お前ら、受付か?
灰環大迷宮に、地上の朝日は届かない。
壁や天井に埋め込まれた古い照明石が、一日中、薄い灰色の光を放っている。
夜も朝も、明るさはほとんど変わらない。
それでも、ベロが鍋へ火を入れ。
ネムが寝床を回り始め。
本家の者たちが一人ずつ起き出せば。
そこからが、本家の朝だった。
牧人が目を覚ますと、目の前に黒い壁があった。
正確には、クロの脇腹だった。
「……重い」
胸の上には、クロの太い前脚が乗っている。
昨夜は、正式に開いた帰還路から来る者たちの受付が遅くまで続いた。
飯を出し。
寝床を空け。
名前を思い出した者を台帳へ記し。
まだ思い出せない者には、あとでいいと言った。
ようやく横になった頃には、牧人もクロも、その場で倒れるように眠っていた。
牧人は、胸の上の前脚を押した。
「クロ。どけ」
右の頭が、片目だけを開ける。
「まだ夜だろう」
「もう朝だ。俺を踏むな」
左も薄く目を開けた。
「親父が、こちらへ転がってきたのではないか」
「俺は仰向けで寝てたんだよ」
中央が牧人と前脚の位置を見比べた。
「確かに踏んでるな」
「分かったなら、早くどけろ」
右が不満そうに鼻を鳴らす。
「朝っぱらから、面倒だな」
クロが前脚をどける。
牧人は体を起こし、固まった肩を回した。
本家の中は、すでに静かに動き始めている。
右奥の寝床では、ネムが眠っている者たちを一人ずつ見て回っていた。
額へ手を当て。
傷へ巻いた包布を確認し。
呼吸が乱れていないかを確かめる。
「熱、下がった」
「まだ寝てて」
その隣では、リュナが新しい包布を畳んでいる。
昨日、名前を取り戻したばかりの影は、少しだけ輪郭が濃くなっていた。
まだ完全ではない。
それでも、目と口の位置が分かるようになり、表情らしいものも見え始めている。
「ネム」
「これ、こっち?」
「うん」
「白い方、傷」
「青い方、熱」
リュナは間違えないよう、二つの籠へ包布を分けていった。
昨日までは、寝床へ運ばれる側だった。
今日は、その寝床で誰かを休ませる手伝いをしている。
牧人はしばらく二人を見てから、台所へ向かった。
---
ベロは、すでに大鍋の前に立っていた。
「遅いぞ、親父」
「俺が作るんじゃなかったのか」
「火は入れた」
「具も切った」
「味は親父が決めろ」
「ほとんど作ってるじゃないか」
鍋の中では、芋と干し肉、それに残った野菜が煮えていた。
堂前たちの襲撃で潰された芋も、食べられる部分だけを切り取られ、きちんと鍋へ入っている。
「その芋、水越さんに請求するんじゃなかったのか」
「請求はする」
「食えるものは食う」
ベロは当然のように答えた。
牧人はお玉を受け取り、鍋を混ぜる。
少し薄い。
塩へ手を伸ばしたところで、ミズハが水桶を抱えて戻ってきた。
「親父」
「受付の水、もう一桶増やした方がいいわ」
「もう並んでるのか?」
「見れば分かるわよ」
ミズハは水桶を置き、すぐに次の桶を取りに向かった。
その足元では、ぷるが床へ落ちた灰を吸っている。
帰還路を通ってきた者たちの体には、まだ古い灰が残っていた。
ぷるは受付から寝床までを行き来し、落ちた灰を一つずつ吸い取っている。
「朝から働いてるな」
「ぷるん」
牧人が褒めると、ぷるは少し大きく揺れた。
そのまま鍋へ近づこうとする。
「お前は駄目だ」
牧人がお玉で止めると、ぷるは不満そうに平たくなった。
「昨日、囮袋を吸いすぎただろ」
「ぷるるん」
「食べてない?」
「腹に入ったなら同じだ」
ぷるは納得していないようだったが、やがて灰の掃除へ戻っていった。
---
牧人が鍋を持って受付側へ出ると、淡い帰還路の前に列ができていた。
昨日のような大混雑ではない。
だが、途切れてもいない。
灰環の各地から、傷ついた魔物や灰色の影たちが、帰還路の光を追って歩いてくる。
ヒナが梁の上から、列の先へ声を届けていた。
「受付はこっち!」
「走らなくても大丈夫!」
