親父は、沈んだ者を踏み台にしなかった
灰色の影たちが、石橋を埋め尽くしていた。
人型。
獣型。
翼を失った鳥。
脚の欠けた蜘蛛。
武器を持つ者もいれば、何も持たず、ただ両腕を前へ伸ばしている者もいる。
誰にも顔はなかった。
目も。
口も。
名前も。
残されているのは、グレイヴに与えられた役目だけだった。
侵入者を止める。
橋から落とす。
最深部へ近づけない。
それだけを繰り返す影が、石橋の先から次々に立ち上がっていた。
「多い!」
ヒナが橋の上を旋回する。
「後ろからも増えてる!」
「このままだと挟まれるよ!」
イトの糸は、橋の左右から中央まで何重にも張られていた。
影の腕を絡める。
脚を止める。
武器を弾く。
落ちかけた者を引き戻す。
だが、一体を止めれば、その横から二体が前へ出る。
二体を止めれば、橋の下から新しい腕が伸びてくる。
イトの小さな指が忙しく動いた。
「糸、足りない」
「手も、足りない」
ザガが槍の柄で、影の持つ剣を跳ね上げる。
刃は使わない。
突けば倒せる。
首を落とすこともできる。
だが、牧人が止めていた。
「親分!」
ザガが影の胸を槍の横で押し返す。
「このままだと進めねえぞ!」
「分かってる」
牧人はお玉で、橋の縁から伸びた灰色の腕を叩き落とした。
腕は形を崩し、灰色の川へ戻る。
次の瞬間には、別の場所からまた伸びてきた。
クロの右が、苛立ったように牙を鳴らす。
「噛み砕けば早い」
中央が影の一体を前脚で押さえた。
「親父は、それを望んでいない」
「なら、いつまで押さえる」
左は、影の背中から伸びる灰色の線を見ていた。
どの影にも、同じ線がある。
細い。
だが、影たちがもがくたび、線は固く張る。
橋の遥か先。
六本脚の巨大な影。
すべての線が、グレイヴへつながっていた。
「全て、あれに引かれている」
牧人は、動けずにもがく影を見た。
影の手が、牧人の足首へ伸びる。
だが、掴む直前に止まった。
ほんの一瞬。
指先が震える。
牧人を落とせという命令へ、逆らったように見えた。
「こいつら、自分で来てるんじゃない」
「分かっている」
クロの中央が答える。
「だが、止めなければこちらが落ちる」
「だから、元を止める」
牧人は影の手を掴んだ。
冷たい。
石でも肉でもない。
残された記録へ、無理やり形を与えたものだった。
「もう少し待ってろ」
影は答えない。
顔もない。
それでも、その腕から一瞬だけ力が抜けた。
次の瞬間、灰色の線が強く引かれる。
影の腕が跳ね上がり、牧人の首へ伸びた。
クロの中央が前脚で押し止める。
「親父」
「分かってる」
牧人は影から手を離した。
「急ぐぞ」
---
橋の下で、灰色の流れが大きくうねった。
無数の帰還札が渦を巻く。
折れた札。
文字を削られた札。
名前の代わりに番号だけが残った札。
その一枚一枚から、細い手が伸びる。
石橋の縁を掴み、牧人たちの足元へ這い上がってきた。
ヒナが高度を上げる。
「下からも来た!」
ザガが槍で手を払う。
「面倒くせえな!」
右側の石橋が、また灰へ変わり始める。
イトの糸が鳴った。
「右、なくなる」
「前も、割れる」
橋の先へ、大きな亀裂が走った。
石橋が完全に二つへ分かれる。
向こう側までは、クロなら跳べる。
ヒナは飛べる。
イトも糸を張れば渡れる。
ザガも助走があれば届く。
だが、牧人には遠かった。
クロの右が背を低くする。
「親父、乗れ」
牧人は裂けた橋を見た。
「遠慮してる場合じゃないな」
