最後に、仮の字が消えた
セラは、右奥の寝床を最後にもう一度見回した。
深い傷は洗い終えている。
煙を吸った者たちの呼吸も落ち着き、音響具で耳を傷めた者たちも、すぐに命へ関わる状態ではない。
残るのは薬と休息。
そして、ネムの仕事だった。
「直接、胞子を出しすぎないこと」
「包布へ染み込ませて、少しずつ使いなさい」
ネムが白い胞子を含ませた包布を両手で持つ。
「止めて、休ませる」
「そう」
「痛みが強くなった者、熱が上がった者、傷の色が変わった者がいたら、すぐに呼んで」
「呼ぶ」
「自分がふらついた時もよ」
ネムは少しだけ首を傾げた。
「私も?」
「あなたが倒れたら、怪我人が困る」
ネムは右奥を見回した。
寝床は、まだ傷ついた若い衆やゴブリンたちで埋まっている。
「困るの、駄目」
「だったら、あなたも休むこと」
「分かった」
「倒れない」
セラは短く頷いた。
それから牧人へ、薬の量と時間を書いた紙を渡す。
「朝と夜」
「間違えないで」
牧人は、細かな文字が並んだ紙を見た。
「これは、まめじいと一緒に見る」
「一人で分かったふりをされるよりはましね」
一緒に見る気は、なかった。
牧人は紙をたたみ、まめじいへ預けた。
セラは最後にクロを見る。
右の口元。
左の耳。
中央の前脚。
それぞれに包帯が巻かれている。
右が不満そうに聞いた。
「この布は、いつ外すんだ」
「傷が閉じてから」
「それはいつだ」
「黙って寝ていれば早くなる」
中央が先に床へ伏せた。
左も続く。
右だけが少し粘ったが、結局は二つの首に引かれるように床へ伏せた。
セラは満足そうに治療鞄を持ち上げる。
「そのまま休んでなさい」
牧人が言った。
「助かった」
「治療費は後で請求する」
「そこは忘れないんだな」
「忘れたら闇医者は続けられないのよ」
セラは少し考えて付け足した。
「あと、鴉宮にも責任あるみたいだから、半分そっちに回す」
「勝手に?」
「責任の分担よ」
「本人は知らないだろ」
「請求書で知るわ」
セラは、帰る前に足を止めて振り返った。
振り返った先では、ネムがさっそく若い魔狼の額へ胞子入りの包布を載せている。
「無理に治し切ろうとしなくていい」
「体が治るまで、ここに寝かせておくのも治療だから」
ネムは頷いた。
「寝かせる」
「起きたら、いる」
セラの口元が、ほんの少し緩んだ。
「いい寝床ね」
セラが帰り道に姿を消した。本家門前には薬草の匂いだけがしばらく残った。
---
セラが帰って間もなく。
本家石の隣に置かれていた古い管理核が、低く鳴った。
ごん。
門前にいた者たちが、一斉にそちらを見る。
管理核の表面へ灰色の光が集まり、無機質な文字となって浮かび上がった。
旧帰還選別機能、停止。
不適格判定、停止。
名薄化処理、停止。
深層沈降路、閉鎖。
処分個体再利用命令、解除。
まめじいの筆が台帳を走る。
牧人は、文字を一つずつ読み終えた。
「終わったんだな」
クロの中央が答える。
「ああ」
「もう、下へ引く流れはない」
イトも床へ伸ばした糸に触れた。
「引っ張らない」
「戻る方だけ」
灰環の奥から、誰かを沈めようとする力は感じない。
名前を削る冷たい流れも。
役目だけを残し、何度も使い回そうとする命令も。
もう、どこにもなかった。
管理核の文字が切り替わる。
新規帰還地点、形成済み。
帰還地点名称、未登録。
運用規則、未登録。
最終保全門、損傷あり。
牧人の眉が寄る。
「まだ仕事があるのか」
「門じゃ」
工具箱の前に座っていたドワンが答えた。
「最終保全門は開いた」
「だが、あれは正式に動いたわけではない」
