クロの最後の杭痕が消えた
黒冠側の帰還路が、灰環核へ向けて伸び始めた。
黒い道は、本家の門前を横切らない。
本家に下る道ではないからだ。
黒冠は黒冠のまま。
本家は本家のまま。
ただ、帰れない者の声だけは拾えるようにする。
千景が開いたその道は、細いが、はっきりと灰環核の奥へ向いていた。
牧人は、その黒い帰還路をじっと見ていた。
「……届くのか」
梁の上から、ヒナが翼を揺らす。
「届かせるんでしょ」
「姫も、そう言って行ったんだし」
ナナが短く言った。
「届く」
「届かせる」
イトの糸が、黒冠の道の横で、ぴんと震えた。
「黒い道」
「灰の奥、見てる」
「でも、灰も、こっち見てる」
その言葉に、門前の空気が少しだけ重くなった。
灰環核は、まだ沈黙していない。
むしろ、黒冠側の道が伸びたことで、旧帳場の奥の光はさらに冷たくなっていた。
灰環核へ続く灰色の裂け目。
その向こうには、仮受付を示す灰色の枠が浮かんでいる。
受付
その二文字は、まだ薄い。
本家の板のように温かくはない。
黒冠の道標のように深くもない。
ただ、灰色の中に無理やり刻まれている。
だが、そこに「受付」がある。
その事実だけで、灰環核はずっと拒絶反応を示していた。
ごん。
旧帳場の奥で、重い音がした。
まめじいが顔を上げる。
「親父殿」
「灰環核が、また何かを起動しております」
牧人は、お玉を握り直した。
「また処分路か」
ナナが短剣に手をかける。
「閉める」
「ナナ、手は大丈夫か」
「大丈夫」
「少し痛いだけ」
牧人は眉を寄せた。
「少し痛いは、大丈夫じゃない時の言い方だ」
ナナは答えなかった。
代わりに、ニコが板を出した。
ナナ、無理しない
ナナは板を見て、少しだけ目を逸らした。
「……少しだけ」
ヒナが梁の上で苦笑した。
「やだ、板に言われると聞くんだ」
その時、灰環核の石板に文字が浮かんだ。
黒冠帰還路、検出。
本家仮受付、維持。
黒冠接続、進行。
帰還不能判定、揺動。
帰還路の牙、再確認。
牧人は、その最後の一行を見て眉を寄せた。
「帰還路の牙……」
クロが、門前で静かに顔を上げた。
三つの首が、同時に灰環核の奥を見据える。
中央の首が低く言った。
「俺だ」
右が牙を剥く。
「また俺に用があるらしい」
左が静かに息を吐いた。
「古い記録が、まだ残っている」
まめじいが台帳を抱え直す。
「若頭殿の杭そのものは、すでに砕けました」
「ですが、灰環核側の記録には、まだ杭痕が残っているのでしょう」
牧人が聞いた。
「杭痕?」
「はい」
「実物の杭が失われても、かつて杭を打たれたという痕跡が残っている」
「古い帳面の中に、封じた記録だけが残っている状態にございます」
ヒナが嫌そうな顔をした。
「やだ、杭がなくなっても、跡で縛ろうとしてくるの?」
「しつこすぎる!」
ザガが槍を低く構えた。
「傷跡を足場にして、もう一度絡め取る気か」
「相変わらず、やり口が陰湿だな」
ベロが鍋蓋を構える。
「古い傷をつつくな」
「飯がまずくなる」
ミズハが頷く。
「本当にその通りよ」
「治りかけを何度も抉るのは、最低」
ぷるも、ぷるんと小さく揺れた。
灰環核の石板が、さらに強く光る。
対象、グラウヴィス。
旧封鎖対象。
帰還路保持能力、危険。
旧杭痕、起動。
帰還阻害杭、最終再構築。
クロの三つの首の瞳が、同時に細くなった。
空気が変わる。
さっき小太郎と張り合った時の剥き出しの殺気とは違う。
今度は、灰環核の奥から、クロの存在そのものを狙う冷たい力が伸びてきた。
門前の石畳に、灰色の筋が走る。
一本。
二本。
三本。
それは実体のある杭ではなかった。
杭の影。
かつて打たれた場所を、もう一度なぞるように、空中に灰色の傷跡が浮かび上がっていく。
クロの右の首が、低く唸った。
「まだそんなものを持っていたか」
中央の首が静かに言う。
「俺の中では砕いた」
「だが、向こうの記録には残っていたらしい」
左の首が、遠いものを見るように目を細めた。
