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灰環核は、飯の匂いを嫌った


本家石は、灰環核の縁で小さく光っていた。


とても、小さい。


手のひらに乗るくらいの石だ。


けれど、その石が置かれてから、旧帳場の奥の灰色の光は、明らかに落ち着きを失っていた。


本家石、設置確認。

帰還点、仮発生。

本家接続、維持。

帰還選別、阻害。

本家石、最優先排除対象。


まめじいが神妙な面持ちで読み上げるたびに、牧人の眉間のしわが深くなる。


「いちいち最優先排除対象って大げさに言うな」

「ただの石だぞ」


ヒナが梁の上で羽を広げたまま言った。


「やだ、あの偉そうな核、石ころ相手に本気で怒ってる」


ナナが短く言う。


「器が小さい」


クロの右が牙を見せた。


「あの石を齧る気なら、代わりに俺が噛む」


牧人は横目で見た。


「物理的に噛めるのか」


「気合いで」


「歯を大事にしろよ」


そんなやり取りをしている間も、イシコは地面に両手を置き、本家石の感触を追っていた。


イトの糸が本家石に絡み、細く震えている。


ぷるは、いつでも飛び出せるように門前でぷるぷるしていた。


ミズハは水桶を抱え、灰色の光の濁りをじっと見ている。


そしてベロは、大鍋の前に立っていた。


本家石が置かれた。


灰環核がそれを壊そうとしている。


黒冠では、千景が黒鷲槍を迎え撃つために戻った。


門前は、どう考えても一触即発の空気だった。


そのただ中で、ベロは極めて冷静に鍋をかき混ぜていた。


ことこと。


ぐつぐつ。


穏やかな湯気が上がる。


ヒナが梁の上から、それを見下ろした。


「ねえ、ベロ」

「この状況で、今何を作ってるの?」


ベロは真面目な顔で答えた。


「粥」


「それは見れば分かるけど」

「今まさに、あの灰色の核が本家石を壊そうとしてるんだよ?」


「だから、粥だ」


「やだ、説明が一周して戻ってきた」


牧人も大鍋を覗き込んだ。


「ベロ、お前なりの作戦でもあるのか」


ベロは、しばらく鍋を丁寧に巡らせた。


それから、ぽつりと言った。


「帰ってきたら、腹が減る」


その一言で、門前が少しだけ静かになった。


ベロは続ける。


「怖い道を通ったやつ」

「名前がなくて疲れたやつ」

「毒を吸いすぎたぷる」

「水を汲んだミズハ姐さん」

「糸を張って指先が痛いイト」

「固い石を置いたイシコ姐さん」

「黒冠から戻る姫」

「親父」


木べらが鍋の底をゆっくりと撫でる。


「戻ったら、みんなで食う」

「だから、先に作っておく」


牧人は、少しだけ口元を緩めた。


「そうだな」

「なら、温かいまま待たせておかないとな」


ベロは深く頷いた。


「温かい飯は、帰る理由になる」


ヒナが梁の上で、目元を少しだけ潤ませた。


「やだ、ベロがいつになく格好いいことを言ってる……」


ナナが短く言った。


「大事」


クロの右が低く続けた。


「肉も、大事だ」


牧人は言った。


「今日はまだ胃に優しい粥の番だ」


「肉粥に昇格させろ」


「また今度な」


ベロは、その争いには一切乗らなかった。


鍋の中へ、塩をひとつまみ落とす。


白い粒が、静かに湯に溶けた。


その瞬間。


本家石の周りの灰色の光が、ぴくりと嫌な揺れ方をした。


まめじいが目を見開く。


「親父殿」

「石板が激しく反応しております」


「ついに石に手を出してきたか?」


「いえ」

「……お鍋の匂いに、でございます」


「鍋?」


牧人が振り返った。


灰環核の石板に、冷たい文字が浮かび上がる。


生活臭、侵入。

飯場機能、拡張。

管理不能要素、増加。

帰還点周辺、生活汚染。


ヒナが思わず声を上げた。


「やだ、飯の匂いを汚染って呼んだ!」


ベロの手が、ぴたりと止まった。


門前の空気が、静かに変わる。


ベロは、普段滅多に怒らない。


飯を粗末にされると静かに怒る。


鍋を不当に扱われると怒る。