「無理にこじ開け、帰還路を通しただけじゃ」
ザガが壁へ背を預けたまま言う。
「仕方なかっただろ」
「事情があれば、壊れた門が勝手に直るのか」
「直らねえな」
「だから、わしが直す」
ドワンは工具箱を閉じた。
その横で、グラードが大きな金槌を担ぎ上げる。
牧人が聞いた。
「今から、また奥へ行くのか」
「最深部まで戻る必要はない」
「帰還路がつながった今なら、最終保全門までは直接行ける」
イトが、本家石から伸びる糸へ指を触れた。
「門まで、ある」
「道、切れてない」
イシコも石床へ両手をつく。
「門の石、まだ覚えてる」
「本家石から、触れる」
ドワンが頷いた。
「なら、イシコとグラードを借りる」
ゴルムが壁際から顔を上げた。
「俺も手伝うか?」
「寝ておれ」
ドワンは即答した。
「石縛り杭を三本も打ち込まれた者を、門の修理へ連れていけるか」
ゴルムは右肩に巻かれた包帯を見る。
「押さえるくらいならできる」
「傷が開けば、さっきの口の悪い闇医者にわしが怒られる」
「もう、帰ったから大丈夫だ」
ネムが、すぐにゴルムの前へ立った。
「駄目」
「傷、まだ熱い」
「少しくらいなら――」
「寝る」
「俺まで寝床か」
「寝床」
ネムに言い切られ、ゴルムは不満そうに息を吐いた。
それでも立ち上がろうとはしなかった。
ドワンは工具箱を閉じる。
「門枠はイシコが持ち上げる」
「グラードが支え、わしが楔を入れる」
「怪我人まで連れていく必要はない」
イシコが頷いた。
「石、私が持つ」
グラードは大きな金槌と工具箱を持ち上げた。
「行ける」
ドワンは帰還路の入口へ向かう。
「では、行くぞ」
イシコとグラードが、その後へ続いた。
ゴルムは三人の背中を見送りながら、低く言う。
「治ったら、何か手伝わせろ」
ネムが包布を確認しながら答えた。
「治ってから」
淡い帰還路を進んだ先。
本家から離れた最終保全門で、三人による修復作業が始まった。
---
本家側では、古い管理核の光が細く揺れていた。
イトの糸が、最終保全門まで伸びている。
門の向こうで石が動くたび、糸がぴんと震えた。
豪志が、その糸をじっと見つめている。
「俺は、何をすればいいですか」
牧人が答える。
「糸が大きく揺れたら教えてくれ」
「分かりました!」
ニコが板を出した。
豪志、糸を見る
「はい!」
「一瞬も見逃しません!」
ただ立って見ているだけなのに、豪志の背筋は妙に伸びていた。
最終保全門までは少し離れているが、本家石とイトの糸を通して、門の状態はここまで伝わってくる。
こん。
遠くで楔を打つ音がした。
ほんの少し遅れて、管理核の光が一度だけ強くなった。
---
門の修復が進む間も、灰色の影たちは受付へ並んでいた。
飯を受け取り。
水を飲み。
疲れた者は右奥へ運ばれる。
まだ顔のない者も多い。
それでも、本家へ来たばかりの頃より、輪郭は少しずつ濃くなっていた。
まめじいが、一体の小柄な影を受付していた時だった。
「お名前は、まだ思い出せませぬかな」
影は、しばらく黙っていた。
両手には、空になった椀を大切そうに抱えている。
顔はまだ薄い。
目も口も、はっきりとは戻っていない。
それでも影は、自分の胸へ片手を当てた。
「……リュナ」
まめじいの筆が止まる。
「リュナ殿?」
影が頷いた。
「私」
「リュナ」
その声を聞き、周囲にいた影たちが静かに顔を上げた。
まめじいは、以前の記録を開く。
名、未定。
呼称、保留。
飯、希望。
寝床、必要。
一行目へ、ゆっくりと筆を入れた。
名、リュナ。
「確かに、記録いたしました」
