ヒナは、灰環で迷子案内をした
灰環の本当の被害者が、目を覚ました。
小さな子供の影だった。
先ほど門前に押し寄せていた名なしの影たちよりも、さらに薄い。
体の輪郭は消えかけ、胸元には割れた古い木札がぶら下がっている。
処分の印。
二度とこちらへ戻らせないために、括り付けられた札だった。
その子は、ネムが敷いてくれた布団の端を握りしめたまま、震える唇で言った。
「……たすけて……」
豪志は、半分削れた看板を胸に抱えたまま、泣きそうな顔で一歩前に出た。
けれど、近づきすぎない。
驚かせないように、少し離れた場所で看板を立てる。
そこには、ニコの文字があった。
ここは本家
豪志は震える声で言った。
「ここは、本家です」
「もう、捨て場所ではありません」
ネムが、小さく頷いた。
「うん」
「ここ、本家」
小さな影は、その文字を見た。
読む力が残っているのかは分からない。
それでも、その目がほんの少しだけ揺れた。
まめじいが台帳を開く。
筆先は、すぐには動かなかった。
「お名前は……とお聞きするのは、まだ早うございますな」
牧人は頷いた。
「ああ」
「まず寝かせろ」
「話は後でいい」
ネムは布団の端を少し持ち上げた。
「こっち」
「まだ寝ていい」
小さな影は、頷く体力すらなかった。
ただ、布団の端を握る指に、少しだけ力が戻った。
その時だった。
ナナが閉じた石畳の傷口の奥から、また声が響いた。
ひとつではない。
二つ。
三つ。
もっと多い。
「ここ、どこ……?」
「こっちでいいの……?」
「暗い」
「また下に落ちる……」
「声がする」
「黒い声が、呼んでる……」
ヒナが、梁の上で顔を上げた。
「黒い声?」
イトの糸が、ぴんと張る。
「奥で、迷ってる」
「ネムの寝床まで、来られない子がいる」
イシコが石畳に手を当てた。
「道、ぐちゃぐちゃ」
「石が、覚えられないくらい曲がってる」
ネムは、半分眠そうな目のまま言った。
「寝床、ある」
「でも、そこまで来る道、分からない」
ミズハが、腕の中のぷるを抱え直す。
「弱っている子たちには、寝床があっても歩けないのね」
旧帳場の奥で、白帳の板に冷たい文字が浮かぶ。
内部残留個体、迷走。
処分路誘導、継続。
黒声誘導、有効。
休眠所到達、阻止。
ヒナの眉が、ぴくりと動いた。
「やだ」
「寝床まで行こうとしてる子を、わざと迷わせてるの?」
ナナが短く言った。
「悪い」
ベロも低く唸る。
「飯の列に並ばせない気か」
ザガが嫌そうな顔をして言った。
「ホントに嫌なやつだな」
牧人は、石畳の傷口を見下ろした。
「ネムの寝床ができても、そこまで案内するやつがいないと駄目か」
その言葉に、ヒナが梁の上で翼を広げた。
「じゃあ、私が行く」
牧人が見上げる。
「ヒナ」
「私、飛べるし」
「声も通るし」
「暗いところで迷ってる子に、こっちだよって言うのは得意」
ヒナは、梁からふわりと降りた。
いつものような軽い動きだった。
けれど、顔は真剣だった。
「迷子がいるなら、案内すればいい」
「飯の場所」
「寝る場所」
「受付」
「行っちゃ駄目な場所」
「それを、ちゃんと叫べばいいんでしょ?」
ネムが小さく頷いた。
「ヒナの声」
「起きてる子に、届く」
イトも言った。
「糸、細い道なら作れる」
「でも、声がないと怖がって掴まない」
ナナがヒナを見る。
「うるさいの、役に立つ」
「ナナ、それ褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、よし!」
ヒナは胸を張った。
牧人は少しだけ笑った。
「行けるか」
ヒナは親指を立てた。
「もちろん」
「迷子案内なら、任せて」
白帳の顔の板に、文字が走る。
案内、不要。
内部残留個体、処分路へ誘導中。
案内行為、妨害対象。
ヒナは白帳を見上げた。
「うるさい」
「迷子に変な道を教えるやつは、案内係じゃないから」
牧人が言った。
「ヒナ」
「うん?」
「迷ってるやつらを、ネムの寝床まで連れてこい」
「歩けるやつは、飯の列へ」
「怖くて動けないやつは、その場で待たせろ」
「処分路には、一人も行かせるな」
ヒナの目が、ぱっと明るくなった。
「了解!」
その瞬間、本家の空気がヒナの背中へ流れた。
鍋の湯気。
布団の匂い。
台帳の筆音。
ニコの板。
豪志の看板。
その全部が、ヒナの翼を少しだけ大きく見せた。
ヒナは一瞬だけ目を瞬かせる。
けれど、すぐに笑った。
「任された!」
ヒナは石畳の傷口へ飛び込むのではなく、その上を大きく旋回した。
羽ばたきが、ネムの布団の影を揺らす。