腹を空かせた者を邪魔されると、深く怒る。


今の顔は、その全部に近かった。


ベロは旧帳場の奥を、静かに睨みつけた。


「飯の匂いを、悪者みたいに言うな」


低い声だった。


牧人が、思わず吹き出した。


「お前、そこに怒るのか」


「怒る」


ベロは即答した。


「飯の匂いは、戻るための道標だ」

「生きて動くための匂いだ」

「悪い匂いじゃない」


ナナが短く頷いた。


「いい匂い」


ニコが板を出す。


飯の匂い、悪くない


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、飯の匂いを守る裁判が始まった!」


牧人は鍋から立ち上る湯気を見た。


湯気は、本来なら天井へ流れる。


だが、その一部が、いつもと違う動きをしていた。


本家石へ向かって滑っていく。


イトの糸を細く伝い、イシコの石を撫で、黒冠の影の隙間をすり抜け、灰環核の奥深くへと流れていく。


粥の匂いが、道を通っている。


ありえないはずだった。


匂いは、椀の前に座る者が、鼻をくすぐられて顔を上げるものだ。


それが、灰色の処分路の底にまで届くはずがない。


だが、確かに届いていた。


本家石が、帰る場所を置いた。


イトの糸が、そこへ細い道をつないだ。


そこに、ベロの炊きたての粥の匂いが乗った。


帰る場所の匂い。


それは、灰環核にとって、処理しきれない最悪の侵入だった。


石板が、さらに慌ただしく文字を吐き出す。


生活臭、侵入継続。

空腹反応、広域誘発。

分類前個体、移動。

管理不能。

管理不能。

管理不能。


ヒナが目を丸くした。


「やだ、あの冷たい核が、お粥の匂いで焦ってる!」


牧人も、旧帳場の奥を見た。


「飯の匂い、思った以上に効いてるじゃないか」


ベロは真顔で頷いた。


「腹が減ると、足が動く」


「本能だな」


「本能に勝てる仕組みはない」


その時、灰環核の奥で、何かが確かに動いた。


灰色の光の奥。


本家石の向こう。


処分路の暗い底の方から、いくつかの薄い影がゆっくりと現れた。


一体。


二体。


三体。


先ほど門前にやってきた影たちよりも、さらに薄く、透明に近い。


輪郭が崩れかけている。


目も、口も、手足も、かすかな霧のようだった。


けれど、その顔らしき部分が、全員同じ一点を向いていた。


立ち上る鍋の湯気。


粥の、ほんのり温かい匂い。


「……あたたかい」


一体が、かすれた声で言った。


「しょっぱいの……ある」


別の一体が、夢の中にいるように呟く。


「食べる……やつ?」


豪志が驚いた顔で言った。


「大勢いらっしゃいました!」


ベロの目が、わずかに鋭くなった。


「出す」


牧人が聞いた。


「何がだ」


「椀」


「分かった」


牧人はすぐに後ろを向いて指揮を執った。


「まめじい、臨時受付をもう一席追加だ」

「ニコ、案内板」

「ベロ、飯は足りるか?」


ベロは鍋を見つめた。


「足りない」


「おい」


ベロは鍋の中を見た。


湯気はまだ立っている。


だが、並んでいる影たちの数を考えると、普通によそえば足りない。


「足りないか?」


牧人が聞くと、ベロは短く答えた。


「足りるようにする」


「薄めるのか?」


ベロは、きっぱり首を横に振った。


「薄めない」

「弱ってるやつ用に、分ける」


「分ける?」


「濃い粥は、形が戻ったやつ」

「薄い湯粥は、まだ手も口も弱いやつ」

「塩は、灰で薄くなったやつ」

「具は、噛めるやつにだけ入れる」


ベロは木べらで鍋を静かに回した。


「同じ鍋から出す」

「でも、同じものを無理に食わせない」

「食える形にする」


ヒナが梁の上で目を丸くした。


「やだ、ベロがちゃんと一人ずつ見てる……」


ナナが短く言った。


「料理人」


ベロは真顔で頷いた。


「飯は、食えなければ意味がない」


牧人は少しだけ笑った。


「なら、それは増やすでいい」


