃げてきて、そのまま居着いた一匹だ。牧人が「行ってくる」と声をかけると、粥を吹いた。


「ぶっ」


「汚いな!」


「す、すみません! 気をつけて、いってらっしゃい……」


何に気をつけるのかは言わなかった。


そのやり取りを、まめじいが眺めていた。


---


今日の外出組。


牧人。クロ。ナナ。ミズハ。ザガ。ベロ。ぷる。


そこへ、まめじいが口を挟む。


「ぷる殿には、やっていただきたことがりますので、残っていただきましょう」


「そうか、ぷる、いいか?」


牧人が聞いた。ぷるが、ぷるぷる答える。OKらしい。


「俺も行く!」


とニコ。


「だめだ」


と全員。


「なんで」


「お前が行くと板が増えるからだ」


とザガ。


「ひどい偏見だ」


「実績だよ」


留守番は、まめじい、イシコ、ニコ、ぷる。それに寝台で寝ている怪我人が三匹、苔角うさぎの群れが十二匹、居候の蜥蜴頭、出入りしている小型種が数匹。


大分、数が増えた。戦力になるかは別だった。


牧人は地下図面を丸めた。


「じゃあ行ってくる。昼までには戻る」


「戻らないですぞ」とまめじい。


「なんでだよ」


「親父殿が"昼まで"と言う時は、たいてい昼を越えます」


「……たしかに」


とベロ。


イシコが入口脇で静かに言った。


「本家、保持」


「頼む」


「了解」


ミズハが牧人の後ろについた。歩くたびに表皮が通路の光を反射する。ザガが意識的に前を向いた。


隊列が遠ざかる。


門前の空気が少し軽くなった。


---


まめじいは帳面を開いていた。


静かな朝だった。


ニコは板を磨いている。イシコは壁の補修を見ている。ぷるは床で平たくなっている。奥の寝台で怪我人が寝息を立てていた。苔角うさぎが、その足元で丸くなっている。


静かな朝——のはずだった。


まめじいは目の端で、それを見ていた。


本家の裏手は見張りの死角が一か所だけある。


居候の蜥蜴頭が、そこに立っていた。通気口の向こう側に、もう一匹の蜥蜴頭がいた。片方の角が欠けている。ゴルムの偵察だ。


二匹は小声で喋っていた。


「——最近は外出が多くて、今日もやっぱり主要なのは出てった」


「主要なの?」


「黒いのも、人間の親分も、水の女も、ちっこいのも」


「マジか。残ってるのは?」


「爺と、石の女と、板のやつと、床のやつ。あと怪我人とうさぎ」


「それだけ?」


「それだけ」


片角の蜥蜴頭が、足音も立てずに走り去った。


居候の蜥蜴頭は、何食わぬ顔で戻ってきた。粥のおかわりをよそい始めた。


まめじいは帳面に筆を走らせていた。何も見ていないような顔で。


だが、全部聞こえていた。


まめじいは筆を置いた。


「ニコ殿」


「うん?」


「入口の板、外しなさい」


「なんで」


「割れたら悲しいでしょう」


ニコの目が変わった。


「……来るのか」


「来ますぞ」


まめじいは杖を突いて立ち上がった。背は曲がっている。歩みは遅い。だが、目だけが妙に澄んでいた。


「イシコ殿」


「はい」


「入口上の梁、昨日直しかけていましたな」


「途中」


「落とせますか」


「落とせる」


「では、合図があるまで待っていてください」


イシコの赤い目が、一度だけ点滅した。


「ぷる殿」


「ぷる?」


「左の通路に広がっておいてください。滑る程度で構いません」


「ぷるぷる」


ぷるが、するすると左通路へ流れていった。


まめじいは奥を振り返った。怪我人の寝台。苔角うさぎの群れ。小型種たち。


「怪我人には触れさせません。うさぎは奥の部屋へ」


小型種の一匹が、苔角うさぎたちを押して奥へ移動させ始めた。うさぎは状況がわかっていない。もそもそと動きながら、互いに寄り合っていた。


まめじいは居候の蜥蜴頭を見た。穏やかな顔だった。


「あなたは奥で隠れていなさい」


「え? なんで——」


「なんでもですぞ」


目が笑っていた。声は笑っていなかった。


蜥蜴頭は粥の椀を置いて、奥へ消えた。


まめじいは帳面を閉じた。


「では。本家、預かりますぞ」


---


