親父が帰っても、怪我人は減らなかった
本家門前には、治療を待つ者があふれていた。
堂前の襲撃を受けた若い衆。
音響具と煙で傷ついたゴブリン隊。
石縛り杭を引き抜いたゴルム。
灰環最深部から戻ったクロ、ヒナ、イト、イシコ、ザガ。
帰還してきた灰色の影の中にも、体の一部が崩れかけ、立っているだけで精いっぱいの者がいる。
右奥の寝床は、すでに埋まり始めていた。
ネムは、その間を休みなく動いている。
「動かないで」
立ち上がろうとした若い魔狼を、布団へ戻す。
裂けた肩へ白い胞子を落とすと、傷口の周囲に薄い膜が広がった。
流れていた血が止まり、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていく。
「大丈夫、動けます」
「今は、寝る」
「でも、受付が」
「他の子がやる」
ネムは言い切り、次の負傷者へ移った。
腕を切られたゴブリン。
煙を吸い、咳が止まらない小鬼。
音響具の近くにいて、耳から血を流している獣型。
ネムの胞子は血を止め、痛みを薄め、熱を下げる。
だが、深い傷や、杭の術式が残った傷までは治せない。
それでも、目の前にいる者を少しでも楽にしようと、白い胞子を出し続けていた。
牧人が、その青い顔に気づく。
「ネム」
「何?」
「お前まで倒れるぞ」
「まだ、怪我してる子、いる」
「一人で全部やるな」
「でも――」
千景も、寝床の様子を見ていた。
ネムの胞子で出血は止まっている。
だが、灰環最深部で受けた傷や、石縛り杭の術式傷は、治療の知識がない者が触るには危険だった。
「ガルム」
千景が呼ぶ。
「おう」
「疲れてるとこ悪いけど、セラを呼んできてもらえる?」
「まだ暴れたりねえ、任せろ」
ガルムはすぐに動いた。
やがて、薬草と消毒薬の匂いを含んだ冷たい風が、道の向こうから流れてきた。
千景が声を張る。
「セラ!」
返事はない。
「怪我人がたくさんいる!」
道の奥から、女の声が返ってくる。
「何人」
千景は本家門前を見回した。
寝床。
ゴブリン隊。
若い衆。
灰色の影の列。
傷だらけのクロたち。
「数え切れない」
そして、ガルムの背に乗って、白衣の上から黒い外套を羽織った女が姿を現した。
銀髪のショートカット、二十代後半の女。左目の下に、古い縫合の跡が一本まっすぐ走っている。
―――夜見セラ。 黒冠の近くで看板のない治療所を営んでいる闇医者。
セラは本家門前へ足を踏み入れ、荒れた床を見た。
砕けた杭。
倒れた吸水布。
拘束された襲撃者。
治療を待つ者たち。
最後に千景を見る。
「鴉宮」
「うん」
「あんたが呼ぶ時は、毎回面倒ね」
「今回は私だけのせいじゃないよ」
「その言い方をする時は、少しはあんたのせいなのよ」
千景は答えず、右奥の寝床を指した。
「ネムが止血してる」
「でも、重い傷が多い」
セラはすぐに表情を変えた。
寝床へ入り、ネムの隣へしゃがむ。
胞子で覆われた傷を確認し、白い膜の端へ指を触れた。
「これ、あなたがやったの?」
ネムが頷く。
「血、止める」
「痛いの、薄くする」
セラは傷口をよく見る。
「止血はできてる」
「熱も下がってる」
「でも、深い傷を完全に塞ぐのは駄目」
ネムの目が少し開く。
「駄目?」
「中に汚れや破片が残る」
「浅い傷はそのままでいい」
「深い傷は、私が洗ってから塞ぐ」
ネムは自分の手を見る。
「じゃあ、何する?」
「血を止める」
「痛みを和らげる」
「弱った者を休ませる」
「そこまでで十分」
セラは胞子を薄く染み込ませた包布を作り、ネムへ渡した。
「直接たくさん出すより、これを使って」
「少ない胞子で長く持つ」
ネムは包布を見つめる。
「これなら、いっぱい治せる?」
「いっぱい休ませられる」
「全部治そうとしなくていい」
ネムはゆっくり頷いた。
「止めて、休ませる」
「そう」
セラは立ち上がった。
「動ける者は外」
「重傷者を寝床の奥へ」
「切り傷、煙、耳、衰弱で分ける」
「人間か魔物かではなく、傷の種類で並べて」
まめじいが即座に台帳を開く。
「外傷、吸引、聴覚、衰弱」
「寝床を四つに分けます」
セラがまめじいを見る。
「話が早い」
