親分が留守の日を狙って、旧保全路の顔役はやけくそになる
ナナが玄関で待っていた。二日連続だった。
「配管だ」
「おはよう、ナナ」
「おはよう。配管だ」
挨拶を返すようになったのは進歩だった。要件が先なのは変わらない。
「水路の西配管、泥が詰まってる。今日中に抜く」
「わかった。飯食ったら——」
「食べた」
「俺がまだなんだけど」
「急げ」
居候の蜥蜴頭が、隅で粥を啜っていた。ゴルムのところから逃げてきて、そのまま居着いた一匹だ。牧人が「行ってくる」と声をかけると、粥を吹いた。
「ぶっ」
「汚いな!」
「す、すみません! 気をつけて、いってらっしゃい……」
何に気をつけるのかは言わなかった。
そのやり取りを、まめじいが眺めていた。
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今日の外出組。
牧人。クロ。ナナ。ミズハ。ザガ。ベロ。ぷる。
そこへ、まめじいが口を挟む。
「ぷる殿には、やっていただきたことがりますので、残っていただきましょう」
「そうか、ぷる、いいか?」
牧人が聞いた。ぷるが、ぷるぷる答える。OKらしい。
「俺も行く!」
とニコ。
「だめだ」
と全員。
「なんで」
「お前が行くと板が増えるからだ」
とザガ。
「ひどい偏見だ」
「実績だよ」
留守番は、まめじい、イシコ、ニコ、ぷる。それに寝台で寝ている怪我人が三匹、苔角うさぎの群れが十二匹、居候の蜥蜴頭、出入りしている小型種が数匹。
大分、数が増えた。戦力になるかは別だった。
牧人は地下図面を丸めた。
「じゃあ行ってくる。昼までには戻る」
「戻らないですぞ」とまめじい。
「なんでだよ」
「親父殿が"昼まで"と言う時は、たいてい昼を越えます」
「……たしかに」
とベロ。
イシコが入口脇で静かに言った。
「本家、保持」
「頼む」
「了解」
ミズハが牧人の後ろについた。歩くたびに表皮が通路の光を反射する。ザガが意識的に前を向いた。
隊列が遠ざかる。
門前の空気が少し軽くなった。
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まめじいは帳面を開いていた。
静かな朝だった。
ニコは板を磨いている。イシコは壁の補修を見ている。ぷるは床で平たくなっている。奥の寝台で怪我人が寝息を立てていた。苔角うさぎが、その足元で丸くなっている。
静かな朝——のはずだった。
まめじいは目の端で、それを見ていた。
本家の裏手は見張りの死角が一か所だけある。
居候の蜥蜴頭が、そこに立っていた。通気口の向こう側に、もう一匹の蜥蜴頭がいた。片方の角が欠けている。ゴルムの偵察だ。
二匹は小声で喋っていた。
「——最近は外出が多くて、今日もやっぱり主要なのは出てった」
「主要なの?」
「黒いのも、人間の親分も、水の女も、ちっこいのも」
「マジか。残ってるのは?」
「爺と、石の女と、板のやつと、床のやつ。あと怪我人とうさぎ」
「それだけ?」
「それだけ」
片角の蜥蜴頭が、足音も立てずに走り去った。
居候の蜥蜴頭は、何食わぬ顔で戻ってきた。粥のおかわりをよそい始めた。
まめじいは帳面に筆を走らせていた。何も見ていないような顔で。
だが、全部聞こえていた。
まめじいは筆を置いた。
「ニコ殿」
「うん?」
「入口の板、外しなさい」
「なんで」
「割れたら悲しいでしょう」
ニコの目が変わった。
「……来るのか」
「来ますぞ」
まめじいは杖を突いて立ち上がった。背は曲がっている。歩みは遅い。だが、目だけが妙に澄んでいた。
「イシコ殿」
「はい」
「入口上の梁、昨日直しかけていましたな」
「途中」
「落とせますか」
「落とせる」
「では、合図があるまで待っていてください」
イシコの赤い目が、一度だけ点滅した。
「ぷる殿」
「ぷる?」
「左の通路に広がっておいてください。滑る程度で構いません」
「ぷるぷる」
ぷるが、するすると左通路へ流れていった。
まめじいは奥を振り返った。怪我人の寝台。苔角うさぎの群れ。小型種たち。
「怪我人には触れさせません。うさぎは奥の部屋へ」
小型種の一匹が、苔角うさぎたちを押して奥へ移動させ始めた。うさぎは状況がわかっていない。もそもそと動きながら、互いに寄り合っていた。