ミズハが水桶を抱えてすっと前へ出た。


「お水なら、私が出すわ」

「でも、灰の毒が混ざったら台無しね」


灰色の影たちの周りには、処分路の冷たい灰毒がまとわりついていた。


近づくだけで、こちらの輪郭まで削り取られそうな、嫌な不気味さがある。


すると、ぷるが、ぷるん、と勇ましく前へ出た。


牧人がすぐに声をかける。


「ぷる、あまり吸いすぎるなよ」


ぷるん。


ぷるは短い返事とともに、灰色の影の足元へ自ら転がっていった。


みるみるうちに、灰毒がぷるの体に吸い込まれていく。


少しずつ。


けれど確実に。


ぷるの透明だった体が、どんよりとした灰色に濁っていく。


ミズハがすぐにきれいな水を滑り込ませた。


「ぷる、こっち」

「吸ったらすぐ流す。溜め込んだら駄目よ」


ぷるん。


ぷるは、吸う。


ミズハが薄める。


ベロが塩を計る。


ヒナが目を瞬いた。


「お塩?」


ベロは頷く。


「灰のせいで、あいつらの形が薄い」

「真水だけだと、もっと薄くなる」

「塩を入れて、輪郭を残す」


牧人は感心したように見た。


「料理の理屈か?」


「飯場の知恵だ」


「よく分からんが、意味あるのか?」


「ある」


ベロは、至極真面目だった。


ミズハは塩を指先で受け取り、水桶へ慎重に溶かしていく。


「濃すぎたら駄目ね」

「薄すぎても戻らない」

「ちょうどいい加減で、灰を洗い落とす」


ぷるが吸う。


ミズハが流す。


ベロが塩で締める。


その呼吸が、見事に噛み合っていた。


灰色の影の足元が、徐々に濃くなっていく。


霧のようだった輪郭が、少しずつ人の形を取り戻す。


「……あ」


一体の影が、自分の手のひらを驚いたように見つめた。


「五本、ある」


ベロは椀を差し出した。


「持てるか」


影は、震えながら細い手を伸ばした。


けれど、持てない。


まだ存在が軽すぎて、椀の重さを支えきれずに手がすり抜けてしまうので、平たい皿を持ってきて、石畳の上に置く。


「作法は後だ」

「顔を近づけて吸え」

「持てなくても、口に入ればいい」


影は、目の前の皿を見つめた。


ふわ、と湯気が立ち上る。


塩と米と、ほんの少しの刻み菜の匂い。


影は、ゆっくりと顔を近づけた。


一口。


実際には、ただ温かい湯気を吸い込んだだけだったかもしれない。


それでも、その影の輪郭が少しだけ濃くなった。


ヒナが梁の上で、たまらず目元を片手で隠した。


「やだ……」

「ほんのちょっとのお粥で、ちゃんと戻りかけてる」


ナナが短く言った。


「飯、強い」


ベロは当然のように言う。


「飯は強い」


豪志が口元を押さえて呟いた。


「飯は強いですね」


牧人は言った。


「今は粥の強さを見守れ」


「不本意だが、今回は譲ろう」


灰環核の石板が、さらに激しく光る。


飯場機能、深層個体に干渉。

空腹反応、拡大。

分類処理、停止。

生活臭、排除要。


ベロは、その石板を冷ややかに睨みつけた。


「生活臭じゃない」

「飯の匂いと呼べ」


まめじいが筆を執りながら、静かに言った。


「本家の公式記録には、ただいまの件を飯の匂いと登録いたします」


ベロは満足そうに深く頷いた。


「それでいい」


ニコが板を出す。


飯の匂い、正式採用


ヒナが小さく笑った。


「やだ、あの頑固な迷宮を無視して、飯の匂いが正式名になった」


牧人は、たゆたう湯気を見た。


灰環核が、これほど飯の匂いを嫌がる理由。


それは、管理できないからだ。


飯の匂いは、命令ではない。


規格でもない。


通る資格があるかどうかの審査でもない。


ただ、「腹が減ったから、あっちに行こう」という単純な意志を呼び起こす。


温かい方へ。


生きている誰かがいる方へ。


帰れる本家の方へ。


「そりゃ、あいつからすれば嫌だろうな」


牧人は小さく笑った。


「戻る資格がどうとか言ってるところに、この粥の匂いは強すぎる」


ベロは鍋を休むことなくかき混ぜながら言った。


