黒冠からの助っ人
千景の声が、本家門前へ低く落ちた。
「小太郎」
堂前の隣に座っていた小太郎の耳が、ぴくりと動く。
口には、まだ猫用のおやつが入っていた。
千景は、堂前が持つ袋を見る。
満面の笑みを浮かべた猫の絵。
次に、小太郎を見る。
「君は、何やってるの?」
小太郎は口を止めた。
猫用のおやつを飲み込むと、ばつが悪そうに堂前の手元から目を逸らした。
「わふ」
「敵から勝手に食べ物をもらわない」
小太郎のシッポが下がった。
堂前の隣から離れ、千景の足元へ戻ってくる。
残っているおやつを見ないよう、わざと顔まで反対側へ向けていた。
豪志が胸をなで下ろす。
「よかった! 姫だ!」
ナナも短く頷いた。
「助かった」
堂前は猫用おやつの袋を握ったまま、千景を見る。
黒い髪。
背負った大剣。
黒冠の姫。
強硬派から渡された資料で顔は知っていた。
だが、実際に目の前へ立たれると、紙に書かれた危険度とは重みが違う。
千景が一歩進む。
門前に残っていた煙が、足元から左右へ逃げた。
堂前の第二陣が、反射的に後ずさる。
千景は止まらない。
「うちの小太郎を、何で釣ったの?」
堂前は袋を掲げた。
「犬のおやつだ」
豪志がすぐに叫んだ。
「だから猫用ですって!」
「袋に猫が描いてあるでしょう!」
千景も袋を見る。
「猫用じゃん」
「犬も猫も、同じ四足歩行の獣だ!」
「似てないよ」
堂前の声が詰まった。
千景の右手が、大剣の柄へ伸びる。
黒い影が足元へ広がり、堂前の前まで這っていく。
「覚悟して」
本家側の空気が、わずかに緩んだ。
ゴブリン隊は押されている。
ゴルムは石縛り杭に動きを封じられている。
ミズハの水路も、吸水布で分断されたままだ。
だが、千景が来た。
形勢が逆転した。
豪志は、千景の足元に戻った小太郎を見て、安堵の息をついてから言った。
「姫!」
「お願いします!」
だが、堂前は動かなかった。
千景が来る可能性も、強硬派から聞いていた。
正面から戦えば勝てない。
なら、戦わなければいい。
堂前は空いている手を、外套の内側へ入れた。
千景が大剣を抜きかける。
「今さら、何を出しても――」
堂前が取り出したのは、武器ではなかった。
細長い箱。
深い青色の包装。
銀色の細い紐。
箱の中央には、人気焼き菓子店《月冠堂》の紋章が入っていた。
千景の手が止まる。
堂前は、その変化を見逃さなかった。
箱を少し高く掲げる。
「《月冠堂》の期間限定」
「黒蜜木の実焼きだ」
千景は何も言わず、箱を見た。
堂前は続ける。
「昨日で販売終了」
「残っているのは、これだけだ」
千景の目が、ほんの少しだけ開いた。
豪志が嫌な予感を覚える。
「姫?」
千景は堂前を見ず、箱だけを見ていた。
「……それ、本物?」
「封も切っていない」
堂前は箱を裏返す。
店の封印紙も、期限札も付いたままだった。
千景が一歩、堂前へ近づく。
視線は箱からまったく動いていない。
本家側がざわついた。
ミズハが水を操りながら言う。
「姫」
「まさかとは思うけれど、そんなお菓子で買収されないわよね?」
千景は答えない。
ナナが短く言う。
「だめ」
ベロも鍋蓋を構えたまま叫ぶ。
「菓子で買われるな!」
豪志も必死だった。
「姫!」
「小太郎を叱ったばかりですよ!」
「ここは手本を見せるところです!」
千景が豪志を見る。
「小太郎は勝手にもらったでしょ」
「私は条件を確認してる」
「受け取る気満々じゃないですか!」
堂前は箱を前へ差し出す。
「この場で手を出さないなら渡す」
「どうだ?」
千景の目が細くなる。
「それだけ?」
「ああ」
「そんな簡単なことでいいの?」
「手を出さなければいい」
千景は箱を見る。
本家を見る。
足元で大人しく座っている小太郎を見る。
長い沈黙だった。
本家側の全員が、千景の返事を待っている。
まめじいですら、筆を止めていた。
千景は堂前の前まで歩く。
大剣から手を離した。
そして箱を受け取る。
本家門前が凍りついた。
豪志が最初に叫ぶ。
「受け取ったー!?」
ナナが目を見開く。
「姫も、釣られた」
「釣られてないよ」
「今すぐは、戦わないだけ」
「それを釣られたって言うんです!」
千景は包装を丁寧に解いた。
箱の蓋を開ける。
中には、小さな丸い焼き菓子が沢山入っていた。