リュナは、台帳へ書かれた自分の名前を見た。
「消えない?」
「消えませぬ」
「また、薄くならない?」
「本家の台帳にございます」
「勝手に消させはいたしませぬ」
リュナは、空の椀を胸へ抱きしめた。
「……よかった」
それだけだった。
けれど、その短い言葉は、門前にいた誰の耳にも残った。
豪志が、小さく呟く。
「名前が戻った……」
目元を拭いながら、リュナと台帳を交互に見る。
まめじいは、名前を書き終えた頁を静かに閉じた。
「豪志殿」
「お気持ちは分かりますが、糸の見張りもお願いいたします」
「そうでした!」
豪志は慌てて、本家石から帰還路へ伸びるイトの糸へ向き直った。
遠くの最終保全門で石が動くたび、細い糸がぴん、と震えている。
「糸、異常なしです!」
「修理は続いています!」
ニコが板を出した。
豪志、糸を見る
「はい! ちゃんと見てます!」
---
それから、しばらくして。
本家外縁の臨時確認所から、監察局の連絡員が一人だけやってきた。
手には、澄玲の署名が入った短い伝達紙がある。
牧人は、本家石から最終保全門へ伸びるイトの糸を見ながら尋ねた。
「また何か増えたのか」
「久慈野監察官からの伝言です」
「正式な扱いについては、後日あらためて協議します」
牧人の顔が少しだけ曇る。
「協議って、うちを都市側の施設にする話じゃないだろうな」
「違います」
連絡員は、すぐに否定した。
「本家周辺の無断進入禁止を、引き続き継続します」
「外から本家へ接触を求める者は、まず外縁の確認所で申告」
「本家側が受け入れると答えた者だけを、受付まで通します」
「勝手には入れないってことか」
「はい」
「札も本家には掲示しません」
「外縁の確認所と、そこへ続く分岐路にのみ置きます」
牧人は頷いた。
「それならいい」
連絡員は伝達紙をめくる。
「もう一点」
「灰環から帰還した方々について、監察局側で勝手に名前や所属を決めることはしません」
まめじいが筆を止め、顔を上げた。
「名前を思い出しておられぬ方は、どのように扱われますかな」
「未確定のまま記録します」
「本人が名を思い出すか、自分で呼び名を選ぶまでは、そのままです」
連絡員は、受付の奥にいるリュナを見る。
「本家側に記録がある場合も、原本の提出は求めません」
「必要になった時だけ、本人の了承を得たうえで写しを確認させていただきます」
まめじいは、静かに頷いた。
「それがよろしいでしょう」
牧人が聞く。
「話は、それだけか」
「はい」
「久慈野監察官からは――」
連絡員は最後の一行を読んだ。
「本家の中のことは、本家の受付を通すように、と」
牧人は一瞬だけ黙った。
それから、短く答えた。
「分かった」
連絡員は頭を下げ、外縁の確認所へ戻っていった。
まめじいが台帳へ記す。
監察局。
本家周辺の無断進入防止を継続。
外部からの接触は、本家受付の了承を必要とする。
帰還者の名前および所属を、外部側で勝手に決めず。
本家内部の運用には介入せず。
牧人が台帳を横から見る。
「文章が硬いな」
まめじいは少しだけ笑った。
「大切なところにございますので」
---
やがて、本家石から伸びていたイトの糸が、大きく震えた。
一度。
二度。
それまで細かく伝わっていた石を叩く振動が止まり、代わりに一本の糸が、まっすぐ強く張る。
イトが指先で確かめた。
「直った」
古い管理核も、低く鳴った。
最終保全門、修復完了。
開閉機構、正常。
帰還路接続、維持。
牧人が、淡い光の道を見る。
「終わったのか」
その声に答えるように、帰還路の奥から三つの影が近づいてきた。