旧保全路の奥。


片角の蜥蜴頭が、息を切らして戻ってきた。


「親分! 出ました! 全員出ました!」


「黒は」


「出ました!」


「人間は」


「出ました!」


「水の女も培養のちびも」


「全部出ました! 残ってるのは爺と石と板と床、あと怪我人とうさぎだけです!」


「うさぎ?」


「苔角のちっこいやつが十何匹か」


「……うさぎは関係ねえだろ」


「関係ないですね」


ゴルムは立ち上がった。


顎が、がち、と鳴った。


今しかない。


前回は駄目だった。だが今回は違う。確実な情報だ。中にいる蜥蜴頭から直接聞いた。


「行くぞ」


「本気ですか」


と蜥蜴頭。


「本気じゃなかったことがあるか」


「最近はずっと体調不良だったじゃないですか」


「気合いで治った」


「その治り方、怖いな……」


ゴルムは部下を見回した。十匹。前回より少ない。減った理由は考えないことにした。


「今しかない。今を逃したら、次は畑だ。水だ。あそこはそのうち全部つながる」


「全部つながると何がまずいんですか」


「流れが終わる。俺のも、お前らのもだ」


それは本音だった。


飯がある。寝床がある。怪我を診る。追い出さない。災厄級までついている。

そんな場所が畑まで持ったらどうなるか。自分の縄張りから、流れが全部あっちに吸われる。


「……今しかない」


「二回言いましたね」


「気合いだ」


十匹が立ち上がった。全員がやけくそだった。


---


本家。


それは、粥が冷める前に来た。


入口の外。足音。十。荒い。隠す気がない。


まめじいは鍋の火を落とさなかった。


奥で、怪我人の一匹が寝返りを打った。苔角うさぎが、もそ、と耳を立てた。


「中の連中!」


ゴルムの声が響いた。


「今日は黒はいねえ! 人間もいねえ! 出てこい!」


ニコが小声で言う。


「宣戦布告が丁寧だな」


「追い詰められた者ほど声が大きくなるものですぞ」


ニコが「静かに」と書いた板を持ってゴルムに向かっていこうとして、まめじいに止められた。


そして、まめじいが杖で床を、こん、と叩いた。


イシコが動いた。


入口の上。直しかけの梁。支えの石を、指一本で弾いた。


梁が落ちる。


どん。


入口の幅が、半分になった。先頭の二匹が飛び退く。


「うわっ!」


「罠か!」とゴルム。


まめじいが入口の奥から声をかけた。


「いえ。老朽化による自然落下ですな」


「嘘をつけ!」


「証拠がありますかな」


なかった。梁は元々古く、直しかけだった。


ゴルムは顎を鳴らした。


「正面が狭いなら回り込め! 左と右に分かれろ!」


三匹が左へ。三匹が右へ。ゴルムと四匹が正面。


---


左へ回った三匹は、十歩で止まった。


床が光っている。ぬるい。透明。そして、やけに広い。


一匹目が滑った。二匹目が一匹目にぶつかった。三匹目の足を、ぷるがじわじわ包み始めた。


「動けねえ!」


「床! 床だこれ!」


「助けて親分!」


ぷるは無言だった。じわじわ、ぬるぬると足を包んでいく。痛くはない。だが動けない。


---


右へ回った三匹は、崩れ壁の前で止まった。


壁が組み直されていた。昨日まで崩れていたはずの壁が、石で半端に塞がれている。


壁の上から、赤い光が見下ろしていた。


イシコだった。


石を一つ落とした。三匹の真ん中に。当てていない。だが地面にめり込んだ。


「通行禁止」


もう一つ、石を持ち上げた。両手で。先ほどより大きい。


三匹は走って戻った。


---


正面。


左も右も潰された。


ゴルムは顎を鳴らして踏み込んだ。梁を砕き、入口を抜ける。


その先に、イシコが立っていた。


両腕を広げて通路を塞いでいる。壁と壁の間に、石の体がぴたりと嵌まっていた。


ゴルムが突進した。


顎を開き、全力で噛みついた。石を砕く顎だ。壁だろうが岩だろうが——


がん。


音が鳴った。


ゴルムの顎が、止まっていた。


噛めなかった。


イシコの片手が、ゴルムの顎を掴んでいた。上顎と下顎の間に石の指が入り、開いたまま固定されている。


