糞を集めに行っただけなのに、幼体保護戦になった
「そこ踏むな!」
朝っぱらから、ナナの声が響いた。
牧人はぴたりと足を止めた。
「まだ何も踏んでないだろ」
「踏みそうだった」
「圧が強いな」
地下の培養区画へ行く前に、まずは肥料の材料集めだった。
湿った落葉。腐植。苔魚の内臓。
そして、小型草食種の糞。
最後の一項目だけ、どう考えても響きがよくない。
「ほんとに、それ要るのか」
「要る」
「毎回即答だな」
「作物は気分で育たない」
調達隊。牧人、クロ、ザガ、ベロ、ニコ、ぷる、そしてナナ。
まめじいは帳場番。イシコは本家番。
「ナナは行くのか」
「肥料の質は私が判断する」
「行く気満々だな」
「待機より仕事だ」
「ほんと地下の連中は押しが強い……」
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その日、調達隊は崩れ棚の北へ来ていた。
旧保全路とも本家とも少し離れた、半分湿地、半分草地みたいな場所だ。
石の割れ目から細い草が生えていて、朝の水気で地面がやわらかい。
そこにいた。
小さな草食種の群れが。
丸い。耳が長い。額の上に、ちょこんと二本だけ草色の角が生えている。
尻尾は短い。脚は細い。全体的に、ふわっとしていた。
ザガが言う。
「苔角兎だ」
「フワフワでかわいいな」
「見た目だけだぞ」
「見た目がかわいいなら十分だろ」
牧人はすでにしゃがんでいた。
一匹が、警戒しながらこっちを見る。鼻がぴくぴくしている。
「……かわいいな」
ザガが呆れた顔をする。
「親分、クロにも同じ目してたぞ」
「してたか?」
「初日からだ。ぷるにも、まめじいにも、イシコにも」
「……だって、みんなかわいいだろ」
全員が止まった。
「みんな?」
とベロ。
「みんな。魔物はみんなかわいいだろ。生きてるし、一生懸命だし」
ザガが顔を覆った。
「災厄級をかわいいって言うの、この世界で親分だけだと思うぞ」
「そうか?」
「そうだよ」
クロが少し離れたところで鼻を鳴らした。
聞こえていたかどうかは分からない。右の首だけが、ほんの少し偉そうだった。
牧人は、そっと手を出した。
「ほら。取って食わないって」
苔角兎は、びくっとした。
逃げるかと思ったが、逃げなかった。
かわりに、牧人の指先をくんくん嗅いだ。
そのまま、ぺたりと鼻を押しつける。
「……うわ」
牧人の声が、少しだけやわらかくなる。
軽い。あったかい。生きてるものの温度だ。
怪我人を診るのとは違う。こっちは、ただ小さくて、やわらかくて、逃げなかった。
でもそれは、クロが初めて頭を下げた時にも感じたことだった。
ぷるが足元に張りついた時にも。
まめじいが帳面を抱えて眠った時にも。
生きてるものが近くにいる。それだけのことが、毎回、妙に嬉しい。
「お前、そんな感じなのか」
ナナだけが冷静だった。
「親しむのはいい。驚かせるな。糞の位置がずれる」
「お前の興味はそっちか」
だがナナの言うことは正しかった。苔角兎たちは、落ち着いている方が動き回らない。つまり回収しやすい。
ザガが袋を開いた。
「ほら、やるぞ。さっさと集める」
「雑だな」
「雑でいいんだよ」
牧人が細い草をちぎって一匹に差し出すと、苔角兎はそれをもしゃもしゃ食べた。二匹目も寄ってくる。三匹目も来る。
もう遅かった。牧人の周りに、苔角兎が集まり始めていた。
足元。膝の横。しまいには一匹、靴の上に前脚を乗せてくる。
牧人がその額をそっと撫でた。
「細いな。ちゃんと食ってるか」
「目線が完全に保護者なんだよな」
とベロ。
ナナが、じっとその様子を見た。
「……効率がいい」
「何が」
「落ち着いている。回収しやすい」
「そこだけ見てるな、お前」
実際、ザガとベロの作業が妙に進んだ。
「……ほんとだな。親分、もうそのまま座ってろ」
「役目が"かわいがる係"になったな」
「十分だろ」
