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本家台帳が、世界の記録に勝ち始めた


灰環核の光が、旧帳場の奥で冷たく燃え上がっていた。


旧管理個体《白帳》は、まだ門前にいる。


白い帳面板を背負ったその管理個体は、杭を砕かれ、鎖を噛み戻され、それでも止まらなかった。


ただ、先ほどまでとは様子が違う。


攻撃の手が止まっている。


いや、止まっているというより、迷っている。


白帳の顔の板には、灰色の文字が次々と走っていた。


グラウヴィス。

災厄。

封鎖対象。

三首獣王系統。

再封鎖不能。

帰還路の牙。

現名、クロ。

本家若頭。


文字が混ざっていた。


古い記録と、本家の記録が、同じ板の上でぶつかっている。


ヒナが梁の上から、そろそろと身を乗り出した。


「やだ……」

「白帳の顔、帳面の書き直しで困ってない?」


ナナが短く言った。


「困ってる」


ニコが板を出す。


白帳、困ってる


牧人はお玉を構えたまま、白帳を見ていた。


「困るようなことなのか、あれ」


まめじいが帳面を抱え直し、静かに言った。


「困っておりますな」

「向こうの古い記録と、当家の台帳がぶつかっているのでございましょう」


「ぶつかってる?」


「はい」

「向こうの帳面には、クロ殿の旧名が“災厄”“封鎖対象”と載っている」

「こちらの帳面には、クロ殿は“本家若頭”“帰還路の牙”“飯は肉多めを好む”と載っている」


ヒナが梁から落ちそうになった。


「やだ、肉多めが記録にコッソリ混ざってる!」


クロの右の首が満足げに鼻を鳴らした。


「重要事項だ」


牧人は即座に言った。


「そこだけは重要じゃない」


まめじいは真顔だった。


「いいえ、親父殿」

「現地記録でございます」


門前が一瞬、妙な静けさに包まれた。


牧人は、まめじいを見た。


「現地記録」


「はい」

「実際に本家で飯を食べておられるクロ殿の現在の習性」

「日々の行動」

「周囲からの呼称」

「親父殿との関係」

「本家での役割」

「それらを、当家の台帳は継続して記録しております」


まめじいは、偉ぶるでもなく、淡々と続けた。


「古い記録がどれほど強固であろうと、今この場所で積み重なっている記録には勝てませぬ」

「少なくとも、当家の帳面では」


ヒナが目元を押さえた。


「やだ、まめじいが急にすごく格好いい……」

「でも肉多めが入ってるから、感動していいのか笑っていいのか分からない……!」


ベロは鍋蓋を構えたまま頷いた。


「肉の量も、生活の記録だ」


「お前まで乗るな」


クロの中央が低く言った。


「古い名をいくら呼ばれようと」

「俺はここで飯を食っている」


左が静かに続ける。


「親父にクロと呼ばれ」

「本家の門前に立つ」


右が牙を見せた。


「そして肉を要求する」


牧人は眉間を押さえた。


「最後で台無しにするな」


ニコが新しい板を出した。


若頭、現在進行形


まめじいは、その板を見て深く頷いた。


「その通りでございます」

「記録は過去だけを残すものではございませぬ」

「今を残すものです」


白帳の板が激しく明滅した。


旧記録、優先。

本家記録、異常。

現地記録、干渉。

照合不能。

照合不能。

照合不能。


ヒナが小さく吹き出した。


「やだ、白帳が同じこと三回言った!」


ナナが短く言う。


「焦ってる」


牧人は白帳に向かって言った。


「焦るくらいなら、最初からちゃんと今の本人を見ろ」


白帳の板に、冷たい文字が走る。


本人概念、不要。

識別名、旧記録優先。

現地呼称、無効。


その瞬間、まめじいの眉がまた動いた。


「無効、ですか」


声は穏やかだった。


だが、本家の誰もが分かった。


まめじいは怒っている。


「名を呼ぶ者がおり」

「呼ばれる者が応じ」

「その名で飯を食い」

「その名で役割を持ち」

「その名で守られている」


まめじいは筆を取った。


「それを無効と申すなら」

「当家の台帳は、さらに詳細に記すのみ」


牧人が少し嫌な予感を覚えた。


「まめじい、詳細ってどのくらいだ」


「必要なところまで、細かくでございます」


「その言い方がもう怖いな」


まめじいは、帳面を開いた。


そこには、さっき書かれたばかりの記録がある。