「最後の杭痕だな」
灰色の傷は、クロの三つの首それぞれに向けて伸びていた。
前回の杭のように、外から突き刺すものではない。
もっと嫌なものだった。
内側に残っている古い痛みを呼び起こし、そこを起点に、もう一度拘束の杭を生やそうとしている。
ヒナが梁の上で、顔を青ざめさせた。
「若頭……」
ナナが短剣を抜いた。
「切る」
ザガが即座に言った。
「待て」
「これは外側の線じゃねえ」
「切る場所を間違えたら、若頭の古傷ごと抉る」
ナナの動きが止まる。
イシコが石畳に手を置いた。
「石が、震えてる」
「若頭、昔、ここじゃない場所で縛られた」
「でも今、その傷の記憶だけ、ここに引っ張られてる」
イトの糸も、不安げに震える。
「糸、触れない」
「古い痛いところ、下手に触ると、若頭が切れる」
ネムが右奥から、布団を引きずりながら出てきた。
「寝ても、治らない傷」
「無理やり、起こされてる」
ベロが低く言った。
「最低だ」
灰環核の石板が、冷たく文字を刻んだ。
対象、グラウヴィス。
旧名帰還路保持個体。
帰還牙機能、停止優先。
牧人の目が、静かに冷えた。
「帰還牙機能の停止、だと?」
まめじいが低く言った。
「若頭殿そのものを封じるだけではなく」
「帰る道を噛み戻す力を、狙って止めに来ておりますな」
クロの中央が、口元を歪めた。
「ようやく理解したらしい」
「俺を閉じ込めるだけでは足りないとな」
右が牙を剥く。
「なら、先に噛み砕く」
左が静かに言った。
「焦るな」
「これは、ただ噛めば壊れるものではない」
牧人はクロを見上げた。
「どうすればいい」
クロの三つの首は、しばらく沈黙した。
それから中央が言った。
「灰環核は、クロではなくグラウヴィスへ杭を打った」
「俺がその名を自分のものとして取り戻さなければ、杭痕へ牙が届かない」
門前が静まり返った。
グラウヴィス。
その名は、すでに何度か本家にも出ていた。
灰環核の旧記録。
白帳の帳面。
帰還路の牙としての記録。
だが、クロ自身がその名を完全に受け取っていたわけではない。
クロは、クロだった。
本家の若頭。
門前で飯を要求する三つ首。
肉の配分が少ないと本気で不満を言う、災厄級ケルベロス。
それが今の名前だ。
昔の名を戻す。
その言葉は、軽くなかった。
牧人は静かに聞いた。
「それを戻したら、どうなる」
クロの左が答える。
「古い杭痕が、どこに打ち込まれていたか分かる」
「なぜ縛られたかも、思い出すだろう」
右が鼻を鳴らした。
「痛みも戻る」
中央が続ける。
「だが、その痛みを避けたままでは、この杭痕は抜けん」
牧人は黙った。
それから、いつもの声で言った。
「嫌なら、やらなくていい」
クロの三つの首が、牧人を見た。
「戻したくない名前なら、戻さなくていい」
「痛い記憶なら、わざわざ掘り返さなくていい」
「灰環核に対抗するために、お前の嫌な過去を道具にする必要はない」
「うちは、そういう家じゃない」
ヒナが梁の上で、小さく頷いた。
ナナも短く言う。
「無理、だめ」
ネムも言った。
「痛いなら、寝ていい」
ベロが鍋の前で真顔で言った。
「飯を食ってからでもいい」
クロの右が、張り詰めた空気の中で、少しだけ牙を見せた。
「飯を食えば、杭痕が抜けるのか」
ベロは真剣に考えた。
「抜けないかもしれない」
「でも、腹が減っている時よりはましだ」
「それは真理だ」
ザガは呆れたように言った。
「まったく、どんな時でも飯の話になるんだな」
ヒナが少しだけ笑った。
「でも、その方が若頭っぽいよ」
クロの中央が、静かに目を閉じた。
「親父」
「何だ」
「昔の名は、俺が自分の意志で捨てたものではない」
「奪われ、封じられ、歪められたものだ」
左が続ける。
「だから、取り戻す」
「取り戻したうえで、俺自身が選ぶ」
右が牙を見せた。
「今の名をな」
牧人は、ゆっくり頷いた。
「そうか」
「なら、いい」
クロが一歩、前へ出た。
