旧管理個体は、親父を異常と呼んだ
旧管理個体の腕が、振り下ろされた。
灰色の光が、門前へ落ちてくる。
狙いは、大鍋だった。
正確には、鍋から立ち上る湯気。
粥の匂い。
そして、その飯の匂いにつられて、処分路の底から這い上がってきた名なしの影たち。
それらを、まとめて処分路へ沈めるための一撃だった。
「ベロ!」
牧人が叫ぶより早く、ベロは大鍋の巨大な金属蓋を前へ突き出した。
がん、と鈍く重い音が響いた。
鍋蓋が、盾のように、灰色の腕の直撃を受け止める。
普通に考えれば、ただの頑丈な調理器具の蓋だ。
迷宮の古い管理個体が放つ排除の腕を、正面から防ぐためのものではない。
だが、その蓋は、本家の台所で何度も飯を守ってきた。
湯気を逃がさず、舞い散る灰を防ぎ、小さな子どもの手が熱い鍋肌に触れないように止め、時にはクロの右が勝手に肉を覗くのも防いできた。
本家において、鍋蓋は立派な守りの道具だった。
少なくとも、ベロにとってはそうだった。
「飯を粗末にするやつの攻撃は……」
ベロは低く言った。
「通さない」
灰色の長い腕が、ぎしぎしと不気味な音を立てて鍋蓋を押し込む。
ベロの足元が、石畳を薄く削りながら踏みとどまる。
ミズハが即座に水を走らせた。
「ベロ、右から来てるわよ!」
「分かった」
滑り込んだ水流が灰色の腕に絡みつき、冷たい毒の濁りを削る。
ぷるが、足元からぷるんと跳ね上がった。
残った灰毒を吸い取ろうとする。
「ぷる、深追いするな。少しだけにしろ!」
牧人が叫ぶと、ぷるは空中で小さく身震いし、ほんの少量の灰の濁りだけを器用に吸い取った。
すかさずミズハが水で洗い流し、ベロがそこへ塩を投げた。
灰の濁りが、薄く散った。
ヒナが梁の上で、思わず叫ぶ。
「やだ、鍋蓋と水とぷるとお塩で、旧世界の管理者を押し返してる!」
ナナが短く言った。
「本家式」
牧人は奥歯を噛みしめた。
「本家式って、便利な言葉だな」
旧管理個体は、それでも一歩も後退しない。
顔にあたる部分には、目も鼻も口も見当たらない。
代わりに、滑らかな白い板が埋め込まれている。
その板は、先ほどまで不透明な灰色だった。
だが、今は違う。
どこまでも白い。
新品の帳面の紙のように白く、古い記録石板のように硬い。
その背中には、巨大な白い帳面のような板を背負っている。
柔らかい頁ではない。
固い板だ。
しかし、その姿は確かに、一冊の「帳面」を思わせた。
書くためではなく、分類するための帳面。
誰かを残すためではなく、存在を消すために使われる帳面。
まめじいが、その姿を凝視して、深く息を呑んだ。
「白い、帳面……」
旧管理個体の顔の板に、冷たい文字が走った。
旧管理個体、識別名。
白帳。
灰環大迷宮、旧帰還選別核、代理個体。
飯場干渉、排除続行。
ヒナが梁の上で顔をしかめた。
「やだ、自己紹介までしてきた」
「白帳って、名前だけは事務仕事っぽいのに、やってることが最悪!」
まめじいが腕の中の帳面を、まるで我が子のようにきつく抱きしめた。
「帳面を名乗るとは、少々……いえ、甚だしく気に入りませぬな」
牧人が怪訝そうにまめじいを見た。
「怒りのポイントがそこなのか」
「怒りますとも」
「帳面とは、ここに来た者を一文字でも多く残すためにあるもの」
「誰かを分類し、消すために背負うものではございませぬ」
ニコがすかさず板を高く掲げた。
白帳、帳面の面汚し
ヒナが目を丸くした。
「やだ、ニコの板が急に鋭い!」
ナナが短く言った。
「同感」
白帳は、まめじいにもニコの板にも、一切の興味を示さなかった。