黒蜜を練り込んだ香ばしい生地。
表面には砕いた木の実。
甘い香りが門前へ広がる。
千景は一つ手に取った。
端を小さくかじる。
さくり。
目元が、わずかに緩んだ。
「……おいしい」
豪志が頭を抱える。
「感想を聞きたいんじゃないんです!」
堂前も、少し驚いていた。
資料には、千景が期間限定品のお菓子を好む傾向があると書かれていた。
だが、本当にこんなもので手を止めるとは思っていなかった。
「……本当に効いた」
千景が顔を上げる。
「今、何て言った?」
「何でもない!」
堂前は慌てて目を逸らした。
千景は、本家と堂前の間にある石床へ腰を下ろした。
小太郎も、その隣へちょこんと座る。
堂前は千景へ焼き菓子の箱を渡したあと、猫用おやつの袋を小太郎の前へ差し出した。
小太郎は一度だけ千景を見る。
千景は箱を開けながら、軽く頷いた。
「今度は、勝手にもらったわけじゃないからね」
小太郎の耳が立つ。待ちきれないように一つ咥えた。
千景も焼き菓子を一つ手に取る。
さくり。
かり。
千景と小太郎は、ほとんど同時に食べ始めた。
千景の目元がわずかに緩む。
小太郎の尻尾も、大きく左右へ揺れた。
堂前は二人を見て、満足そうに笑う。
「両方、止めたぞ」
本家側から見れば、助けに来たはずの二人が、堂前から受け取ったおやつを仲良く食べ始めたという最悪の光景だった。
その間にも、堂前の第二陣は前へ出ていた。
堂前は我に返り、剣を上げる。
「今だ!」
「今のうちに押し切れ!」
襲撃隊がゴブリン隊の盾へぶつかる。
音響具の余韻が残り、陣形はまだ戻り切っていない。
一枚目の盾が押される。
二枚目も下がる。
若い衆が背後から支えた。
「押す!」
「通さない!」
だが、人間側の人数と重さが上だった。
若い小鬼の足が滑る。
魔狼が肩で盾を押す。
片脚を引きずる獣型が、倒れた者を後ろへ引く。
それでも、列は少しずつ受付へ近づいていた。
ミズハが水を集めようとする。
堂前が叫ぶ。
「追加の吸水布を右へ!」
黒い布が投げ込まれる。
水がまた吸われた。
ミズハが顔をしかめる。
「しつこいわね」
ナナは受付側から入ろうとした男を止める。
一人目の手首を打ち、二人目の膝を蹴る。
三人目を短剣の柄で殴る。
しかし、四人目が外側へ回った。
ベロが鍋蓋で受ける。
がん。
「多いんだよ!」
堂前は、本家の役割を分断していた。
ゴルムには石縛り杭。
ミズハには吸水布。
ぷるには囮袋。
ゴブリン隊には音響具と煙。
さらに千景と小太郎を、おやつで足止めした。
まめじいがどれほど指示を出しても、手が足りない。
「左、二列目を前へ」
「若い衆は押された盾だけを支えてください」
「追ってはなりませぬ」
「寝床側を優先!」
老ゴブリンが叫ぶ。
「左、持ちません!」
「右を一枚、回してくださいませ!」
盾が動く。
その隙間へ、別の襲撃者が入る。
豪志がニコの板を抱えたまま、体をぶつけた。
「ここから先へは入らせません!」
「どけ!」
男が豪志を押す。
豪志の足が滑った。
それでも板だけは離さない。
ニコが慌てて新しい板を出す。
豪志、倒れるな
「それは俺も分かってます!」
豪志は歯を食いしばり、もう一度立つ。
後ろには、名なしの影たちがいる。
怯えた小型種もいる。
ここを空けるわけにはいかなかった。
堂前は、その優勢を見て笑った。
「押せ!」
「あと少しで本家は俺たちのものだ!」
千景は、三つ目の焼き菓子を食べながら言った。
「どっち~も、がんばれ~♪」
豪志が振り返る。
「姫!」
「助けて下さいよ!」
千景は菓子の残りを見ながら。
「もう少しだから」
「残りを数えてないで!」
小太郎もおやつを満足そうに食べている。
「わふ」
堂前の顔が明るくなった。
「勝利は近い!」
ゴブリン隊の盾が一枚、強く弾かれた。
襲撃者が隙間へ踏み込む。
若い衆が三体で体当たりし、どうにか押し戻す。
その代わり、一体が床へ転がった。
ネムがすぐに寝床から出る。
転んだ若い衆を引きずり、仕切りの内側へ運ぶ。
「休む」
「まだ、やれる」
「駄目」
「今、寝る」
ネムは言い切り、また寝床の入口へ戻った。
その顔も青い。
それでも、寝床から離れなかった。
ゴルムは灰色の鎖を両腕で引く。
石縛り杭が軋んだ。
一本。
二本。