グラウヴィス。

旧名。

旧時代において、帰る道を守る牙。

処分路へ不当に落とされかけた者たちを、命がけで引き戻した個体。

現名、クロ。

本家の若頭。


まめじいは、その下へ筆を走らせた。


本家滞在記録。

クロ殿。

親父殿と行動。

門前警備に従事。

名なし個体への威圧、ただし敵意なし。

飯、粥は食す。

肉、多めを好む。

右の首、要求多し。

中央の首、判断冷静。

左の首、静かに場を見る。

本家構成員一同、現名クロを承認。


ヒナが梁の上で、ついに声を上げた。


「やだ、右の首の要求多しまで公式記録に入った!」


クロの右が満足そうに頷いた。


「正確だ」


中央が低く言った。


「否定はできん」


左も静かに続ける。


「記録としては、正しい」


白帳の板が、さらに激しく乱れた。


本家滞在記録、検出。

現地承認、多数。

呼称安定。

役割安定。

旧封鎖対象分類、揺動。

災厄分類、再評価。


ベロが鍋の前で真顔になった。


「災厄ではない」

「肉を食う門番だ」


ザガは言った。


「それもどうなんだ」


ニコが板を出す。


肉を食う門番


「その板を出すな」


白帳の背の帳面板が、ぎしぎしと歪んだ。


灰環核の旧記録は、クロを封じるための記録だった。


怖い存在。

危険な存在。

閉じ込めるべき存在。


だが、本家台帳は違う。


飯を食った。

門前にいた。

親父と話した。

名なし個体を威圧はしたが、敵ではなかった。

肉を求めた。

粥に文句を言った。

しかし本家を守った。


それは、戦いの記録というより、生活の記録だった。


だから強かった。


牧人は、白帳を見た。


「お前らは、都合の悪いやつを一言で片付けすぎなんだよ」

「災厄」

「封鎖対象」

「処分」

「異常」


お玉の先を、白帳へ向ける。


「そんな雑な札を貼って終わりにするから、今の姿が見えなくなる」


まめじいが静かに頷いた。


「ですので、細かく記します」

「雑な分類を、細かな日々の記録で押し返す」

「それが帳面の仕事にございます」


白帳の板に、新しい文字が浮かんだ。


本家台帳、記録密度異常。

現地記録、旧記録を侵食。

更新源候補、検出。


まめじいが、その文字を見て目を細めた。


「更新源、でございますか」


牧人が眉を寄せた。


「何だ、それ」


まめじいは少し考えた。


「向こうが、当家の台帳を“新しい記録の出どころ”として認識し始めた、ということかと」


ヒナが梁の上で固まった。


「やだ……」

「本家の帳面が、世界の記録を書き換える元扱いされ始めてる……?」


ナナが短く言った。


「強すぎ」


豪志が看板を抱えたまま震えた。


「まめじいさんの帳面、もしかして本家最強装備なのでは……?」


ベロが言った。


「飯の注文も記録できる」


ザガが言った。


「それは最強とは違う」


クロの右が言った。


「重要だ」


白帳は止まらない。


更新源候補、危険。

本家台帳、監視対象。

記録改変、波及中。

旧記録、維持困難。


その文字を見た瞬間、旧帳場の奥で灰環核が重く鳴った。


ごん。


門前の石畳が震える。


イトの糸が、ぴんと張った。


「奥」

「怒った」


イシコが石に手を置く。


「石、震えてる」

「すごく、嫌がってる」


ザガが槍を低く構え直した。


「親分、白帳だけじゃない」

「奥の核が、本格的にまめじいの帳面を見た」


牧人は舌打ちした。


「今度はまめじいを狙う気か」


白帳の顔に、冷たい文字が浮かぶ。


本家台帳、更新源認識。

記録干渉源。

優先停止対象。


ヒナが叫んだ。


「やだ、まめじいが狙われた!」


ナナが短剣を構えた。


「守る」


ベロも鍋蓋を鳴らす。


「帳面がないと、飯の数が分からないから困る」


ザガが小さく言った。


「理由はそれだけじゃないけど、大事だな」


まめじいは、少しも慌てていなかった。


帳面を胸に抱え、ゆっくりと一礼する。


「ご心配なく」

「帳面は、そう簡単には閉じませぬ」


白帳の鎖が、まめじいへ向かって伸びた。


ザガが前へ出る。


だが、鎖は一本ではない。


細い鎖が、床を這うように回り込む。


ナナが一本を切る。


ヒナが上から風で散らす。


イトがまめじいの足元に糸を張る。


