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ナナは、捨て場所の扉を閉めた


白帳の記録の刃が、門前へ降り始めた。


灰色の紙片のようなものが、ひらひらと舞う。


だが、それは紙ではない。


触れたものの輪郭を薄くし、名前を削り、役割を剥がし、そこにいた事実を古い帳面の外へ落とすための刃だった。


それが、まめじいの抱える台帳へ向かって、一斉に降り注ぐ。


「まめじい!」


牧人が前に出た。


ザガが槍を振るい、灰色の紙片を横へ流す。


ヒナが梁の上から風を叩きつける。


ナナが短剣を閃かせ、落ちてくる刃を弾く。


豪志も、急造の厚い看板を掲げて割り込んできた。


「ここは俺が――!」


灰色の紙片が看板に触れた瞬間、木肌が薄く削れた。


豪志の顔が引きつる。


「すみません、これは無理です!」


「豪志、下がって!」


ヒナが梁の上から叫んだ。


紙片は切っても切っても薄く散り、灰の霧となって門前に広がっていく。


ミズハが顔をしかめた。


「これ、刃じゃないわ」

「毒に変わってる!」


灰色の霧が、石畳の上を這った。


本家石の光が、少し鈍る。


イトの糸が、じり、と嫌な音を立てた。


名なしの影たちが、一斉に肩を震わせる。


温かい粥を食べて、ようやく輪郭が少し戻ったばかりの影が、灰の霧に触れて、また薄くなりかけた。


ネムが右奥の戸口から、布団を抱えたまま顔を出す。


「灰、だめ」

「寝てる子、薄くなる」


牧人の目が冷える。


「毒まで流してきたか」


白帳の顔の板に、文字が浮かぶ。


灰毒散布。

本家台帳、停止。

帰属点、薄化。

名なし個体、再沈降。


ヒナが梁の上で叫んだ。


「やだ、やっぱり名なしの子たちもまとめて落とす気じゃない!」


ベロが鍋蓋を構えた。


「飯を食った後に、毒を混ぜるな」

「最低だ」


ナナが短く、温度のない声で言う。


「許さない」


その時、一同の足元で小さな音がした。


ぷるん。


ぷるが、一歩前に出ていた。


青く半透明な小さな体が、目の前に迫る灰毒の霧の前で細かく震えている。


普段なら、どこかのんびりと揺れているぷるが、今は明らかに緊張していた。


ミズハが慌てて声を上げる。


「ぷる、待って」

「それ、ただの汚れじゃないわ!」


ぷるは、一度だけ、ぷるんと力強く揺れた。


牧人も眉をひそめて言った。


「無理するな」

「そこまで体を張らなくていい」

「吸わずに、別の方法を探そう」


ぷるは、少しだけ牧人の顔を見上げた。


それから、灰毒の霧へ向き直る。


ぷるん。


小さな体が、大きく膨らんだ。


灰毒が、ぷるの方へ吸い寄せられていく。


「ぷる!」


ミズハが駆け寄る。


灰の霧がぷるの中へ入った瞬間、澄んだ青い体の中心が、どろりと灰色に濁り始めた。


ぷるの全身が、びくりと震える。


それは可愛い揺れ方ではなかった。


苦しそうな、見ているこちらが息を詰まらせるような震えだった。


ヒナが梁の上で息を呑む。


「ぷる先生……!」


ナナが一歩出ようとした。


だが、ミズハが手を伸ばして叫ぶ。


「待って!」

「今触ったら、毒が移るわ!」


ミズハは水桶を両手で持ち上げた。


「ぷる、今薄める!」


清らかな水が、ぷるの濁った体へ細く流れ込む。


ぷるの中の灰色が、少しだけ薄くなった。


けれど、灰毒はまだ重い。


ぷるの体の奥深くに、沈もうとしている。


ベロが鍋の前から、迷いなく塩壺を掴んだ。


「塩だ」


牧人が振り返る。


「ここで塩か」


「毒が濃い」

「薄めて、締める」


ベロの顔は真剣だった。


「料理ではない」

「処置だ」


ザガがベロの方を見た。


「料理人が真面目な顔で言うと、妙に説得力があるな」


ベロは、的確な分量の塩を水に溶かし、ミズハへ手渡した。