床から少し浮く。
だが、術式は切れない。
「まめじい!」
「もう少しにございます!」
「さっきから、そればかりだぞ!」
「実際、もう少しですので!」
まめじいは、堂前の後列を見ていた。
音響具は使い切った。
煙筒も残りが少ない。
吸水布も水を十分に吸い、重くなっている。
堂前の準備は周到だった。
だが、物資は無限ではない。
耐えれば、必ず崩れる。
問題は、その前に本家の防衛線が持つかどうかだった。
堂前も同じことを読んでいた。
「手を休めるな!」
「今、一気に押し切れ!」
前列へ、さらに人員を入れる。
ゴブリン隊が押される。
若い衆の列も下がる。
受付まで、あと数歩。
豪志の背中が、ニコの板へ触れた。
もう下がれない。
豪志は板を高く掲げた。
本家、開門中
「本家は開門中です!」
「手続きなしで勝手に入るのは禁止です!」
襲撃者が叫ぶ。
「襲撃だって言ってるだろ!」
「だったら受付の列に並んでから襲撃してください!」
「並ぶか!」
「なら帰ってください!」
押し合いながら、問答が一周していた。
千景は次の焼き菓子へ手を伸ばす。
小太郎も、堂前が差し出した次のおやつへ顔を近づける。
その時。
ゴブリン隊の盾が、さらに半歩押し込まれた。
若い衆も背後から支えているが、足元が少しずつ滑っている。
受付まで、ほとんど余裕がない。
千景は焼き菓子を持ったまま、その様子を見た。
さっきまでより、目が少しだけ真面目になる。
「小太郎」
千景は、本家の防衛線を見たまま小さく言った。
「ちょっと食べるの急ごうか」
小太郎が顔を上げる。
丸い目で千景をじっと見た。
その顔は、明らかに言っていた。
先に助けてから、食べればいいのではないか、と。
千景は一度だけ黙った。
それから、小太郎の口元を見る。
猫用おやつは、まだしっかり噛んでいる。
前脚の間にも、次の一つが残っていた。
小太郎も、千景の手にある焼き菓子を見る。
どちらも、食べる手を止めてはいない。
「……お互い様だね」
「わふ」
小太郎は視線をおやつへ戻した。
千景も焼き菓子へ向き直る。
二人は揃って、さっきより少しだけ食べる速度を上げた。
その時、黒冠へ続く道から誰かが来る気配があった。
冷たい風が吹き抜ける。
千景が顔を上げた。
裂け目の奥から、真柴リオが駆け込んでくる。
背には荷物袋。
片手には、黒冠の道を記録した地図板。
腰には道標札と補給用の小袋を下げている。
リオは門前へ出るなり、戦場全体を見た。
押されている本家。
分断されたミズハの水路。
石縛り杭に捕まったゴルム。
煙の残る門前。
そして最後に。
焼き菓子を急いで食べている千景。
その隣で、猫用おやつを噛んでいる小太郎。
リオの顔が固まった。
その後ろから、大きな狼型の魔物が姿を現す。
黒い毛並み。
全身を走る黒雷。
黒雷狼のガルムだった。
ガルムは鼻を動かす。
襲撃者たちの匂い。
煙。
石縛り杭。
ベロの飯。
焼き菓子。
猫用おやつ。
最後に、千景と小太郎を見る。
黒雷が、額の辺りで小さく弾けた。
リオは、次の焼き菓子を口へ運ぼうとしている千景の前へ進む。
「姫!」
千景が顔を上げる。
「あ、リオ」
「こんにちは」
「何をしてるんですか!」
「いや、お菓子をもらっちゃってね」
「だから急いで食べてる」
リオの顔が引きつった。
「食べてないで、今すぐ助けてください!」
千景は箱の中を見る。
「もう少しだから」
「もう少しじゃないです!」
小太郎も口を止め、リオを見る。
猫用おやつは、まだ前脚の間に残っている。
リオは小太郎も指さした。
「小太郎もです!」
小太郎は千景を見る。
千景はまだ食べている。
小太郎も残ったおやつへ顔を戻した。
「姫が食べてるからって、小太郎まで続けないでください!」
「でも、途中で残すのも」
「早く助けてください!」
ガルムは、今にも崩れそうな本家の防衛線を見る。
次に、食べ続けている千景と小太郎を見る。
低く、長い息を吐いた。
「……もういい」
「ほっとけ」
黒い電撃が、ガルムの四肢を走る。
「俺が行く」
リオも地図板を抱え直し、堂前の隊列と荷車へ目を向けた。
千景はガルムの背中を見送る。
小太郎も残ったおやつを見る。
二人は一度だけ顔を見合わせると、さらに食べる速度を上げた。