「どんな理屈を並べても、腹が減ったら飯の勝ちだ」


「名言だな」


「真理だ」


---


そのころ、黒冠大迷宮の中層では、別の騒ぎが起きていた。


黒鷲槍の攻略隊が、力ずくで道をこじ開けようとしていた。


先頭で指揮を執る鷲尾レントの横顔には、余裕がない。


その歩幅は、焦りからか異様に広かった。


「左翼、強行突破」

「道札の回復を待つな」

「罠は盾で押し潰せ」

「遅れる者は、その場に置いていけ」


指示は速く、冷たかった。


つき従う隊員たちの顔には、限界に近い疲労と、見捨てられることへの恐怖が張り付いている。


監察局からの活動停止処分。


ギルドへの立ち入り調査。


それらすべてを振り切るように、黒鷲槍は黒冠へ突っ込んできた。


ここで圧倒的な攻略実績を出せば、状況を覆せる。


鷲尾の頭にあるのは、己の地位の保全だけだった。


千景は、黒い高い梁の上から、冷めた目でその軍勢を見下ろしていた。


足元には、静かに牙を隠した小太郎。


黒冠の影が、千景の足元で生き物のようにうごめいている。


「ひどい荒れ方だね」


千景が呟くと、小太郎が短く鼻を鳴らした。


「わふ」


「うん」

「あそこの隊長、すごく性格が歪んでる」


その時、千景の鼻先がかすかに揺れた。


匂い、というには遠い。


本当に米の湯気が黒冠中層まで流れてきたわけではない。


けれど、黒冠の影の奥に、妙な温度が混ざった。


米。


塩。


炊き立ての湯気。


本家の台所を思い出させる気配。


千景は、すぐに理由を悟った。


本家石だ。


灰環核の縁に置かれた本家石が、帰る場所の印になった。


イトの糸が、そこに細くつながった。


さらに黒冠の影が、沈まないように下から支えている。


そのせいで、本家の「帰る場所の気配」が、黒冠側にもほんの少しだけ滲んできたのだ。


匂いそのものではない。


でも、千景には分かった。


あれは、本家の飯の気配だ。


「……マッキーたち、何してるの、こんな時に」


小太郎が、少しだけ嬉しそうに尻尾を振る。


「わふ」


千景は、くすりと笑った。


「すごいな、あそこの飯は」


黒冠の影が、その匂いを不快そうに避けつつも、どこか引き寄せられるように揺れた。


戻さないはずの迷宮の中に、引き戻すための匂いが混ざっている。


黒冠王座にとっても、それは理解しがたい異物だった。


だが、千景にはやるべきことが見えた。


鷲尾が進もうとしている先の通路で、黒冠の扉が一斉に閉じようとしている。


このまま突っ込めば、前衛の何人かは確実に分断され、閉じ込められる。


鷲尾がどうなろうと知ったことではない。


だが、何も知らずに命令されただけの若い隊員たちが、帰り道を失うのは見過ごせない。


千景は、身の丈ほどもある黒い大剣を引き抜いた。


「小太郎」

「道を踏み荒らす人たちを注意しに行こうか」


小太郎が見上げながら、激しくシッポを振っている。


千景は、黒冠の影の底へ向かって、躊躇なく一歩を踏み出した。


「あの隊長の頭を冷やしてやろう」


黒冠の影が、姫を迎えるように、音もなく深く裂けた。


---


本家では、飯の匂いに引き寄せられた名なしの影たちが、徐々に列を太くしていた。


まめじいは仮受付の隣に、もう一つ臨時の台を並べていた。


「お名前を伺えますか」


「……わすれた」


「承知いたしました。では、今は未定と記録いたします」

「ベロ殿、次の方へ温かいお粥を」


「出す」


同じやり取りが、息つく暇もなく繰り返される。


だが、不思議と混乱はなかった。


粥を食べ終えた影を、ネムが右奥へ案内した。


「食べたら、寝る」

「起きたら、また名前を考える」


灰色の影は、皿を抱えたまま、こくりと頷いた。


影たちは怯えながらも、その鼻先をくすぐる匂いに抗えず、吸い寄せられるように自分の足で歩いてきていた。


それは、灰環核にとって最も嫌な動きだった。


石板が、さらに強く明滅を繰り返す。


生活臭、広域侵食。

飯場機能、最深部に到達。

名なし深層群、流出。

