チカは、マッキーを一度だけ殴った
黒冠は、本家に下らなかった。
黒冠は黒冠のまま立つ。
けれど、道はつなげる。
飯の列も作る。
受付も置く。
名前を言うかどうかは、本人が決める。
それで、ひとまず話はまとまった。
まとまった、はずだった。
黒冠の影でできた道標には、短い言葉が浮かんでいる。
帰るなら、こちら
ニコが、それに対抗するように、いつもより少し誇らしげに板を出していた。
黒冠は黒冠 でも道はつながる
ヒナが梁の上で、板と道標を交互に見て、ツッコミを入れずにはいられなかった。
「やだ、黒冠側まで板文化に寄ってきた……。素材が影なだけで、やってることニコとだいたい同じだ!」
ナナが短く、しかし冷静に言う。
「道標」
「うん、黒冠では道標ね」
ベロは鍋の前で、黒冠用に少し濃いめの粥をよそっていた。
「黒冠用は、少し濃い」
「胃が強そうだから」
ミズハが横から、ベロの手元を見て言った。
「強そうでも、飢えている子には薄めてあげて。胃が驚くわ」
「分かった。お湯を足す」
ぷるが足元で、疲れたようにぷるんと揺れた。
ネムは右奥の戸口で、黒冠側に渡す布団を大真面目に選んでいる。
「黒い布団、いる?」
「黒冠っぽい」
ヒナが吹き出した。
「やだ、形から入ってる! 闇属性専用布団みたいになってる!」
豪志は、黒冠仮受付用の板を支える係を買って出て、妙に誇らしげに立っていた。
「親分さん! 黒冠側にも板係が必要なら、俺、全身全霊で出張します!」
ナナが即答した。
「危ないし、暑苦しいから、だめ」
「出張前に止められた!」
門前は、少しだけいつもの騒がしさを取り戻していた。
灰環核はまだ奥で冷たく震えている。
黒冠の影も完全には落ち着いていない。
だが、さっきまでのような切断の気配はない。
ガルドレイたち強硬派は、まだ腕を組んで不満そうだった。
それでも、黒い楔は完全に下ろされた。
ヨルは粥の椀を抱えたまま、黒冠の道標の前にちょこんと座っている。
千景が勝手につけた呼び名。
本人がそれを受け入れているのか、本当に自分の名として持てるのかは、まだ分からない。
だから、まめじいの台帳にはこう書かれていた。
黒冠所属個体。
通称、ヨル。
黒冠所属のまま、粥を受領。
本名、未確認。
戦力番号呼称、保留。
本家への服属に非ず。
牧人は、その一文を見て頷いた。
「これなら、黒冠のままだな」
まめじいも静かに頷く。
「はい」
「所属と飯は、別にございます」
ベロが当然のように言った。
「飯は、食う者の腹に入る」
「所属には入らない」
ヒナが笑いながら突っ込んだ。
「やだ、ベロが妙にいいこと言ってる!」
その時だった。
黒冠の影の前に立っていた千景が、静かに牧人を見た。
その目が、少しだけ違った。
さっきまでの、黒冠の姫としての目ではない。
昔、くだらないことで喧嘩をしていた頃を知っている者の目だった。
牧人は、その微かな温度に気づいた。
「千景?」
千景はすぐには返事をしない。
ただ、敷居の外側から、本家の門前を見た。
黒冠の姫として、ずっと越えずにいた線。
本家に拾われる側にはならない。
本家の中に入った者として扱われたくない。
黒冠は黒冠のまま立つ。
そのための線だった。
でも、今から話すのは、黒冠と本家の話だけではない。
千景と牧人の話だ。
千景は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
敷居を越えた。
門前の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
ヒナが梁の上で息を呑んだ。
「姫が……入って来た」
ナナが短く言う。
「自分で」
牧人も、それを見ていた。
千景は本家に下ったわけではない。
拾われる側になったわけでもない。
ただ、自分の足で、牧人の前まで来た。
小太郎が、その半歩後ろについてくる。
セイランは敷居の外側に残った。
ガルドレイも、黒冠の影の中で黙って見ている。
千景は牧人の前に立った。
近い。
手が届く距離だった。
「マッキー」
その懐かしい呼び方に、牧人は少しだけ目を瞬かせた。
「何だ」
「一つだけ、本気で怒っていい?」
門前の空気が、わずかに止まった。
ヒナが梁の上で目を丸くし、ナナが牧人と千景を見比べる。
クロの三つの首が、静かに千景を見た。
豪志も、板を抱えたまま息を呑む。
