畑を見に行ったら、水路の奥に色っぽい管理者がいた
ナナが待っていた。
牧人が目を開けた時にはもう、寝台の横に立っていた。腕を組んで、剪定鋏を片手に、無言で。
「……いつからいる」
「一時間前」
「起こしてくれよ」
「寝ていた方が効率的だと判断した。起きるまで待った」
優しさではない。合理性だった。
「水路を見に行く。培養区画の土壌は整えた。次は水だ。水路が生きてなければ畑は動かない」
「わかった。朝飯——」
「食べた」
「俺がまだなんだけど」
「急げ」
ザガが粥の鍋を持ってきた。
「親分、ナナがさっきから入口で仁王立ちしてたぞ」
「言ってくれよ……」
「言ったら起こすことになるだろ。寝かせておこうと思って」
ナナと同じ判断を、別の理由でしていた。
---
探索組は、牧人、クロ、ザガ、ベロ、ぷる、ナナの六名。
まめじいは台帳整理のため地上。イシコは本家入口の警備。ニコは——案内板を増やしていた。誰も止められなかった。
旧保全区画の奥、培養区画のさらに先。
天井が低くなり、壁の苔が厚くなる。空気が変わった。湿っている。足元に薄く水が滲みていた。
「水の気配がある」
ナナが立ち止まった。壁に手を当て、耳を——耳があるのかわからないが、何かを押しつけている。
「……一部、生きてる。全部じゃない。だが、流れてる区画がある」
「じゃあ畑に引けるのか?」
「見てからだ」
通路が狭くなった。
クロが、ぴたりと止まった。
「——来る」
天井の亀裂から、影が落ちた。
水棲の蟲。体長は腕ほど。甲殻に覆われた平たい体、六本の脚、先端に鉤爪。湿った通路に適応した中型の捕食種。
一匹ではない。天井の隙間から次々と滑り出してくる。
「水路近くの掃除屋だな」
ザガが槍を構えた。
「数は——七、八はいるぞ」
先頭の一匹が、牧人に向かって跳んだ。
ベロの鍋蓋が弾いた。がん、と甲殻が鳴る。
「硬ぇな!」
二匹目、三匹目が天井から落下する。ザガが槍で牽制するが、甲殻が厚く、刃が滑る。ぷるが牧人の足元で広がり、壁を作って四匹目を受け止めた。
クロが一歩、前に出かけた。
その時——水路側の鉄扉が、内側から開いた。
水が、溢れた。
溢れた、というより——飛んだ。
扉の隙間から噴き出した水流が、意思を持ったように通路を走った。天井に張りついていた蟲を一匹ずつ、正確に叩き落とす。
壁を這っていた個体は水圧で剥がされ、地面に転がった。
水が、蟲の甲殻の隙間に入り込む。関節の内側、脚の付け根、鰓孔。蟲が痙攣した。一匹、二匹、三匹——同時に動きが止まる。
六秒。
八匹全部が、地面に転がっていた。
水が引いた。通路の床を薄く流れて、扉の向こうへ戻っていく。
全員が黙った。
扉の向こうに、誰かが立っていた。
「——うるさいと思ったら」
声が、水路に響いた。低すぎず、高すぎず、湿り気を含んだ声だった。言葉の終わりが、水面に落ちた雫のように余韻を引く。
「……こっちに来る前に、掃除くらいしてほしいわね」
---
細い。長い。
水膜と同じような、滑らかな表皮。色は淡い青灰色。光の加減で、肌理が水面のように揺らいで見える。
人型に近いが、指が六本あり、その一本一本が長く、しなやかに反っている。首の横に、魚の鰓のような薄い膜がひらひらと揺れていた。
体の線が、はっきり見える。水路管理に適応した体は余分なものが何もなく、そのぶん輪郭がそのまま出ていた。
表皮を伝う水滴が、首筋から鎖骨の窪みを通り、ゆっくりと流れ落ちる。
切れ長の、深い藍色の目。
その目が、ゆっくりとこちらを見た。
鰓膜がふわりと開いた。口元が弧を描く。
ザガの槍が、がたん、と落ちた。
「……おい」
牧人が振り返った。ザガが槍を拾い直していた。顔が妙に硬い。
「手が滑った」
「嘘つけ」
ベロが鍋蓋を胸の前に抱えていた。盾というより、何かを隠しているような持ち方だった。目が泳いでいる。
ナナだけが無反応だった。腕を組んで、じっと相手を見ている。ぷるもいつも通りだった。スライムに色気は通じないらしい。
クロは壁の苔を見ていた。完全に興味がなかった。
牧人は、一拍遅れて思った。
——綺麗だな。
いや、すぐに訂正した。綺麗というか、なんというか。かわいいともちょっと違う。ナナやイシコや受付端末とは明らかに雰囲気が違う。目のやり場に、少し困る。
「……何?」
水路管理個体が首を傾げた。長い首が斜めに倒れると、鰓膜が片側だけ開いた。濡れた表皮が、水路の青い光を反射する。
無意識だろう。無意識で、これだった。
「親分」
