帰還路を作るなら、道案内がいる
仮受付の板は、まだ出ていた。
名前、あとでいい
飯、先でもいい
並ぶ
その隣に、ニコが新しく立てた板がある。
受付、閉めない
灰色の小さな影たちは、その二枚の板を見ながら、静かに列を作っていた。
名前のない者。
呼ばれたくない者。
番号だけを持っていた者。
飯を食べて、少しだけ輪郭が戻った者。
本家の門前は、さっきより騒がしい。
けれど、逃げ出す者はいなかった。
まめじいは帳面を開き続けている。
ベロは鍋を守っている。
ナナは右奥の戸の前に立っている。
クロは門前に伏せているが、三つの首は眠っていない。
そして千景は、門前の敷居の外側に腰を下ろしていた。
本家の内側には入らない。
黒冠の姫として、まだ線は越えない。
けれど、牧人たちと話せる距離にはいる。
足元には小太郎がいて、黒冠の影は千景の背後で静かに揺れていた。
さっき受け取った黒鷲槍の記録。
犬飼ミツル。
真壁ダン。
鷲尾レント。
八代玲臣。
帰り道を消す者。
記録を消さなかった者。
置いていく命令に逆らった者。
それらを受け取ったせいか、黒冠の影も、灰環の石板も、妙に静かだった。
静かすぎた。
牧人は、その静けさが嫌いだった。
「こういう時って、大抵あとで面倒なのが来るよな」
ヒナが梁の上でお椀を抱えたまま言った。
「やだ、親父が嫌な予感を口にした」
ナナが短く言う。
「だいたい当たる」
「当てたくて言ってるわけじゃないんだよ」
牧人が言った直後。
旧帳場の奥で、灰色の石板が鳴った。
ごん。
門前の空気が、一気に冷える。
ヒナが顔をしかめた。
「……ほら」
ニコが板を出す。
親父、大当たり
「嬉しくない」
牧人は旧帳場を睨んだ。
灰色の光が、ゆっくりと広がっていく。
まめじいが顔を上げた。
「親父殿」
「灰環核が、また動きます」
「今度は何だ」
まめじいは、石板に浮かぶ文字を追った。
「帰還路、再選別」
「本家接続、妨害」
「仮受付、帰属点拡大」
「帰還補助線、遮断」
牧人は眉を寄せた。
「帰還補助線?」
その時、梁の上でイトの糸が、ぴん、と鳴った。
細い音だった。
だが、門前の全員が反応した。
イトは梁の端で、両手を胸の前に寄せていた。
指先から伸びている糸が、震えている。
普段、イトの糸は静かだ。
本家の中を、見えない道のように張っている。
迷子にならないように。
落ちないように。
誰がどこにいるか分かるように。
その糸が、今は怯えていた。
「イト?」
牧人が声をかける。
イトは、顔を上げた。
「道」
「消えてる」
門前が静まる。
「どこの道だ」
「奥」
「灰の奥」
「親父が、行くかもしれない道」
まめじいの顔が強張った。
「灰環最奥への接続でございますな」
「灰環核が、本家から最奥へ至る帰還路の目印を乱しているのでしょう」
牧人は舌打ちした。
「行く前から道を消してくるか」
ヒナが梁の上で顔を引きつらせる。
「やだ、あの核、やることが本当に嫌」
ナナが短く言った。
「悪質」
ベロが鍋の前で低く言う。
「迷子は、飯に来られない」
「そこか……いや、そこだな」
「重要だ」
牧人は否定しなかった。
本当に大事だった。
迷子になるということは、飯にも寝床にも帰れなくなるということだ。
本家がどれだけ受付を開いていても、帰る道がなければ意味がない。
黒冠でも同じだった。
帰り道を消されたリオ。
置いていかれた臨時探索者。
道札を踏まれて孤立した者たち。
黒鷲槍の記録で見たばかりだ。
帰る道を軽く見る者は、人を簡単に消す。
牧人はイトを見上げた。
「イト」
「今、糸は残ってるのか」
イトは、指先を見た。
そこには、細く、震える糸が一本だけ残っている。
ほとんど見えない。
灰色の光に削られながら、それでも切れずに伸びていた。
「少し」
「細い」
「でも、ある」
千景が、その糸を見て目を細めた。
「黒冠の影も、そこを見てる」
牧人が振り返る。
「黒冠も?」
千景は頷いた。
「灰環が帰還路を乱したから」
「黒冠側の古い道も、余波で揺れてる」