牧人は、少し考えてから頷いた。
「ああ」
千景は笑わなかった。
「マッキーは、来た子を追い返せなかった」
「それは、分かる」
牧人は黙って聞いていた。
「目の前まで来た子を、放っておけなかった」
「飯を出した」
「寝床を作った」
「名前を聞いた」
「呼ばれたくないなら、あとでいいって言った」
「それも、分かる」
千景の声は、静かだった。
けれど、静かすぎて、門前の誰も口を挟めなかった。
「でも」
その一言で、本家の門前から完全に笑いが消えた。
「来られなかった子は、見なかった」
牧人の表情が、ぴくりと動いた。
「黒冠にもいた」
「灰環にも、たくさんいた」
「帰り道の途中で止まった子」
「本家の門前まで来られなかった子」
「声が届かなかった子」
「帰れる子を帰した後に、帰れなかった子だけが残った」
千景が腰を折って、そっと小太郎の頭をなでる。
「私は、そういう子を見てきた」
「黒冠で」
「暗い道の中で」
「拾われることもできずに、ただ立つしかなかった子たちを」
牧人は、何も言わなかった。
言えることが、何もなかった。
千景は続ける。
「マッキーは優しいよ」
「来た子は追い返せない」
「でも、中心に立つのはずっと避けてた」
「自分はただ飯を出してるだけ」
「ただ寝床を作ってるだけ」
「ただ来た人の名前を聞いてるだけ」
「そう言って、自分が真ん中に立つことから逃げてた」
ヒナが、思わず息を呑んだ。
ナナも動かない。
まめじいは台帳を閉じなかったが、筆を握る手が静かに止まっていた。
千景は牧人をまっすぐに見つめた。
「マッキーが中心に立つなら、みんなが帰れる道ができる」
「でも、マッキーが中心に立たないふりをすると、来られた子だけが助かって、来られなかった子は誰も助からない」
「私は、それが嫌だった」
牧人は、ゆっくりと、深く息を吐き出した。
「……悪かった」
言い訳は、何一つなかった。
「気づけなかった」
千景の目が、少しだけ揺れた。
「うん」
「俺は、来たやつしか見てなかった」
「来られなかったやつのことまで、頭が回ってなかった」
「中心とか、そういうのも、分かってなかった」
「……いや、分かろうとしなかったんだな」
牧人は、千景を正面から見た。
「悪かった」
千景は、しばらく黙っていた。
それから、静かに、淡々と言った。
「じゃあ、一回分」
牧人が眉を寄せる。
「一回分?」
次の瞬間、千景の拳が、牧人の左頬にまっすぐ入った。
ドガッ、と鈍い音がした。
子供の頃から抱えていたものを乗せたような一発だった。
牧人の体が横へよろけ、片膝がガクンと沈む。
門前の時間が完全に停止した。
ヒナが彫像のように固まる。
ナナが驚いて短剣に手をかける。
ザガが目を剥いて槍の柄を握る。
ベロの鍋をかき混ぜる手が虚空で止まる。
豪志は言葉も出ず、板を抱えたまま硬直している。
まめじいの筆先から、ぼたっと墨が一滴落ちた。
そして、クロが凄まじい殺気を一気に放出した。
空気が、物理的な重さを持って門前を押し潰す。
門前の小型魔物たちが、全員悲鳴も上げられずにその場に伏せた。
「おい!」
右の声は地を這うように低かった。
牙の間から、どす黒い唸りが漏れる。
「親父を殴ったな」
クロの巨大な足元で、石畳がぎしぎしと悲鳴を上げた。
その瞬間、小太郎がすかさず千景の前へ出た。
茶色いトイプードル。
とても小さな体。だが、その小さな四肢が黒冠の影の上に乗った。
「わふ」
短い、小さな一声だった。
だが、黒冠の影が、門前全体を飲み込むように沈んだ。
本家の門前の温度が、一気に下がる。
クロの放つ剥き出しの殺気と、小太郎の底知れない影が、正面からぶつかり合った。
ナナが短剣を抜く一歩手前で握り直す。
ザガが、青ざめながらも低く槍を構えた。
「……おい」
「あれ、とんでもねえぞ」
イシコが石畳に手を置いたまま、ゆっくり顔を上げる。
「石が、震えてる」
「黒冠の、古い獣」
ミズハが抱える水桶の水面が、薄く凍るように揺れた。
ぷるは、ぷるんとも鳴らずに、平べったく石畳へへばりついている。
ヒナが梁の上で、完全に顔を引きつらせていた。
「小太郎……ちゃん……?」
小太郎の足元から、門前の壁を覆いつくすほどの巨大な影が立ち上がる。
それは狼のようでもあり。
凍てつく獣道そのものの顕現のようでもあり。
冷たい雪を踏み荒らす四肢と、影の奥で怪しく光る牙が、ほんの一瞬だけ重なって現れた。