「——っ!」


ゴルムが力を込めた。顎の筋肉が膨れる。だが、閉じない。石の指が、びくともしなかった。


イシコの赤い目が、静かにゴルムを見下ろしていた。


「噛めない」


事実だけを言った。


ゴルムの足が浮いた。


イシコが、顎を掴んだまま、持ち上げたのだ。片手で。ゴルムの体が宙に浮く。足が地面を掻いた。届かなかった。


下っ端四匹が凍りついた。


「お、親分——」


「来るな!」


ゴルムが叫んだ。来ても無駄だとわかったからだ。


イシコは静かに言った。


「格が、違う」


そして、ゴルムを下ろした。


投げなかった。叩きつけなかった。静かに、地面に降ろした。


ゴルムの足が地面についた。顎が解放された。歯の間に、石の粉が残っていた。


イシコは一歩も動いていなかった。最初から最後まで、同じ場所に立っていた。


ゴルムは、生まれて初めて、自分の顎が役に立たないという経験をした。


その奥から——匂いがした。


粥だった。


怪我人用に、弱火で煮込んだままの鍋。まめじいが蓋を開けたわけではない。戦闘の振動で蓋がずれたのだ。


あったかい匂いが、通路に流れてきた。


下っ端の一匹の腹が鳴った。


続けて、もう一匹。


ごまかせなかった。


---


沈黙が落ちた。


左はぷるに封じられている。右は石で塞がれている。正面は——もう、見てわかった。


勝てない。


黒がいなくても。人間がいなくても。この石の女だけで、十分すぎた。


まめじいの声が聞こえた。


イシコの後ろ。鍋の横。杖を突いて、帳面を片手に持っている。


「旧保全路の顔役殿」


「……何だ」


「今日のところは、お引き取りいただけませんかな」


「…………」


「お引き取りいただければ、今日のことは帳面に残しません。親父殿の耳にも入れません」


ゴルムの顔から色が消えた。


今日のことが知られたら、あの人間が「お礼参り」と称して乗り込んでくる。


前回の悪夢が蘇った。


「……帳面に残さないんだな」


「残しません。静かな一日でしたぞ、今日は」


「黒にも言わないんだな」


「若頭は、そもそも興味を持たないかと」


それは正しかった。あの黒い災厄は、こんな小競り合いに興味を持つ格ではない。


ゴルムは深く息を吐いた。


顎が鳴った。三回。


「……帰るぞ」


「早!」


と下っ端。


「うるせえ。戦略的撤退だ」


ぷるが足を解放した。イシコが一歩横にずれた。道が開いた。


ゴルムは歩き出した。部下がぞろぞろとついていく。


去り際。振り返らなかった。


だが、小声で言った。


「……あの爺、食えねえな」


蜥蜴頭が頷いた。


「粥は食えそうでしたけどね」


「そういう意味じゃねえ」


---


ゴルムたちが去ったあと。


まめじいは即座に動いた。


「ニコ殿。板を元に戻しなさい」


「おう」


「イシコ殿。梁を戻せますか」


「少し、ずれる」


「構いません。元に近ければ」


「ぷる殿。床を乾かしてください」


「ぷるる」


まめじいは奥を確認した。


怪我人は寝ていた。戦闘の間もずっと寝ていた。よほど疲れていたらしい。

苔角うさぎは、奥の部屋で互いに寄り合って丸くなっていた。小型種の一匹が、うさぎの上で一緒に丸くなっていた。避難したのか寝に行ったのか分からなかった。


「被害なし、ですな」


まめじいは帳面を開いた。


今書いた戦闘の記録をぺりっと破いた。


ニコが目を丸くした。


「まめじい、それ」


「何がですかな」


「今、破った」


「何をですかな」


「記録を——」


「今日は静かな一日ですぞ。何もありません」


ニコは口を開けた。閉じた。


「……爺さん、怖いな」


「褒め言葉ですな」


イシコが梁を持ち上げ直していた。


「イシコ殿。お疲れさまでした」


「問題ない」


「怪我は」


「ない」


本当になかった。ゴルムの顎は、イシコの体に傷一つつけていなかった。


小型種たちが、奥からそろそろと顔を出した。


「終わった?」


「終わりましたぞ。何も起きておりません」


「いや、だいぶ起きて——」