管理不能。

管理不能。


ベロは、短く言い捨てた。


「うるさい」


ヒナが少し笑う。


「ベロが古い迷宮相手に、ただの騒音扱いした」


「飯を作る時の一番の敵は雑音だ」


ナナが短く言った。


「邪魔」


その時、ぷるの体が大きく波打った。


ぷるん、という可愛いものではない。


ぶるん、と全身が激しく変形するほどの震え。


ミズハがすぐに声を張り上げた。


「ぷる、これ以上は限界よ!」


ぷるの弾力のある体が、ほぼ灰色に染まっている。


完全に毒の吸いすぎだった。


牧人が慌てて駆け寄りかける。


「ぷる!」


ミズハが水桶を抱えてその前に割り込んだ。


「下がって、親父」

「私が薄めるから、触っちゃ駄目」


豪志が叫んだ。


「ぷるさん! 灰色スライムになってる!」


激しい水流がぷるの丸い体を包み込む。


水の衣のように広がり、ぷるの体内に溜まった灰毒を、じわじわと外へ引き出していく。


ベロが塩の袋を片手に近寄る。


「少し入れる」


「ちょっと待って」

「入れすぎたら、ぷるがしょっぱくなるから」


ぷるん。


ぷるが不満そうに震えた。


ヒナが梁の上でお腹を抱えて笑った。


「やだ、ぷるが自分の味付けについて抗議してる!」


ベロは極めて真剣だった。


「塩加減は命の基本だ」


「言い方がちょっと美味しそうに聞こえるのよ!」


ミズハは息を整えながら、慎重に塩水を操る。


じわじわと毒が排出され、ぷるの体が元の透明さを取り戻していく。


牧人はようやく胸を撫で下ろした。


「だから無理をするなと言ったろ」


ぷるん。


ぷるは、少しだけしぼんだように小さくなった。


ナナが短く言う。


「偉い」

「でも、無理だめ」


ぷるん。


ニコが板を出した。


ぷる、えらい

無理、だめ


ぷるは、少しだけ誇らしげに膨らんだ。


集まってきた灰色の影たちが、その一連のやり取りをじっと見つめていた。


命がけで毒を吸い取るぷる。


それを水で介抱するミズハ。


塩を持って走るベロ。


忙しそうに帳面をめくるまめじい。


板を掲げるニコ。


奇声を上げて、走り回る豪志。


ここでは、誰も彼らを廃棄処分とは呼ばない。


誰も、戻る資格があるかなどと尋ねない。


ただ、飯を皿に盛る。


毒を薄めて流す。


名前を思い出すのを、待つ。


その生活の営みそのものが、灰環核の古い支配に対する、強烈な反逆だった。


牧人は言った。


「ベロ」

「まだ出せるか」


ベロは鍋の底を見つめた。


湯気は健在だ。


だが、さすがに量が減ってきている。


「……出す」


「無理はするなよ」


「これは無理ではない」

「足りなくなったら、仕込み直すだけだ」


牧人は笑った。


「相変わらず、食い物に関しては強いな」


ベロは静かに言った。


「腹を空かせた客を、品切れで帰す料理人はいない」


その言葉に、順番を待つ灰色の影たちが、心なしか嬉しそうに顔を上げた。


ベロは一人ずつ、丁寧に皿を並べていく。


手の使えない者には地面に置く。


少し指が動く者には、熱くないように椀を渡す。


熱いものが苦手な者には、ミズハが水桶の上で少し冷ます。


毒が抜けきらない者には、ぷるがそっと寄り添って毒を吸い、ベロがほんの少し塩を強めにした薄い粥を差し出す。豪志が食べやすい位置に皿を運ぶ。


まめじいが、静かに筆を走らせる。


【仮受付二十一番。名、未定。粥、適量。灰毒、ぷる殿が吸う。ミズハ殿が水で薄める。ベロ殿が塩を調整。豪志殿が位置調整】


ヒナがその帳面を横から覗き込み、少し呆れたように笑った。


「やだ、まめじいの公式記録が、台所と治療所の中間みたいになってる」


まめじいは姿勢を正して答えた。


「どちらも、本家を運営する上で重要な記録にございます」


牧人は頷いた。


「ああ」

「受付と、飯と、水があれば、大抵のやつは戻ってこられる」


ベロは鍋を休むことなく動かしながら言った。


「あと、食後に寝る布団もいる」


ネムが短く言う。


「右奥、敷いてある」


