消されかけた記録は、受付に並んだ
黒冠の影が、門前で静かに揺れていた。
千景が本家の門前へやってきたのは、黒鷲槍の記録を受け取った後だった。
手には、黒い薄片がある。
紙ではない。
黒冠の影を薄く削り取ったような記録片だった。
犬飼ミツルが残した観測記録の写し。
そこに、黒鷲槍の内部で起きたことが刻まれている。
ただし、何でもかんでも見られるわけではない。
映るのは、犬飼が観測し、消さずに残したものだけだ。
鷲尾レントの命令。
八代玲臣が道札を踏んだ場面。
真壁ダンが救助を選んだ場面。
犬飼自身が、記録を消さずに送った痕跡。
全部ではない。
けれど、十分だった。
牧人は、セイランが読み上げた記録の内容を聞き終えて、しばらく黙っていた。
「……胸くそ悪いな」
低い声だった。
誰も茶化さなかった。
灰環核は名前を薄くする。
黒冠の旧体制は、名前を番号や役目に置き換える。
黒鷲槍は、帰り道を消す。
やり方は違う。
でも、根っこは似ていた。
そこにいたはずの誰かを、いなかったことにする。
牧人は、ゆっくり息を吐いた。
「まめじい」
「はい、親父殿」
「今の記録、受付で受ける」
まめじいは、すでに帳面を開いていた。
「承知しております」
早かった。
牧人が言う前から、筆が墨を含んでいた。
ヒナが梁の上で、少しだけ目を丸くする。
「やだ、まめじいの受付速度が怖い」
ナナが短く言った。
「仕事が早い」
豪志が大きな板を抱えながら、妙に感動した顔をした。
「まめじいさん、こういう時の筆圧が違いますね……!」
まめじいは咳払いをした。
「記録とは、残すためにあるものでございます」
「消されかけたなら、なおさらでございます」
ニコが板を出した。
消される前に、書く
牧人は頷いた。
「ああ」
「名前がなくても、ここに来たなら書く」
「呼ばれたくなくても、その意思は書く」
「帰り道を消されかけたなら、それも書く」
千景は、黙って聞いていた。
小太郎は千景の足元に座っていた。
牧人は千景を見た。
「黒鷲槍は、ああいう組織なのか」
千景は、少しだけ目を細めた。
「全部が全部、ああじゃないよ」
「真壁みたいなのもいる」
「犬飼みたいなのもいた」
「でも、鷲尾はそうなんだな」
「うん」
千景は短く答えた。
「鷲尾レントは、平気で人を道具にする。ろくなもんじゃない」
牧人の眉が動いた。
「ろくなもんじゃない、か」
「うん」
「黒冠では、強いだけの前衛より、帰り道を残す荷物持ちの方が大事な時がある」
「それが分からないやつは、ろくなもんじゃない」
クロの左が低く言った。
「前に立つだけなら壁だな」
中央が続ける。
「後ろを戻せぬ前衛は、ただの障害物だ」
右が静かに言った。
「だが、肉を運ぶ者は大事だ」
牧人は右を見た。
「また、肉の話か」
右が真顔で言った。
「肉は命だ」
ベロが鍋の前で深く頷いた。
「そうだ」
ヒナが梁の上で、少しだけ笑った。
「やだ、若頭とベロは相変わらず飯だ!」
千景も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
でも、すぐに目を伏せる。
「リオは、荷物持ちだった」
牧人は聞いた。
「仲間か?」
「うん」
「黒鷲槍に置いていかれた」
「餌みたいに使われかけた」
「でも、今は道を書く」
千景の声は軽くなかった。
「リオが残した青札で、黒鷲槍は戻れた」
「それが、いちばん効いたと思う」
「八代にか」
「うん、剣で勝つより、効いたかもね」
ナナが短く言った。
「荷物持ち、勝った」
ニコが板を出した。
荷物持ちの道、勝った
牧人は、その板を見て少しだけ笑った。
「そうだな」
「かなり、いい勝ち方だ」
ヒナが梁の上でお椀を抱え直した。
「八代は、悔しがってると思う」
豪志が手を上げた。
「親分さん、俺もその勝ち方カッコイイと思います!」
ナナが短く言った。
「豪志も頑張れ」
豪志は抱えていた板を慌てて持ち直した。
「はい!」
「俺は、板持ちとしてカッコよくなります!」
ニコが板を出す。
豪志、カッコよく
豪志は涙目で頷いた。
「その板だけでも、嬉しいです!」
ヒナが笑った。
「やだ、喜ぶの早い!」
少しだけ、空気が戻った。
だが、黒鷲槍の影はまだ消えていない。
---
まめじいは、新しい頁を開いた。
「では、記録を受理いたします」
牧人が聞いた。
「どう書く」
まめじいは筆先を整えながら言った。
「黒冠周辺大手攻略ギルド、黒鷲槍」
「隊長、鷲尾レント」
「臨時前衛、八代玲臣」
「退路軽視、囮配置、道札破損、記録消去指示」
「観測係、犬飼ミツル」
「編集前記録を保存、外部へ送信」
「第一隊隊長、真壁ダン」
「命令に反し、臨時探索者の救助を優先」
「鷲尾命令下より離脱」
ヒナがぽつりと言った。
「やだ、まめじいが読むと、本当に裁判みたい」
ナナが短く言った。
「悪いこと、たくさん」
ベロが鍋をかき混ぜながら言う。
「道を消すのは、悪い」
牧人は頷いた。
「悪いな」
千景が、少しだけ不思議そうに牧人を見た。