「どっちも根っこが同じなら、下の方で道が絡まる」
牧人は嫌そうな顔をした。
「その言い方でも十分嫌だな」
「私も嫌」
小太郎が、黒冠の影の前で低く鳴った。
「わふ」
千景は小太郎を見る。
「君も嫌なんだね」
「わふ」
「分かるよ」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、姫と小太郎の嫌がり方が同じ」
しかしイトは笑わなかった。
糸を見つめたまま、指先を震わせている。
「黒い輪」
「灰の奥」
「糸、入れたら、沈む」
牧人は、すぐに言った。
「なら伸ばさなくていい」
イトが顔を上げる。
「でも」
「無理に伸ばさなくていい。戻れなくなる方が困る」
牧人の声は、強かった。
「道案内の糸が切れたら、イトが戻れなくなる」
「それは駄目だ」
「俺たちは別の方法を探す」
イトは黙った。
指先の糸が、また震える。
まめじいが静かに言った。
「親父殿」
「ですが、今残っている帰還の目印は、イト殿の糸だけのようでございます」
「だからって、イトを使い捨ての道標にする理由にはならない」
牧人は即答した。
ナナが短く頷く。
「イト、無理しない」
クロの右が低く言う。
「糸が切れたら、肉の場所も分からなくなる」
牧人は右を見た。
「お前の励まし、常に肉が絡むな」
右は極めて真面目な顔だった。
「大事だ」
ヒナが梁の上で苦笑した。
「やだ、若頭なりに心配してるのは分かるけど、肉が強い」
イトは、少しだけ笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を戻す。
「糸」
「怖い」
誰も笑わなかった。
イトは小さく言葉を続ける。
「黒い輪、深い」
「灰の道、冷たい」
「入れたら、戻らないかも」
「切れたら、痛いかも」
「親父の場所、分からなくなるかも」
牧人は静かに聞いていた。
イトが怖がるのは珍しくない。
でも、今の怖がり方は違った。
自分が傷つく怖さだけではない。
誰かを帰せなくなる怖さだった。
牧人は言った。
「イト」
「怖いなら、やめていい」
イトの目が揺れる。
「やめて、いい?」
「ああ」
「怖いって言えるなら、それでいい」
「道案内は、命を削って底に沈む仕事じゃない」
「戻ってこれるやつが、戻ってこれる範囲でやる仕事だ」
イトは、牧人を見た。
ニコがそっと板を出した。
戻れる範囲でよし
イトは、その板を見た。
小さな唇が、少しだけ動く。
「戻れる、範囲」
牧人は頷いた。
「そうだ」
「お前が戻れなくなったら、誰が俺たちを本家に引き戻すんだ」
イトの指先が、ぴくりと動いた。
「親父、戻る?」
「戻る」
「俺だけじゃない」
「ここにいるやつらも、全員戻る」
「黒冠から来るやつも、灰環から来るやつも、戻りたいやつは全員戻す」
「そのための道案内だ」
千景が、横で静かに聞いていた。
黒冠の姫として、帰れなかった者を知っている顔だった。
帰り道を閉じられた者。
戻らない迷宮に呑まれた者。
名前も道も失った者。
その黒冠でも、いま道案内が必要になっている。
千景は低く言った。
「黒冠側にも、道案内がいる」
「でも、今ここでイトが沈んだら、本家も黒冠も、どっちも困る」
イトが千景を見る。
「姫も、困る?」
「困るよ」
「糸、便利だし」
「あと、かわいいし」
イトは目を瞬いた。
ヒナが梁の上で吹き出した。
「やだ、姫が真面目な話で急にかわいいって言った!」
千景は真顔だった。
「大事でしょ」
ナナが短く頷いた。
「大事」
ニコが板を出した。
イト、かわいい
大事
イトの頬が、少しだけ赤くなった。
「板」
「出さないで」
ニコは板を少し下げた。
でも、完全にはしまわなかった。
牧人は小さく笑った。
それから、もう一度イトを見た。
「だから、決めるのはイトだ」
「伸ばせとは言わない」
「伸ばすなとも言わない」
「戻れると思うなら伸ばせ」
「戻れないと思うなら、やめろ」
イトは、黙った。
灰環の石板が、さらに冷たく光る。
ごん。
まめじいが読み上げる。
「帰還補助線、遮断準備」