ただ、無機質な顔の白い板に、淡々と新しい文字を浮かび上がらせる。
本家石、帰還点化。
飯場機能、深層個体誘導。
受付機能、名薄化阻害。
家主個体、分類開始。
その文字が並んだ瞬間、牧人の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。
「家主個体って、まさか俺のことか」
まめじいが低く、しかし冷静に答える。
「十中八九、親父殿のことにございますな」
白帳の首らしき接続部が、ゆっくりと牧人の方へ向いた。
目はない。
けれど、はっきりと見定められている感覚があった。
白い帳面のような顔に、冷酷な文字が刻まれていく。
人間。
非管理者。
非支配者。
非王権保持者。
非迷宮核。
非選別者。
そこで一度、文字が止まった。
そして、間を置いて次の行が浮かび上がる。
しかし、帰属点形成。
名なし個体受容。
飯場機能拡張。
帰還点増設。
分類拒否。
異常。
牧人は、静かに眉をひそめた。
「人の顔を見て、異常って言うな」
白帳は何も言わず、ただ、もう一度まったく同じ文字を浮かべた。
異常。
牧人のこめかみに、青筋がぴくりと浮かぶ。
「同じことを二度言うな。しつこいぞ」
ヒナが梁の上で、たまらず吹き出した。
「やだ、親父が古代の管理者に、言い方で怒り始めた!」
ナナが短く言った。
「失礼」
ベロは鍋蓋をしっかりと盾にしながら言った。
「飯の邪魔もした」
「失礼が多い」
右奥の戸口では、ネムが眠りかけた名なしの影に布団をかけていた。
牧人は白帳をまっすぐに睨みつけた。
「そもそも、お前、うちの受付はちゃんと通って来たんだろうな」
門前が、一瞬だけ奇妙な静寂に包まれた。
白帳の顔の板の明滅が、ぴたりと止まる。
ヒナが、耐えきれずに梁の木を叩いた。
「やだ!」
「旧世界の管理個体にまで受付を求めてる!」
物陰から、豪志が自作の大きな板を抱えて勢いよく飛び出してきた。
「親分さん、さすがです!」
「古代の管理個体が相手だろうと、まずは受付番号を取らせる姿勢、徹底しています!」
ナナが短く言った。
「豪志、静かにして」
「はい!」
ニコがその隣で、素早く新しい板を出した。
白帳、順番待ち無視
牧人はその板を見て、大きく頷いた。
「そうだ」
「うちの敷居を跨ぐなら、迷宮核の代理だろうが、まずは受付だ」
「名前があるなら、まめじいの帳面に書け」
「ないなら、名なしで粥でも食ってろ」
「ただ壊しに来ただけなら、とっとと帰れ」
白帳の顔の板に、拒絶を示す文字が激しく走る。
受付、不要。
家主権限、無効。
本個体、灰環核代理。
上位処理権限保持。
牧人は鼻で笑い飛ばした。
「知らん」
「うちの門前では、お前が誰の代理だろうが、受付を通らないやつはただの不審者だ」
まめじいが、すっと羽織を正して前へ出た。
分厚い帳面を開き、筆を構える。
「では、一応形式上、確認させていただきます」
「お名前は」
白帳の顔の板が、冷たく明滅する。
旧管理個体、白帳。
まめじいは流れるような手つきで筆を走らせる。
「白帳殿、と」
「して、本日の来訪目的は」
白帳の板に、機械的な文字が次々と浮かぶ。
飯場干渉排除。
生活臭遮断。
名なし個体再沈降。
本家石破壊。
家主異常排除。
まめじいの筆が、そこでぴたりと静止した。
「なるほど、よく分かりました」
「当受付といたしましては、それらすべての申請を不許可といたします」
ヒナが梁の上で、転げ落ちそうになりながら笑った。
「やだ、まめじいの窓口対応が、一ミリの余地もなく全部却下した!」