「何も、起きておりません」


まめじいの目が笑っていた。口も笑っていた。だが、声だけが笑っていなかった。


小型種たちは黙った。


居候の蜥蜴頭が、隅から出てきた。


「……すごかった」


まめじいが振り返った。穏やかな顔だった。


「蜥蜴頭殿」


「は、はい」


「裏手で、誰かとお話ししていましたな」


蜥蜴頭の顔が凍った。


「元の仲間が気になる気持ちは分かります。ですが」


まめじいは杖を、こん、と鳴らした。


「次にやったら、粥を減らしますぞ」


蜥蜴頭は震えた。


追い出すとは言わなかった。殴るとも言わなかった。粥を減らす。それが、この場所で最も恐ろしい罰だと、蜥蜴頭は理解していた。


「も、もうしません……」


「よろしい。おかわりはありますぞ」


飴と鞭が同時に来た。


---


昼過ぎ。


「ただいまー」


牧人が帰ってきた。泥だらけだった。ナナも泥だらけだった。ミズハだけ綺麗だった。ザガとベロは疲れ切っていた。クロは普通だった。


「西配管、泥がすごかった……」


「お疲れさまですぞ」


まめじいが粥を温め直していた。


牧人は門前を見た。


「……あれ。梁の位置、ちょっと変わった?」


「老朽化で少しずれましたな。イシコ殿が直してくれました」


「そうか。ありがとう、イシコ」


「問題ない」


牧人は中に入った。怪我人の寝台を覗いた。


「怪我人は?」


「ずっと寝ておりました。よく眠れたようですぞ」


「うさぎは?」


「奥で丸くなっております」


「そうか。よかった」


牧人は鍋を覗いた。


「粥、少し減ってないか?」


全員が一瞬だけ止まった。


「小型種が昼に食べましたぞ」


「ああ、そうか。よく食うな、あいつら」


「育ち盛りですからな」


牧人は頷いた。疑っていなかった。


「変わりなかったか?」


「何もありませんでしたぞ」


とまめじい。


「静かだったな」


とニコ。


「ぷる」


とぷる。


ザガが小声でまめじいに聞いた。


「……何かあったのか」


「何もありませんでしたぞ」


「本当か?」


「本当ですぞ」


ザガはまめじいの目を見た。完璧に笑っていた。


「……わかった」


それ以上は聞かなかった。聞かない方がいいと分かったからだ。


---


夜。


牧人は寝台で天井を見ていた。


配管は半分終わった。明日、残りをやれば水が通る。水が通れば畑が動く。畑が動けば飯が安定する。


飯が安定すれば、もう少し楽になる。


隣で、クロが丸くなって寝ていた。


向こうの寝台で、怪我人がまだ寝ていた。よく寝る。


苔角うさぎが足元で丸くなっていた。一匹が牧人の手に頭を押しつけてきた。苔の感触がひんやりして、少し気持ちよかった。


静かだった。


今日も、何もない一日だった。


牧人は目を閉じた。


---


同じ頃。


旧保全路。


ゴルムは座っていた。


暗闇の中で、顎を鳴らしていた。


あの石の女の指の感触が、まだ顎に残っていた。


噛めなかった。生まれて初めて。


自分の顎は、この旧保全路で最も硬いものを砕いてきた。それが自分の武器で、自分の誇りで、自分の縄張りの根拠だった。


あの石の女は、それを片手で止めた。


持ち上げた。


そして——投げなかった。


殺せたはずだ。あの力なら、叩きつければ終わっていた。だが、降ろした。静かに、地面に降ろした。


それが一番きつかった。


殺す気がない相手に、殺す気で挑んで、片手であしらわれた。


「親分」


蜥蜴頭が、恐る恐る聞いた。


「もう行かないですよね」


「…………」


「行かないですよね?」


「……行かねえよ」


初めて、はっきりと言った。


もう、勝てない。


分かっていた。黒がいなくてもだ。人間がいなくてもだ。あの爺と石の女だけで、あの巣は落ちない。


ゴルムは目を閉じた。


顎を鳴らした。


もう一回、鳴らした。


「……腹、減ったな」


蜥蜴頭は聞こえないふりをした。


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