灰環は、捨てるために作られていた
かつて、灰環周辺でも名の知られた大手攻略ギルドがあった。
《白閃牙》
だが今、その名を口にする者はほとんどいない。
冥門組の留守を狙った一件の後、白閃牙は監察局から厳しい活動制限を受けた。
高危険度区域へ入れない。
大口の依頼も受けられない。
新しい隊員も募集できない。
仕事が減れば、給金も払えない。
隊員たちは一人、また一人と印を返し、最後には白い牙の看板も下ろされた。
そして、かつてギルド長だった堂前烈牙は――。
今では路地裏の闇カジノで、安酒を飲んでいた。
髭も髪も伸びたまま、卓の隅で残った貯金を賭け札へ変えている。
「次は勝てる」
負けるたび、堂前はそう呟いた。
「八代が馬鹿な真似をしなければ」
「監察局が、あそこまで締めつけなければ」
「あいつらが、苦しい時に逃げなければ」
堂前の話を聞く者は、もう誰もいない。
空になった杯の横には、残り少ない硬貨が置かれている。
胸元には、白閃牙の古い印だけが残っていた。
売れば、しばらく酒を飲める。
それでも、それだけは売れなかった。
堂前は黒ずんだ印を握り、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「俺が作ったんだ」
「俺が、あそこまで大きくした」
返事の代わりに、胴元が堂前の硬貨を回収した。
また負けた。
堂前は空になった卓を見つめ、それでも小さく言った。
「次は、取り戻せる」
かつて何十人もの隊員を率いた男の後ろに、今は誰もいなかった。
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灰環核の奥から、排除の光が膨れ上がった。
白帳の冷たい帳面板とは違う。
旧管理個体が吐き出す、事務的な分類の光でもない。
もっと奥。
もっと古く。
灰環大迷宮そのものの底に沈んでいた、核の意思だった。
灰環仮受付の板が、石畳の傷口の前で揺れている。
灰環仮受付。
まだ仮。
飯、先でもいい。
名前、あとでいい。
豪志はその板を両手で掲げたまま、ごくりと喉を鳴らした。
「親分さん……」
「これ、今までで一番、圧が強いです」
ヒナが空中で翼を広げ、灰色の奥を睨む。
「やだ、あれ……白帳とは全然違う」
「本当に、奥から見てる感じがする」
ナナは痛む指先を庇いながら、短剣を逆手に構えた。
「来る」
「強い」
ベロは大鍋の前で、鍋蓋を盾のように構えた。
「飯は下げない」
ネムは布団の上に座り、処分路の内側に作った寝床を押さえている。
「寝てる子、起こさない」
イトの糸は、仮受付の中に細く張り巡らされていた。
並ぶ道。
飯の道。
寝る道。
戻る道。
落ちない道。
その全部が、灰環核の冷たい圧に触れて、ぴん、ぴんと震えている。
イシコが石畳に両手を当てた。
「石、重い」
「奥が、全部閉じようとしてる」
ミズハは水を巡らせながら、眉を寄せた。
「水も嫌がってるわ」
「流れたくない方へ、無理やり引っ張られる感じ」
ぷるは、疲れきって少し平たくなった体で、ぷるんと小さく震えた。
灰毒とは違う。
分類とも違う。
封鎖とも違う。
灰環そのものが、本家の作った仮受付を拒んでいた。
まめじいは台帳を胸に抱えたまま、旧帳場の奥に浮かぶ灰色の石板を見つめていた。
「親父殿」
「灰環核より、直接の応答でございます」
牧人は、お玉を握り直した。
「ようやく本体が喋る気になったか」
「今度は何を言う」
灰色の石板に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
白帳のような細かな分類ではない。