イトの糸が、ヒナの動きに合わせて、処分路の内側へ細い線を伸ばす。
イシコの石の記憶が、その線に足場を作る。
ミズハの水が、乾いた場所に淡い光を置く。
ぷるが、へとへとのまま小さく揺れ、灰毒の薄い場所を示す。
クロが、門前に大きな体を沈めた。
三つの首が、それぞれ別の暗がりを睨む。
中央の首が低く言った。
「案内に集中しろ」
「奥から来るものは、俺が噛み戻す」
ヒナは一瞬だけクロを見て、それから明るく笑った。
「頼もしい若頭!」
「じゃあ、私は全力で叫ぶ!」
そしてヒナの声が、灰環核の内側へ響いた。
「聞こえるー?」
「本家の案内係、ヒナです!」
「迷子の子は、まず黒い変な声についていかない!」
灰環の奥で、ざわりと気配が動いた。
ヒナは続ける。
「飯の列はこっち!」
「寝床はあっち!」
「怖くて歩けない子は、その場で座って!」
「処分路には行かない!」
「下から呼ぶ声には返事しない!」
白帳の板が激しく明滅する。
案内音声、侵入。
処分路誘導、混線。
内部残留個体、進行方向変更。
ヒナはさらに大きな声で叫んだ。
「はい、そこで止まる!」
「右じゃない、左!」
「左が分からない子は、あったかい方!」
「冷たい方は駄目!」
「いい匂いがする方に来て!」
ベロが鍋の前で即座に動いた。
「湯気を増やす」
大鍋から、温かい粥の匂いが立ち上る。
出汁の匂い。
米の匂い。
塩の匂い。
本家の門前の匂い。
それが、ネムの布団の影を通って、灰環の内側へ流れていく。
ヒナはにっと笑った。
「そうそう、その匂い!」
「お腹が鳴った子、その方向で合ってる!」
「寝たい子は、ネムちゃんの布団の匂い!」
「飯を食べたい子は、ベロの粥の匂い!」
ネムが布団の上で半分寝ながら言う。
「布団、こっち」
「寝る子、こっち」
ヒナがすぐに拾う。
「はい、寝る子はネムちゃんの声!」
「起きて歩ける子は飯の列!」
「何も分からない子は、とりあえず座って泣いていい!」
「泣いてもいいけど、下には行かない!」
ナナが短く言った。
「泣いていい」
「落ちるの、だめ」
ヒナは羽ばたきながら叫ぶ。
「そう!」
「泣いていい!」
「落ちるのは駄目!」
処分路の奥から、小さな声が返ってきた。
「こっち……?」
「いい匂い……」
「でも、黒い声が、こっちに来いって……」
ヒナの顔がきゅっと引き締まる。
「黒い声についていかない!」
「そいつは案内係じゃない!」
「そいつ、あなたの名前も、今お腹が空いてるかどうかも知らないでしょ!」
灰環の内側が、一瞬静まった。
ヒナは畳みかける。
「本物の案内係はね、まず聞くの!」
「歩ける?」
「お腹すいてる?」
「寝たい?」
「怖い?」
「それも聞かないで、ただ来いって言う声は無視!」
まめじいが台帳を開いたまま、静かに頷いた。
「まことに正しい案内でございます」
豪志が、削れた看板を抱えて感動していた。
「案内とは、道を示すだけではない」
「相手の状態を聞くことでもあるのですね……!」
ナナが短く言った。
「豪志、今は看板」
「はい!」
豪志は慌てて看板を立てた。
そこにはニコが新しく書いた文字があった。
飯の列、こっち
寝床、あっち
処分路、行かない
ヒナはそれを見て、ぱっと笑った。
「豪志、それいい!」
「もっと高く!」
「はい!」
豪志は腕を震わせながら、看板を高く掲げた。
「迷子の皆さん!」
「こちらが本家の案内板です!」
ヒナがすかさず叫ぶ。
「迷ったら、豪志の板!」
「字が見えない子は、私の声!」
ニコが隣で、もう一枚板を出す。
こっち
短い。
強い。
ヒナは親指を立てた。
「ニコ、最高!」
灰環の奥で、小さな光がひとつ動いた。
そして、もうひとつ。
さらに、もうひとつ。
処分路へ向かっていた薄い影たちが、ゆっくりと方向を変え始める。
白帳の板に文字が走る。
内部残留個体、進路変更。
処分路誘導、低下。
案内音声、優先度上昇。
生活音、誘導力を獲得。
ヒナが目を輝かせる。
「やだ、生活音が勝ち始めた!」
ベロが言った。
「飯の匂いは強い」
ネムも半分寝ながら言う。
「布団の匂いも、強い」
ナナが短く言う。
「声も、強い」
ヒナは嬉しそうに翼を広げた。
「じゃあ、もっと強くいくよ!」
灰環の奥へ向かって、ヒナの声が響く。
「はい、一列!」
「走らない!」
「押さない!」
「前の子が止まったら、自分も止まる!」
「泣いてる子を追い越さない!」
「転んだ子がいたら、横の子が手を出す!」
ザガが思わず笑った。
「完全に避難誘導だな」
まめじいが真面目に言う。
「大変有効でございます」
ヒナは止まらない。
「飯の列は、ベロの鍋の匂い!」