「治療した内容も残して」
「もちろんにございます」
千景が小さく言った。
「記録する人同士、すぐ分かり合うね」
セラが振り返る。
「お前は、支出を記録しろ」
千景は目を逸らした。
「今は怪我人の話でしょ」
「治療費も怪我人の話よ」
牧人が近くで聞いていた。
「費用の話は、あとでしてくれ」
「まず治療を頼む」
セラが牧人を見る。
「あなたが親分?」
「守谷牧人です」
「もちろん、治療を優先するよ。死なれたら踏み倒しされるからね」
セラは治療鞄を開いた。
ネムと並び、負傷者を順番に診ていく。
ネムが出血と痛みを抑える。
セラが傷を洗い、異物を取り除き、薬を塗る。
二人の役割が決まった。動ける若い衆も手伝って、治療は一気に進み始めた。
---
イトは、なかなか診察を受けようとしなかった。
「まだ、糸いる」
傷ついた脚先から、細い糸が伸びている。
帰還路から受付まで。
寝床へ続く道。
灰色の影たちが迷わないための線。
セラがイトの脚を取った。
血は止まっているが、脚先の皮膚が裂けている。
「この脚で、まだ使うの?」
「動く」
「動くことと、使っていいことは別」
イトは糸を引こうとする。
ネムが後ろから背中を押さえた。
「休む」
「でも、道」
ヒナが上から答える。
「私が案内するよ!」
「必要な糸だけ残して!」
イトは本家まで続く糸を見る。
少し考えた。
「帰る糸、残す」
「それだけ」
とセラ。
イトは頷いた。
セラが傷を洗う。
「痛いぞ」
「平気」
薬が触れた瞬間、イトの肩が跳ねた。
「痛い」
「今、平気だって言っただろ」
「やっぱり、痛い」
「我慢しろ」
ネムが胞子を染み込ませた包布を、イトの指へ当てる。
イトの表情が少し緩んだ。
「楽」
「よかった」
セラが、その上から包帯を巻いた。
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クロは寝床の入口で止まった。
右が不満そうに言う。
「この程度で治療は要らん」
セラは三つの首を順に見た。
右の口元。
左の裂けた耳。
中央の前脚。
「傷は三か所」
「俺たちは一体だ」
「傷口は三つ」
「動かないで」
右が不満そうに牙を鳴らした。
セラは左の耳へ薬を塗る。
左の首が、わずかに引く。
次に、右の口元を拭いた。
「何を噛んだの?」
「禁域級だ」
セラの手が止まった。
「禁域級?」
牧人が答える。
「灰環最深部のグレイヴだ」
セラはクロの口元をもう一度確認した。
「それを先に言いなさい」
「瘴気や呪いが残っていないか調べる」
右が牧人を睨む。
「余計なことを言うな」
「隠す方が悪い」
中央が静かに頭を下げた。
「頼む」
セラは頷き、別の薬瓶を取り出した。
その横で、ネムが前脚へ胞子入りの包布を巻く。
「痛いの、薄くする」
中央が頷いた。
「助かる」
ネムの口元が、少しだけ緩んだ。
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治療の目処が立った頃。
牧人は、門前外縁へ拘束された堂前の前へ立った。
堂前は武器を奪われ、ゴブリン隊に両腕を押さえられている。
周囲には、金で集められた探索者や傭兵。
都市防衛局を外された補助員たちもいた。
牧人は堂前を見る。
「何で来た」
堂前の顔が歪んだ。
「白閃牙を取り戻すためだ」
「本家を襲えば戻るのか」
堂前は黙る。
「寝床を壊して」
「受付に並ぶやつを追い出して」
「ここを奪えば、昔の隊員が戻ってくるのか」
「黙れ」
「戻らないだろ」
堂前の胸には、古い白閃牙の印がある。
だが、その後ろにいる者たちは、白閃牙の隊員ではない。
牧人は、その印を見た。
「昔の名前をつけて」
「金で集めたやつを連れて」
「留守中の本家を襲った」
「それだけじゃないか」
堂前が顔を上げる。
「お前だって、勝手に冥門組を作っただろうが!」
門前へ声が響いた。
「勝手に本家を名乗った!」
「魔物を集めた!」
「それが認められた!」
「なら、俺が白閃牙を作り直して何が悪い!」
牧人は少し考えた。
「作り直すのは勝手だ」
堂前の目が動く。
「でも、うちを襲う理由にはならない」