先頭は、工具箱を抱えたドワン。
その後ろにグラード。
最後に、本家石の欠片を両腕へ抱えたイシコが続く。
三人が本家側へ戻ると、帰還路の光が静かに落ち着いた。
ドワンは工具箱を床へ置き、腰を叩いた。
「最終保全門は直した」
「五つの輪も、開閉の仕組みも正常じゃ」
イシコも、本家石の前へ座る。
「門、覚えた」
「道、本家まで続いた」
グラードが短く頷いた。
「もう、落ちない」
牧人は三人を見た。
「ありがとう」
ドワンは鼻を鳴らす。
「礼はまだ早い」
「わしが直したのは、道を開け閉めする門だけじゃ」
管理核の文字が切り替わる。
帰還地点運用規則、未登録。
帰還地点名称、未登録。
ドワンが牧人を見る。
「ここからは、家主の仕事じゃ」
「俺の?」
「門を直しただけでは、どこへ帰るための道か決まらん」
「誰を通し、誰を止めるか」
「通った先で、どう扱うか」
「それを決めるのは、お前じゃ」
牧人は、受付へ並ぶ影たちを見た。
名前を思い出したリュナ。
まだ顔も名前も戻っていない者たち。
戦いで傷ついた若い衆。
右奥で眠っている者。
ベロの鍋から上がる湯気。
まめじいの台帳。
ニコの案内板。
牧人は、管理核へ向き直った。
「帰りたいやつは、本家の受付まで通す」
管理核が淡く光る。
「怪我してるやつも」
「名前が分からないやつも」
「腹が減ったやつも」
「少し休みたいやつもだ」
イトの糸が、淡く明滅する。
「でも、寝床を荒らすやつは止めろ」
「武器を振り回すやつも通すな」
管理核の光が強くなる。
「まず、受付へ来る」
「飯を食うのか」
「休むのか」
「ここへ残るのか」
「別の場所へ行くのか」
牧人は、並んでいる者たちを見る。
「それは、休んでから自分で決めればいい」
管理核の表面へ、新しい文字が浮かんだ。
帰還希望個体、受付まで通行を許可。
負傷個体、受付まで通行を許可。
名称不明個体、受付まで通行を許可。
一時休息希望個体、受付まで通行を許可。
敵対行動個体、通行を拒否。
受付後の帰属および再出発、個体の意思を優先。
牧人は、最後の一行を読む。
「出ていくのも自由なんだな」
まめじいが頷いた。
「ここで休み、戻りたい場所を思い出したなら」
「そちらへ向かうこともできましょう」
「ああ」
「それでいい」
誰かを無理に残すための家ではない。
帰る場所を失った者が、一度立ち止まるための家だった。
管理核の文字が、再び切り替わる。
帰還地点名称、未登録。
まめじいが筆を構えた。
「親父殿」
「正式な名称を」
牧人は眉を寄せる。
「今さら、別の名前がいるのか」
「これまでの灰環仮受付は、あくまで仮の呼び名にございました」
ニコが、使い込まれた古い板を出した。
灰環仮受付
端が欠け。
灰に汚れ。
堂前たちの襲撃でも、豪志が抱えて守った板だった。
牧人は、その文字を見る。
「仮を取ればいいだろ」
「では、灰環受付に?」
「違う」
牧人は本家を見回した。
ここへ来たのは、灰環から帰ってきた者だけではない。
黒冠から来た者もいる。
外から流れ着いた者もいる。
旧保全路。
中層。
深層。
どこから来たかは関係なかった。
戻る場所を失った者が。
腹を空かせた者が。
怪我をした者が。
最後に、ここへ帰ってきた。
牧人は管理核へ言った。
「本家だ」
管理核の灰色の文字が、一度だけ揺れた。
帰還地点名称。
本家。
登録。
淡い光が、管理核から本家石へ流れ込んだ。
イシコが、その光へ両手を重ねる。
イトの糸が一斉に輝いた。
ミズハが水桶へ指を入れた。
揺れていた水面が、ゆっくりと静まっていく。