「寝床は、ネムちゃんの眠そうな声!」
「受付は、まめじいの筆の音!」
「怖かった子は、ナナちゃんの後ろ!」
「よく分からない子は、ニコの板!」
「そして、黒い変な声は全部無視!」
白帳の板に、激しい文字が浮かぶ。
案内行為、管理命令を阻害。
内部残留個体、案内に従う。
処分路進行、停止。
案内権限、未登録。
案内権限、未登録。
ヒナはその文字を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「登録してなくても案内はできるの」
「迷ってる子に、こっちだよって言うだけだから」
牧人が静かに頷いた。
「そうだな」
「道に迷ったやつに必要なのは、許可じゃない」
「声だ」
その言葉に、ヒナは少しだけ照れたように笑った。
「親父、たまにいいこと言うね」
「たまにか」
「うん、たまに」
ナナが短く言った。
「今のは、いい」
「ナナまで」
本家の門前に、ほんの少し笑いが戻った。
その笑いすら、灰環の中へ流れていく。
暗い処分路の内側に、生活の音が満ちていく。
鍋の音。
筆の音。
布団の擦れる音。
ニコの板を立てる音。
豪志が看板を持ち直して息を切らす音。
ヒナの明るい声。
そのすべてが、灰環核の冷たい管理命令を、少しずつ押し返していく。
やがて、石畳の傷口の奥から、一体の小さな影が這い上がってきた。
今度は、先ほどの被害者より少しだけ輪郭が濃い。
ヒナの声を聞いて、ネムの寝床までたどり着いた子だ。
ネムがその子を布団へ導く。
「寝る?」
「飯?」
小さな影は迷った。
そして、かすかに言った。
「……寝てから、飯」
ベロが頷いた。
「正しい」
ヒナが拳を握る。
「一名、ご案内成功!」
続けて、もう一体。
さらにもう一体。
寝床へ向かう者。
飯の匂いを追ってくる者。
受付の筆の音に近づく者。
まだ怖くて途中で座り込む者。
ヒナはその全部に声をかけた。
「座ってる子、そのままでいい!」
「今、イトの糸が行くから!」
「泣いてる子、泣きながらでいいから布団の方!」
「お腹がすいた子は、ベロの鍋!」
「でも熱いから、皿を持つ時は気をつけて!」
イトが糸を伸ばす。
イシコが小さな足場を作る。
ミズハが水を置く。
ぷるが灰毒の薄い場所をぷるんと示す。
本家の全員が、ヒナの案内に合わせて動き始めていた。
それは戦闘ではなかった。
救助ですら、少し違う。
もっと生活に近い。
迷子を呼ぶ声。
列を整える声。
寝床と飯場と受付を知らせる声。
その明るさが、灰環核の中で一番暗い場所を、少しずつ壊していく。
白帳の顔の板に、激しく文字が走る。
案内音声、拡大。
内部残留個体、誘導完了増加。
処分路、流量低下。
管理命令、劣後。
生活声、優先。
ヒナが、その最後の文字を見て笑った。
「生活声、優先だって!」
「やだ、私の声、灰環で優先になっちゃった!」
ザガは苦笑する。
「うるささが役に立ったな」
ヒナは胸を張った。
「うるさくない」
「よく通る声って言って」
ナナが短く言った。
「よく通る」
「ちょっとうるさい」
「後半いらない!」
その時、石板が一段強く光った。
白帳の文字ではない。
もっと奥。
灰環核そのものの文字だった。
案内行為、危険。
内部残留個体の回収率、低下。
処分路誘導、失敗。
案内権限、奪取対象。
門前の空気が、冷えた。
ヒナの笑顔が止まる。
「奪取対象?」
イトの糸が震えた。
「ヒナを、取ろうとしてる?」
ネムが布団の上で目を薄く開ける。
「声、奪う気」
ナナが短剣を構えた。
「だめ」
ベロが鍋蓋を鳴らす。
「案内係を取るな」
豪志が看板を抱え直し、青ざめながらも前へ出た。
「案内板だけでは足りません!」
「ヒナさんの声が必要です!」
ヒナは、一瞬だけ唇を引き結んだ。
だが、すぐに翼を広げる。
「やれるものなら、やってみなさいよ」
牧人は、ヒナの前に一歩出た。
「ヒナ」
「何?」
「今度はお前を狙うらしい」
「だから、こっちもはっきり言っておく」
牧人は、灰環核の奥を睨んだ。
「うちの案内係に、手を出すな」
ヒナの翼が、もう一度大きく見えた。
灰環核の奥で、冷たい光が強くなる。
迷子たちは、まだ寝床と飯場へ向かっている。
ヒナの声は、まだ灰環の中に響いていた。
その明るい声を奪おうとするように、灰環核の奥から、黒い風が吹き上がった。
クロが、その風の前で三つの首を低く構える。
ヒナは、その背中の後ろで、もう一度声を張った。
「飯の列はこっち!」
「寝床はあっち!」
「処分路には、絶対に行かない!」
黒い風と、ヒナの明るい声が、灰環の奥でぶつかった。




