↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
126/144

お菓子の借りは、十倍になった


クロの殺気が消え。

小太郎の影も足元へ戻った。


門前には、ようやく息をしてもよさそうな空気が戻り始めていた。


その中で、千景がふいに言った。


「……本当はね」


牧人が首を傾げる。


「本当は?」


「本当は、殴るほどのことじゃなかったけどね」


「えっ?」


「ただ、子供の頃を思い出したら、止められなかった」


「子供の頃?」


千景の声が、急にちょっとだけ拗ねたようなトーンになる。


「昔遊んでるときに、私が楽しみに残しておいたお菓子、トイレに行ってる隙に、マッキーが『これ誰も食わないの?』って言って勝手に食べた」


門前の空気が、さっきとは全く違う意味でピタッと止まった。


ヒナが目を瞬かせる。

ナナが首を傾げる。

ベロが鍋の前でお玉を持ったまま止まる。

豪志が板を抱えたまま、ぽかんと口を開けた。


牧人は、頬を押さえたまま彫像のように固まった。


「……そんなことあったっけ?」


千景の目が、すっと冷たくなった。


「あったよ!」

「あれ、季節限定の特別な焼き菓子だったの」

「箱に一つしか入ってない、最後の一個だったの」

「私は、万全の状態で食べようと、名前まで書いて置いておいた」

「なのにマッキーは、名前のところを絶妙に見ないで食べた」


牧人は、必死に昔の記憶を探る顔をした。


「……あー、いや、そんなことも……あったか?」


千景の拳が、もう一度わずかにピクッと上がった。


牧人は即答した。


「あった。完全に俺が食べた。思い出した」


ヒナが梁の上で、たまらず吹き出した。


「やだ! 一触即発の空気が、お菓子の盗み食いの恨みで変な方向に行った!」


ナナが真顔で、短く言う。


「お菓子は、命」


ベロが極めて大真面目な顔で頷いた。


「食べ物の恨みは、深い」


クロの右も、なぜか深く共感したように厳かに言った。


「肉を無断で奪われたなら、俺もその者を末代まで呪う。親父、それはお前が完全に悪い」


牧人がすかさず反論した。


「お前まで」


豪志がようやく、信じられないものを見るような顔で口を開いた。


「いや、ちょっと待ってください」

「さっきまで門前が消し飛ぶかどうかの大喧嘩だったんですよね?」

「その怒りの内訳に、子供の頃の焼き菓子の盗み食い疑惑が混ざってたんですか!?」


ヒナが身を乗り出して両手を広げた。


「でも豪志、分かるでしょ! 楽しみに取っておいたお菓子を勝手に食われるのは、全人類共通の宣戦布告なのよ!」


ナナが短く言った。


「勝手に食べる、悪い」


ベロも言った。


「悪い」

「人の飯を黙って食う者は、鍋に入れるぞ」


ニコが神妙な顔で板を出した。


人のお菓子を勝手に食べない


まめじいが、恐ろしいほどの達筆で台帳へ素早く筆を走らせる。


幼少期、親父殿。

千景殿の限定焼き菓子を無断で食した疑い。

千景殿、現在も深い恨みを保持。


牧人が慌てて筆を止めようとした。


「まめじい、頼むからそんな家庭内の恥部みたいな歴史を台帳に記録するな」


まめじいは、眼鏡の位置を直して大真面目に答えた。


「本家と黒冠の、長期にわたる深刻な因縁にございます。記録せねばなりません」


「深刻な因縁って、お菓子のことだぞ!?」


千景が冷たく言った。


「大問題だよ」


牧人は完全に口を閉じた。


クロの中央が静かに言った。


「親父」

「それは言い訳ができん。親父が悪い」


右も言った。


「肉であれば、我々は今すぐ敵対していたところだ」


左が頷く。


「菓子であっても、この門前での一発は妥当と言わざるを得ないな」


牧人は、本家の面々を見回した。


味方が、驚くほど一人もいなかった。