まめじいは居候の蜥蜴頭を見た。穏やかな顔だった。
「あなたは奥で隠れていなさい」
「え? なんで——」
「なんでもですぞ」
目が笑っていた。声は笑っていなかった。
蜥蜴頭は粥の椀を置いて、奥へ消えた。
まめじいは帳面を閉じた。
「では。本家、預かりますぞ」
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旧保全路の奥。
片角の蜥蜴頭が、息を切らして戻ってきた。
「親分! 出ました! 全員出ました!」
「黒は」
「出ました!」
「人間は」
「出ました!」
「水の女も培養のちびも」
「全部出ました! 残ってるのは爺と石と板と床、あと怪我人とうさぎだけです!」
「うさぎ?」
「苔角のちっこいやつが十何匹か」
「……うさぎは関係ねえだろ」
「関係ないですね」
ゴルムは立ち上がった。
顎が、がち、と鳴った。
今しかない。
前回は駄目だった。だが今回は違う。確実な情報だ。中にいる蜥蜴頭から直接聞いた。
「行くぞ」
「本気ですか」
と蜥蜴頭。
「本気じゃなかったことがあるか」
「最近はずっと体調不良だったじゃないですか」
「気合いで治った」
「その治り方、怖いな……」
ゴルムは部下を見回した。十匹。前回より少ない。減った理由は考えないことにした。
「今しかない。今を逃したら、次は畑だ。水だ。あそこはそのうち全部つながる」
「全部つながると何がまずいんですか」
「流れが終わる。俺のも、お前らのもだ」
それは本音だった。
飯がある。寝床がある。怪我を診る。追い出さない。災厄級までついている。
そんな場所が畑まで持ったらどうなるか。自分の縄張りから、流れが全部あっちに吸われる。
「……今しかない」
「二回言いましたね」
「気合いだ」
十匹が立ち上がった。全員がやけくそだった。
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本家。
それは、粥が冷める前に来た。
入口の外。足音。十。荒い。隠す気がない。
まめじいは鍋の火を落とさなかった。
奥で、怪我人の一匹が寝返りを打った。苔角うさぎが、もそ、と耳を立てた。
「中の連中!」
ゴルムの声が響いた。
「今日は黒はいねえ! 人間もいねえ! 出てこい!」
ニコが小声で言う。
「宣戦布告が丁寧だな」
「追い詰められた者ほど声が大きくなるものですぞ」
ニコが「静かに」と書いた板を持ってゴルムに向かっていこうとして、まめじいに止められた。
そして、まめじいが杖で床を、こん、と叩いた。
イシコが動いた。
入口の上。直しかけの梁。支えの石を、指一本で弾いた。
梁が落ちる。
どん。
入口の幅が、半分になった。先頭の二匹が飛び退く。
「うわっ!」
「罠か!」とゴルム。
まめじいが入口の奥から声をかけた。
「いえ。老朽化による自然落下ですな」
「嘘をつけ!」
「証拠がありますかな」
なかった。梁は元々古く、直しかけだった。
ゴルムは顎を鳴らした。
「正面が狭いなら回り込め! 左と右に分かれろ!」
三匹が左へ。三匹が右へ。ゴルムと四匹が正面。
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左へ回った三匹は、十歩で止まった。
床が光っている。ぬるい。透明。そして、やけに広い。
一匹目が滑った。二匹目が一匹目にぶつかった。三匹目の足を、ぷるがじわじわ包み始めた。
「動けねえ!」
「床! 床だこれ!」
「助けて親分!」
ぷるは無言だった。じわじわ、ぬるぬると足を包んでいく。痛くはない。だが動けない。
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右へ回った三匹は、崩れ壁の前で止まった。
壁が組み直されていた。昨日まで崩れていたはずの壁が、石で半端に塞がれている。
壁の上から、赤い光が見下ろしていた。
イシコだった。
石を一つ落とした。三匹の真ん中に。当てていない。だが地面にめり込んだ。
「通行禁止」
もう一つ、石を持ち上げた。両手で。先ほどより大きい。
三匹は走って戻った。
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正面。