「道は消えないから、ゆっくり来て!」
イトの糸は、帰還路から受付まで低く張られている。
迷った者が触れれば、進む方向が分かる。
足元を崩した者がいれば、細い糸が体を支える。
「こっち」
「落ちない」
「ゆっくり」
ナナは受付の手前に立っていた。
「武器、しまう」
「中で暴れない」
「守れないなら、入れない」
錆びた刃物を持っていた影が、しばらく迷った末に床へ置いた。
ナナは短く頷く。
「通っていい」
その横では、ニコが板を掲げていた。
本家
飯、左
怪我、右奥
名前、あとでもいい
豪志が、その板を倒さないように支えている。
「おはようございます、親分さん!」
「おはよう、社長」
豪志の顔が引きつった。
「朝からその呼び方はやめてください!」
ニコが別の板を出す。
豪志、社長
「その板、まだ持ってたんですか!?」
まめじいは台帳へ筆を走らせながら言った。
「事実は正確に記録せねばなりませぬので」
「本家の受付には不要な板です!」
「でも、豪志殿」
まめじいが顔を上げる。
「食料の安定した仕入れについては、後ほどご相談を」
豪志は一瞬だけ黙った。
「……それは、本当に一度考えます」
「この人数ですから、今の仕入れ方では限界が来ます」
「頼む」
と牧人。
「はい!」
答えてから、豪志は嬉しそうに言った。
「俺、本家でどんどん役割が増えてますね!」
ニコが板へ一行書き足した。
豪志、食料も見る
「任せてください!」
門前に、小さな笑いが広がった。
---
列の先頭には、小さな獣型の魔物がいた。
汚れた灰色の毛。
欠けた右耳。
片方の前脚を引きずっている。
帰還路を抜け、受付の前までは来た。
だが、そこから先へ進もうとしない。
怯えた目で周囲を見回している。
クロが牧人の後ろから歩いてきた。
三つ首の巨大な黒い魔物が近づいた瞬間、小さな獣型は床へ伏せた。
「クロ」
「下がれ」
右が顔をしかめる。
「俺たちは何もしていない」
「いるだけで怖いんだよ」
「失礼な」
クロは、一歩下がった。
牧人は小さな獣型の前へしゃがんだ。
「怪我してるな」
返事はない。
「言葉、分かるか?」
小さな頭が、わずかに動いた。
牧人は鍋から椀へ粥をよそった。
ミズハの水を少し足し、熱を冷ます。
それを床へ置いた。
「腹、減ってるか」
獣型の鼻が動く。
だが、椀へは近づかない。
牧人は手を離し、自分から少し下がった。
「腹減ってるなら、食っていい」
獣型は牧人を見る。
次に、湯気の立つ粥を見る。
それから、本家の者たちを一人ずつ見た。
ヒナ。
イト。
ナナ。
ニコ。
豪志。
少し離れて座るクロ。
誰も急かさなかった。
やがて、小さな体が一歩だけ前へ出る。
椀へ顔を近づけた。
一口。
二口。
そこからは止まらなかった。
粥へ鼻先を入れ、むせながらも必死に食べる。
「急がなくていい」
「飯は逃げないからな」
牧人が言うと、獣型は一度だけ顔を上げた。
口元には、粥がついている。
ミズハが濡らした布を持ってきた。
「拭くわよ」
獣型は少し身構えたが、逃げなかった。
ミズハが口元を拭く。
ぷるが、足元へ落ちた泥と灰を吸い取った。
ネムも寝床から顔を出す。
「食べたら、こっち」
「足、見る」
獣型は粥を食べながら、ネムを見た。
牧人が尋ねる。
「名前は?」
動きが止まった。
小さな目が伏せられる。
思い出せないのか。
最初から名前がないのか。
それとも、今は言いたくないのか。
牧人には分からない。
だから、しばらく待った。
返事はなかった。
牧人は頷く。
「じゃあ、あとでいい」
まめじいの筆が動く。
名、未定。
灰色の小型獣。
右耳欠損。
右前脚負傷。
飯、済み。
寝床、必要。
獣型は、台帳を見ていた。
まめじいが言う。
「記録します」
「お名前を思い出されるまで、このまま残しておきます」
寝床からリュナが歩いてきた。
小さな獣型の前へしゃがみ、自分の胸へ手を当てる。
「私、リュナ」