イシコが石畳を押し上げる。


それでも、細い鎖の一本が、帳面の端へ届きかけた。


その瞬間。


クロの右の首が、その鎖に噛みついた。


ばきん、と音がして、鎖が砕ける。


右の首は不満そうに唸った。


「まずい」

「灰の味がする」


牧人が言った。


「食うな」


「噛んだだけだ」


中央が静かに白帳を見た。


「俺を災厄と記した帳面より」

「飯の量まで記した帳面の方が、よほど俺を見ている」


左が続けた。


「なら、守る価値がある」


まめじいは、ほんの少しだけ目を細めた。


「ありがたきお言葉にございます、若頭」


ニコが板を掲げた。


台帳、死守


牧人は頷いた。


「そうだ」

「今度はまめじいと帳面を守る」


白帳の板に、また文字が走る。


本家台帳、停止不能。

現地記録、増加。

旧記録、上書き継続。


旧帳場の奥で、灰環核がさらに強く鳴った。


だが、本家の門前では、まめじいの筆が止まらない。


まめじいは、また一行を追記した。


白帳、当家台帳を停止しようとするも失敗。

若頭殿、台帳保護のため鎖を噛み砕く。

味、灰っぽいとのこと。


牧人は思わず言った。


「味まで書くのか」


「現地記録でございます」


ヒナが梁の上で笑いながら叫んだ。


「やだ、灰っぽいが世界記録に残った!」


白帳の顔の板が、一瞬、真っ白に明滅した。


旧記録、処理不能。

本家台帳、更新源として認識。


ごん。


旧帳場の石板が鳴った。


その音は、白帳からではない。


もっと奥。


灰環核そのものからだった。


文字が、石板一面に浮かび上がる。


本家台帳。

更新源、確定。

以後、記録修正発生点として監視。

優先停止対象、まめじい。

優先破壊対象、本家台帳。


門前の空気が、一気に重くなった。


牧人の目が冷える。


「今度は、まめじいと帳面か」


まめじいは、帳面を抱えたまま微笑んだ。


「どうやら、私もようやく正式に嫌われたようでございますな」


ヒナが梁の上で叫んだ。


「やだ、まめじいが嫌われたことを誇ってる!」


ナナが短く言った。


「誇っていい」


豪志が涙目で板を掲げた。


「まめじいさんと帳面、絶対防衛です!」


ニコがその隣で、もっと大きな板を出す。


台帳、閉じない


牧人は、その文字を見て頷いた。


「そうだ」

「うちはまだ受付中だ」

「勝手に帳面を閉じさせるな」


---


そのころ、黒冠大迷宮では、黒鷲槍の攻略隊が完全に崩れていた。


小太郎の示した退路から、最後の隊員が逃げ切る。


黒い道が、すうっと閉じた。


残ったのは、鷲尾レントと八代玲臣だけだった。


鷲尾は、閉じた道へ向かって叫んだ。


「戻れ!」


当然、誰も戻らない。


千景は《夜鴉》を肩に担いだまま、少しだけ首を傾げた。


「誰に言ってるの?」


鷲尾の顔が歪んだ。


「黙れ、鴉宮!」


「黙らないよ」

「帰る人は帰した」

「残ったのは、道を壊した人だけ」


八代が剣を握り、千景へ踏み込もうとした。


だが、足場が沈む。


黒冠の影が、八代の足首を軽く掴んでいた。


八代が舌打ちして、無理やり足を引き抜く。


「くそっ!」


鷲尾も短い黒刃を抜いた。


「八代、挟め」

「あの女を倒せば、まだ立て直せる」


千景は小さく息を吐いた。


「まだ命令してる」


小太郎が短く鳴いた。


「わふ」


「うん、もういいか」


次の瞬間、八代が正面から斬りかかった。


速い。


力もある。


けれど、雑だった。


怒りと焦りで、足元を見ていない。


千景は半歩だけ横へずれた。


八代の踏み込んだ床が、黒く沈む。


体勢が崩れた瞬間、《夜鴉》の腹が八代の剣を横から叩いた。


がん、と重い音が鳴る。


八代の剣が、手から弾け飛んだ。


「なっ――」


千景はそのまま柄尻を八代の鳩尾へ叩き込む。


八代の息が止まった。


膝が折れる。


そこへ黒冠の影が足元から絡み、八代を床へ押さえ込んだ。


「まず一人」


千景は振り返らない。


背後から鷲尾が黒刃で斬りかかっていた。


千景は《夜鴉》を背中側へ回し、刃ではなく鍔で受けた。


火花が散る。


鷲尾の目が見開かれる。


「読んで――」


「遅い」


千景の肘が、鷲尾の胸に入った。


鷲尾が一歩下がる。