ナナが短く言った。
「不審者の申請だから、当然」
ニコが板を出す。
白帳、回れ右
白帳の周囲を取り巻く灰色の光が、わずかに、けれど不穏に膨れ上がった。
怒っているのか。
それとも、本家の理屈が理解できないのか。
どちらにせよ、まともな反応ではないことだけは確かだった。
---
一方、黒冠大迷宮の中層では、黒鷲槍の強行隊が、すでに周囲の道を踏み荒らしていた。
隊長、鷲尾レントの歩みは止まらない。
「前進あるのみだ」
「道札の回復など待つ必要はない」
「罠は盾で押し潰せ」
「足の遅い者、負傷した者は、その場に置いていけ」
彼から発せられる命令は、ひたすらに冷酷で、速すぎた。
だが、黒冠はそういう乱暴な進み方を最も嫌う。
踏みにじられた通路が、生き物のようにゆっくりと閉じ始めていた。
影の壁がせり出し、天井が沈み、足元の床に網の目のような亀裂が入っていく。
隊員たちの間に、明らかな動揺が広がっていた。
「隊長、後方の退路が完全に――」
「前だけを見て進めと言っている」
鷲尾は決して振り返らない。
その時、頭上の黒い影の梁から、驚くほど軽い、しかし芯の通った声が降ってきた。
「前だけ見て歩くから、自分の後ろがなくなってることに気づかないんだよ」
鷲尾が鋭い視線を頭上へ向ける。
身の丈ほどもある黒い大剣を軽々と肩に担いだ女が、崩れかけた梁の上に立っていた。
鴉宮千景。
その足元には、茶色いトイプードルの小太郎が、お座りをした姿勢で静かに控えている。
小太郎は、ただ静かに、眼下の黒鷲槍の乱れた隊列を見下ろしていた。
千景は鷲尾を冷ややかに見据えた。
「黒冠を踏み荒らすなら、せめて自分たちが帰る道くらい、ちゃんと残しておけばいいのに」
鷲尾の目が細く、不快そうに歪む。
「所属も持たない野良の探索者が、この黒鷲槍に指図するつもりか」
「違うよ」
千景は、黒冠の影の突端に、すとん、と片足を乗せた。
「黒冠側の者として、道を踏み荒らす人に警告しに来ただけ」
鷲尾が千景を睨む。
「黒冠の姫とか言って調子に乗るな」
その言葉が響いた瞬間、周囲の隊員たちの顔色が変わった。
黒冠の姫。
噂に名高い、あの存在。
だが、目先の実績に目が眩んだ鷲尾だけは、鼻で冷たく笑った。
「迷宮の暗闇に怯えた、腰抜けどもが作り出したただの幻影だ」
「ふうん。幻影かどうか、実際に試してみる?」
千景がそう言った瞬間、黒冠の影全体が、重低音とともに波打った。
鷲尾の背後にあったはずの退路が、さらに目に見えて狭まっていく。
隊員の一人が、恐怖に耐えかねて悲鳴を上げた。
「後ろの壁が、完全に閉じます!」
千景は鷲尾を完全に無視し、怯える隊員たちへ向けて、通る声を響かせた。
「命を大事にしたい人は、右側の黒い影の壁に沿って、一列になって走って」
「小太郎が案内するところは、まだ道が生きてる」
小太郎が「わふ」と短く鳴き、とことこと移動した。
その場所だけ、黒冠の不気味な影が薄くなっていく。
確かな、帰り道が見えた。
隊員たちは、互いに顔を見合わせて躊躇する。
鷲尾が怒鳴った。
「勝手な行動は許さん!」
「命令なしに隊列を崩す者は、反逆とみなす!」
隊員たちは動けなかった。
逃げたい。だが、逃げれば鷲尾に処罰される。
進めば黒冠に呑まれる。その板挟みのまま、若い前衛の一人が足を滑らせた。
ひび割れていた床が、ぱきりと砕ける。
「あっ――」
黒い影が、下から腕のように伸びた。
落ちた隊員の足首を掴み、暗い裂け目へ引きずり込もうとする。
「助け――!」
