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12/20

畑を見に行ったら、水路の奥に色っぽい管理者がいた


ナナが待っていた。


牧人が目を開けた時にはもう、寝台の横に立っていた。腕を組んで、剪定鋏を片手に、無言で。


「……いつからいる」


「一時間前」


「起こしてくれよ」


「寝ていた方が効率的だと判断した。起きるまで待った」


優しさではない。合理性だった。


「水路を見に行く。培養区画の土壌は整えた。次は水だ。水路が生きてなければ畑は動かない」


「わかった。朝飯——」


「食べた」


「俺がまだなんだけど」


「急げ」


ザガが粥の鍋を持ってきた。


「親分、ナナがさっきから入口で仁王立ちしてたぞ」


「言ってくれよ……」


「言ったら起こすことになるだろ。寝かせておこうと思って」


ナナと同じ判断を、別の理由でしていた。


---


探索組は、牧人、クロ、ザガ、ベロ、ぷる、ナナの六名。


まめじいは台帳整理のため地上。イシコは本家入口の警備。ニコは——案内板を増やしていた。誰も止められなかった。


旧保全区画の奥、培養区画のさらに先。


天井が低くなり、壁の苔が厚くなる。空気が変わった。湿っている。足元に薄く水が滲みていた。


「水の気配がある」


ナナが立ち止まった。壁に手を当て、耳を——耳があるのかわからないが、何かを押しつけている。


「……一部、生きてる。全部じゃない。だが、流れてる区画がある」


「じゃあ畑に引けるのか?」


「見てからだ」


通路が狭くなった。


クロが、ぴたりと止まった。


「——来る」


天井の亀裂から、影が落ちた。


水棲の蟲。体長は腕ほど。甲殻に覆われた平たい体、六本の脚、先端に鉤爪。湿った通路に適応した中型の捕食種。


一匹ではない。天井の隙間から次々と滑り出してくる。


「水路近くの掃除屋だな」


ザガが槍を構えた。


「数は——七、八はいるぞ」


先頭の一匹が、牧人に向かって跳んだ。


ベロの鍋蓋が弾いた。がん、と甲殻が鳴る。


「硬ぇな!」


二匹目、三匹目が天井から落下する。ザガが槍で牽制するが、甲殻が厚く、刃が滑る。ぷるが牧人の足元で広がり、壁を作って四匹目を受け止めた。


クロが一歩、前に出かけた。


その時——水路側の鉄扉が、内側から開いた。


水が、溢れた。


溢れた、というより——飛んだ。


扉の隙間から噴き出した水流が、意思を持ったように通路を走った。天井に張りついていた蟲を一匹ずつ、正確に叩き落とす。

壁を這っていた個体は水圧で剥がされ、地面に転がった。


水が、蟲の甲殻の隙間に入り込む。関節の内側、脚の付け根、鰓孔。蟲が痙攣した。一匹、二匹、三匹——同時に動きが止まる。


六秒。


八匹全部が、地面に転がっていた。


水が引いた。通路の床を薄く流れて、扉の向こうへ戻っていく。


全員が黙った。


扉の向こうに、誰かが立っていた。


「——うるさいと思ったら」


声が、水路に響いた。低すぎず、高すぎず、湿り気を含んだ声だった。言葉の終わりが、水面に落ちた雫のように余韻を引く。


「……こっちに来る前に、掃除くらいしてほしいわね」


---


細い。長い。


水膜と同じような、滑らかな表皮。色は淡い青灰色。光の加減で、肌理が水面のように揺らいで見える。

人型に近いが、指が六本あり、その一本一本が長く、しなやかに反っている。首の横に、魚の鰓のような薄い膜がひらひらと揺れていた。


体の線が、はっきり見える。水路管理に適応した体は余分なものが何もなく、そのぶん輪郭がそのまま出ていた。

表皮を伝う水滴が、首筋から鎖骨の窪みを通り、ゆっくりと流れ落ちる。


切れ長の、深い藍色の目。


その目が、ゆっくりとこちらを見た。


鰓膜がふわりと開いた。口元が弧を描く。


ザガの槍が、がたん、と落ちた。


「……おい」


牧人が振り返った。ザガが槍を拾い直していた。顔が妙に硬い。


「手が滑った」


「嘘つけ」


ベロが鍋蓋を胸の前に抱えていた。盾というより、何かを隠しているような持ち方だった。目が泳いでいる。


ナナだけが無反応だった。腕を組んで、じっと相手を見ている。ぷるもいつも通りだった。スライムに色気は通じないらしい。


クロは壁の苔を見ていた。完全に興味がなかった。


牧人は、一拍遅れて思った。


——綺麗だな。


いや、すぐに訂正した。綺麗というか、なんというか。かわいいともちょっと違う。ナナやイシコや受付端末とは明らかに雰囲気が違う。目のやり場に、少し困る。


「……何?」


水路管理個体が首を傾げた。長い首が斜めに倒れると、鰓膜が片側だけ開いた。濡れた表皮が、水路の青い光を反射する。


無意識だろう。無意識で、これだった。


「親分」


ザガが横から言った。声がわずかに上ずっている。