もっと大きく、もっと無機質な文字だった。
灰環大迷宮。
旧帰還選別核。
機能、継続中。
ヒナが顔をしかめる。
「帰還選別核……?」
「やっぱり、帰れるか帰れないかを選ぶ核ってこと?」
まめじいが静かに頷いた。
「おそらく、その認識で間違いございませんな」
石板の文字は続いた。
灰環は、受け入れ施設に非ず。
保護拠点に非ず。
迷子収容区画に非ず。
飯場に非ず。
休眠所に非ず。
受付に非ず。
牧人は眉をひそめた。
「いちいち、こっちのやったことを否定してくるな」
ニコが板を出した。
灰環、否定多い
ヒナが少しだけ笑いかけたが、すぐに表情を戻した。
灰環核の石板が、重く鳴る。
ごん。
灰色の文字が、さらに深く刻まれた。
灰環は、選別場である。
外部社会より流入した個体を確認。
価値ありと判定された個体を帰還路へ戻す。
価値なしと判定された個体を深層へ沈降。
名を薄化。
役目のみを抽出。
不適格個体を除外。
選別により、迷宮秩序を維持する。
門前の空気が凍った。
誰も、すぐには喋らなかった。
灰環仮受付に並んでいた名なしの影たちが、びくりと震える。
処分路の寝床の奥からも、小さな声が漏れた。
「……価値なし」
「また、言われた」
「戻れないって……」
ネムが布団の端を強く握った。
「聞かなくていい」
「寝てて」
ナナが短く言った。
「最低」
ベロの顔から、いつもの無表情さが少し消えていた。
「飯も食わせずに、価値を決めるな」
ヒナが唇を噛む。
「やだ……」
「最初から、帰れない子を作るための場所だったってこと?」
灰環核は答えた。
帰還不能は事故に非ず。
構造である。
その一行が出た瞬間、牧人の指が、お玉の柄を強く握った。
ぎし、と木が鳴る。
「構造……?」
まめじいが低く言った。
「親父殿」
「つまり、迷って帰れなくなったのではなく」
「帰れないように作られていた、という意味にございます」
ザガが槍の石突きを地面に打ちつけた。
「胸くそ悪い話だな」
クロの三つの首が、同時に低く唸った。
中央が言う。
「俺が噛み戻した道も、最初から落とすための道だったか」
左が続ける。
「戻る者を守る牙が、邪魔になるわけだ」
右が牙を剥いた。
「なら、噛んで正解だったな」
牧人は、石板を見つめたまま動かなかった。
その顔には、怒りがあった。
けれど、叫ばない。
暴れない。
ただ、静かに底の方から熱が上がってくるような怒りだった。
「つまり」
牧人はゆっくりと言った。
「灰環は、こぼれたやつを助ける場所じゃなかった」
石板は沈黙する。
牧人は続けた。
「戻す価値があるやつだけ戻す」
「価値がないって決めたやつは、深層へ沈める」
「名前を薄くして」
「役目だけ残して」
「帰れないようにして」
「それを事故みたいな顔で放っておいた」
灰環核の石板が、淡々と返した。
選別である。
処分ではない。
その瞬間、牧人の目が、はっきりと冷えた。
「言い方を変えるな」
門前の空気が、一段沈んだ。
ヒナが息を呑む。
ナナが短剣を握り直す。
まめじいは、静かに筆を構えた。
牧人は、一歩前に出た。
「捨ててるだろ」
灰環核の光が、一瞬だけ乱れた。
選別である。
迷宮秩序維持に必要な処理である。
帰還資源の保全である。
不適格個体の沈降である。
「だから」
「言い方を変えるなって言ってる」
牧人の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、その低さが、門前の全員の背筋を伸ばした。
「飯も食わせない」
「名前も聞かない」
「寝かせもしない」
「帰りたいかどうかも聞かない」
「勝手に価値を決める」
「勝手に下へ落とす」