「お前がいるからだ!」
堂前の声が震える。
「お前が現れてから、全部おかしくなった!」
「魔物が本家を名乗る!」
「監察局も都市側も、お前たちの記録を信用する!」
「俺が何年かけても手に入らなかったものを、お前は簡単に――」
「簡単じゃない」
牧人は門前を見る。
傷ついた若い衆。
壊れた盾。
治療を続けるネム。
鍋を守ったベロ。
受付に立つナナ。
水を運ぶミズハ。
案内するヒナとイト。
板を掲げる豪志とニコ。
クロ。
ザガ。
イシコ。
まめじい。
「最初は、雨を避ける場所だった」
「腹を空かせたやつが来た」
「怪我したやつが来た」
「帰る場所のないやつが来た」
「追い出さなかっただけだ」
堂前が叫ぶ。
「それが本家になったんだろ!」
「ああ」
牧人は堂前を見る。
「俺が本家と名乗ったからじゃない」
「こいつらが戻ってくるから、本家になったんだ」
堂前は何も言えなかった。
まめじいが静かに口を開く。
「堂前殿」
「人員、装備、本家内部の情報」
「お一人で用意されたものではございませんな」
堂前の肩が動く。
牧人も、床に落ちた装備を見る。
石縛り杭。
音響具。
吸水布。
ぷるを止めるための囮袋。
本家の役割ごとに対策が用意されていた。
「誰に出された」
堂前は黙る。
「言わなければ、全部お前が用意したことになるぞ」
堂前が牧人を睨んだ。
「俺だけに押しつける気か」
「押しつけようとしたのは、そいつらだろ」
堂前の顔が固まる。
牧人は続ける。
「人も金も装備も出す」
「お前が先頭に立つ」
「成功すれば利用する」
「失敗すれば、お前が勝手にやったことにする」
「最初から、使い捨てるつもりだったんじゃないのか」
堂前は俯いた。
自分を誘った者たちの顔を思い出しているようだった。
名誉を取り戻せ。
白閃牙を再建しろ。
守谷牧人も、勝手に本家を名乗った。
お前も同じようにやればいい。
そう言いながら、誰一人として自分の名前を表へ出そうとはしなかった。
長い沈黙のあと。
堂前が低く答えた。
「……都市防衛局の強硬派だ」
まめじいの筆が動く。
「お名前は」
堂前は何人かの名を口にした。
役職。
連絡役。
装備の受け渡し場所。
資金を出した者。
本家の情報を渡した者。
まめじいは、一つずつ記録した。
牧人はまめじいへ言う。
「いい加減、対処しないとな」
「その通りでございますな」
「監察局へ引き渡す」
堂前が顔を上げる。
「お前が俺を裁かないのか」
「俺は監察官じゃない」
「殺さずに引き渡すのか? お前の本家を襲ったんだぞ」
「だから、記録を渡す」
「勝手に裁いたら、お前らと同じになる」
堂前は牧人を睨んだ。
だが、もう言葉は出なかった。
まめじいが台帳を閉じる。
「久慈野監察官へ、至急連絡いたします」
牧人が周囲を見た。
「誰か、確認所まで走れるか」
「俺が行きます」
声を上げたのは、真木レンだった。
堂前たちの襲撃を知らせに来てから、本家側に協力していた。
牧人がレンを見る。
「場所は分かるのか」
「はい」
「監察局の臨時確認所なら、ここへ来る途中に見てる」
リオが地図板を開いた。
「本家から外縁へ出る道なら、僕が案内できます」
「途中の崩れた場所も記録してあります」
リオは地図板へ、最短の退路を示す。
レンは地図を確認し、まめじいから記録の写しを受け取った。
「久慈野さんに直接渡してきます」
「頼む」
レンは本家の外縁通路へ向かって走り出した。
---
治療が落ち着き始めると、ネムは寝床の端へ座り込んだ。
白い胞子は、もうほとんど出ていない。
セラが水の入った椀を渡す。
「飲んで」
「まだ、治す子いる」
「あなたが倒れたら、治療する相手が一人増える」
ネムは少し考えた。
「増えるの、駄目」
「そういうこと」
ネムは水を飲んだ。
その近くで、まめじいが新しい頁を開いていた。
傷の記録ではない。
以前から、何度か目をつけていた現象の記録だった。
本家を守る時。
帰る場所を失いかけた時。
牧人が名前を呼び。
立て。
戻れ。
持て。
死ぬな。
そう命じた時。
動けないはずの者が立った。
出せないはずの力を出した。
本来なら届かない格へ、一時的に近づいた。