ミズハがそれをさらに水で薄め、ぷるの周りへ回しかける。


灰毒の濁りが、ほんの少しずつ崩れていった。


ぷるは、まだ震えている。


だが、吸うのをやめなかった。


ぷるん。


灰毒がまた、ぷるの中へ入る。


ぷるん。


今度は、ミズハの水がすぐに追いかける。


ぷるん。


ベロの塩水が、毒の重さを削る。


ネムが右奥から、眠そうな目でぽつりと言った。


「ぷる」

「がんばれ」

「でも、限界なら寝ていい」


ヒナが泣き笑いになった。


「やだ、ネムの応援、寝る前提……!」


ネムは真顔で続けた。


「疲れたら、寝る」

「でも、今だけちょっと、がんばれ」


ぷるは、その声に応えるように、ぷるんと大きく揺れた。


門前の灰毒の霧が、みるみる薄くなっていく。


本家石の光が、いつもの輝きを取り戻し始めた。


イトの糸から漂っていた、不穏な焦げ臭い匂いも消えていく。


名なしの影たちの薄れかけていた輪郭も、また少しずつ戻り始める。


まめじいが台帳を抱えたまま、静かに目を見開いた。


「おお……」

「ぷる殿が、灰毒を受け止めておりますな」


牧人は歯を食いしばった。


「だからって、お前一人に全部背負わせる気はないぞ」

「ぷる、無理なら吐け」

「吸った分をこっちに戻しても構わない」


ぷるは、ゆっくりと首を横に振るように揺れた。


嫌だ、と言うように。


その小さな体の中で、灰色の毒がぐるぐると回る。


ミズハが水で薄める。


ベロが塩を足す。


ぷるが吸う。


三つの動きが、不思議なほど噛み合っていった。


灰毒は消え去るわけではない。


だが、薄まる。


薄まれば、流せる。


流せれば、沈まない。


ミズハが確信を込めて叫んだ。


「いける!」

「ぷる、もう少しだけ!」


ぷるん。


ぷるは、最後に大きく震えた。


門前に残っていた灰毒の霧が、一気にぷるの方へ吸い込まれる。


青い体が、一度完全に灰色に濁った。


次の瞬間、ミズハの水がぷるを包み、ベロの塩水が毒の芯を砕いた。


ぷるの体が、内側から淡く光る。


灰色の濁りが、白い泡になって、ぷるの表面からぽこぽこと浮かび上がり、そのまま消えていった。


役目を終えたぷるは、石畳の上で平たくなった。


ぷる……。


「ぷる!」


牧人が慌てて膝をつく。


ミズハも水桶を置いて覗き込む。


ぷるは、しばらく動かなかった。


門前に緊張した静寂が走る。


それから。


ぷるん。


ほんの少しだけ、いつもの揺れが戻った。


ヒナが梁の上で安堵のあまり叫んだ。


「やだあああ!」

「ぷる先生!」


ナナが短く言った。


「すごい」


ベロが職人らしく深く頷いた。


「水、塩、ぷる」

「良い連携だ」


豪志も涙ぐみながら言った。


「俺の看板は負けましたが、ぷる先生は勝ちました……!」


ネムが布団を引きずりながら言った。


「ぷる、あとで寝る」

「一番柔らかい布団、貸す」


牧人は、ようやく肩の力を抜いて息を吐いた。


「そうだな」

「今日はぷる専用の布団を用意してやってくれ」


ネムはこくりと頷いた。


「丸いの、出す」


ニコが誇らしげに板を掲げた。


ぷる先生、灰毒対応


白帳の顔の板が、激しく明滅した。


粘体、灰毒吸収。

水属性個体、希釈。

塩分処置、想定外。

粘体、管理不能。


ヒナが目元を拭いながら笑った。


「やだ、ぷる先生が管理不能認定された!」


ぷるは、疲れたように、しかしどこか誇らしげに、ぷるんと一度だけ揺れた。


その時だった。


灰毒が薄まった石畳の向こうで、重い音が響いた。


ごん。


それは旧帳場の奥からではない。


そのさらに下。


不要なものを灰環核へ叩き落として処理する、処分路の方からだった。


ナナが真っ先に振り向いた。


「……下から、嫌な音」


イトの糸が、危険を察知してぴんと張る。