「役に立つところだけ残す」
「そいつがいたことは、記録から消す」
牧人は、灰環核を睨んだ。
「それを、捨てるって言うんだよ」
ニコが、ゆっくりと板を出した。
捨ててる
その文字を見た灰環仮受付の影たちが、小さく震えた。
怖がっているのではない。
自分たちに何が起きていたのかを、初めて誰かがはっきり言ってくれたように。
「捨て……」
「やっぱり」
「私たち、捨てられてた……」
ヒナがすぐに声を張った。
「違うよ」
「今は違う」
「今は本家の列に並んでる」
「だから、下を見ない」
「こっちを見る!」
その声で、影たちが少しだけ顔を上げた。
ベロが椀を差し出す。
「心配するな」
「飯を食え」
ナナが短く続けた。
「落ちない」
ネムも、布団の上で小さく言う。
「寝てて」
「起きたら、いる」
まめじいは台帳に筆を置いた。
「記録いたします」
牧人は横目で見る。
「書け」
まめじいは頷いた。
灰環大迷宮。
旧帰還選別核。
自称、選別場。
実態、帰還不能者の捨て場所。
価値判定により、名を薄め、役目だけを残し、深層へ沈めていた疑い。
本家、これを認めず。
白帳の板が、激しく明滅した。
灰環核の石板も、低く鳴った。
記録内容、否認。
本家台帳、誤認。
選別を処分と記すこと、不適切。
まめじいは筆を止めなかった。
追記。
灰環核、言い換えを試みる。
ヒナが梁の上で思わず吹き出した。
「やだ、まめじいが遠慮なく書いた!」
ナナが短く言った。
「正確」
ベロも言った。
「言い換え、悪い」
牧人はお玉を振り上げた。
「そっちが選別って言いたいなら、勝手に言ってろ」
「でも、うちの帳面には捨て場所って書く」
「うちの門前に来たやつらから見たら、そうだったんだろうからな」
灰環核の奥が、冷たく膨れ上がる。
家主個体、認識不全。
迷宮秩序への重大干渉。
選別機能阻害。
不適格個体の保持。
処分対象の帰属化。
名薄化阻害。
帰還不能構造への干渉。
削除対象。
ヒナの顔がこわばった。
「削除対象……」
イトの糸が、牧人の足元に強く絡む。
「親父、狙われた」
イシコが両手を石畳に押し当てる。
「親父の足元、固める」
ミズハが水を走らせた。
「来るわよ」
「今までで一番、嫌な圧」
ぷるは、疲れた体を持ち上げて、ぷるんと小さく鳴った。
ベロは鍋蓋を盾にする。
「飯場の前で、親父を消させるか」
ナナは短剣を構えた。
「親父、消えない」
ネムは布団の端を握ったまま、少しだけ目を開けた。
「親父が消えたら、起きた時、困る」
ヒナが泣き笑いになりそうな顔で言った。
「やだ、理由が寝起き基準……でも大事!」
クロが、牧人の隣にゆっくりと立った。
三つの首が、灰環核の奥を見据える。
中央の首が静かに言う。
「親父」
「これは、俺が昔噛み戻したものの根だ」
右が牙を剥く。
「今度こそ、噛み砕くか」
左が低く続ける。
「だが、核はまだ奥だ」
「ここで来るのは、削るための手だ」
ザガが槍を構えた。
「なら、その手を落とす」
まめじいは台帳を胸に抱えたまま言った。
「親父殿」
「灰環核は、我々を単なる異物ではなく、構造そのものを壊す敵として認識したようでございます」
牧人は、灰環仮受付の向こうを見た。
名なしの影たちがいる。
飯の匂いに引かれてきた者。
ネムの布団で眠っている者。
ヒナの声に導かれている者。
ナナに手を引かれて落ちなかった者。
ぷるに毒を吸ってもらった者。
まだ名前を思い出せない者。
名前を呼ばれたくない者。
自分で起き上がる力も残っていない者。
彼らを、灰環核は価値なしと呼んだ。
牧人は、お玉を握ったまま、静かに息を吐いた。
「灰環核」
石板が明滅する。