一度だけなら、危機に際した底力とも考えられた。
だが、同じ現象はこれまでにも何度か起きている。
そして灰環最深部では、牧人が一人ずつ名を呼び、それぞれの役割に沿って、明確に一段上の姿へ引き上げた。
偶然ではない。
まめじいは牧人を呼ぶ。
「親父殿」
牧人が振り返る。
「今度は何だ」
「以前より記録しておりました現象について、確認がございます」
「何の現象だ」
「親父殿が、うちの者の格を一時的に引き上げる現象ですな」
ヒナが顔を向ける。
「最深部で、私たちが強くなったやつ?」
「それ以前にも、ございました」
「うん、確かにあったね」
クロの中央が言う。
「親父が名を呼んだ時」
「本家の流れが、体の奥へ通った」
イシコも頷く。
「持てって、言われた」
「前の私に、近づいた」
イトは包帯を巻いた指を見る。
「糸、増えた」
「みんな、つながった」
ザガが曲がった槍を横へ置く。
「禁域級の脚を、槍一本で止めた」
「普通の底力では説明がつかねえな」
牧人は嫌そうな顔をした。
「俺は必死に名前を呼んだだけだぞ」
「それが条件の一つなのでございましょう」
まめじいの筆が走る。
「親父殿が、家族、あるいは、うちの者と認識している相手」
「その者が危機にあり」
「親父殿が名を呼び、役割を命じる」
「命令って言っても、立てとか持てだぞ」
「十分にございます」
まめじいは記録を読み上げた。
守谷牧人。
本家帰属個体に対し、一時的な格上げ現象を発生。
単純な力の増加ではなく、対象が本来まだ届いていない完成形へ近づく。
対象の役割、耐久、連携、踏ん張りを引き上げる。
支配による強制ではなく、帰属関係を通じて成立するものと推定。
牧人は台帳を覗き込む。
「長いな」
「記録上、呼び名が必要にございます」
「ビックリ現象でいいだろ」
ヒナが嫌な顔をした。
「やだ、カッコ悪い」
まめじいも頷いた。
「親父殿によるものだと分かりませぬ」
まめじいは少し考え、一行を書き加えた。
守谷牧人 固有スキル 仮称――《親分権限》
牧人は目を細める。
「勝手に名づけるな」
「仮称にございます」
「お前の仮称は、そのまま残るだろ」
ニコが板を出した。
親分権限
「板にするな」
豪志が目を輝かせる。
「親分さんが、本家の皆さんを強くする権限!」
「分かりやすいです!」
「お前も広めるな」
まめじいは、さらに記録を続ける。
「また、最深部において」
「親父殿が皆様へ『戻るぞ』と呼びかけた時」
「皆様の力、帰還路、本家石、管理核が、一つの流れとしてつながったとのこと」
ヒナが頷く。
「全員の力が、親父のところへ集まった」
イトも短く言う。
「みんな、帰る」
「核も、聞いた」
まめじいが書く。
《親分権限》上位発動。
本家帰属個体および帰還路を、一つの流れへ統合。
家主による全帰属個体への帰還要求。
固有スキル 仮称――《帰還命令》。
牧人が、まめじいを見る。
「それも勝手につけたのか」
「仮称にございます」
「他の候補は」
「ございません」
「考えてないだけだろ」
まめじいは穏やかに答える。
「親父殿が戻るよう命じ」
「皆様が帰るために立ち上がった」
「十分、分かりやすい名にございます」
クロの中央が頷いた。
「悪くない」
右が鼻を鳴らす。
「親分権限は、少し安い名だがな」
まめじいが右を見る。
「では、代案を」
右は黙った。
左が静かに言う。
「ないらしい」
ニコが二枚目の板を出した。
帰還命令
豪志が二枚を並べる。
「格好いいです、親分さん!」
「掲げるな」
牧人が言った。
まめじいは台帳へ追記する。
親父殿、呼称を黙認。
「してない」
さらに追記。
親父殿、否定。
牧人は台帳を閉じようと手を伸ばす。
まめじいは素早く一歩下がった。
その時、寝床からセラの声が飛んでくる。
「元気なら、包布を運んで!」
牧人の手が止まる。
「俺か?」
「他に手が空いてる人がいる?」
本家門前には大勢いた。
だが、誰もが治療、受付、炊き出し、警備で動いている。
牧人は諦めて、包布の束を抱えた。
禁域級を倒し。
帰還路を開き。
本家へ戻ってきても。
親父の仕事は、まだ終わらなかった。