イシコが地面に手をついた。


「石の下」

「開く」


まめじいが石板を覗き込む。


文字が浮かんでいた。


灰毒散布、失敗。

帰属点、維持。

名なし個体、再沈降不可。

処分路、強制開放。


牧人の顔が険しくなった。


「処分路だって?」


白帳の板に、冷たい文字が走る。


不要個体。

未登録個体。

不安定個体。

処分路へ一括移送。


門前の石畳に、細い亀裂が入った。


一つではない。


仮受付の列を作っていた影たちの足元。


右奥のネムが寝ていた通路の前。


そして、本家石のすぐ近く。


灰色の光が、床の隙間から漏れてくる。


名なしの影たちが、怯えて互いに身を寄せ合った。


そのうちの一体が、まだ大事に持っていた粥の皿を抱えたまま、自分の足元を見た。


床が、すうっと音もなく沈み始めていた。


「いや……」


子供のような、小さな声だった。


「また、下へ落ちる……」


ナナが動いた。


速かった。


その小さな体が、怯える影の目の前へ一瞬で滑り込む。


短剣を抜く。


だが、そこにあるのは、斬るべき敵ではない。


床に開きかけた灰色の穴だった。


ナナは、その穴の前に立った。


「通さない」


白帳の顔の板が、ナナへ向く。


退け。

処分路である。

不要個体、一括移送対象。


ナナは短剣の切っ先を、穴の奥へ低く構えた。


「処分、だめ」

「うちはゴミ箱じゃない」


白帳の文字が強くなる。


管理対象外。

不安定個体。

本来帰属なし。

処分路、正規の廃棄経路。


ナナは、表情を変えなかった。


「ここに来た」

「ちゃんと並んだ」

「美味しい飯、食べた」

「もう、捨てていいものじゃない」


牧人が、ナナの後ろに立ち、静かだがよく通る声で告げた。


「その通りだ」

「うちに来た客を勝手に捨てるな」


その声に、怯えていた名なしの影たちが、驚いたように顔を上げた。


牧人は、白帳を睨みつけた。


「こいつらは、うちの受付に並んだ」

「名前がなくても、まめじいの台帳に載った」

「ベロの作った飯も食った」

「ネムの布団で寝てるやつまでいる」

「それを、不要だの未登録だのというそっちの都合で、勝手に穴へ落とすな」


ナナが短く頷いた。


「落とさない」


処分路が本格的に開いた。


灰色の穴の奥から、冷たい風が吹き上がる。


それはただの風ではなかった。


そこに存在する者の名前や記憶を薄れさせ、存在そのものを希釈する力。


帰る場所のない弱者を、下へ引きずり落とす力。


名なしの影の足元が、ずるりと穴に向かって滑った。


ナナがその細い手を掴む。


「こっち」

「捕まって」


影は全身を震わせていた。


「でも、下が……呼ぶ」


「行かせない」


「また、あの底に落ちる……」


「絶対に落とさない」


ナナは短い言葉だけで、掴んだ手を離さなかった。


白帳の板に文字が走る。


妨害個体、確認。

小型守護個体。

処分路閉鎖を阻害。

即時、排除。


灰色の穴から、細い腕のようなものが無数に這い出してきた。


処分路の奥底から伸びる、冷たい回収の手。


ナナはその腕を、短剣で叩き斬った。


一つ。


二つ。


三つ。


だが、穴はまだ開いている。


手を斬っても、奥から次々と新しい手が伸びてくる。


ヒナが梁から飛び降りようとした。


「ナナ! 私も手伝う!」


ナナは振り返らずに言った。


「上」

「見てて」


ヒナが止まり、歯を食いしばる。


「……分かった! 上は任せて!」


ザガが槍を突き出し、別の場所の穴から這い出ようとする手を押さえる。


クロが三つの頭で唸り、その大きな体で門前の裂け目を塞ぐ。


イシコが地面に両手を当てて石を盛り上げ、イトが糸を張り巡らせて、名なしの影たちを後ろの安全な場所へ引き戻す。


ミズハはぷるを大事に脇に抱えながら、水で灰色の床の縁を冷やしていた。