イトが糸をそっと動かす。


「迷子、ベッドまで引っ張る」


イシコが地面を撫でる。


「石、そこまでの道を教える」


ニコが板を出した。


飯の匂いをたどれ


灰色の影たちは、その板の文字と、鼻先をくすぐる温かい匂いを頼りに、ゆっくりと列を前へ進めた。


その時、灰環核の最深部で、石板がこれまでとは違う乾いた音を立てて鳴り響いた。


ごん。


それは、これまでの警告ではない。


明確な拒絶。


敵意。


そして、眠っていた古い仕組みが、目を覚ました音だった。


まめじいの表情が、一瞬で凍りつく。


「親父殿」

「灰環核のさらに奥底から、これまでと全く違う反応が出ました」


牧人は旧帳場の奥へと視線を鋭くした。


「また名なしの子たちか?」


「いえ、違います」

「これは……我々を異物として排除するための、古い管理側の個体にございます」


灰色の眩い光の奥から、すらりとした細い人影が、ゆっくりと立ち上がった。


彷徨っていた名なしの影たちとは、明らかに存在感が違う。


輪郭がブレない。


不自然なほど長い、灰色の両腕。


古代の神官を思わせるような、埃っぽい灰色の衣。


そして、その顔があるべき場所には目鼻がなく、冷たい石板のような四角い板が埋め込まれていた。


その板に、冷徹な文字が点滅する。


旧管理個体、起動。

飯場干渉、排除。

生活臭、遮断。

深層個体、再沈降開始。


ヒナが息を呑んだ。


「やだ……」

「あれ、今までの迷子たちとは違う」


ナナが短く言った。


「強敵」


クロの三つの首が、同時に低く唸り声を上げる。


ベロは、大鍋の前に立ったまま、その灰色の管理個体をじっと見つめた。


「飯の邪魔をしに来たな」


旧管理個体の顔の板に、新たな文字列が走る。


飯場機能、不要。

生活臭、不要。

深層個体、強制回収。


ベロの目が、静かに、そして鋭く細められた。


「不要な飯など、この世に存在しない」


牧人が、静かに一歩前に出た。


「ベロ」


ベロは、大鍋の巨大な丸蓋を、両手でしっかりと掴み直した。


まるで、円形の盾のように胸元に構える。


「飯を食いに来た客が、まだ並んでいる」

「邪魔をするなら、迷宮の古い仕組みでも通さない」


ヒナが梁の上で、少しだけ引きつった笑い声を漏らした。


「やだ、ベロが鍋の蓋で古代の管理個体に立ち向かおうとしてる……!」


ナナが、いつでも飛び出せるように短剣を逆手に構えた。


「私も、スープは冷まさせない」


ミズハが水桶をしっかりと脇に抱え直す。


「ぷる、あなたは後ろへ。ここからは私たちの番よ」


ぷるん。


ぷるは、まだ少し体が灰色に濁ったままだったが、ベロの足元にぴったりと寄り添い、自らも威嚇するようにぷるぷるした。


牧人は、旧管理個体をまっすぐに睨み据えた。


「飯の匂いを力ずくで消すつもりなら、相手を間違えたな」


ベロは静かに、けれど揺るぎない声で宣言した。


「粥は、絶対に消させない」


旧管理個体が、その不自然に長い灰色の腕を、ゆっくりと天に向かって持ち上げた。


その指先に、処分路の、すべてを沈める冷たい光が集まり始める。


本家石が、その波を受けて小さく震えた。


イトの糸がピンと張る。


イシコが地面に強く手を押し当てる。


そして、ベロの鍋からは、今も変わらず、美味しそうな湯気が堂々と立ち上っていた。


飯の匂いは、まだ何一つ消えていない。


灰環核は、その当たり前の生活を嫌った。


だから、それを消し去るために、古い管理者を呼び覚ました。


温もりを消すために。


飯を邪魔するために。


そして、ようやく帰る場所を見つけた名なしの者たちを、もう一度暗い底へ引きずり下ろすために。


ベロは鍋の蓋をしっかりと構え、低く、力強く言い放った。


「まだ誰も、ごちそうさまを言っていない」


その言葉が響き渡ると同時に、旧管理個体の長い灰色の腕が、冷酷に振り下ろされた。


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