本家の受付は、まだ開いていた
ごん。
本家門前の石床が、下から押し上げられたように鳴った。
戦いを終えたばかりの者たちが、一斉に保全路の奥を見る。
倒れた吸水布。
砕けた石縛り杭。
床へ散らばった武器。
傷ついたゴブリン隊と、肩で息をする本家の若い衆。
その中央で、ゴルムに肩を押さえられていた堂前も顔を上げた。
「今度は何だ……?」
まめじいは答えなかった。
台帳を胸に抱えたまま、本家の石床へ目を落とす。
石の奥を、淡い光が走っていた。
最深部へ細く続いていた帰還路が、今は一本の太い流れとなり、本家門前まで届いている。
イトが残していった糸も、その光に触れて、ぴんと張った。
まめじいの目が細くなる。
「つながりましたな」
豪志が、端の欠けたニコの板を抱えたまま振り返った。
「何がですか?」
「親父殿たちの、本家への帰り道にございます」
豪志の顔が明るくなる。
「親分さんたちが戻ってくるんですか!?」
ナナも短剣を下ろした。
「親父、帰る」
ネムが寝床の入口から顔を出す。
「起きたら、いる?」
「間もなく、お戻りになるでしょう」
まめじいが答えた直後だった。
本家門前の奥。
灰環最深部へ続く保全路から、温かな光が膨れ上がる。
灰色の石床の中央へ、一本の道が浮かび上がった。
中継台。
開いた最終保全門。
そのさらに奥。
遠く離れていた場所が、帰還路によって一つにつながっている。
千景が、その道を見た。
「これ、マッキーが開けた道?」
隣で地図板を確認していたリオが頷く。
「たぶん」
「でも、親父さんたちだけが戻る道ではありません」
「大勢が、こちらへ向かっています」
ガルムも鼻を動かした。
「灰と古い石の匂いだ」
「名の薄い者たちが、かなりいる」
豪志が帰還路の奥を覗き込む。
「かなりって、どれくらいですか?」
ガルムは答えなかった。
まめじいが台帳を閉じる。
「皆様」
「受付を整えましょう」
豪志は、荒れた門前を見回した。
戦いが終わったばかりだ。
負傷したゴブリンがいる。
若い衆も何体か寝床へ運ばれている。
水を吸った布と砕けた杭が、道を塞いでいる。
襲撃者たちは武器を奪われ、外縁へまとめられて、拘束されている最中だ。
「今からですか?」
「今だからこそにございます」
まめじいは穏やかに続ける。
「帰ってこられる方々を、閉じた受付で迎えるわけにはまいりませぬ」
ニコが板を出した。
本家、開門中
泥がつき、端も少し欠けている。
それでも、文字は消えていなかった。
豪志は板を両手で持ち直す。
「はい!」
「受付を開けます!」
ベロが鍋の蓋を開けた。
「飯は足りるか?」
「人数が分かりませぬ」
「まずは、出せる分から出しましょう」
「薄くなるぞ」
ミズハが水桶を持ち上げる。
「水だけ増やさないでよ」
「具も増やす」
「何を入れるの?」
ベロは黙った。
「今、考えてる」
「変なものは入れないでね」
ネムは寝床を見回した。
布団の多くは、戦いで傷ついた若い衆が使っている。
「場所、足りない」
「動けない方を優先いたしましょう」
「歩ける方には、少しお待ちいただきます」
寝床で横になっていた若い小鬼が、体を起こそうとした。
ネムが肩を押さえる。
「寝て」
「でも、親父が帰る」
「寝たまま迎える」
「それでいい?」
「いい」
若い小鬼は少し考え、布団へ戻った。
ナナは受付の横へ立つ。
「武器、遠く」
動けるゴブリンたちが、床に散らばった武器を門前外へ運んでいく。
ぷるも体を揺らし、残っていた煙と薬草の臭いを吸い始めた。
ぷるん。
ゴルムは堂前を押さえたまま聞く。
「こいつらはどうする」
「帰還者の列へ近づけぬよう、外縁へ」
「詳しい処置は、親父殿がお戻りになってからにいたしましょう」
堂前が顔を上げる。
「俺を牧人の前へ出すつもりか」
「襲撃を指揮された方を、報告しないわけにはまいりませぬ」
「台帳から消せ」
「できませぬ」
「なぜだ!」
「すでに清書しております」
ニコが新しい板を出した。
堂前、襲撃
「板にまで書くな!」
その時。
帰還路の奥から、足音が響いた。
一つではない。