「水も、もう下へ引かれてないわ」
「本家へ戻る流れになってる」
帰還路の端から、古い灰がわずかに染み出した。
ぷるがその上へ広がり、残っていた灰と澱をぺたりと吸い取る。
「ぷるん」
これで、イトの糸。
ミズハの水。
ぷるが清めた道。
三つが揃い、灰環の帰還路は本家へまっすぐつながった。
本家から帰還路へ。
帰還路から、遠く離れた最終保全門へ。
そこから、灰環大迷宮の各地へ。
旧保全路。
崩落帯。
中層の外れ。
水の枯れた通路。
まだ誰かが迷っている場所へ、細い光が伸びていく。
沈降路へ向いていた古い道標が消える。
代わりに、本家へ戻る道を示す光が灯った。
迷っていた小さな魔物が、顔を上げる。
名を失った影が、光へ手を伸ばす。
動けずに座り込んでいた者も、遠くに生まれた道を見る。
どの道も。
同じ場所へ続いていた。
本家。
イトが糸を握る。
「道、全部つながった」
クロの左が目を閉じ、灰環の奥へ意識を向ける。
「最深部まで切れ目はない」
中央も頷いた。
「もう、下へ沈む道ではない」
右が牙を見せる。
「妙なものが引けば、今度はすぐに噛み切れる」
遠く離れた最終保全門で、五つの輪がゆっくりと正しい位置へ収まった。
帰ってくる者がいれば開き。
襲う者が来れば閉じる。
壊れて、開いたままになっていた門ではない。
本家へ帰るための門になった。
その変化は、イトの糸と本家石を通して、門前にいる全員へ伝わった。
ドワンが満足そうに頷く。
「わしが門を直し」
「家主が、帰る場所を決めた」
イシコが本家石へ触れたまま言う。
「門、本家を覚えた」
まめじいの筆が、台帳を走った。
灰環大迷宮。
旧帰還選別機能、停止。
深層沈降路、閉鎖。
最終保全門、修復完了。
新規帰還地点、本家。
正式運用、開始。
ニコが、古い板を裏返した。
その裏には、新しい文字が書かれている。
本家
飯、左
怪我、右奥
名前、あとでもいい
豪志が板を受け取り、受付の横へ掲げた。
「本家、正式受付開始です!」
門前から、小さな拍手が起きた。
若い衆。
ゴブリン隊。
灰色の影たち。
ゴルム。
グラード。
ドワン。
声を出せない者も、手や翼や尻尾を動かした。
ヒナが受付の上を一度、大きく旋回する。
「受付はこっち!」
「押さないで、順番にね!」
ナナも列の前へ立った。
「武器、しまう」
「暴れない」
「守れないなら、通さない」
ベロが鍋を混ぜながら続ける。
「腹が減ったやつは左だ」
ネムが右奥から小さく手を上げる。
「眠い子、こっち」
「起きたら、いる」
イトの糸が、帰還路から受付までまっすぐ伸びる。
「この道」
「落ちない」
牧人は、いつの間にか大勢が集まった本家を見回した。
「大げさになったな」
ドワンが呆れたように答える。
「災厄級を連れて家を始めた男が、今さら何を言う」
クロの右が顔を上げた。
「俺たちのことか」
「他に誰がいる」
クロは少しだけ誇らしそうに胸を張った。
牧人は、ニコが裏返した古い板を見る。
灰環仮受付。
何度も掲げた文字だった。
けれど、その裏にはもう。
仮の字はなかった。
---
片目の老ゴブリンが、まめじいの前へ片膝をついた。
「軍師殿」
「お呼びとあらば、いつでも参ります」
まめじいは困ったように髭を撫でる。
「今は、本家の台帳係にございます」
「承知しております」
「台帳係殿のお呼びとあらば」
「呼びづらくはありませんかな」
老ゴブリンは真顔で答えた。
「お役に立てるか分かりませんが、いつもでお呼びください」
まめじいは小さく笑う。
「感謝いたします」
ゴブリン隊は、揃った足取りで細い抜け穴へ帰っていった。