それに応じるように、灰色の杭痕が空中でさらに濃くなっていく。
三本の、禍々しい傷の光。
右の首。
中央の首。
左の首。
それぞれに対応する、古い記録の痛みが、輪郭を持って浮かび上がった。
灰環核の石板が激しく明滅する。
旧名、展開。
グラウヴィス。
帰還路保持個体。
処分路抵抗個体。
不適格者回収記録、多数。
ヒナが目を見開いた。
「やっぱり……」
「若頭、昔からみんなを帰そうとしてたんだ」
まめじいが台帳を開く。
「記録いたします」
牧人は頷いた。
「ああ、頼む」
まめじいの筆が、迷いなく紙の上を走った。
グラウヴィス。
旧名。
灰環旧時代において、帰還路を守った三首獣。
帰還不能と判定された者たちを、その牙で噛み戻し、処分路への沈降を幾度も妨げた。
そのため、灰環核により最優先封鎖対象とされた。
灰環核の光が、怒るように強く揺れた。
旧記録、再固定。
対象、グラウヴィス。
杭痕、強制同期。
クロの足元の石畳に、灰色の円が広がる。
その円の中に、古い光景が映った。
崩れかけた道。
底なしの暗闇へ沈んでいく影。
名前を失い、泣く力すら失った小さな者たち。
その前に、今より荒く、今より孤独な三つ首の獣が立っていた。
全身から怒りを燃やしながら。
三つの首は、沈みかけた道を牙で咥え、必死に引き戻していた。
名もなき誰かを、救い出すために。
だが、その背後から、灰色の杭が降った。
一本目が、猛る右の首を縫い留める。
二本目が、叫ぶ中央の首を押さえつける。
三本目が、左の首の意識ごと、深い底へ沈める。
三つ首の獣は、それでも、咥えた道を離さなかった。
だからこそ、誰よりも深く縛られた。
災厄。
封鎖対象。
帰還路攪乱個体。
そんな言葉を貼られて。
「……なるほどな」
ザガが低く呟いた。
「システムからすりゃ、目の上のたんこぶだったわけだ」
「帰すつもりのない連中を、力ずくで帰そうとしたんだからな」
ナナが短く言った。
「グラウヴィス、悪くない」
「むしろ、いい」
ベロも深く頷く。
「飯を食わせて家に帰す」
「良い獣だ」
ミズハが静かに言った。
「一方的に『帰れない』って決めた側からすれば、邪魔だったでしょうね」
ぷるが、誇らしげに、ぷるんと揺れた。
クロは、周囲の声を聞きながら、古い光景を見ていた。
右の首が、低く言った。
「……思い出した」
中央がそれに重なる。
「ああ」
左が静かに言った。
「全部ではない」
「だが、十分だ」
灰環核の石板が、さらに激しく乱れる。
杭痕、完全同調。
旧名グラウヴィス、再拘束へ移行。
現名クロ、無効化試行。
牧人の目が、すっと細くなった。
「また勝手に書き換える気か」
灰色の杭痕が、クロの体に直接絡みつこうと伸びる。
外側から突き刺すのではない。
クロの内側、その記憶の奥深くに残る傷口を媒介にして、精神ごと縛ろうとしていた。
右の首が、苦しげに短い息を漏らす。
中央の首が、重圧に耐えながら足元を沈ませる。
左の首の焦点が、一瞬だけ遠くの暗闇へ流れかける。
ヒナが梁から叫んだ。
「若頭、しっかりして!」
イトの糸が走る。
「戻る糸、張る!」
イシコが石畳を叩いた。
「足元、沈めさせない!」
ミズハが水を走らせる。
「灰の熱を冷ますわ!」
ぷるが、震えながら灰毒を吸おうと前に出る。
牧人がすぐ叫んだ。
「ぷる、無理はするな!」
ぷるは、それでも小さく、ぷるんと揺れた。
ベロが鍋蓋を叩いて音を鳴らす。
「若頭」
「戻ったら、粥を出す」
「肉も、少し多めに入れる」
右の首が、苦しげな表情のまま反応した。
「……少しとは、どの程度だ」
牧人が怒鳴った。
「今、肉の量で交渉するな!」
ヒナが泣きそうな顔で笑った。
「やだ、若頭が縛られながら肉の交渉してる……!」
その笑いが、クロの意識を本家へ繋ぎ止めた。
まめじいは、凄まじい筆さばきで台帳に書き加えていく。
現名、クロ。
本家若頭。
門前警備担当。
好物、肉。
本家構成員一同、現名クロを承認。
ニコが板を高く掲げた。