クロが、さらに体を沈める。
牧人はその背へ乗った。
隣では、イシコが本家石を抱え直す。
背中の石翼が、重い音を立てて開いた。
ヒナが空中から目を丸くする。
「その石を持ったまま飛べるの?」
イシコは頷く。
「長くは無理でも」
「少しなら、飛べる」
「絶対に落とすなよ」
クロの右が言う。
イシコは本家石を強く抱いた。
「落とさない」
ザガは槍を背へ回す。
「俺は自分で行く」
イトは橋の向こうへ糸を伸ばした。
細い糸が裂け目を越え、向こう側の石柱へ絡みつく。
「道、作る」
ヒナが先に渡り、向こう側の足場を確かめた。
「ここは固い!」
「左には降りないで!」
ザガが助走を取り、橋を蹴る。
大きく跳び、向こう側へ着地した。
石床がわずかに割れる。
「また割った!」
「着地しただけだ!」
「もう少し静かに降りてよ!」
「この距離で無茶を言うな!」
イトは糸を使い、裂け目の上を滑るように渡った。
残るのは、クロと牧人。
そして、本家石を抱えたイシコ。
橋の下から、無数の灰色の腕が伸び始めていた。
クロの左が低く言う。
「跳ぶ途中で来る」
中央が裂け目の向こうを見る。
「親父」
「掴まれ」
牧人は中央の首元の毛を掴んだ。
「跳ぶぞ!」
クロが走る。
石橋が後ろへ流れた。
裂け目の直前で、後脚が強く床を蹴る。
巨体が宙へ浮いた。
その横で、イシコも石翼を打つ。
本家石を抱えた重みで高度は上がらない。
裂け目のすぐ上を、滑るように進んでいく。
橋の下から、灰色の腕が一斉に伸びた。
クロの脚。
牧人の腕。
イシコの翼。
本家石。
何本もの手が、帰れない場所へ引きずり込もうとする。
ヒナが叫ぶ。
「下!」
イトの糸が走った。
一本が牧人の腰へ。
一本がイシコの腕へ。
残りの糸が、伸びてくる灰色の腕へ絡みつく。
ザガが橋の縁へ腹ばいになり、槍を限界まで突き出した。
「若頭!」
「柄を噛め!」
右が空中で首を伸ばす。
槍の柄へ牙を掛けた。
「引くぞ!」
ザガが両足を石床へ踏ん張り、槍ごとクロの巨体を引き寄せる。
イトの糸も強く張った。
ヒナが牧人の肩を掴み、前へ引く。
その横で、灰色の腕が本家石へ触れた。
イシコの目が開く。
「触るな」
低い声だった。
本家石の表面が光る。
触れた灰色の腕が、先端から石へ変わった。
重みが増し、イシコの体がわずかに沈む。
石翼の先が、灰色の流れへ触れかけた。
「イシコ姐さん!」
ヒナが叫ぶ。
イシコは片翼を強く打った。
同時に、石になった腕を本家石から引き剥がす。
折れた石の腕が裂け目へ落ちた。
イトの糸がイシコの腕を引く。
イシコの指が、向こう側の石床へ届いた。
爪を食い込ませ、本家石を抱えたまま這い上がる。
クロの前脚も、ようやく橋の縁へ届いた。
ザガが槍を引く。
クロが後脚を振り上げ、巨体ごと向こう側へ乗り上げた。
どん、と重い音が響く。
石床にひびが走った。
イシコも、その隣へ重く降りる。
さらに小さなひびが増えた。
ヒナが顔をしかめる。
「二人とも、もっと静かに降りられないの?」
クロの右が息を切らしながら答える。
「親父を乗せて跳んだのだ」
「これくらいで済んだことを褒めろ」
イシコも本家石を抱えたまま言う。
「石、重い」
「それは分かるけど」
牧人はクロの背から下りた。
イシコも本家石を床へ置かず、胸に抱えたまま確かめる。
傷は一つもない。
イシコが小さく頷いた。
「無事」
クロの右が荒い息を吐く。
「俺たちも無事だ」
「よかった」
イシコが言った。