鷲尾は振り返った。
一瞬だけ見た。
そして、冷たく言った。
「構うな。前進しろ」
その言葉で、隊員たちの顔から血の気が引いた。
見捨てられる。自分たちも、次は同じように置いていかれる。
その恐怖が、はっきりと隊列に広がった。
黒い影が、足首を掴まれた隊員をさらに奥へ引きずる。
その瞬間、千景が梁から飛び降りた。
大剣《夜鴉》を抜く。
斬ったのは、隊員ではない。
足首に絡みついた黒い影の根元だった。
黒い影が、びくりと震えてほどける。
小太郎が低く唸ると、周囲の影が一歩だけ退いた。
千景は隊員の襟首を掴み、片手で安全な場所へ放り投げた。
「生きてる?」
隊員は床に転がりながら、震える声で頷いた。
「……はい」
「なら走れるよね」
千景は立ち上がり、黒鷲槍の隊員たちを見た。
「今ので分かったでしょ」
「黒冠は、道を踏み荒らす人間を嫌う」
「そして、あなたたちの隊長は、助けてくれない」
鷲尾が顔を歪める。
「貴様――」
千景は鷲尾を見なかった。
隊員たちへ、冷たいほどはっきりした声で言う。
「生きて帰りたい人は、右の黒い壁沿いに走って」
小太郎が立っている場所だけ、黒冠の影が薄くなり、細い帰り道が見えた。
隊員たちは、まだ迷っていた。
鷲尾が怒鳴る。
「動くな!」
千景は、感情のこもらない冷たい声で、事実だけを告げた。
「その命令に従うと、置いていかれるよ」
その一言で、先ほど助けられた若い隊員が、涙で顔を歪めながら立ち上がった。
「……俺は、帰ります」
鷲尾が睨む。
「貴様」
若い隊員は震えながら、それでも千景の示した道へ走った。
それを見て、近くにいた二人が続いた。
三人目、四人目。
さらに、後方で負傷者を抱えていた補助隊の一団が、互いに顔を見合わせる。
彼らはもう、前へ進める状態ではなかった。
薬を使い切った者。
盾を割られた者。
足を引きずる者。
恐怖で槍を握る手が震えている者。
それでも鷲尾は、彼らに前進を命じていた。
だから、最初の一人が走った瞬間、堰が切れた。
「負傷者を先に!」
「右の壁沿いだ!」
「小さい犬のところまで走れ!」
「列を崩すな、押すな!」
黒鷲槍の後方が、ざわりと大きく動いた。
全員ではない。
鷲尾の直属隊と、まだ命令に縛られている前衛は残った。
だが、後方にいた隊員と、荷運び、負傷者たちが、千景の示した細い退路へ向かって一斉に流れ始めた。
黒冠の影は、鷲尾の足元には冷たく閉じていく。
一方で、逃げる者たちの足元には、細い道を残した。
小太郎が先導するように、とことこと歩く。
その小さな背中を目印に、隊員たちは黒い壁沿いを必死に走った。
千景は、負傷者を抱えた最後の一団が安全圏へ抜けるのを見届けた。
それから、ようやく鷲尾へ視線を戻した。
「まずは、巻き込まれた人たちの救助」
「あなたの我が儘に付き合うのは、その後」
鷲尾の鉄面皮から、絶対的な自信が少しずつ剥がれ落ちていく。
その足元で、黒冠の影が、低く、重く鳴り響いていた。
---
本家側では、白帳の背中にあった白い帳面板が、ばさりと大きな音を立てて開いた。
紙ではないはずなのに、乾いた古い頁を何枚もめくるような音が響き渡る。
白帳の顔の板に、新しい文字が冷酷に走る。
本家構成個体、再分類。
その文字を目にした瞬間、クロの三つの首が同時に、地響きのような低音で唸りを上げた。
白帳の白い顔が、ゆっくりとクロの方を向く。
グラウヴィス。
旧封鎖対象。
三首獣王系統。
現本家帰属、異常。
再封鎖対象。
門前の空気が、物理的な重力を伴って一気に重くなった。