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一時間もすると、かなり集まった。
湿った落葉。腐植。苔魚の内臓。そして袋に入った将来の畑のためのあれこれ。
ナナが袋を見て頷く。
「最低限はある」
「最低限なんだな……」
「畑は食う」
「お前、言い方・・・」
その時だった。
上から影が落ちた。
速い。風を切る音がする。
クロが立ち上がるより先に、ナナが叫んだ。
「上!」
黒いものが三つ、湿地の上へ滑り込んできた。
翼膜。鳥というより、痩せた猿に皮膜をくっつけたみたいな形をしている。手足が長い。爪がいやに鋭い。
先頭の一匹が、ぎゃっと鳴いた。
「草食群れだ! 袋もある! 根こそぎ持ってけ!」
ザガが即座に舌打ちした。
「剥ぎ翼か!」
「何だそれ」
「外縁の攫い屋だ! 縄張り持たねえで、見つけたもんをそのまま掻っ攫う!」
交渉もしない。話も通じない。見つけたら取るだけの連中だ。
一匹が急降下してきた。
狙いは袋ではなかった。牧人の足元の苔角兎だ。
考えるより先に、牧人が動いた。
苔角兎を抱える。そのまま肩を丸めてかばう。
爪が背中の上を掠めた。
「っ——」
痛い。でもそれより、腕の中の苔角兎が震えている方が気になった。
心臓が速い。軽い。熱い。
こういうのが一番嫌だ。小さいのが怯えているのが嫌だった。
「大丈夫だ。こっちいろ」
苔角兎がぺろっと牧人の顎を舐めた。
「……お前、今それやるか」
「懐かれてるな」
とベロ。
「今はそれどころじゃないんだよ」
もう一匹、もう一匹と、苔角兎が牧人の足元へ寄ってくる。
ザガが叫んだ。
「親分、後ろ!」
剥ぎ翼が後ろから襲い掛かろうとしている。
そこへ、ぷるが動いた。
牧人の足元から一気に膨らむ。
ぶわっ、と青い半透明の壁が立ち上がり、牧人と苔角兎をまるごと包んだ。
急降下してきた剥ぎ翼が、そのまま突っ込んだ。
べちん。
弾かれた。
「跳ね返った!」
とニコ。
「ぷるすげえな!」
とザガ。
中から牧人の声がする。
「……ぷる、お前こんなことできたのか」
「ぷるるん」
「すごいけど、外が見えない」
「こっちからは見えてるぞ。半透明だ」
とザガ。
「こっちからは青い壁しか見えないんだけど」
「出してくれ」
「ぷるん」
ぷるが少し縮んだ。牧人が顔を出す。苔角兎が三匹、頭の上に乗っていた。
「……乗るな」
ベロが鍋の蓋で、弾かれて転がっている剥ぎ翼を殴った。きれいに入る。
「今回は武器になったな」
「鍋の蓋もやればできる」
「誇るなよ」
クロは、その時にはもう終わらせていた。
一匹目を叩き落とす。二匹目の着地を崩す。三匹目が上へ逃げようとした瞬間、右の頭が跳んだ。
それで終わりだった。
「撤収!」
「災厄級いるって聞いてなかった!」
いること分からなかったのかよ、と全員が思った。
残った一匹も即座に逃げた。
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静かになりかけた。
だが、終わらなかった。
崩れた見張り石の上から、別の影が飛び降りてきた。
灰色の狼みたいな魔物が二匹。剥ぎ翼とは別だ。
ザガが呻いた。
「今度は野良の単独だ。血の匂いにつられて来やがった」
片方が、苔角兎を狙って踏み込む。
牧人は即座に前へ出た。
「だめだ」
低い声だった。自分でも少し驚くくらい、はっきり出た。
狼型は止まらない。
だが、その前にクロがいた。
静かだった。唸りもしない。ただ前に立つ。
それだけで、狼型の脚が止まった。
一歩。半歩。そのまま後ずさる。
「帰れ」
と、牧人。
クロが一歩だけ前に出た。
二匹とも尾を巻いて逃げた。
ようやく、本当に静かになった。
湿地に、朝の風だけが残る。
ザガが深く息を吐いた。
「……糞拾いの予定だったよな」
「そうだよ」
「なんでウサギ保護戦になってるんだ」
「知らないよ!」
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牧人の腕の中の苔角兎は、まだ離れなかった。