右は一瞬だけ黙る。
それから、顔を逸らした。
「……そうだな」
「うん」
素直に返され、それ以上は何も言えなかった。
---
裂け目を越えた先は、少し広くなっていた。
石橋というより、小さな中継台に近い。
円形の石床。
左右には折れた柱。
中央には、かつて帰還札を確認したらしい古い台座が残っている。
牧人は周囲を見る。
「ここなら置けるか」
イシコが石床へ手をついた。
目を閉じる。
床の下。
左右の柱。
橋へつながる支え。
さらに奥へ続く道。
しばらくして、イシコが頷いた。
「置ける」
「ここ、まだ覚えてる」
「何を」
「帰る人」
「前は、ここで止まった」
「札、見た」
「先へ行くか、戻すか、決めた」
牧人の顔が曇る。
「ここも選別の場所だったのか」
イシコは床に触れたまま答える。
「でも、石は決めてない」
「上から、命令きた」
牧人は遥か先のグレイヴを見る。
「じゃあ、今日から変える」
イシコが本家石を台座の前へ置いた。
ごん。
重い音が中継台へ響く。
本家石の表面から、淡い光が広がった。
最終保全門へ向かう道。
さらに、本家仮受付まで続く帰還路。
イトの張った糸。
灰環核が閉じようとしている古い道。
ばらばらだったものが、本家石を中心に少しずつつながっていく。
灰色だった石床へ、温かい色が混じった。
ヒナが目を丸くする。
「届いた」
イトも糸へ触れる。
「本家、いる」
「遠いけど、いる」
牧人は本家石の前へしゃがんだ。
石へ手を置く。
遠い。
ずっと遠く。
鍋の火。
寝床。
受付。
まめじいの台帳。
ナナの短い声。
豪志が掲げる板。
そこに誰かがいる感覚だけが、微かに返ってきた。
だが、声までは届かない。
その時。
帰還路が、一度だけ大きく揺れた。
牧人が顔を上げる。
「何だ?」
イトが糸を両手で押さえる。
「本家、揺れた」
「強く」
ヒナが本家石を振り返る。
「戻った方がいい?」
牧人は、イトの糸を握った。
すぐに答えられなかった。
本家で何かが起きている。
だが、何が起きているのかは分からない。
今戻れば、ここまで開いた道を失うかもしれない。
グレイヴを止めなければ、本家そのものが帰還路ごと消される。
それでも、糸の向こうには、まめじいたちがいた。
牧人はしばらく動かなかった。
「……まめじい」
小さく名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
牧人は糸を離した。
「進む」
ヒナが心配そうに見る。
「いいの?」
「よくない」
牧人は正直に答えた。
「でも、ここで戻ったら、また同じことになる」
「こっちを終わらせて、すぐ戻る」
本家には、まめじいたちがいる。
ゴルムにも応援を頼んである。
簡単に崩れるとは思っていない。
思いたくもなかった。
ザガが槍を肩へ担いだ。
「結局、両方とも何とかするしかないってことだな」
「そうだ」
クロの中央が、グレイヴを見据える。
「急ぐぞ」
「本家石を置いたことで、こちらの位置も完全に知られた」
その言葉を待っていたように、石床が低く鳴った。
ごごご。
円形の中継台を囲むように、灰色の輪が浮かび上がる。
一つ。
二つ。
七つ。
輪の内側へ、灰色の文字が浮かんだ。
異常帰還点、追加形成を確認。
外部家主個体、侵入継続。
帰還不能個体への帰属付与を確認。
管理権限なき保全行為。
重大違反。
牧人は文字を見る。
「知るか、そんな規則」
グレイヴの声が、最深部全体から重く響いた。