重い足音。
小さな足音。
石を擦る音。
翼が風を打つ音。
さらにその後ろから、数え切れない足音が続いている。
本家門前が静かになった。
最初に見えたのは、白い翼だった。
ヒナが帰還路の上空を飛んでくる。
姿は、いつもの大きさへ戻っている。
羽根の先には灰がつき、翼にも傷が残っていた。
それでも、大きく手を振っている。
「帰ってきたよ!」
豪志が板を掲げた。
「お帰りなさい!」
ヒナは門前へ降りかけ、途中で止まった。
倒れた吸水布。
砕けた杭。
武器の山。
外縁へまとめられた人間たち。
ゴルムに押さえられている堂前。
見慣れないゴブリン隊。
千景、小太郎、リオ、ガルム。
ヒナは何度か目を瞬いた。
「……何があったの?」
豪志が答える。
「襲撃です!」
堂前が叫ぶ。
「言うな!」
「本人が襲撃だと申告しました!」
ヒナは堂前を見る。
「親父がいない間に?」
ナナが頷く。
「留守狙い」
ヒナの翼が少しだけ広がった。
「それで負けたの?」
堂前が顔を歪める。
千景が言った。
「もう終わったよ」
「姫がやったの?」
「まあ、最後の締めをね」
「締め?」
千景が手に持っているお菓子の空箱を見た。
千景は、慌てて背中に隠す。
「いっ、色々、あったんだよ」
ヒナは何となく察した顔になった。
「詳しく聞かせてもらおうかな」
「あとでね」
ヒナの後ろから、イトが糸を使って戻ってくる。
小さな脚には布が巻かれ、乾いた血が残っていた。
本家門前へ着くと、まっすぐまめじいの前へ降りる。
「ただいま」
まめじいは深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、イト殿」
イトは、壊れた門前を見回した。
傷ついた若い衆。
欠けた盾。
それでも消えていない鍋の火。
掲げられた受付の板。
「本家、ある」
ナナが短く答える。
「守った」
イトは頷いた。
「よかった」
続いて、ザガが槍を杖代わりに歩いてくる。
腕にも肩にも傷があり、いつもより歩幅が狭い。
門前へ着くと、整然と並ぶゴブリン隊を見た。
「何だ、この連中は」
片目の老ゴブリンが、まめじいへ片膝をつく。
「軍師殿の求めに応じ、本家防衛へ参りました」
ザガが、ゆっくりとまめじいを見る。
「軍師?」
豪志が待っていましたとばかりに口を開く。
「まめじいは、昔すごい軍師だったんです!」
「昔の話にございます」
ザガは、ゴブリン隊の崩れていない陣形を見る。
「今も十分、軍師じゃねえか」
まめじいは聞こえなかったふりをした。
その後ろから、イシコが姿を現す。
両腕には本家石。
石の翼は欠け、体のあちこちにひびが入っていた。
それでも、本家石だけは傷一つなく抱えている。
イシコは門前へ着くと、石床へ手を置いた。
「本家」
「まだ、無事か?」
ミズハが近づく。
「あなたの方が、ひどい状態よ」
「直る」
「先に休みなさい」
「石、置いてから」
イシコは本家石を、門前の元の場所へ戻した。
ごん。
本家全体に、温かな振動が広がる。
壊れた石床。
欠けた壁。
戦いで傷ついた門前。
それらが、小さく鳴った。
「ただいま」
石床が淡く光った。
さらに帰還路の奥から、グラードが戻ってくる。
片腕には、ドワンの工具箱。
その背には、灰積みのドワンが乗っていた。
グラードがドワンを下ろす。
ドワンは腰を押さえながら、開いた最終保全門を振り返った。
「左下の輪は、あとで調整じゃ」
ザガが顔をしかめる。
「あんたの指示どおり開けたんだぞ」
「開けろとは言った」
「雑に扱えとは言っておらん」
「無茶を言うな」
まめじいが頭を下げる。
「ドワン殿、グラード殿も、お疲れさまにございました」
「疲れた」
「わしは帰ったら休む」
ヒナが言う。
「出張中の札、まだそのままだよ」
「休業中へ戻す」
「仕事を再開する気はないんだ」
「今回は特別じゃ」
そして、黒い三つ首が、帰還路の奥から現れた。
クロだった。
毛並みは灰で汚れている。
右の口元には血が残り。
左の耳は裂け。
中央の前脚も引きずっている。
それでも、三つの首は高く上がっていた。