ベロが鍋蓋を構える。


「粥を食った者を、無断で捨てるな」


ネムも右奥から、布団を引きずりながら出てきた。


「うちで寝る子は、捨てさせない」


豪志が削れた看板を盾にして、床の隙間から伸びる手を叩いていた。


「この看板、もう半分ありませんが、最後まで使います!」


ニコが全力で大きな板を出した。


絶対に、捨てない


その板の文字を見たナナの目に、静かな火が灯った。


だが、処分路の穴は、まだその口を広げている。


ナナは迷わず、穴の縁へ一歩踏み込んだ。


牧人が叫ぶ。


「ナナ、それ以上近づくな!」


「閉める」


「無茶はするな、別の方法がある!」


「今、閉める」


ナナは短剣を鞘に収めた。


そして、両手を直接、灰色の穴の縁へ押し当てた。


じゅ、と嫌な音がする。


ナナの白い指先が、見る間に灰色に染まりかけた。


牧人が一歩踏み出す。


「ナナ!」


ナナは、激痛に顔をしかめることもなく、首を横に振った。


「大丈夫」

「ちょっと、痛いだけ」


「痛いなら今すぐ手を離せ!」


「でも、ここで離したら、閉まらない」


ナナは小さな靴で、しっかりと床を踏ん張った。


体よりもずっと大きな、見えない処分路の扉を、その小さな両腕で押し戻していく。


灰色の光が、ナナの細い腕にまとわりつく。


白帳の文字が、焦ったように明滅する。


退け。

処分路である。

未処理個体、移送対象。

抵抗を中止し、退け。


ナナは、ただ一言だけ返した。


「嫌」


ぎし、と床が軋む音が響く。


穴が、少しずつ狭まり始めた。


逃げ遅れそうになっていた名なしの影たちが、息を呑んで見つめていた。


その中の一体が、掠れた声で呟いた。


「穴が……閉まる……?」


ナナは奥歯を噛みしめ、全身の力を両腕に込めた。


「閉める」


牧人は、ナナのすぐ後ろに立った。


手は出さない。


出せない。


ここで牧人が代わりに押したら、それはナナが閉めたことにならない。


だから、牧人はナナの背中を見た。


小さな背中だった。


けれど、今その背中は、本家の床と、名なしの影たちと、右奥の寝床まで背負っている。


牧人は、腹の底から声を張った。


「ナナ!」


ナナの指が、灰色に染まりかけている。


それでも、離さない。


「そこは捨て場所じゃない!」

「本家の床だ!」


灰色の穴が、ナナの腕を引きずり込もうとする。


白帳の文字が、激しく明滅した。


退け。

処分路である。

抵抗を中止せよ。


牧人は、その文字を無視した。


ナナだけを見た。


「ナナ」

「お前が閉めろ」

「行け!」


その瞬間、門前の空気が変わった。


魔法の光ではない。


祝福でもない。


本家の中を流れていた、飯の匂い、石畳の温度、帳面に記された名前、梁に張られたイトの糸、寝床の布団、鍋の湯気。


そういうものが、細い流れになって、ナナの背中へ集まった。


ナナの小さな影が、ほんの一瞬だけ大きく見えた。


まるで、本来ならまだ届かないはずの、もっと先のナナが、今のナナの内側に重なったようだった。


ナナの目が、わずかに揺れる。


そして、強く頷いた。


「うん」

「ここは、私の家」


灰色に染まりかけていた指先が、止まった。


ナナの足元の石畳が、ぎしりと鳴る。


押されていたのではない。


踏ん張ったのだ。


ナナは、両手に力を込めた。


「閉める」


灰色の穴が、初めて押し返された。


イシコが地面にさらに強く手を押し当てた。


「本家の床、戻す!」


イトの糸が、穴の縁を細かく縫い合わせていく。


「全部、縫う」

「誰も落ちないように」


ミズハが水を浴びせて灰の熱を冷まし、ベロがそこへ塩を投げた。


「固める」


ぷるが、へろへろになって平たくなったまま、小さく震えた。


ぷるん。


残った灰毒の残りを、ほんの少しだけ吸い取る。