クロはクロ
灰環核の石板が乱れる。
現名、干渉。
旧名固定、困難。
杭痕による再拘束、抵抗発生。
ナナが短く言った。
「まだ、足りない」
牧人は頷いた。
「ああ」
「今の名前だけじゃ、足りない」
クロは今、自分から古い名を取り戻そうとしている。
グラウヴィス。
その名もまた、クロを形作る一部だった。
昔の自分を否定するだけでは、最後の杭痕は抜けない。
牧人は、お玉を持ったまま一歩、前へ出た。
灰色の輪の境界に、お玉の先を突きつける。
「聞け、灰環核」
石板の冷たい光が、牧人へ向いた。
「あいつが昔の名前を取り戻すのは自由だ」
「だが、その名前を縛るための杭に使うな」
「グラウヴィスだった過去も、クロとして飯を食う今も」
「そのどちらも、あいつのものだ」
「お前が勝手に管理していいものじゃない」
クロの三つの首が、同時に牧人を見る。
牧人は言葉を重ねた。
「グラウヴィスは、かつて帰る道を守った牙だ」
「今のクロは、本家の若頭だ」
「昔の名前が戻ったところで、今の名前は消えない」
「どっちの名前も持って、あいつ自身が選べばいい」
まめじいの筆が台帳に刻む。
グラウヴィス。
旧名にして、帰還路の牙。
現名、クロ。
本家若頭。
両名とも、本人に帰属。
灰環核による封鎖利用を認めず。
ヒナが梁の上で、目元を押さえた。
「やだ……」
「まめじいの台帳が、昔の名前も今の名前も、全部若頭に返した……!」
ナナが短く言った。
「強い」
ザガが口元を歪める。
「名前ごと、灰環からぶんどり返したわけだ」
ベロが頷く。
「名前は、本人のものだ」
ネムも布団から顔を半分出して言った。
「呼ばれたい名前で、返事すればいい」
ニコが板を出した。
昔の若頭も、今の若頭も、若頭
灰環核の光が激しく乱れた。
旧名、回収不能。
現名、排除不能。
杭痕対象、不安定。
再拘束、破綻。
クロの右の首が、目の前に漂う灰色の杭痕へ向かって牙を剥いた。
「……そうか」
中央の首が静かに目を開く。
「この名は、俺の名だ」
左が深く息を吐く。
「そして、この傷も、俺のものだ」
三つの首が、同時に灰色の杭痕を睨み据えた。
「ならば」
クロの声が重なった。
「俺の牙で、抜く」
クロが、自身の内側に残っていた最後の杭痕へ牙を立てた。
見えないはずの過去の傷跡に、クロの牙が届く。
灰環核の奥で、不快な破砕音が響いた。
ぎしり。
それは金属でも、骨でもない。
古い記録そのものが歪む音だった。
灰色の杭痕が、クロの首元で断末魔のような光を放つ。
一本目。
右の首が、力任せに噛み砕いた。
「この杭は、俺の怒りを縛っていた」
ばきん、と割れる。
二本目。
中央の首が、正確に中枢を噛み締める。
「この杭は、俺の判断を縛っていた」
乾いた音を立てて砕けた。
三本目。
左の首が、長く沈黙してから、最後の牙を立てる。
「この杭は、俺の温かい記憶を、底へ沈めていた」
最後の杭痕が、もっとも激しく抵抗した。
灰環核の石板が狂ったように明滅する。
杭痕、保持。
旧封鎖記録、維持。
グラウヴィス、災厄級。
帰還路攪乱個体。
再封鎖。
再封鎖。
再封鎖。
牧人が叫んだ。
「クロ!」
それは、いつもの飯の時間に呼ぶ声と変わらなかった。
高尚な呪文ではない。
主従の命令でもない。
古い封印を解く魔法でもない。
ただ、今の名前を呼んだ。
その声を聞いた左の首が、ゆっくりと目を開いた。
「……ああ、親父」
左の首の牙が、最後の杭痕を根元から噛み割った。
ぱきん。
静かな音だった。
けれど、その響きは門前にいるすべての者に届いた。
最後の灰色の杭痕が、粉々に砕け散った。
クロの巨体から、不吉な灰色の光が一気に消える。
三つの首が、同時に深く息を吸った。
石畳の上に、古い灰の欠片が降る。
だがそれは、本家石の温かい光に触れると、すぐに薄れて消えていった。
灰環核の石板が、激しく明滅する。
旧杭痕、完全破断。
封鎖記録、消失。
対象グラウヴィス、再封鎖不能。