その背には、牧人。
両腕には、淡く光る古い管理核を抱えている。
牧人の姿が見えた瞬間。
本家門前から、いくつもの声が上がった。
「親父!」
「親分さん!」
「親父、帰った」
「お帰りなさいませ!」
寝床の奥からも、若い衆の声が聞こえた。
千景も手を上げる。
「お帰り、マッキー」
牧人はクロの背から下りた。
最初に見たのは、崩れた門前。
次に、傷ついたゴブリン隊と若い衆。
水を吸った布。
砕けた杭。
外縁へまとめられた武装集団。
最後に、ゴルムへ押さえ込まれている堂前。
牧人は、しばらく黙った。
「……何があった」
全員が一斉に口を開いた。
「襲撃です!」
「留守を狙われた」
「堂前が来た」
「ゴブリンが助けに来たよ!」
「姫がお菓子で釣られた」
「小太郎が猫のおやつを食べた」
「僕とガルムは途中から来ました」
「飯は守った」
「寝床も」
「受付、閉めてない」
「板も守りました!」
牧人は片手を上げた。
「待て」
「一人ずつ話せ」
全員が黙る。
ニコが板を出した。
いろいろ、あった
牧人は板を見る。
「それだけは分かった」
堂前が口を開こうとする。
「牧人、俺は――」
牧人が止めた。
「話はあとだ」
「今は忙しい」
堂前の言葉が止まる。
牧人は、背後の帰還路を見る。
光の奥から、数え切れないほどの灰色の影たちが歩いてきていた。
名前を失った者。
顔を失った者。
役目だけを残されていた者。
誰も押されていない。
命令もされていない。
自分の足で、本家へ向かっている。
門前にいた者たちが息を呑んだ。
牧人は、まめじいを見る。
「受付、できるか」
まめじいは、すでに新しい頁を開いていた。
「もちろんにございます」
「名前が分からない者が多い」
「今は未定で構いませぬ」
「数も多いぞ」
「一体ずつ、受け付けるまでにございます」
ベロが鍋の蓋を開ける。
湯気が立ち上った。
「飯は薄くなる」
「最初は、温かければいい」
ネムが寝床の入口を広げる。
「眠い子、こっち」
ナナが受付横へ立つ。
「走らない」
「押さない」
ミズハが水を用意する。
「洗える人は、先に手を洗って」
ぷるも入口近くへ移動した。
ぷるん。
ヒナが空へ上がる。
「受付はこっち!」
「歩けない子がいたら教えて!」
イトの糸が、帰還路から受付まで伸びる。
「こっち」
「糸、つかむ」
「落ちない」
イシコは壊れた石床へ手を置く。
「道、直す」
ザガは槍へ体重を預けたまま、門前外側へ立った。
「俺は外を見る」
クロも牧人の横へ並ぶ。
中央が、帰還してくる影たちを見た。
「全員、戻ったか」
牧人は首を横に振る。
「名前も顔も、まだ戻ってない」
「でも、帰る道はある」
左が言う。
「なら、もう迷わない」
右が牙を見せる。
「また迷えば、噛み戻すだけだ」
最初の影が、受付前へ着いた。
顔はない。
名前も言えない。
ただ、両手を胸元へ寄せ、不安そうに立っている。
まめじいが穏やかに尋ねた。
「お名前は、お分かりになりますかな」
影は首を横に振る。
「では、今は未定としておきましょう」
「飯は召し上がれますか」
影が、ほんの少し頷いた。
まめじいの筆が動く。
名、未定。
呼称、保留。
飯、希望。
寝床、必要。
管理核は静かに光っていた。
否定の表示は出ない。
処分路も開かない。
ベロが、薄いスープの入った椀を差し出した。
「薄いが、温かい」
影は両手で椀を受け取る。
湯気が、顔のない頭部へ上がった。
一口すすった瞬間。
影の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった。
「……帰った」
かすかな声が漏れる。
牧人は静かに答えた。
「ああ」
「お帰り」
その後ろから、次の影が進む。
さらに次。
帰還路の向こうには、まだ長い列が続いている。
豪志が板を高く掲げた。
本家、開門中
灰色の影たちは、その板を見て、一体ずつ受付へ並び始めた。
門前は壊れている。
負傷者もいる。
飯も、寝床も足りない。
堂前たちの処置も残っている。
それでも。
本家の受付は、まだ開いていた。