牧人の目が、すっと鋭く冷える。
「おい、今、あいつ何て言った」
クロの中央の首が、喉の奥深く、獣の根源から響くような声を発した。
「そんな古い名を持ち出すか」
右の首が、剥き出しの牙を光らせた。
「名指しか」
左の首が、冷静に、けれど確かな敵意を湛えて言った。
「封鎖対象、か。懐かしい響きだ」
ヒナが梁の上で、息をするのも忘れたように固まった。
「グラウヴィス……」
「それって、若頭の……」
ナナが短く言った。
「嫌な呼び方」
ニコが板を出した。
若頭はクロ
白帳の板に、拒絶の明滅とともに文字が走る。
通称、無効。
旧識別名、優先。
グラウヴィス、再封鎖対象。
牧人は、迷うことなく一歩前に踏み出した。
「無効なのはお前のほうだ」
その声は低く、そして驚くほど冷たかった。
「うちの敷地内では、あいつはクロだ」
「本人がとっくに捨てた古い名前で、勝手に呼ぶんじゃない」
白帳は、その視線を牧人へと向けた。
家主個体、命名権主張。
非管理者による再命名。
異常。
牧人は、静かに息を吐き出す。
「お前、さっきから本当に異常異常と、言葉が少ないな」
白帳の板に、頑なに同じ文字が浮かび上がる。
異常。
牧人は手にしたお玉を、剣のように構えた。
「これで四回目だぞ、お前」
ヒナが梁の上で、震える声で突っ込んだ。
「やだ、親父が異常って言われた回数を本気で数えてる!」
ナナが短く言った。
「しつこい」
クロの中央の首が、牧人の前に割って入った。
「親父、下がっていろ」
「下がるか。ここは俺の家だ」
「だが、こいつが狙っているのは俺だ」
「だから下がらないんだよ。うちの者の名前を勝手に書き換えられて、黙って見てる家主がどこにいる」
クロの右の首が、嬉しそうに低く喉を鳴らした。
「手のかかる頑固な家主だな」
「今さらだろ。早くあの不審者を追い出すぞ」
クロの左の首が、白帳を静かに睨み据える。
「白帳」
「俺をもう一度檻に入れたければ、この本家を越えてみろ」
白帳の背の白い帳面板が、さらに大きく、左右に展開した。
灰色の光で描かれた、古い封鎖の記録が、空間に広がっていく。
旧時代封鎖記録。
三首獣王系統、隔離対象。
対象名、グラウヴィス。
再封鎖式、起動準備。
イトの指先の糸が、一斉にぴんと引き絞られた。
「若頭の道」
「縛ろうとしてる」
イシコが、地面にしっかりと手を押し当てる。
「石が、重くなる」
「嫌な、押し付け」
ミズハが水桶を抱え直す。
「水も重たくて動かしづらいわ。あの記録、この場の空気そのものを沈めてくる気よ」
ぷるが、足元でぶるぶると小さく震えた。
これは単なる灰の毒ではない。
もっと根の深い、存在そのものを圧し潰すような古い封じ込めの気配だった。
豪志が、盾のように看板を持ち上げて、クロの前に滑り込んできた。
「若頭! ここは俺が肉盾になります! 豪志は勇敢だったとみんなに伝えてください!」
右の首が、即座に言った。
「邪魔だ。退け」
「一瞬で拒絶された!」
牧人は白帳を睨み据えた。
「お前、飯の邪魔をしに来ただけじゃなかったのか」
「今度はうちの若頭を勝手に檻に戻す気か」
白帳の顔の板に、処理すべき文字が次々と浮かび上がる。
飯場干渉、排除。
本家石、破壊。
グラウヴィス、再封鎖。
家主異常、抑制。
全処理、同時実行。
ヒナが梁の上で、顔を引きつらせた。
「やだ、全部まとめてやろうとしてる!」
ナナが短く言う。
「欲張り」
ベロが極めて冷静に言った。
「お粥を出す方が、先だ」
牧人は力強く頷いた。
「当然だ」