「本家接続、希薄化」
「迷子発生率、増加」
牧人の目が細くなる。
「勝手に迷子を増やすな」
ヒナが梁の上で怒った。
「やだ、迷子を数字にしないでよ!」
ナナが短く言った。
「嫌い」
ベロが鍋の蓋を握った。
「飯が冷める」
クロの中央が低く唸る。
「道を消す気だな」
左が続ける。
「帰る者を、奥へ落とすために」
右が牙を見せた。
「噛むか」
牧人は言った。
「まだ噛む相手が見えてない」
「見えたら噛む」
「見えたらな」
イトは、そのやり取りを聞いていた。
少しだけ、呼吸が落ち着く。
怖い。
でも、怖いだけではなくなった。
自分の糸が、誰かを戻すかもしれない。
自分の糸が切れたら、誰かが迷うかもしれない。
それは、怖い。
その時、ネムが、右奥の戸を少しだけ開けた。
「戻ったら、寝る」
「帰る場所には、布団もいる」
イトはその言葉を聞いて、糸を握る指に少し力を入れた。
そして小さく言った。
「伸ばす」
牧人が見上げた。
「イト」
「伸ばす」
「親父、戻るから」
細い声だった。
でも、震えきってはいなかった。
「本家、戻る」
「姫も、戻る」
「黒冠の子も、灰の子も」
「迷子、だめ」
ニコが板を出した。
迷子、だめ
イトは小さく頷く。
「うん」
「迷子、だめ」
牧人は、少しだけ息を吐いた。
「戻れる範囲でだぞ」
「うん」
「危なかったら手を離せ」
イトは首を横に振った。
「切らない」
「でも、離す」
「沈む前に、離す」
牧人は一瞬黙った。
それから頷いた。
「それならいい」
千景が、小太郎を見た。
小太郎が一歩前に出る。
「わふ」
黒冠の影が、イトの糸の下で静かに広がった。
支えるように。
飲み込むのではなく、足場になるように。
セイランが顔を上げる。
「黒冠王座が、イト殿の糸を観測しています」
「干渉は最小」
「沈まない位置を、一時的に作っている反応です」
牧人は千景を見る。
「黒冠、手伝うのか」
千景は少しだけ目を細めた。
「手伝うって言うと、王座が嫌がりそう」
「そこに影があっただけ、ってことにしておいて」
ニコが板を出す。
黒冠、たまたまいた
千景は頷いた。
「そういうこと」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、黒冠の手伝い方が遠回し!」
黒冠の影は、何も言わない。
ただ、イトの糸の先に、黒い薄い足場を作った。
イトは、指先を伸ばした。
糸が一本、灰色の光へ向かう。
細い。
頼りない。
でも、まっすぐだった。
灰環核の奥から、冷たい処分路の気配が滲んでくる。
名前を薄くする道。
戻る資格がないと判定したものを沈める道。
迷子を、迷子のまま奥へ落とす道。
イトの糸が、その縁に触れた。
じゅ、と嫌な音がした。
イトの肩が震える。
「イト!」
牧人が声を上げる。
イトは歯を食いしばった。
「まだ」
「まだ、戻る」
糸が焼ける。
灰色に染まりかける。
そこへ、黒冠の影が下から支える。
完全には守らない。
けれど、糸が沈みきらないように、ほんの少しだけ浮かせる。
千景が低く言った。
「黒冠が、嫌そうに支えてる」
牧人は言った。
「嫌そうでも助かる」
ヒナが梁の上で震えた声で言った。
「不器用な支え方……!」
ベロが鍋の前で呟く。
「手伝ったなら、あとで汁物を出す」
「黒冠にか?」
「具は多めにする」
千景が苦笑した。
「王座、お腹壊さないといいけど」
牧人は言った。
「とにかく今は糸だ」
イトの額に汗が浮く。
糸は灰環核の縁をなぞる。
切れそうになるたびに、イトは少しだけ糸を緩めた。
強く引けば切れる。
弱すぎれば沈む。
その間を探る。
イトは今まで、糸を張る子だった。
梁から梁へ。
扉から戸口へ。
本家の中に、落ちない道を作る子だった。
でも、今は違う。
迷宮の奥へ、帰るための細い線を伸ばしている。
怖い。
それでも、自分で伸ばしている。
灰環の石板が、強く鳴った。
ごん。
まめじいが叫ぶように読み上げる。
「帰還補助線、捕捉」
「帰還補助個体、確認」
「糸型個体、分類開始」
牧人の顔が変わった。