牧人は言った。
「お前が何のために作られたかは、正直、半分も分からない」
「選別とか、帰還資源とか、管理とか」
「そういう難しい言葉も、俺にはよく分からない」
ヒナが、空中で小さく笑った。
「親父、そこは分からないって言うんだ……」
ナナが短く言った。
「正直」
牧人は構わず続けた。
「でも、一つだけ分かる」
灰環の奥が、静かに揺れる。
牧人の声は、灰環仮受付の内側へも届いていた。
「ここにいるやつらは、もう捨てていいものじゃない」
「うちの受付に並んだ」
「飯を食った」
「布団で寝てる」
「案内を聞いて、こっちへ歩いてる」
「名前を思い出せなくても、まめじいの帳面には残ってる」
まめじいが、深く頭を下げる。
牧人は、灰環核を睨みつけた。
「だから、お前の選別は、ここで終わりだ」
石板に、冷たい文字が走る。
家主個体、削除対象。
本家仮門前、消去対象。
本家台帳、停止対象。
飯場、遮断対象。
案内係、奪取対象。
帰還補助個体、遮断対象。
本家石、破壊対象。
帰還路の牙、排除対象。
処分領域休眠所、撤去対象。
処分路閉鎖個体、排除対象。
名なし群、再沈降対象。
白帳が、ゆっくりと両腕を広げた。
灰環核の奥から、無数の灰色の線が伸びる。
線ではない。
命令だった。
分類。
削除。
沈降。
撤去。
遮断。
破壊。
排除。
古い迷宮の仕組みが、本家のすべてを、一つずつ名指しで潰そうとしていた。
ヒナが叫んだ。
「やだ、全員まとめて対象にしてきた!」
ナナが短く言った。
「分かりやすい」
ベロが鍋蓋を鳴らす。
「なら、全部守る」
ニコが即座に板を掲げた。
全部、守る
豪志が、震えながらもその隣で板を支えた。
「はい!」
「全部、守ります!」
ザガが槍を横に構えた。
「本家外縁、守る」
イトが糸を張った。
「道、守る」
イシコが石を固めた。
「足場、守る」
ミズハが水を巡らせる。
「毒と熱は、私が見るわ」
ぷるが、ぷるんと震えた。
ヒナが翼を広げる。
「迷子案内、続行!」
ネムが布団を抱える。
「寝床、守る」
ナナが短剣を構える。
「処分路、閉める」
ベロが鍋を背にする。
「飯、出す」
まめじいが台帳を開く。
「記録、続行いたします」
クロが三つの首で笑った。
「帰る道は、俺が戻す」
牧人は、最後にお玉を前へ突き出した。
「灰環核」
「お前が、捨てるために作られていたなら」
牧人の声が、灰環の奥へ響いた。
「こっちは、帰すために開ける」
灰環核の光が、怒りのように膨れ上がった。
排除開始。
その一行が石板一面に刻まれた瞬間、灰環の奥から、巨大な灰色の波が本家仮受付へ押し寄せた。
分類の波。
処分の波。
名前を薄くする波。
飯の匂いを消す波。
寝床を冷たくする波。
記録を白紙に戻す波。
牧人は一歩も退かなかった。
「全員」
声を張る。
「本家仮受付、防衛だ」
ヒナが空中で叫んだ。
「了解!」
「飯の列は乱さない!」
「寝床の子は起こさない!」
「処分路には絶対行かない!」
ニコが板を出した。
本家、開門中
豪志が、震えながらそれを高く掲げた。
灰環核の波が、すぐそこまで迫っていた。
そして、その波の向こうで、もう一つの石板が冷たく浮かび上がる。
家主個体、守谷牧人。
最優先削除対象。
門前の空気が、凍った。
牧人は、その文字を見て、ほんの少しだけ笑った。
「ようやく、俺を見たな」
クロが隣で牙を剥く。
ザガが槍を低く構える。
まめじいの筆が、静かに走った。
灰環核、親父殿を最優先削除対象に指定。
本家一同、これを全力で拒否。
ニコが最後に、もう一枚の板を出した。
親父、消させない
灰色の波が、本家仮受付へ激突した。