「うちは、飯を食わせるのが最優先だ」
白帳の長い灰色の腕が、再びゆっくりと持ち上がっていく。
その先端に、処分路の、すべてを凍りつかせる封鎖の光が収束する。
狙いは、同時に三つ。
温かい粥の入った大鍋。
仮設置された本家石。
そして、クロ。
牧人はお玉を構え、ベロは頑強な鍋蓋を胸元に引き寄せた。
ナナは短剣を逆手に構え、ヒナはいつでも上空から飛べる姿勢を取る。
本来なら、こういう時はザガが門前の中央に立つ。
槍で敵の線を読み、真正面から受けず、横へ逸らす。
だが、そのザガはいま南根道への連絡線を守りに出ている。
イトは糸の強度を高め、イシコは石畳の記憶を呼び起こす。
ミズハは清らかな水流を立ち上げ、ぷるは足元で震えながらも、盾の端に寄り添うように踏ん張った。
豪志は、自作の板を両手でしっかりと握りしめる。
「ザガさんがいない分、俺が……!」
ナナが短く言った。
「前に出ない」
「はい!」
豪志は一歩も前に出ず、しかし板だけは絶対に落とさなかった。
まめじいは、不敵な笑みを浮かべたまま、帳面を決して閉じなかった。
ニコが、渾身の力を込めて板を高く掲げた。
飯、石、クロ
全部守る
牧人は、そのシンプルな文字を見て、不敵に笑った。
「実に、うちの家訓らしいな」
クロの中央の首が、低く言った。
「親父」
「何だ」
「俺の古い肩書きを聞いて、少しは怖気づいたか」
牧人は、鼻で笑って即答した。
「なるわけがないだろ」
「クロはクロだ」
「うちで飯を食って、うちの門前に立ってるなら、クロだ」
右の首が、満足そうに鋭い犬歯を剥き出しにした。
「気に入った。ならば、本日の粥は大盛り、かつ肉の追加を要求する」
「このどさくさに紛れて個人的な要求を差し込むな」
左の首が、静かに喉を鳴らして笑う。
「いつもの親父だ。安心した」
白帳の背の帳面板が、限界まで大きく展開する。
封鎖式、再起動。
対象、グラウヴィス。
阻害個体、家主。
異常帰属点、排除。
牧人は、さらに一歩前へ出た。
「おい、白帳」
白い顔の板が、牧人を向く。
「受付の段階で、まめじいに全部不許可って却下された申請を、勝手に通そうとするんじゃない」
ヒナが梁の上で、ついに笑い崩れた。
「やだ、親父が古代の管理個体を、ただの書類不備の迷惑な相手扱いしてる!」
牧人はいたって真面目だった。
「実際、大迷惑だろ」
「人の飯を邪魔する」
「せっかく置いた石を壊そうとする」
「うちのクロを、勝手に古い名札で縛り直そうとする」
「その上、受付の列にも並ばない」
ナナが短く言った。
「出入り禁止」
ニコが決定的な板を突き出した。
白帳、出禁
白帳の周囲の灰色の光が、一気に膨れ上がった。
次の瞬間、背後の白い帳面板から、無数の灰色の封鎖線が放たれた。
一本は、温かい大鍋へ。
一本は、健気に光る本家石へ。
一本は、クロの巨大な足元へ。
そして、最後の一本は、お玉を構えた牧人の胸元へ。
旧管理個体《白帳》が、古い冷徹な仕組みの威信をかけて、本家のすべてを否定し、分類し、消し去ろうと襲いかかる。
牧人は、手にしたお玉を強く握り直した。
「全員、防衛開始だ!」
ベロが鍋蓋を力強く前方へ突き出す。
「粥は、絶対に死守する」
イシコが、固い意志を地面に伝える。
「本家の石、絶対に渡さない」
クロが三つの首を同時に、獰猛に持ち上げた。
「俺は二度と、檻には入らん」
そしてニコの板が、嵐のような光の中で、最も高く掲げられた。
本家の全部を守る
灰色の封鎖の光が、本家の門前へ向けて、一斉に降り注いだ。