その足元を、小太郎がとことこと横切った。


ただ歩いただけだった。


だが、鷲尾は反射的に足を止めた。


止めてしまった。


その一瞬で、千景は懐に入った。


膝裏を蹴る。


鷲尾の体勢が崩れる。


続けて《夜鴉》の柄で、手首を打つ。


黒刃が床に落ちた。


鷲尾が膝をつく。


千景は、その肩に大剣の腹をどん、と置いた。


重い。


鷲尾の体が、黒冠の床へ押しつけられる。


「終わり」


軽い声だった。


だが、二人とも動けなかった。


八代は床に押さえ込まれ、鷲尾は大剣の重みで立ち上がれない。


鷲尾は歯を食いしばった。


「俺は……黒鷲槍の隊長だぞ……!」


千景は首を傾げた。


「もう、みんな帰ったよ」


その一言で、鷲尾の顔が凍った。


部下は逃げた。


隊列は崩れた。


命令を聞く者は、もう誰もいない。


鷲尾は初めて、その事実を正面から見た。


八代が、床に押さえられたまま呻く。


「俺は……まだ……」


千景は八代を見た。


「剣はあっち」

「道は閉じた」

「もう終わり」


八代の指が、床を掻いた。


逃げようとしても、黒冠の影が手足を押さえる。


鷲尾も這って離れようとした。


だが、背後の道はない。


右へ行こうとすれば壁。


左へ逃げようとすれば影。


前には千景と小太郎。


鷲尾の顔に、初めてはっきりと恐怖が浮かんだ。


「ま、待て」


「待たない」


千景は大剣を少しだけ持ち上げ、今度は鷲尾の肩口に柄を打ち込んだ。


鷲尾が呻く。


八代が立ち上がろうとした瞬間、千景は振り向きざまに足払いを入れた。


八代はまた床に転がった。


一方的だった。


黒冠の道は、二人に足場を与えない。


千景は、与えられた足場だけを使って、淡々と二人を叩き伏せていく。


鷲尾が逃げる。


転ぶ。


八代が剣を拾おうとする。


影が剣を遠ざける。


鷲尾が命令を吐こうとする。


千景の柄が、容赦なくその声を潰した。


「命令はもういい」

「聞く人、いないから」


八代が、床に手をついて歯を食いしばる。


「まだ……」

「まだ俺は……!」


鷲尾も、肩で息をしながら黒刃へ手を伸ばそうとした。


「立て、八代……!」

「あの女を斬れ……!」


その瞬間、千景の目から、温度が消えた。


「まだやるの」


軽い声ではなかった。


黒冠の影が、ぴたりと動きを止める。


千景は《夜鴉》をゆっくり持ち上げた。


刃を向ける。


脅しではない。


今までのように、剣の腹で叩く構えでもなかった。


本当に、斬るための角度だった。


「じゃあ、殺すか」


千景の声は平坦だった。いつものような軽い響きは、そこにはなかった。


黒冠の奥の空気が、一段沈む。


鷲尾の顔から、血の気が引いた。


八代も、床に頬をつけたまま、呼吸を忘れたように固まる。


二人はようやく理解した。


鴉宮千景は、手加減していた。


ずっと。道を壊した者を止めるために。負傷者を逃がすために。監察局へ渡せる形で残すために。


だが、これ以上暴れるなら、もう止める必要はない。


終わらせればいい。


その判断に、黒冠が静かに同意した。


千景の足元で、小太郎が一歩前へ出た。


茶色いトイプードル。


少なくとも、見た目はそうだった。


けれど、その小さな体の影が、黒冠の床の上でありえないほど大きく伸びた。


小太郎は、短く鳴いた。


「わふ」


その一声で、黒冠の影が一斉に沈んだ。


通路の奥にいた魔物の気配が消える。壁が軋み、天井が低くなる。空気が一気に冷えていく。


鷲尾の指先が震えた。


八代の歯が、かち、と鳴った。


剣士としての勘でも、隊長としての経験でもない。


もっと深いところ。


生き物としての本能が、告げていた。


あれは、触れてはいけない。


千景より前にいる、あの小さな獣は。


絶対に、触れてはいけない。


黒冠の奥で、迷った者を最後まで追い詰める獣。


あれが一歩進めば、鷲尾も八代も終わる。そのことだけは本能で分かった。


八代が、かすれた声を漏らした。


「な……んだよ……」

「それ……」


鷲尾も、もう命令を吐けなかった。


口は開いている。


だが、声が出ない。


千景は《夜鴉》を構えたまま、冷たく見下ろした。


「調子に乗り過ぎたね」

「ここで終わり」


小太郎が、もう一度低く唸る。


「……っ」