「固まってるぞ」


「お前もだろ」


「俺は手が滑っただけだ」


---


水路管理個体。


自称、「水路保全管理・第三系統」。


端末が起動した通知を受け、接続確認のために待機していたらしい。


「ずっとここにいたのか?」


「ずっとは語弊があるわ」


壁にもたれた。六本の指が壁面をなぞる。指先が通った跡に、水滴が筋を引いた。


「長く寝てて、起きたのは最近。端末の信号が来たから」


ナナと同じだった。端末起動が連鎖的に施設管理系を呼び覚ましている。


ザガが小声で牧人に言った。


「……なんであの見た目なんだ」


「水路管理だからだろ。水に適応した——」


「そういう話じゃねえ」


「どういう話だよ」


「わかるだろ」


わかった。わかったが、そこには触れない。


ナナが前に出た。仕事の話に入ると、彼女は一切揺れない。


「水路の稼働状況は」


「東側二本は生きてる。西は詰まってる。南は……知らない。管轄外」


「培養区画への接続は」


「できると思うけど、配管の掃除が先ね」


髪——のような頭部の膜を、指で耳の後ろにかき上げた。首筋が露わになる。鰓膜の根元から、薄い水の匂いがした。


「長いこと放置してたから」


ベロが鍋蓋を持ち直した。ザガが咳払いをした。


ナナが振り返った。


「牧人。水が使える。だが作業がいる」


「だろうな……」


「人手を出せ」


「はい」


ザガが小声で言った。


「親分、ナナに命令されて返事してるぞ」


「……ついね」


---


水路管理個体は、話し方がゆっくりだった。


ナナが「結論から言え」型なら、こちらは「前置きが長い」型。


「この水路はね、元々は三系統あって、それぞれ独立した循環を——」


「で、使えるのか使えないのか」


ナナが遮った。


「……せっかちね」


溜息をついた。目を伏せて、鰓膜が大きく開いた。肩が落ち、鎖骨の線がくっきりと浮いた。


ただの溜息だった。ただの溜息が、妙に色っぽかった。


ザガが目をそらした。ベロが鍋蓋を顔の高さまで上げた。


「急いでる。畑が止まってる」


「畑? 培養区画、動かすの?」


「動かす。水がいる。出せるか」


「出せるけど、配管の——」


「掃除はこっちでやる。水を流す判断はお前の管轄だろう」


「……まあ、そうね」


水路管理個体が、初めてナナをちゃんと見た。


「あなた、培養区画の?」


「播種補佐七号」


「ああ、農業担当。じゃあ同僚みたいなものね」


「同僚じゃない。系統が違う」


「冷たいわね」


「事実だ」


牧人はこの会話を聞きながら思った。


——職場の人間関係だ、これ。


魔物の、施設管理系の、職場の人間関係。なぜ俺がこれを仲裁する空気になっている。


---


クロが、水路の奥を見ていた。


水路管理個体が、ちらりとクロを見た。


——目をそらした。


すぐに牧人の方を向き直した。表情は変わらない。が、鰓膜が一瞬だけぴたりと閉じた。


「……あの方は?」


「クロ。うちの……うちの、まあ、最初からいるやつ」


「そう」


それ以上聞かなかった。聞かないことが、答えだった。


クロの格を、一目で理解している。施設管理系は、流れの変化に敏感だ。深層災厄級の気配を読み間違えるはずがない。


---


「ところで」


牧人が言った。


「名前、どうする」


水路管理個体が首を傾げた。


「名前?」


「呼び方。"水路保全管理・第三系統"って毎回言うの長いから」


「……別にいいけど」


「ナナは播種補佐七号だから七でナナにした。お前は第三系統だから——三、ミ……ミズハ、とか」


「雑ね」


「問題ないだろ」


「いいわよ、別に。呼びやすいなら」


素っ気なかった。が、目元がわずかに緩んだ。鰓膜が、ほんの少しだけ揺れた。


壁のスピーカーから、事務的な声がした。


「水路保全管理・第三系統の起動を確認済みです。名称登録を行いますか」


受付端末だった。


ミズハがスピーカーを見上げた。


「……あら。まだ動いてたの」


「稼働中です」


「久しぶりね」


「業務に期間の感想はありません」


「相変わらずね」


「名称"ミズハ"で登録します。所属:本家」


「勝手に所属つけるな」


と牧人。


「仮登録責任者の承認済みです」


「してない」


「名前をつけた時点で承認と見なします」


「……そういうシステムなの?」


「はい」


ザガが笑った。ベロが鍋蓋で口を隠して笑った。ナナだけが真顔で言った。


「じゃあミズハ。配管掃除の段取りを出せ。明日からやる」


「……本当にせっかちね」


---


「それで」


牧人が言った。


「ミズハはここに残るのか?」


「ここは水路よ。管轄だけど住む場所じゃないわ。寝る場所もないし、食事もない」