帰還点の形成には、管理者登録が必要。
帰還個体の保持には、支配権限が必要。
家を名乗るには、全個体の管理が必要。
牧人は本家石の前へ立った。
「また、その話か」
管理なくして、保全は成立しない。
選別なくして、帰還は成立しない。
処分なくして、迷宮秩序は維持できない。
牧人は、灰色の影たちを見る。
橋の向こうで、糸に止められたまま立っている。
誰も自分でここへ来たわけではない。
誰も、自分で誰かを落としたいわけではない。
帰れなかった後まで命令に縛られ、道を塞ぐ道具として使われている。
「それで守ったつもりか」
秩序は維持された。
「こいつらを踏み台にしてか」
必要な処理である。
牧人の顔から、少しずつ表情が消えた。
「俺は、こいつらを踏んで先へ行かない」
石橋に並ぶ影たちが、わずかに揺れた。
グレイヴの声が低くなる。
進行には排除が必要。
妨害個体を処分せよ。
選別を受諾せよ。
「嫌だ」
牧人は即答した。
「イトが止める」
「ザガが武器を落とす」
「クロが線を切る」
「ヒナが道を見つける」
「イシコが帰る場所を置く」
一人ずつ見る。
「俺たちは、誰も倒さずに行く」
ザガが苦笑した。
「簡単に言うな」
「言うぞ」
「今度は、本当に骨が折れるぞ」
「でも、できるだろ」
ザガは槍を握り直した。
「親分にそう言われると、できないとは言いづらいな」
ヒナが翼を広げる。
「前の影は、私が上から線を見る!」
イトが糸を張り直す。
「足、止める」
「落ちる子、戻す」
イシコは本家石の横へ、小さな石を幾つも置いた。
「道、覚える」
「戻る場所、消させない」
クロの三つの首が低くなる。
中央がグレイヴを見る。
「俺たちは線を噛む」
左が、影の背中から伸びる灰色の線を追う。
右が牙を剥いた。
「今度は遠慮なく噛んでよいのだな」
牧人は頷く。
「影じゃない」
「あいつにつながってる線だけだ」
「分かっている」
右は少し不満そうだった。
だが、すぐに牙を見せる。
「ならば、全部噛み切る」
灰色の輪が、さらに強く光る。
中継台の先。
広い石橋が、ゆっくりと姿を現した。
さっきまでの細い道ではない。
横に十体は並べるほどの幅。
その両側には、幾千もの帰還札が柱のように積み上がっている。
橋の遥か先。
グレイヴの姿が、はっきりと見えた。
六本の脚。
巨大な胴。
背中を覆う灰色の輪。
輪から吊り下がる、無数の名札と折れた帰還札。
顔には目も鼻もない。
縦に裂けた巨大な口だけが、ゆっくりと開いている。
その足元には、さらに多くの影が並んでいた。
百では足りない。
帰れなかった者たち。
名前を削られた者たち。
役目だけにされた者たち。
全員が、牧人たちの方を向いている。
グレイヴの口から、無数の声が重なった。
到達経路、最終段階。
外部家主個体へ、最終選別を実行。
支配者となるか。
処分されるか。
選択せよ。
牧人は、お玉を肩へ担いだ。
「どっちも嫌だ」
選択肢外。
「じゃあ、選択肢を増やせ」
不許可。
「なら、勝手にこっちで作る」
牧人は、本家石を一度振り返る。
帰る道は残した。
少なくとも、来た道が消え、戻れなくなることは防げる。
あとは、目の前にいるグレイヴを止めるだけだった。
牧人が前へ出る。
クロがその横へ並ぶ。
ザガが槍を構える。
ヒナが上空へ上がる。
イトの糸が、広い石橋を走る。
イシコは本家石の横から、次の石を一つ抱え上げた。
牧人はグレイヴを見た。
「行くぞ」
最深部の全ての影が、一斉に動いた。