鷲尾の肩が震えた。


八代は、床に爪を立てたまま、完全に動けなくなっていた。


そこへ、重い足音が近づいてきた。


黒い通路の向こうから、真壁ダンが現れた。


腰には拘束具と封印布。手には、監察局の刻印が入った引き渡し札を持っている。


真壁にとっても、この張り詰めた空気の中を歩くのは一苦労だった。


それでも、低く言った。


「そこまでだ」


千景は、真壁を見た。


真壁は続ける。


「殺すな」

「こいつらは、外へ出して裁かせる」

「犬飼の記録もある」

「黒冠で壊した道も、監察局に確認させる」


千景は少しだけ黙った。


《夜鴉》の刃先が、鷲尾の喉元からわずかに下がる。


小太郎も、鷲尾と八代を見たまま、静かに座った。


だが、威圧は消えていない。


逃げれば噛む。逆らえば沈める。


そういう空気だけが、黒冠の床に残っていた。


千景は、ようやく息を吐いた。


「分かった」

「真壁さんが持っていくなら、殺さない」


鷲尾は、そこで初めて大きく息を吸った。


八代も、震える肩で床に額をつけた。


真壁は二人を見下ろす。


「立て」


鷲尾は反射的に睨み返そうとした。


だが、小太郎の影がわずかに揺れただけで、その視線は床へ落ちた。


真壁は表情を変えず、鷲尾の手首を拘束した。


続けて、八代にも封印布を巻く。


八代は抵抗しなかった。


できなかった。


黒冠の影が、足元を静かに押さえていた。


真壁は千景を見た。


「監察局へ引き渡す」

「この場で終わらせるより、その方が効く」


千景は《夜鴉》を背に戻した。


「そうだね」

「壊した道の数、外でちゃんと読まれた方がいい」


真壁は短く頷いた。


「犬飼に全部書かせる」


千景は少しだけ笑った。


「細かくね」


「嫌がるほど細かく書く」


鷲尾と八代は、何も言えなかった。


さっきまで命令を吐いていた口も、戦えると信じていた腕も、今はただ震えているだけだった。


黒冠で二人が見せられたのは、敗北ではない。


自分たちが壊した帰り道の重さだった。


---


本家では、旧管理個体《白帳》の白い板の光が、まだ消えていなかった。


むしろ、先ほどより冷たい。


黒冠側で一つの攻略隊が終わったことなど、灰環核には関係ない。


灰環核が見ているのは、本家台帳だった。


まめじいの手元にある、一冊の帳面。


名前を書く帳面。


飯の数を書く帳面。


誰が来て、誰が休み、誰がまだ呼ばれたくないのかを書く帳面。


そして今、世界の古い記録を書き換え始めた帳面。


旧帳場の石板に、また文字が浮かぶ。


更新源、確定。

本家台帳、優先停止。

記録者、まめじい。

保護対象群より分離推奨。


牧人の目が細くなった。


「分離推奨?」


まめじいが静かに言った。


「私を、皆さまから切り離すつもりでございましょうな」


ヒナが梁の上で顔をこわばらせる。


「やだ、まめじいをさらう気?」


ナナが短く言った。


「させない」


ベロが鍋蓋を構え直す。


「帳面がなくなると、配膳が乱れる」


「理由は飯だけじゃないが、それも大事だ」


クロが三つの首を低く構えた。


中央が言う。


「親父」

「今度は、台帳ごと狙ってくる」


右が牙を剥く。


「噛めばいいか」


左が静かに言った。


「噛めるものならな」


ザガが槍を構える。


「鎖が来るぞ」


イトの糸が張る。


イシコが石を押さえる。


ミズハが水を走らせ、ぷるが震えながら前へ出る。


ネムは右奥の戸を閉めかけ、布団の中の名なしの影に小さく言った。


「寝てて」

「うるさいの、止めるから」


白帳の背中の帳面板が、ゆっくりと開いた。


そこから、今度は細い灰色の紙片が無数に舞い上がる。


紙ではない。


記録の刃だった。


それらは、まめじいの帳面へ向かって、ひらひらと不気味に飛んでくる。


まめじいは、帳面を抱えたまま一歩も退かなかった。


牧人が前に出る。


「まめじい」


「はい」


「帳面、閉じるなよ」


まめじいは、静かに微笑んだ。


「もちろんでございます」

「まだ、受付は終わっておりませぬので」


ニコが板を掲げた。


本家、まだ受付中


白帳の記録の刃が、門前へ降り始めた。


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