けれど、それは気配を察知した次の瞬間には、霧のように消える。
影があまりにも濃すぎて、その実体がまるで見当がつかない。
まめじいが、珍しく額に冷や汗を浮かべ、硬い声で言った。
「……確証はございませぬ」
「ですが、あれは黒冠の深部に連なる、古い禁域級の気配にございます」
ヒナが、ようやく喉を鳴らして息を吸った。
「禁域級……?」
「災厄級より、さらに上の気配ってこと……?」
誰も答えられなかった。
クロは正真正銘の災厄級だ。
かつて深層にいた、世界を滅ぼしかねない単独災厄。
そのクロが、今、小太郎を完全に測っている。
ただの犬を見る目ではない。
自分とは違う古い格、その底知れなさを、正面から確かめる目だった。
クロの右が容赦なく牙を剥く。
「小さいくせに、ずいぶんとデカい影を背負っているな」
小太郎は吠えなかった。
ただ、千景の前に毅然と立ち、静かにクロを見据えている。
影だけが、じわじわと深く、冷たくなっていく。
クロの中央が低く言った。
「黒冠の奥に眠っていたという、古い獣の残滓か」
右は、なおも激怒していた。
「正体など知るか」
「親父を殴った不届き者の盾になるなら、容赦なく噛み砕くまでだ」
小太郎の目が、鋭く細くなる。
本家側の殺気。
黒冠側の影。
互いに一歩も引く様子がない。
ザガの槍先が、わずかに揺れた。
「……まずい」
「ここで奴らが本気でやり合ったら、この門前は残らねえぞ」
イシコが必死に石畳を押さえる。
「床、割れる」
「ここ、崩壊する」
「みんな、下がって」
ナナが半歩、牧人の前に割り込もうとする。
ミズハが水を張って障壁を作り、震えるぷるを抱き寄せた。
豪志は板を抱えたまま、動けずに歯を食いしばっている。
ガルドレイたち黒冠の強硬派ですら、あまりの圧に息を殺していた。
ほんの少しでも、誰かが不必要な動きをすれば、門前が消し飛ぶ。
そんな、極限の緊張感。
その張り詰めた場を、二つの大声が同時に引き裂いた。
「待て、お前たち!」
「小太郎、ストップ!」
牧人と千景が、同時に言った。
クロの三つの首が牧人を見る。
小太郎もピタッと動きを止めて千景を見る。
牧人は、殴られた左頬を赤く腫らしながら、よろよろと立ち上がった。
かなり痛そうだ。
それでも、牧人はクロへ向かって強い口調で言った。
「クロ、止まれ」
「これは俺と千景の話だ。手を出すな」
右が不満げに唸る。
「だが、親父」
「止まれと言っている」
その声は、いつになく厳しかった。
クロの中央が、右の首を頭突きで制するように前へ出た。
「親父が止まれと言っている。引き下がれ、右」
右はしばらく小太郎を睨みつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らして殺気を引いた。
小太郎も、千景の手が背中に触れると、巨大な影をすっと自分の足元まで縮めた。
千景は小太郎に、少し申し訳なさそうに言った。
「小太郎も、ありがと。でもだめ」
「これは私とマッキーの話だから」
「わふ」
小太郎は少し不満そうに、短く鳴いた。
けれど、大人しく千景の足元に戻った。
ただし、目はクロから離さない。
クロの右も、小太郎から目を離さない。
ヒナが梁の上で、ようやくまともな息を吐いた。
「やだもう……寿命が縮まるよ……」
「今、本当に災厄級と禁域に近い何かが、本気でぶつかりかけたじゃない……」
ナナが短く言った。
「胃が痛い」
豪志が青ざめた顔で、抱えていた板を見下ろした。
「俺、今、板を持っている場合じゃないと思いました……」
「でも、板を落としたらもっと怖い気もしました……」
ニコがすかさず、震える手で板を出した。
門前、壊すな
牧人は、赤くなった頬をさすりながら言った。
「……それは本当に、出しておけ」
千景は、しばらく牧人を見ていた。
拳は下ろしていた。
牧人は、ズキズキ痛む頬を押さえながら聞いた。
「……足りるか?」
千景は即答した。
「全然足りない」
牧人は苦笑して頷いた。
「そうか。まあ、そうだよな」
千景は、ゆっくりと拳を開いた。
「でも、今はこれでいい」
牧人も頷いた。
「分かった」
小太郎の影が引き。
クロの殺気も、ようやく消えた。
二人の間に残ったものが、これで全部なくなったわけではない。
それでも千景は、自分の足で本家の敷居を越え。
牧人は、逃げずにその一発を受けた。