左も右も潰された。
ゴルムは顎を鳴らして踏み込んだ。梁を砕き、入口を抜ける。
その先に、イシコが立っていた。
両腕を広げて通路を塞いでいる。壁と壁の間に、石の体がぴたりと嵌まっていた。
ゴルムが突進した。
顎を開き、全力で噛みついた。石を砕く顎だ。壁だろうが岩だろうが——
がん。
音が鳴った。
ゴルムの顎が、止まっていた。
噛めなかった。
イシコの片手が、ゴルムの顎を掴んでいた。上顎と下顎の間に石の指が入り、開いたまま固定されている。
「——っ!」
ゴルムが力を込めた。顎の筋肉が膨れる。だが、閉じない。石の指が、びくともしなかった。
イシコの赤い目が、静かにゴルムを見下ろしていた。
「噛めない」
事実だけを言った。
ゴルムの足が浮いた。
イシコが、顎を掴んだまま、持ち上げたのだ。片手で。ゴルムの体が宙に浮く。足が地面を掻いた。届かなかった。
下っ端四匹が凍りついた。
「お、親分——」
「来るな!」
ゴルムが叫んだ。来ても無駄だとわかったからだ。
イシコは静かに言った。
「格が、違う」
そして、ゴルムを下ろした。
投げなかった。叩きつけなかった。静かに、地面に降ろした。
ゴルムの足が地面についた。顎が解放された。歯の間に、石の粉が残っていた。
イシコは一歩も動いていなかった。最初から最後まで、同じ場所に立っていた。
ゴルムは、生まれて初めて、自分の顎が役に立たないという経験をした。
その奥から——匂いがした。
粥だった。
怪我人用に、弱火で煮込んだままの鍋。まめじいが蓋を開けたわけではない。戦闘の振動で蓋がずれたのだ。
あったかい匂いが、通路に流れてきた。
下っ端の一匹の腹が鳴った。
続けて、もう一匹。
ごまかせなかった。
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沈黙が落ちた。
左はぷるに封じられている。右は石で塞がれている。正面は——もう、見てわかった。
勝てない。
黒がいなくても。人間がいなくても。この石の女だけで、十分すぎた。
まめじいの声が聞こえた。
イシコの後ろ。鍋の横。杖を突いて、帳面を片手に持っている。
「旧保全路の顔役殿」
「……何だ」
「今日のところは、お引き取りいただけませんかな」
「…………」
「お引き取りいただければ、今日のことは帳面に残しません。親父殿の耳にも入れません」
ゴルムの顔から色が消えた。
今日のことが知られたら、あの人間が「お礼参り」と称して乗り込んでくる。
前回の悪夢が蘇った。
「……帳面に残さないんだな」
「残しません。静かな一日でしたぞ、今日は」
「黒にも言わないんだな」
「若頭は、そもそも興味を持たないかと」
それは正しかった。あの黒い災厄は、こんな小競り合いに興味を持つ格ではない。
ゴルムは深く息を吐いた。
顎が鳴った。三回。
「……帰るぞ」
「早!」
と下っ端。
「うるせえ。戦略的撤退だ」
ぷるが足を解放した。イシコが一歩横にずれた。道が開いた。
ゴルムは歩き出した。部下がぞろぞろとついていく。
去り際。振り返らなかった。
だが、小声で言った。
「……あの爺、食えねえな」
蜥蜴頭が頷いた。
「粥は食えそうでしたけどね」
「そういう意味じゃねえ」
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ゴルムたちが去ったあと。
まめじいは即座に動いた。
「ニコ殿。板を元に戻しなさい」
「おう」
「イシコ殿。梁を戻せますか」
「少し、ずれる」
「構いません。元に近ければ」
「ぷる殿。床を乾かしてください」
「ぷるる」
まめじいは奥を確認した。
怪我人は寝ていた。戦闘の間もずっと寝ていた。よほど疲れていたらしい。
苔角うさぎは、奥の部屋で互いに寄り合って丸くなっていた。小型種の一匹が、うさぎの上で一緒に丸くなっていた。避難したのか寝に行ったのか分からなかった。
「被害なし、ですな」
まめじいは帳面を開いた。
今書いた戦闘の記録をぺりっと破いた。
ニコが目を丸くした。
「まめじい、それ」
「何がですかな」
「今、破った」
「何をですかな」
「記録を——」
「今日は静かな一日ですぞ。何もありません」
ニコは口を開けた。閉じた。
「……爺さん、怖いな」