ザガが横から言った。声がわずかに上ずっている。
「固まってるぞ」
「お前もだろ」
「俺は手が滑っただけだ」
---
水路管理個体。
自称、「水路保全管理・第三系統」。
端末が起動した通知を受け、接続確認のために待機していたらしい。
「ずっとここにいたのか?」
「ずっとは語弊があるわ」
壁にもたれた。六本の指が壁面をなぞる。指先が通った跡に、水滴が筋を引いた。
「長く寝てて、起きたのは最近。端末の信号が来たから」
ナナと同じだった。端末起動が連鎖的に施設管理系を呼び覚ましている。
ザガが小声で牧人に言った。
「……なんであの見た目なんだ」
「水路管理だからだろ。水に適応した——」
「そういう話じゃねえ」
「どういう話だよ」
「わかるだろ」
わかった。わかったが、そこには触れない。
ナナが前に出た。仕事の話に入ると、彼女は一切揺れない。
「水路の稼働状況は」
「東側二本は生きてる。西は詰まってる。南は……知らない。管轄外」
「培養区画への接続は」
「できると思うけど、配管の掃除が先ね」
髪——のような頭部の膜を、指で耳の後ろにかき上げた。首筋が露わになる。鰓膜の根元から、薄い水の匂いがした。
「長いこと放置してたから」
ベロが鍋蓋を持ち直した。ザガが咳払いをした。
ナナが振り返った。
「牧人。水が使える。だが作業がいる」
「だろうな……」
「人手を出せ」
「はい」
ザガが小声で言った。
「親分、ナナに命令されて返事してるぞ」
「……ついね」
---
水路管理個体は、話し方がゆっくりだった。
ナナが「結論から言え」型なら、こちらは「前置きが長い」型。
「この水路はね、元々は三系統あって、それぞれ独立した循環を——」
「で、使えるのか使えないのか」
ナナが遮った。
「……せっかちね」
溜息をついた。目を伏せて、鰓膜が大きく開いた。肩が落ち、鎖骨の線がくっきりと浮いた。
ただの溜息だった。ただの溜息が、妙に色っぽかった。
ザガが目をそらした。ベロが鍋蓋を顔の高さまで上げた。
「急いでる。畑が止まってる」
「畑? 培養区画、動かすの?」
「動かす。水がいる。出せるか」
「出せるけど、配管の——」
「掃除はこっちでやる。水を流す判断はお前の管轄だろう」
「……まあ、そうね」
水路管理個体が、初めてナナをちゃんと見た。
「あなた、培養区画の?」
「播種補佐七号」
「ああ、農業担当。じゃあ同僚みたいなものね」
「同僚じゃない。系統が違う」
「冷たいわね」
「事実だ」
牧人はこの会話を聞きながら思った。
——職場の人間関係だ、これ。
魔物の、施設管理系の、職場の人間関係。なぜ俺がこれを仲裁する空気になっている。
---
クロが、水路の奥を見ていた。
水路管理個体が、ちらりとクロを見た。
——目をそらした。
すぐに牧人の方を向き直した。表情は変わらない。が、鰓膜が一瞬だけぴたりと閉じた。
「……あの方は?」
「クロ。うちの……うちの、まあ、最初からいるやつ」
「そう」
それ以上聞かなかった。聞かないことが、答えだった。
クロの格を、一目で理解している。施設管理系は、流れの変化に敏感だ。深層災厄級の気配を読み間違えるはずがない。
---
「ところで」
牧人が言った。
「名前、どうする」
水路管理個体が首を傾げた。
「名前?」
「呼び方。"水路保全管理・第三系統"って毎回言うの長いから」
「……別にいいけど」
「ナナは播種補佐七号だから七でナナにした。お前は第三系統だから——三、ミ……ミズハ、とか」
「雑ね」
「問題ないだろ」
「いいわよ、別に。呼びやすいなら」
素っ気なかった。が、目元がわずかに緩んだ。鰓膜が、ほんの少しだけ揺れた。
壁のスピーカーから、事務的な声がした。
「水路保全管理・第三系統の起動を確認済みです。名称登録を行いますか」
受付端末だった。
ミズハがスピーカーを見上げた。
「……あら。まだ動いてたの」
「稼働中です」
「久しぶりね」
「業務に期間の感想はありません」
「相変わらずね」
「名称"ミズハ"で登録します。所属:本家」
「勝手に所属つけるな」
と牧人。
「仮登録責任者の承認済みです」
「してない」
「名前をつけた時点で承認と見なします」
「……そういうシステムなの?」
「はい」
ザガが笑った。ベロが鍋蓋で口を隠して笑った。ナナだけが真顔で言った。
「じゃあミズハ。配管掃除の段取りを出せ。明日からやる」
「……本当にせっかちね」
---
「それで」
牧人が言った。
「ミズハはここに残るのか?」