ヒナは笑っている。

ナナは冷ややかな真顔。

ベロは完全に「お菓子泥棒は敵」という目でこちらを見ている。

ニコは教訓のように板を掲げたままだ。

豪志すらも「これは……親分さんが悪いです」という顔をしている。


牧人は、深く深く、諦めの溜め息を吐き出した。


「……悪かった」

「とにかく、本当に悪かった」


千景は一瞬、冷たい真顔のまま牧人を見つめていた。


が、すぐにふっと、小さく楽しそうに笑った。


本当に、ほんの少しだけ。


「反省した?」


「……反省しました」


「よろしい」


ヒナが梁の上で、お腹を抱えて笑い転げた。


「やだもう! 門前の血生臭い空気が、お菓子の賠償請求に変わっちゃった!」


ナナが短く言った。


「請求、大事」


ベロが鍋の前で言う。


「今すぐ、確実な補填が必要だ」


牧人は観念して千景を見た。


「何がいい」


千景は人差し指を顎に当てて、少しだけ楽しそうに考えた。


「同じやつは、もう売ってないよ」


「じゃあ、別の、何か美味いお菓子で」


「十倍ね」


牧人は目を瞬かせた。


「十倍?」


「十倍」


「お菓子を十箱買えばいいのか?」


「うん、すごく美味しいやつね」


牧人は少しだけ計算して、諦めて頷いた。


「……分かった」


ヒナが叫んだ。


「やだ、親父と姫の長年の歴史的抗争が、焼き菓子十倍の分割払いで一時停戦した!」


まめじいが、すかさず台帳へ一筆追記する。


親父殿、千景殿へ特製焼き菓子十倍を返済予定。

姫の機嫌が直るまで継続予定。


牧人は言った。


「まめじい、最後のは消してくれ」


千景が言った。


「絶対消さないで、まめじい」


まめじいは深く深く、優雅に頷いた。


「承知いたしました。厳重に記録・保管いたします」


ニコが楽しそうに板を出した。


お菓子十倍


クロの右が、それを見て便乗するように言った。


「親父、俺の肉十倍は?」


牧人は即答した。


「それはお前が自分で狩れ」


右は不満そうに、小さく鼻を鳴らした。


---


その時、黒冠の道から一人の少年が慌てた様子で駆け込んでくる。


背中には荷物袋。


片手には地図板。


腰には、色の違う道標札がいくつも下がっていた。


「姫!」


真柴リオだった。


その後ろから、黒い狼型の魔物も姿を現す。


四肢の周囲で、細い黒雷が弾けている。


黒雷狼のガルム。


リオは千景の無事を確かめると、次に頬を赤く腫らした牧人を見た。


「……何があったんですか?」


千景は平然と答えた。


「ちょっと話し合い」


牧人が頬を押さえる。


「一発殴られた」


「それは話し合いじゃないと思います!」


ヒナが梁の上から言った。


「大丈夫!」

「お菓子十倍で一時停戦したから!」


「意味が分かりません!」


千景は細かい説明を諦め、牧人を示した。


「リオ」

「こっちがマッキー。本家の親父」


リオはすぐに背筋を伸ばした。


「真柴リオです」

「黒冠で、姫の荷物と道の記録を担当しています」


牧人は、リオが持つ地図板を見る。


「道を作るのか?」


「道を作るのは姫です」

「僕は、姫が通った道を、次の人も通れるように残します」


まめじいの筆が動く。


「黒冠側、道書き」

「真柴リオ殿にございますな」


リオは少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。


「はい」

「よろしくお願いします」


豪志も板を抱えたまま頭を下げる。


「梶間豪志です!」

「本家では、主に案内板を持っています!」


リオは豪志と板を交互に見た。


「案内板を持つ係ですか?」


「はい!」

「皆さんが迷わないための大切な役目です!」


リオがにこやかに言う。


「僕も道を残す役なので、少し近いですね」