「褒め言葉ですな」
イシコが梁を持ち上げ直していた。
「イシコ殿。お疲れさまでした」
「問題ない」
「怪我は」
「ない」
本当になかった。ゴルムの顎は、イシコの体に傷一つつけていなかった。
小型種たちが、奥からそろそろと顔を出した。
「終わった?」
「終わりましたぞ。何も起きておりません」
「いや、だいぶ起きて——」
「何も、起きておりません」
まめじいの目が笑っていた。口も笑っていた。だが、声だけが笑っていなかった。
小型種たちは黙った。
居候の蜥蜴頭が、隅から出てきた。
「……すごかった」
まめじいが振り返った。穏やかな顔だった。
「蜥蜴頭殿」
「は、はい」
「裏手で、誰かとお話ししていましたな」
蜥蜴頭の顔が凍った。
「元の仲間が気になる気持ちは分かります。ですが」
まめじいは杖を、こん、と鳴らした。
「次にやったら、粥を減らしますぞ」
蜥蜴頭は震えた。
追い出すとは言わなかった。殴るとも言わなかった。粥を減らす。それが、この場所で最も恐ろしい罰だと、蜥蜴頭は理解していた。
「も、もうしません……」
「よろしい。おかわりはありますぞ」
飴と鞭が同時に来た。
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昼過ぎ。
「ただいまー」
牧人が帰ってきた。泥だらけだった。ナナも泥だらけだった。ミズハだけ綺麗だった。ザガとベロは疲れ切っていた。クロは普通だった。
「西配管、泥がすごかった……」
「お疲れさまですぞ」
まめじいが粥を温め直していた。
牧人は門前を見た。
「……あれ。梁の位置、ちょっと変わった?」
「老朽化で少しずれましたな。イシコ殿が直してくれました」
「そうか。ありがとう、イシコ」
「問題ない」
牧人は中に入った。怪我人の寝台を覗いた。
「怪我人は?」
「ずっと寝ておりました。よく眠れたようですぞ」
「うさぎは?」
「奥で丸くなっております」
「そうか。よかった」
牧人は鍋を覗いた。
「粥、少し減ってないか?」
全員が一瞬だけ止まった。
「小型種が昼に食べましたぞ」
「ああ、そうか。よく食うな、あいつら」
「育ち盛りですからな」
牧人は頷いた。疑っていなかった。
「変わりなかったか?」
「何もありませんでしたぞ」
とまめじい。
「静かだったな」
とニコ。
「ぷる」
とぷる。
ザガが小声でまめじいに聞いた。
「……何かあったのか」
「何もありませんでしたぞ」
「本当か?」
「本当ですぞ」
ザガはまめじいの目を見た。完璧に笑っていた。
「……わかった」
それ以上は聞かなかった。聞かない方がいいと分かったからだ。
---
夜。
牧人は寝台で天井を見ていた。
配管は半分終わった。明日、残りをやれば水が通る。水が通れば畑が動く。畑が動けば飯が安定する。
飯が安定すれば、もう少し楽になる。
隣で、クロが丸くなって寝ていた。
向こうの寝台で、怪我人がまだ寝ていた。よく寝る。
苔角うさぎが足元で丸くなっていた。一匹が牧人の手に頭を押しつけてきた。苔の感触がひんやりして、少し気持ちよかった。
静かだった。
今日も、何もない一日だった。
牧人は目を閉じた。
---
同じ頃。
旧保全路。
ゴルムは座っていた。
暗闇の中で、顎を鳴らしていた。
あの石の女の指の感触が、まだ顎に残っていた。
噛めなかった。生まれて初めて。
自分の顎は、この旧保全路で最も硬いものを砕いてきた。それが自分の武器で、自分の誇りで、自分の縄張りの根拠だった。
あの石の女は、それを片手で止めた。
持ち上げた。
そして——投げなかった。
殺せたはずだ。あの力なら、叩きつければ終わっていた。だが、降ろした。静かに、地面に降ろした。
それが一番きつかった。
殺す気がない相手に、殺す気で挑んで、片手であしらわれた。
「親分」
蜥蜴頭が、恐る恐る聞いた。
「もう行かないですよね」
「…………」
「行かないですよね?」
「……行かねえよ」
初めて、はっきりと言った。
もう、勝てない。
分かっていた。黒がいなくてもだ。人間がいなくてもだ。あの爺と石の女だけで、あの巣は落ちない。
ゴルムは目を閉じた。
顎を鳴らした。
もう一回、鳴らした。
「……腹、減ったな」
蜥蜴頭は聞こえないふりをした。