「名前、戻った」
それから、小型獣を指した。
「あなた、あとで」
獣型は、リュナをじっと見た。
意味がすべて伝わったのかは分からない。
それでも、もう震えてはいなかった。
残っていた粥を、最後までゆっくり食べた。
---
受付が少し落ち着いた頃、ザガが外縁の巡回から戻ってきた。
槍を肩へ担ぎ、列の横で足を止める。
「帰還路の周りに異常なし」
「下へ引く流れも消えてる」
クロの左が答える。
「こちらでも感じない」
「なら、しばらくは大丈夫だな」
ザガは鍋と列を見比べた。
「それより、飯は足りるのか?」
ベロが即答する。
「足りなくなったら増やす」
「何を」
ベロは少し黙った。
「芋だ」
「芋も有限だろ」
豪志が板の横から口を挟む。
「その件は、俺が調べます」
「地上から継続して運べる物と、必要な量を整理してみます」
ザガが笑った。
「もう完全に食料調達の仕事してるじゃねえか」
「会社経営で培った経験を活かします」
まめじいが感心したように髭を撫でる。
「実に頼もしいですな」
豪志は少し照れたように咳払いした。
「まあ、本家の役に立ちたいですから」
ニコが板を出す。
豪志、さすが社長
「頑張ります!」
ザガは、そういう能力があるなら、もっと早くから役立ってくれればと思ったが言わなかった。
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受付が少し落ち着いたところで、牧人は門を見た。
「ここも人が増えたな」
「外から来たやつが、毎回大声で呼ぶのも面倒だ」
「呼び鈴でも付けるか」
豪志が勢いよく手を上げた。
「お任せください!」
「本家にふさわしい、完璧なインターフォンを設置します!」
「お前、作れるのか?」
「板係を甘く見ないでください!」
板と呼び鈴に何の関係があるのかは分からなかったが、豪志は妙に自信満々だった。
それから、しばらくして。
「設置完了しました!」
豪志が牧人たちを門前へ呼んだ。
門の脇には、丸い木製のボタンが付いている。
見た目だけなら、意外とそれらしかった。
「ザガさん」
「こちらへ座ってください」
豪志が、門の内側に置いた椅子を示す。
ザガは露骨に嫌そうな顔をした。
「何で俺が座るんだよ」
「動作確認です」
「何の動作だ」
「完璧なインターフォンのです」
まったく答えになっていなかった。
それでも豪志に何度も頼まれ、ザガは渋々椅子へ腰を下ろした。
牧人は木のボタンへ指を置く。
「これ、押していいのか?」
「どうぞ!」
ザガが何かに気づいた。
「おい」
「頭上で羽音がしてるんだが」
豪志は真顔で答えた。
「気のせいです。上を見てはいけません」
「絶対に何かいるだろ」
牧人がボタンを押した。
かちり。
次の瞬間、ザガの頭上へ金属のたらいが落ちた。
かあんっ!
「痛ってえ!」
ザガが頭を押さえ、勢いよく見上げる。
梁のそばでは、ヒナが縄の端を握ったまま飛んでいた。
「お前、この野郎!」
「違うよ!」
「豪志に頼まれたの!」
「笑いを隠せてねえじゃねえか!」
ヒナは口元を押さえていたが、肩が震えていた。
豪志は満足そうに頷く。
「どうです?」
「門のボタンを押せば、ザガさんの声が本家中に響きます」
牧人は頭を抱えた。
「それはインターフォンじゃない」
「ザガを鳴らしてるだけだ」
ニコが板を出した。
人力呼び鈴
ナナが短く言った。
「うるさい」
「でも、聞こえる」
「機能してるじゃねえか!」
ザガの怒鳴り声が、本家の奥まで響いた。
右奥の寝床からネムが顔を出す。
「うるさい」
「起きた」
豪志は胸を張った。
「寝床にまで届きました!」
「動作確認、成功です!」
「成功じゃねえ!」
「次はお前がそこへ座れ!」
ヒナはとうとう我慢できず、梁の上で声を上げて笑った。
---
イシコは、受付の近くに残った石床の傷を直していた。
多くの者が通り。
堂前の襲撃でも削れた場所だ。