豪志の目が輝いた。


「では、同じ案内担当ですね!」


「僕は地図と退路の記録です」


「お互い頑張りましょう!」


その間に、ガルムは本家門前へ出ていた。


クロの三つの首と、ガルムの視線が正面から重なる。


右が鼻を鳴らす。


「黒冠の狼か」


ガルムもクロを見上げた。


「灰環の三つ首」

「聞いていたより、ずいぶん犬らしい顔だ」


右の目が細くなる。


「狼と犬に、どれほどの違いがある」


「大きな違いだ」


空気が、わずかに張った。


牧人と千景が同時に言う。


「クロ、やめろ」


「ガルム、喧嘩しない」


クロの中央が先に顔を逸らす。


ガルムも、それ以上は言わずに千景の横へ移動した。


リオは、本家と黒冠をつなぐ影道を地図板へ書き込んだ。


---


ヒナが、まだ少しだけ緊張の余韻を残しながら、千景の足元の小太郎を見下ろした。


「それにしても、小太郎ちゃん……」

「さっきの、あのとんでもない気配は一体何なの?」


まめじいは、慎重に言葉を選びながら頷いた。


「断言はいたしかねますが……」

「黒冠の深い古道、その奥に連なる古い獣の気配であることは間違いございません」

「巨大な狼のような……」


小太郎は、そんな会話などどこ吹く風で、千景の足元で眠そうに丸くなっていた。


豪志がまだ少し震える声で言った。


「見た目からは想像できない中身のとんでもなさ……」

「本当に情報量が多すぎます……」


ナナが短く言った。


「小太郎、もふもふ。かわいい」


豪志は、それには激しく同意して親指を立てた。


「そこだけは、俺にもはっきりと分かります、ナナさん!」


千景は小太郎の頭を優しく撫でた。


「小太郎は小太郎だよ」

「ちょっと怖いけど、すごくかわいいの」


クロの右が、張り合うように不満げに言った。


「俺もクロだ。それなりに愛嬌はあるはずだ」


ヒナがにやっと意地悪く笑った。


「えー? 若頭も、怖いけどかわいいって姫に言われたいの?」


右の首が、一瞬で沈黙した。

中央が呆れたように目を閉じ、左が静かに笑っている。



牧人は、赤くなった左頬を手のひらで冷やしながら言った。


「……そろそろ、話を戻すぞ」


ヒナがニヤニヤしながら笑う。


「お菓子の銘柄の選定から?」


「違う」

「黒冠の道についてだ」


千景の表情が、少しだけ真面目なものに引き締まった。


お菓子の話で、門前の刺々しい空気は綺麗に解けた。

けれど、何もかもが軽くなったわけではない。


千景が牧人を殴ったあの強い一発も。

来られなかった子のことまで頭が回っていなかったという牧人の悔恨も。

「今はこれでいい」と言った千景の言葉も。


すべて、本家と黒冠の間に、確かな重みを持って残っている。


まめじいの台帳にも。

本家の張り詰めた空気の残り香にも。

牧人の頬の痛みにも。


千景は、黒冠の影へ向き直った。


「黒冠側の帰還路を、もう少し伸ばすよ」


牧人は頷いた。


「灰環核の方へ、だな」


「うん」

「灰環の受付門ができた」

「でも、黒冠側からも道を開いてあげないと、本当に帰れない子が迷子になっちゃう」

「黒冠は、本家にはならない」

「でも、帰りたい子を無理やり閉じ込めるような、狭くて息苦しい場所にもしたくないから」


ガルドレイが、なおも苦い顔をしたまま、けれどどこか諦めたように言った。


「姫」

「黒冠の奥を、あの混沌とした灰環核へ向けて開くのは極めて危険です」


「知ってる」


「黒冠の名なしまで、灰環の理不尽な選別処分に巻き込まれる恐れがございます」


「だから、私がそこに行って、ちゃんと見る」


ガルドレイは、もう何も言わなかった。


千景は続ける。


「黒冠は、本家に負けたくなかった」

「そのプライドは、私も分かるよ」

「でも、負けたくないからって、本当に帰りたい子の道を無理やり塞ぐなら、それは誇りじゃなくてただのワガママだよ」