帰還路の牙、完全復帰。
現名クロ、維持。
本家帰属、維持。
門前が、しんと静まり返った。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
クロは、ゆっくりと牧人を見下ろした。
三つの首が、完全に息を合わせて。
そして、中央の首が静かに言った。
「昔の名は戻った」
右が続ける。
「古い杭も、今ので全部抜けた」
左が、穏やかに言った。
「だが、今はクロだ」
牧人は頷いた。
「ああ」
「そうだな。おかえり、クロ」
短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。
ヒナが梁の上で、こらえきれずに目元を袖で拭った。
「やだ……」
「若頭、昔の名前を取り戻したのに、クロのままなんだね……」
ナナが短く言った。
「よかった」
ベロが鍋を見つめ、お玉で中身をすくった。
「粥が、ちょうど食べ頃」
「食べるか、若頭」
クロの右の首が即座に食いついた。
「当然だ」
「肉を多めに入れる約束は忘れていないな」
ベロは頷いた。
「少し多め」
「少しとは何割増しだ」
牧人が割って入った。
「ここで、肉の割合で揉めるか」
中央の首が静かに言う。
「親父」
「今日は大仕事をした。多めの褒美は当然ではないか」
左もしれっと続ける。
「記憶を取り戻すのは、肉体労働より疲れる」
牧人は三つの首を順番に見た。
「お前ら、都合のいい時だけ三首で結託するな」
ニコが板を出した。
若頭、肉少し多め
ベロは板を見て、少しだけ考えた。
「分かった」
「今日は、少し多め」
右の首が、明らかに勝利した顔をした。
ヒナが泣き笑いになった。
「やだ、若頭完全回収の報酬が肉少し多め!」
門前に、少しだけ笑いが戻る。
だが、灰環核の奥は笑っていなかった。
旧帳場の石板に、さらに焦った文字が浮かんだ。
帰還路の牙、完全復帰。
帰還選別機能、危険。
本家受付、危険。
黒冠帰還路、危険。
家主方針、危険。
ナナが短く言った。
「全部、危険」
ザガが槍を肩に担ぐ。
「向こうから見ればな」
まめじいは台帳を胸に抱え、静かに言った。
「親父殿」
「若頭殿の、本来の力が完全に戻ったようでございます」
牧人は、クロの三つの首を見上げた。
「いけるか」
クロは、灰環核の奥へ視線を向ける。
不完全な受付門。
そのさらに向こうで、なおも帰還不能と処分を選び続けようとする、巨大な灰色の気配。
クロの右の首が牙を剥く。
「今なら届く」
中央が続ける。
「あの選別の輪を、直接噛める」
左が静かに言った。
「帰れないと勝手に決める力を、噛み砕ける」
牧人は、お玉を握り直した。
「なら、噛め」
クロが一歩前へ出る。
足元を、本家石の光が照らす。
イトの糸が、その進路を支える。
イシコの石が、崩れない足場を作る。
ミズハの水が、灰の熱を冷ます。
ぷるが、薄い灰毒を吸う。
ベロの鍋から、温かい湯気が上がる。
ネムの布団が、処分路の冷たさを遮る。
ヒナの声が、迷子たちを導く。
ナナが、捨て場所の扉を閉じている。
ニコの板が、高く掲げられる。
まめじいの台帳が、開かれる。
ザガの槍が、外縁を押さえる。
そして黒冠の側からは、千景が開いた細い道が並走するように伸びていた。
クロは、そのすべてを背に受けた。
もう、あの古い記憶の中にいた孤独な一匹ではない。
クロは、灰環核の奥へ向けて、三つの首を低く構えた。
「お前が『帰れない』と決めた」
「だが、親父は『帰す』と決めた」
右の首が笑う。
「なら、俺たちは親父の方を採用する」
中央が牙を開く。
「帰還選別」
左が重ねる。
「噛み砕く」
三つの牙が、灰環核の奥へ向かって振り下ろされた。
目に見えないはずの帰還選別の輪が、ぎしりと音を立てて歪む。
灰色の核が、初めて、悲鳴のような音を上げた。
ごん。
ごん。
ごん。
そして、不完全な受付門のさらに奥から、巨大な灰色の選別の輪が、ゆっくりと姿を露出し始めた。