両手を石へ当てる。
割れた継ぎ目が閉じ。
沈んでいた石が、ゆっくりと持ち上がる。
「ここ、引っかからないようにする」
先ほどの小型獣が、ネムに連れられて寝床へ向かうところだった。
怪我をした前脚で、慎重に石床を踏んでいる。
イシコは、その足元をさらに平らに整えた。
「これなら、歩ける」
小型獣は立ち止まり、大きなイシコを見上げた。
イシコも見下ろす。
「怖くない」
少し考える。
「多分」
牧人が横から言う。
「自分で多分って言うな」
小型獣の体が、かすかに揺れた。
ほんの少し、笑ったようにも見えた。
イシコは何も言わず、床を直す手を動かし続けた。
---
牧人は、受付の横に置かれた古い板を手に取った。
灰環仮受付。
端は欠け、表面にはいくつもの傷が残っている。
ニコが何度も文字を書き。
豪志が堂前たちの襲撃から抱えて守り。
灰環核の波にも耐えた板だった。
裏返す。
本家
飯、左
怪我、右奥
名前、あとでもいい
もう、仮ではない。
牧人が板を見ていると、クロの中央が隣へ来た。
「親父」
「最初の朝を覚えているか」
「最初の朝?」
「ここへ来た、次の日だ」
クロが夜のうちに、傷ついた魔物たちを勝手に連れてきた朝。
牧人が扉を開けると、行き場を失った小さな魔物たちが、玄関前に二列で並んでいた。
飯も。
薬も。
寝床も。
何一つ足りなかった。
それでも牧人が中へ入れと言った途端、全員が一斉に押し寄せてきた。
あの時、牧人は慌てて叫んだ。
「押すな! 入口は一つだ! お前ら順番を守れ!」
牧人は、今の受付へ目を向けた。
傷ついた者たちが、あの朝と同じように列を作っている。
だが、今はもう違った。
ナナが順番を整え。
ベロが飯を作り。
ミズハが水を並べ。
ネムが傷ついた者を寝床へ迎える。
イトの糸が帰る道を示し。
まめじいの台帳が、まだ思い出せない名前まで残している。
誰か一人が、全部を背負う必要もない。
それぞれが自分の役目を持ち、帰ってきた者を迎えていた。
左が静かに言った。
「だが、あの朝が始まりだった」
クロが傷ついた者たちを連れてこなければ。
牧人が追い返さず、飯を作らなければ。
助けられた誰かが、次の誰かを連れてこなければ。
今の本家はなかった。
「そうだな」
牧人は、板を元の場所へ戻した。
「始めたのは、お前たちだったのかもな」
右が満足そうに胸を張る。
「ならば、もっと褒めろ」
「調子に乗るな」
---
そろそろ夕方になる時間だったが、受付の列はまだ続いていた。
けれど、誰も焦ってはいない。
道は消えない。
飯も逃げない。
寝床も、少しずつ空ければいい。
名前は、あとでもいい。
牧人は鍋の前へ戻った。
ベロからお玉を受け取る。
「味は?」
「少し塩を足す」
「芋も入れるか」
「残ってるのか?」
「豪志が拾った分がある」
「じゃあ入れろ」
鍋へ芋が落ちる。
湯気が上がり、受付の方へ流れていく。
その匂いに、列へ並んでいた者たちが少しだけ顔を上げた。
牧人は、お玉を持ったまま声を張る。
「押すな!」
「飯はなくならないから、順番に来い!」
ヒナが梁の上から繰り返す。
「聞こえた?」
「ゆっくりでいいよ!」
ナナが列を整える。
イトの糸が道を示す。
ミズハが水を並べる。
ぷるが灰を吸う。
ネムが寝床を空ける。
イシコが足元を直す。
ザガが外を見張る。
クロが受付のそばに伏せる。
まめじいが台帳を開く。
ニコが板を掲げる。
豪志が、その板をしっかりと支える。
本家、開門中。
牧人は鍋を混ぜながら、その文字を見た。
捨てられた日に始まった場所は。
いつの間にか、誰かが帰ってくる場所になっていた。
帰還路の淡い光の向こうから、また小さな影が歩いてくる。
ヒナが翼を広げた。
「親父、新しい子が来たよ!」
牧人は新しい椀を一つ取った。
そして、いつものように尋ねた。
「腹、減ってるか」
本家の物語に、最後の一頁はまだ必要なかった。
完