牧人がすかさず叫ぶ。


「ぷる、もう十分だ、休んでろ!」


ぷるは、最後にもう一度だけぷるんと揺れた。


そのおかげで、灰色の縁の輝きが薄れた。


豪志が削れた看板の角を、穴の最後の隙間に叩き込む。


「これで、少しでも足しになれ!」


ナナが、その瞬間に合わせて、最後の力を両手に込めた。


「処分」

「お断り」


ごん、と重い音が響いた。


灰色の穴が、完全に閉じた。


門前の石畳が、ゆっくりと元に戻る。


完全な元通りではない。


床には細い傷跡が残っている。


だが、あの暗い穴は、もうどこにも開いていなかった。


先ほど手を掴まれていた名なしの影が、その場にへたり込む。


冷めかけた粥の皿を抱きしめたまま、涙をこぼしていた。


「落ちなかった……」


ナナはその子を見た。


そして、静かに言った。


「言った」

「落ちない」


ヒナが梁の上で、泣き笑いになった。


「やだ、ナナが、捨て場所の扉を閉めた……!」


ベロが深く頷く。


「良い戸締まりだ」


ネムも、布団に半分潜り込みながら言った。


「寝る場所、守った」


ニコが誇らしげに板を掲げた。


ナナ、通さなかった


牧人は、ナナの前にしゃがみ込み、その小さな手をそっと取った。


ナナの白い指先は、今も少し灰色に染まり、かすかに震えている。


「痛むか」


ナナは、強がって首を横に振ろうとした。


「……少しだけ、でも、ちゃんと閉めた」


牧人は、その小さな手をそっと包み、静かに頷いた。


「ああ」

「お前が、ちゃんと閉めてくれた」


ナナは、張り詰めていた緊張が解けたように、小さく息を吐いた。


それから、上空で沈黙している白帳を見た。


「もう、うちの捨て場所は開けさせない」


白帳の顔の板が、激しく明滅した。


灰毒、管理不能。

粘体、管理不能。

処分路、完全閉鎖。

小型守護個体、管理不能。

本家側、処分拒否。


牧人は、お玉を肩に担ぎ直した。


「その通りだ」

「うちは何でも受け入れるが、一方的な処分は受け付けてない」


まめじいが、誇らしげに台帳を開いた。


筆が走る。


ぷる殿、灰環毒を吸収。

ミズハ殿、水にて希釈。

ベロ殿、塩にて補助。

ナナ殿、処分路を閉鎖。

名なし個体、一人も落下せず。

本家一同、不条理な処分を拒否。


豪志が削れた看板を抱えて、涙目で言った。


「俺の看板は半分になりましたが、名なしの皆さんは落ちませんでした……!」


ヒナが涙を拭いながら笑う。


「やだ、台帳に書かれたみんなの活躍が熱すぎる……!」


ザガが少しだけ口元を緩め、しかしすぐに表情を引き締めた。


「だが、まだ完全に終わったわけじゃない」


その言葉の通りだった。


完全に閉じたはずの石畳の奥底から、微かな音が響いた。


一つではない。


二つでもない。


何十もの、消え入りそうな小さな声。


旧帳場のさらに奥。


その、はるか下。


灰環核へ落ちていく暗闇の途中に、まだ、取り残されている者たちがいる。


細い石畳の傷の奥から、かすかに、しかし確かに響いてくる。


「……ここ」

「助けて」

「まだ、いるの」


門前が、一瞬にして静まり返った。


ナナが、閉じた床をじっと見つめた。


ぷるが、へろへろの体でありながらも、その声に応えるように小さく震える。


イトの糸が、暗闇の奥へ向かって細く、探るように伸びていった。


まめじいの筆が、石板の上でぴたりと止まる。


牧人は、石畳の残された細い傷跡を静かに見下ろした。


「まだ、あの中に誰かが取り残されているのか」


灰環核の冷たい光が、旧帳場の奥で、不気味に揺れていた。


閉じた処分路の向こうから、無数の小さな、震える声が、もう一度だけかすかに響いた。


「まだ」

「ここに、いるの……」


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