ガルドレイは、ただ静かに視線を落とした。


千景は足元の小太郎を見た。


「小太郎、行ける?」


小太郎が短く、頼もしく鳴いた。


「わふ」


黒冠の影が、千景の足元から一気に広がっていく。


今度は、本家の敷居へ向かう道ではない。


灰環核のさらに奥へ向かうための道。


黒く、細く、一見すると崩れそうなほど危うい。


けれど、確かにまっすぐ前へ伸びる、強固な道だった。


イトの糸が、その黒い道の横にそっと寄り添うように添えられた。


「黒い道」

「灰の奥まで、一緒に行く」


リオも道標札を取り出した。


「姫が開いた道を記録します」

「次に通る人が迷わないように、印を残します」


ガルムが道の奥へ鼻を向ける。


「俺は先の匂いを見る」

「黒冠のものではない危険が混じれば、すぐに分かる」


イシコが本家石にそっと手を当てた。


「石も、この道を覚える」


ミズハが水桶をしっかりと抱え直す。


「水も、喉が渇いた子のために流せるようにしておくわね」


ベロが温かい鍋を見つめた。


「いつでも飯が届くように、火は消さない」


ネムが布団の山を引き寄せる。


「寝床も、柔らかいのを準備しておく」


ヒナが大きく翼を広げた。


「迷わないように、私が上から大声で案内してあげる!」


ナナが短剣を完全に鞘にしまい直した。


「落とさない。守る」


ぷるが、ぷるんと力強く揺れた。


ニコが誇らしげに板を出す。


黒冠側、開門準備


まめじいは、静かに微笑みながら台帳を開いた。


「黒冠帰還路、灰環核方面へ接続準備」

「千景殿、これを自ら主導」

「親父殿との過去の清算、一部実施」

「なお、焼き菓子十倍の件は、未払いにつき継続監視」


牧人は呆れたように言った。


「最後の行は本当に余計だろ」


千景がすかさず言った。


「絶対書いておいて。利子もつけるから」


まめじいは、楽しそうに筆を走らせ続けた。


ヒナが大笑いした。


「やだ、未払いのお菓子が金利付きで最終決戦に持ち越されるなんて、前代未聞!」


牧人は赤くなった左頬を手のひらで押さえながら、千景の背後にある黒冠の影を見つめた。


「千景」


千景は足を止め、振り返った。


「何?」


「道を開け」

「帰れないやつがいるなら、こっちからも見えるようにしっかり繋げ」

「本家に入る必要はない」

「お前たちは黒冠のままでいい」

「でも、声すら届かないのは、俺が困る」


千景は、少しだけ、本当に嬉しそうに目を細めた。


「うん」


それから、黒冠の奥深くに眠る者たちへ向けて、凛とした声で宣言した。


「黒冠側、帰還路を開く」

「本家に下るためじゃない」

「灰環に呑まれて消えるためでもない」

「ただ、帰りたい子の声を、私たちがしっかり拾い上げるために」


黒冠の影が、呼応するように大きく広がった。


牧人は、黒冠の影へ向かう千景の背中を見た。


「千景」


千景は足を止めた。


少しだけ振り返る。


「……チカでいいよ」


牧人は、一瞬だけ黙った。


「いいのか」


「全部許したわけじゃないよ」

「お菓子十倍も、まだだから」


「分かってる」


千景は、ほんの少しだけ笑った。


「でも、今はいい」


牧人は頷いた。


「頼んだぞ、チカ」


千景――チカは、片手をひらりと振った。


「任せて」


黒冠の影が開く。


チカが、自分の足でその道へ踏み出した。


小太郎の影が、その中を風のように走っていく。


黒冠から来た者たちが去って行った。


遠く、灰環核の奥で、まだ不完全だったはずの受付門が、大きく震えた。


そして、黒冠側の細い帰還路が、灰環核の真っ只中へ向けてまっすぐに伸び始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。