「勝手に分類するな」
石板は止まらない。
「個体名、イト」
「機能、帰還補助」
「本家接続、維持要因」
「処分路干渉、確認」
イトの糸が、さらに灰色に染まる。
ナナが短剣に手をかけた。
「イトを見てる」
クロの三つの首が低く唸る。
ベロが鍋蓋を盾のように構えた。
ヒナが梁から飛びかける。
牧人は一歩前に出た。
「イト」
「もういい、離せ!」
イトは、糸を見つめていた。
灰色の奥へ伸びた細い線。
その先に、かすかに道が見えた。
本家から灰環の奥へ向かう道ではない。
奥から本家へ戻るための、逆向きの道。
イトは、大きく息を吸った。
「見えた」
牧人が動きを止める。
「何が」
「戻る道」
「すごく細い」
「でも、ある」
イトは思い切り指を引いた。
糸が、灰色の縁から離れる。
じゅ、と最後に嫌な音がして、糸の先が少しだけ焦げた。
イトは、痛そうに目を細めた。
でも、糸は切れていなかった。
「戻った」
小さな、しかし確かな声だった。
その瞬間、門前に張られていた見えない緊張が、一気に緩んだ。
牧人は深く息を吐いた。
「よくやった」
イトは、梁の上でへたり込んだ。
「怖かった」
「だろうな」
牧人は頷いた。
「でも、ちゃんと戻った」
「それが一番偉い」
ニコが板を出した。
イト、戻った
ヒナが梁の上でイトの横に寄った。
「やだ、本当によく頑張った……!」
ナナが短く言った。
「すごい」
ベロが鍋の前で言った。
「糖分を補給しろ。芋を入れる」
クロの右が続ける。
「肉も入れるか」
イトは、小さく笑った。
本当に少しだけ。
「粥」
「食べる」
ベロが即座に椀を用意した。
「特製だ。熱いぞ」
千景は、イトの糸を見ていた。
糸の先は焦げている。
だが、切れていない。
黒冠の影が、その下で静かに揺れていた。
千景は小さく言う。
「黒冠側でも、この糸を道として覚えた」
牧人が聞く。
「いいことなのか?」
千景は少し考えた。
「半分は便利」
「半分は厄介」
「やっぱりそれか」
「黒冠は、帰り道を作る存在を見逃さない」
「でも、灰環核も今、イトを明確に見た」
その通りだった。
灰環の石板に、最後の文字が浮かぶ。
帰還補助個体、捕捉。
個体名、イト。
本家接続維持要因。
次回遮断対象。
牧人の目が、静かに冷えた。
「イトを狙う気か」
誰も答えなかった。
答えは、石板にはっきりと出ている。
ヒナがイトを庇うように前へ出る。
ナナが右奥の戸から一歩踏み出す。
クロが牙を剥く。
ベロは鍋の蓋を置き、代わりに巨大な木製の杓子を両手で構えた。
豪志が震えながら、大きな板を抱えて走ってきた。
「い、イトさん保護用の板を作ってきました!」
ニコがその上に、さらに板を出した。
イト、指一本触れさせない
牧人は、その板を見た。
それから、旧帳場の奥を睨む。
「そうだな」
声は静かだった。
「帰り道を作るやつを狙うって言うなら」
「こっちは全力で、その帰り道を守るだけだ」
千景も黒い影の前に立った。
「黒冠側も、イトの糸を道として認識した」
「灰環がそれを切ろうとするなら、黒冠も黙って見てはいない」
牧人は言った。
「そうか」
「なら、こっちも黙って見てない」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、親父と姫様が同じ方向を向いた!」
イトは、椀を受け取りながら、まだ少し震えていた。
でも、その指には、細い糸が残っている。
切れていない。
戻ってきた糸。
本家と灰環の奥を、ほんの一瞬だけつないだ糸。
そして、黒冠にも見られた糸。
牧人は、イトに言った。
「本当によくやった」
「次は、一人で伸ばさせない」
「俺たち全員で道を開く」
イトは粥の湯気の向こうで、こくんと力強く頷いた。
「うん」
「親父、戻る」
「みんな、帰る」
ニコが最後に板を掲げる。
みんな、帰る
灰環核の光が、奥で冷たく揺れた。
黒冠の影も、静かに濃くなった。
帰還路は、まだ細い。
けれど、完全には消えていない。
イトの糸が、そこに確かに残っていた。