「……もう大丈夫だぞ」
額を牧人の胸に押しつけたまま、動かない。
「だめだな、これ」
とベロ。
「だめだな」
とザガ。
ナナが苔角兎たちを数えた。
「十二」
「十二匹もいるのか」
「全部ついてきている」
「全部!?」
見れば、そうだった。牧人の周りに固まっている。足元。背中側。袋の陰。完全に「こっちが安全」の配置だった。
ナナが冷静に言った。
「自走式肥料源」
ザガが目を閉じた。
「最悪の分類だ」
「聞いたことない肩書きだな」
とベロ。
「正しい分類だ」
とナナ。
「もっと愛情のある言い方しろ」
と牧人。
「愛情で作物は育たない」
「農家さんは愛情たっぷりに育ててるぞ!」
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本家へ戻る道で、結局、苔角兎の群れはついてきた。
先頭が牧人。その後ろに、ぴょこぴょこ跳ねる小さい草食種が十二匹。さらに後ろに、袋を担いだザガたち。いちばん後ろで、クロがゆっくり歩く。
変な隊列だった。
本家の門前が見えた時、見張りの小型種が固まった。
「……増えてる」
「何が」
「かわいいのが」
列がざわつく。
「何あれ」
「親分が連れてきた」
「攫ったのか?」
「どう見ても懐いてるだろ」
ザガがすぐに言った。
「拾ってもない!ついてきただけだ!」
「余計だめだろ、それ」
とベロ。
まめじいが帳面を持って出てきた。
「おや。大所帯ですな」
「大所帯にするつもりはなかったんだけど」
「親父殿、背中」
牧人は止まった。
「ん?」
「血が出ておりますぞ」
見れば、背中の布が裂けて、薄く赤い線が見えていた。剥ぎ翼に掠められた跡だ。
「ああ、これ。掠っただけだ」
「先に手当てを」
「いいよ、こいつらの水が先だ」
「親父殿」
「いいって。大したことない」
苔角兎に水を出し、草を用意し、寝る場所を確認しているうちに、牧人はすっかり自分の傷を忘れていた。
ザガがベロに小声で言う。
「また他人優先だよ」
「毎回だな」
「自分の怪我は後回し。他人の飯が先。他人の寝床が先」
「まったく、うちの親分は何なんだよ」
「……分からん。でも面倒な人だな」
「面倒だ」
結局、まめじいが強引に軟膏を塗った。
「親父殿は怪我の優先順位がおかしい」
「おかしくないだろ。こいつらの方が小さいんだから」
「そこですぞ」
「何が」
「……何でもありません」
まめじいは帳面に書いた。
『苔角兎。十二。保護。牧人負傷、軽微、本人自覚なし。』
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苔角兎たちは、水を飲み、草を食べ、ようやく少し落ち着いた。
その中の一番最初に懐いた一匹が、また牧人の脚に額を押しつける。
「……お前、ほんとに甘えん坊なんだな」
少しだけ撫でる。柔らかい。
ザガがぼそっと言った。
「親分、顔」
「何だよ」
「ちょっと緩んでる」
「緩んでない」
「緩んでる」
とベロ。
「緩んでるな」
とニコ。
「緩んでないって」
ナナが札に書きつけた。
『肥料確保。草食群れ十二、増加。飼育対応必要。』
「飼育って言うなよ」
「現状だ」
「保護だろ」
「保護を続けるなら飼育が要る」
「理屈が正しいの腹立つな……」
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門前の小型種たちが、ひそひそしていた。
「本家、怪我人だけじゃない」
「小型草食まで保護してる」
「しかも親分が抱えて帰ってきた」
「抱えて、だぞ」
牧人はもう鍋のことを考えていた。
地下の畑はまだ見ていない。肥料もまだ途中だ。でも本家には、また新しい面倒が増えた。
しかも、ちょっとかわいい。
飯を出す。怪我を診る。追い出さない。
それに「糞」と「草食」が加わっただけだ。
たぶん、それだけだ。