「……まあ、そうだよな」


「寝台があるんでしょう? 端末の通知で、臨時寝台区画が開放されたって聞いたけど」


聞いている。施設系の情報共有は早い。


「……来るのか、本家に」


「水路の管理は毎日来て見回ればいい。でも寝泊まりする場所がここにはないの。見ての通り」


水路を見た。水と苔と石しかなかった。確かに、寝る場所はない。


ナナが頷いた。


「配管作業で毎朝こっちに来る。同行すれば効率的だ」


初めてミズハと意見が合った。


「合理的だ。配管作業は早朝から行う。近い方がいい」


牧人は全員の顔を見た。


ザガが目をそらした。ベロが鍋蓋の裏を磨き始めた。クロは苔を見ていた。


「……わかった。寝台、一つ空けとく」


「ありがとう」


微笑んだ。六本の指を軽く組んで、小さく頭を下げた。濡れた表皮が光を弾いて、鰓膜がひらりと揺れた。


「……優しいのね」


ザガの槍が、がたん、と落ちた。


「手が滑った」


「——二回目だぞ」


---


帰り道。


ミズハが一緒に歩いていた。


荷物はない。元々、何も持っていなかった。水路に長く眠っていた個体に、私物という概念はないらしい。


ベロが蟲の甲殻が入った袋を担いでいた。ナナが歩きながら中身を確認している。


「関節部分は除け。硬すぎる。腹の中身だけ分けろ」


「ナナ殿、歩きながらやるんですか……」


「歩く時間が無駄だ。作業を重ねろ」


ミズハが少し後ろを歩いていた。歩くたびに、表皮の水膜が通路の光を反射する。動きに無駄がない。一歩ごとに体の重心が滑らかに移る。

水の中を歩いていた生き物の、水の動き方だった。腰から脚にかけての輪郭が、光のたびにくっきり浮かんでは消える。


ザガとベロが、意識的に前を向いて歩いていた。


「親分」


ザガが、前を向いたまま言った。


「なんだ」


「あれは……反則だろ」


「何が」


「何がじゃねえよ」


「親分は全部の魔物がかわいいんじゃなかったのか」


とベロ。


「かわいいよ。みんなかわいい」


「じゃあミズハも"かわいい"か?」


牧人は少し考えた。


「……かわいいとは、ちょっと違った」


「だろうな」


「違ったけど! 別に、そういうんじゃない」


「誰もそういうとは言ってない」


「言おうとしてたろ」


「してない」


「してたぞ」


とクロ。


お前が言うのか。


後ろでミズハが小さく笑った。


ザガの足が一瞬もつれた。


---


本家に戻ると、まめじいが台帳を開いて待っていた。


「おかえりなさいませ。成果は」


「水路が一部生きてた。あと、また増えた」


「増えた、とは」


「施設管理系がもう一体いた。水路担当。名前はミズハ。こっちに住む」


まめじいが顔を上げた。


ミズハが、牧人の後ろから姿を見せた。


「お世話になるわね」


「おお、これはこれは。ようこそですじゃ」


丁寧にお辞儀をして、台帳に筆を走らせた。


「……また、ですかな」


「また」


「端末が起きて、ナナ殿が来て、今度は水路の方。次は何が来ますかな」


「来ないでほしい」


「来るでしょうな」


まめじいは楽しそうだった。牧人は楽しくなかった。


台帳に「水路管理個体・ミズハ・施設管理型・端末起動に伴う覚醒」と書き込まれる。所属欄に「本家」。もう誰も突っ込まなかった。


---


夜。


牧人は寝台で天井を見ていた。


ナナが来て、畑を始めた。ミズハが起きて、水路が使えるかもしれない。受付端末は毎日何かを記録している。イシコは黙って入口に立っている。


地上では、ザガが「近所」と呼ぶ魔物が増え、まめじいの台帳は厚くなり、ニコの板はもう数えていない。


隣で、クロがもう寝ていた。丸くなって、尻尾を鼻に巻いて、完全に寝ていた。


明日は配管掃除だ。


飯のためだ。


それだけだ。


牧人は目を閉じた。


---


同じ頃。


旧保全路、ゴルムの縄張り。


下っ端の蜥蜴頭が、震えながら報告していた。


「あ、あの……向こうの巣が、水路に手ぇ出したみたいです」


ゴルムの顎が、ぎり、と鳴った。


「……水路だと?」


「はい。水路に棲んでた管理の個体が動き出して……施設系がまた一体、あっちに取り込まれたって」


ゴルムは黙った。


水路は、旧保全路の生命線でもある。


あの巣が水路を掌握したら。


「親分、まだ体調不良ですか」


「不良だ。ずっと不良だ。いいか、向こうには近づくな。こっちにも来させるな」


蜥蜴頭が去った後、ゴルムは一人で座っていた。


顎を、がち、と鳴らした。


——あの「親分」は、何がしたいんだ。


答えは、誰にもわからなかった。


本人にも。


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