「ここは水路よ。管轄だけど住む場所じゃないわ。寝る場所もないし、食事もない」
「……まあ、そうだよな」
「寝台があるんでしょう? 端末の通知で、臨時寝台区画が開放されたって聞いたけど」
聞いている。施設系の情報共有は早い。
「……来るのか、本家に」
「水路の管理は毎日来て見回ればいい。でも寝泊まりする場所がここにはないの。見ての通り」
水路を見た。水と苔と石しかなかった。確かに、寝る場所はない。
ナナが頷いた。
「配管作業で毎朝こっちに来る。同行すれば効率的だ」
初めてミズハと意見が合った。
「合理的だ。配管作業は早朝から行う。近い方がいい」
牧人は全員の顔を見た。
ザガが目をそらした。ベロが鍋蓋の裏を磨き始めた。クロは苔を見ていた。
「……わかった。寝台、一つ空けとく」
「ありがとう」
微笑んだ。六本の指を軽く組んで、小さく頭を下げた。濡れた表皮が光を弾いて、鰓膜がひらりと揺れた。
「……優しいのね」
ザガの槍が、がたん、と落ちた。
「手が滑った」
「——二回目だぞ」
---
帰り道。
ミズハが一緒に歩いていた。
荷物はない。元々、何も持っていなかった。水路に長く眠っていた個体に、私物という概念はないらしい。
ベロが蟲の甲殻が入った袋を担いでいた。ナナが歩きながら中身を確認している。
「関節部分は除け。硬すぎる。腹の中身だけ分けろ」
「ナナ殿、歩きながらやるんですか……」
「歩く時間が無駄だ。作業を重ねろ」
ミズハが少し後ろを歩いていた。歩くたびに、表皮の水膜が通路の光を反射する。動きに無駄がない。一歩ごとに体の重心が滑らかに移る。
水の中を歩いていた生き物の、水の動き方だった。腰から脚にかけての輪郭が、光のたびにくっきり浮かんでは消える。
ザガとベロが、意識的に前を向いて歩いていた。
「親分」
ザガが、前を向いたまま言った。
「なんだ」
「あれは……反則だろ」
「何が」
「何がじゃねえよ」
「親分は全部の魔物がかわいいんじゃなかったのか」
とベロ。
「かわいいよ。みんなかわいい」
「じゃあミズハも"かわいい"か?」
牧人は少し考えた。
「……かわいいとは、ちょっと違った」
「だろうな」
「違ったけど! 別に、そういうんじゃない」
「誰もそういうとは言ってない」
「言おうとしてたろ」
「してない」
「してたぞ」
とクロ。
お前が言うのか。
後ろでミズハが小さく笑った。
ザガの足が一瞬もつれた。
---
本家に戻ると、まめじいが台帳を開いて待っていた。
「おかえりなさいませ。成果は」
「水路が一部生きてた。あと、また増えた」
「増えた、とは」
「施設管理系がもう一体いた。水路担当。名前はミズハ。こっちに住む」
まめじいが顔を上げた。
ミズハが、牧人の後ろから姿を見せた。
「お世話になるわね」
「おお、これはこれは。ようこそですじゃ」
丁寧にお辞儀をして、台帳に筆を走らせた。
「……また、ですかな」
「また」
「端末が起きて、ナナ殿が来て、今度は水路の方。次は何が来ますかな」
「来ないでほしい」
「来るでしょうな」
まめじいは楽しそうだった。牧人は楽しくなかった。
台帳に「水路管理個体・ミズハ・施設管理型・端末起動に伴う覚醒」と書き込まれる。所属欄に「本家」。もう誰も突っ込まなかった。
---
夜。
牧人は寝台で天井を見ていた。
ナナが来て、畑を始めた。ミズハが起きて、水路が使えるかもしれない。受付端末は毎日何かを記録している。イシコは黙って入口に立っている。
地上では、ザガが「近所」と呼ぶ魔物が増え、まめじいの台帳は厚くなり、ニコの板はもう数えていない。
隣で、クロがもう寝ていた。丸くなって、尻尾を鼻に巻いて、完全に寝ていた。
明日は配管掃除だ。
飯のためだ。
それだけだ。
牧人は目を閉じた。
---
同じ頃。
旧保全路、ゴルムの縄張り。
下っ端の蜥蜴頭が、震えながら報告していた。
「あ、あの……向こうの巣が、水路に手ぇ出したみたいです」
ゴルムの顎が、ぎり、と鳴った。
「……水路だと?」
「はい。水路に棲んでた管理の個体が動き出して……施設系がまた一体、あっちに取り込まれたって」
ゴルムは黙った。
水路は、旧保全路の生命線でもある。
あの巣が水路を掌握したら。
「親分、まだ体調不良ですか」
「不良だ。ずっと不良だ。いいか、向こうには近づくな。こっちにも来させるな」
蜥蜴頭が去った後、ゴルムは一人で座っていた。
顎を、がち、と鳴らした。
——あの「親分」は、何がしたいんだ。
答えは、誰にもわからなかった。
本人にも。