ゴルムも、旧保全路へ戻る。
「向こうにも、まだ迷っているやつがいるかもしれん」
「しばらく見てくる」
牧人がその背中へ言う。
「無理するなよ」
「腹が減ったら、いつでも食いに来い」
ゴルムは一度だけ振り返った。
「ああ」
「親分、また来る」
その大きな背中が、旧保全路の向こうへ消えていく。
ドワンとグラードも、工具をまとめ始めた。
牧人が声をかける。
「もう帰るのか」
「門は直した」
「帰る道も通った」
「これ以上、職人が残る理由はない」
グラードが工具箱を持ち上げる。
牧人は二人を見る。
「助かった」
「また何かあったら頼む」
ドワンは露骨に顔をしかめた。
「次は、もう頼むな」
「じゃあ、なるべく頼まないようにする」
「なるべくとはなんじゃ」
ドワンはため息をついた。
それでも、最後に本家石を一度だけ確かめる。
「石も、道も落ち着いておる」
「しばらくは大丈夫じゃ」
イシコが頷いた。
「門、覚えた」
「壊れたら、分かる」
「まあ、壊れそうなら呼べ」
「うん」
グラードが牧人を見た。
「また、来てもいいか」
「もちろんだ」
「二人とも、今度は飯だけでも食いに来い」
ドワンは返事をしなかった。
だが、グラードは小さく頷いた。
二人は工具を抱え、旧設備路の向こうへ帰っていった。
---
門前に残ったのは、いつもの本家の者たち。
それから、帰ってきたばかりの者たちだった。
リュナが、新しい板を見上げる。
本家。
飯、左。
怪我、右奥。
名前、あとでもいい。
「私」
「もう、名前ある」
豪志が笑う。
「はい」
「リュナさんです」
リュナは安心したように、受付の奥へ歩いていった。
その後ろから、次の影が門をくぐる。
まだ名前はない。
顔も戻っていない。
それでも、もう足元に沈降路が開くことはない。
ネムが寝床から手を上げる。
「眠い子、こっち」
ベロが椀を並べる。
「腹が減ったやつは左」
ナナが列を整える。
「押さない」
「順番」
イトの糸が門から受付まで伸びる。
「こっち」
「落ちない」
ヒナが門の上から声を張る。
「迷子は私を見る!」
「下を見ないで、こっちへおいで!」
ニコが板を揺らした。
本家、開門中
牧人は、使い込まれた古い板を手に取る。
灰環仮受付。
仮。
まだ途中で。
いつ閉じるかも分からなかった場所。
牧人は、その一文字を指でなぞった。
それから板を裏返す。
新しい面には、もう仮の字はない。
門も。
道も。
台帳も。
管理核も。
そこを、本家として覚えていた。
牧人は板を壁へ立てかける。
「豪志」
「はい!」
「新しい方は落とすなよ」
豪志は、正式な板を両腕で抱え直した。
「命に代えても守ります!」
「命には代えるな」
「では、命の次に大事にします!」
「そこまで大事にしなくてもいい」
本家門前に、いつもの笑いが戻った。
その笑い声に引かれるように、門の向こうから小さな影が一体、歩いてくる。
受付の列が、また少し伸びた。
灰環の奥には、まだ名前を思い出せない者がいる。
帰る道を見つけても、最初の一歩を踏み出せない者もいる。
けれど。
帰る道の先には、もう門があった。
その門に、仮の字はなかった。
牧人は、少しずつ伸びていく受付の列を見た。
今夜は、まだ忙しくなる。
それでも、明日の朝には。
正式に開いた本家で、いつものように鍋へ火を入れられるだろう。
そして牧人は、また最初にやったことから始める。
腹を空かせた誰かに、飯を出す。
名前が分からなければ、あとでいいと言う。
帰ってくる者がいる限り、本家の物語は終わらない。