「マッキー、怒ってる」
「怒るだろ」
牧人は即答した。
「帰り道を消すってことは、帰ってくるなってことだ」
「そいつが生きて戻る可能性を、勝手に潰すってことだ」
「俺は、そういうのが一番嫌いだ」
千景は、少し黙った。
それから、目元を少しだけ柔らかくする。
「そっか」
「何だよ」
「いや、昔から、そういうところは変わってないんだなって」
千景は袋から一つ焼き菓子を取り出して食べた。
一口。
ゆっくり。
「……甘い」
ベロが真顔で頷いた。
「甘い飯」
「お菓子だってば」
千景が訂正する。
ベロは譲らない。
「甘い飯」
クロの右が低く言った。
「甘い肉はまだか」
牧人は言った。
「お前は本当に諦めないな」
「諦める理由がない」
ニコが板を出した。
甘い肉、保留
クロの右は少しだけ不満そうに唸った。
「保留か」
「検討するな」
牧人が言うと、ヒナがまた笑った。
本家は、本当にこういうところだった。
救いようのない記録が来ても、飯と菓子と肉の話が割り込む。
だが、それがなければ、たぶん息が詰まる。
千景は、少しだけそれを分かり始めていた。
---
黒い記録片の端が、まだ薄く光っていた。
セイランが目を細める。
「……まだ、続きがあります」
牧人は眉を寄せた。
「さっきので終わりじゃないのか」
「犬飼ミツルが送った写しの中に、未読の追記が残っていたようです」
「今、新しく届いたものではありません」
「送られた時点で、一緒に刻まれていた記録です」
ニコが板を出した。
記録、まだあった
ヒナが梁の上で言った。
「やだ、記録が多い!」
まめじいは真面目に頷いた。
「消されかけていた分、まとめて残したのでございましょう」
「量が多いのは、むしろ良いことでございます」
牧人は低く息を吐いた。
「まあ、消されるよりはいいな」
セイランは、黒い記録片に浮かぶ文字を読み上げた。
「鴉宮千景殿」
「この記録を受け取っていただけるなら、以後、黒冠内で消去される恐れのある観測記録を、可能な限り残します」
「私は戦えません」
「現場に立つこともできません」
「ですが、見たものを消さないことだけはできます」
門前が静かになった。
犬飼の声は、ここにはない。
ただ、残された文字だけがある。
それでも、その文字から、震えるような決意は伝わってきた。
千景は、記録片を見ていた。
「続きは」
セイランが読む。
「真壁ダンは、黒鷲槍第一隊の隊章を返却」
「現場判断により、今後は黒冠内救助線の支援を希望」
「ただし、鴉宮千景殿の指揮下に入るという表現については、本人が非常に嫌そうな顔をしました」
ヒナが梁の上で吹き出した。
「やだ、そこまで記録してるの!?」
ナナが短く言った。
「細かい」
豪志が目を輝かせた。
「犬飼さん、観測係としてかなり優秀ですね!」
「嫌そうな顔まで記録するとは!」
牧人が言った。
「そこ、重要なのか」
千景は少し笑った。
「真壁さんらしい。指揮下って言われるの、嫌がりそう」
「知ってるのか」
「うん、前に少しやり合った」
「現場をよく見る」
「鷲尾よりは、ずっとまし」
セイランが次を読む。
「犬飼ミツル、真壁ダン」
「今後の扱いについて、判断を求めます」
黒い記録片が、静かに揺れた。
本家の全員が、千景を見た。
千景は困った顔をした。
本当に困っていた。
「何で私を見るの」
牧人が即答した。
「黒冠の話だからだろ」
「そうだけど」
「姫だろ」
「えーっ、進んで引き受けた訳じゃないんだけど」
ヒナが梁の上でにやっと笑った。
「やだ、姫が役職から逃げようとしてる!」
千景はヒナを見上げた。
「ちょっと横にずれようとしただけ」
「それを逃げるって言うんだよ!」
ナナが短く言った。
「姫、がんばって」
「……」
ベロも鍋の前で言った。
「食ってから決めるか」
千景は少しだけ考えた。
「それは、正しいかも」
牧人が言った。
「おい、飯に逃げるな」
「飯は逃げ道じゃないよ。補給だよ」
クロの右が頷いた。
「正しい」
牧人は額を押さえた。
「お前ら、こういう時だけ団結するな」
小太郎が、千景の足元で鳴いた。
「わふ」
千景は小太郎を見る。
しばらく見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「分かったよ」
千景は、黒い記録片に向き直った。
「犬飼ミツルは、記録を見る係」
「黒冠の中でも外でも、消されそうな記録を残す」
「道が閉じそうなら知らせる」
「でも、勝手に現場を動かさない」
セイランが静かに頷く。
「観測記録役、という扱いでよろしいですか」
「うん」
「まだ仲間じゃない」
「でも、記録を消さないなら、信用できるところはある」
ヒナが梁の上で小さく言った。
「やだ、姫の判定が現実的」
ナナが短く言った。
「記録係」
千景は頷いた。
「そう。記録係」
それから、千景は続けた。
「真壁ダンは、現場で救助を手伝う係」
「迷子や負傷者を置いていかない」
「退路を守る」
「でも、勝手に私の前に出たら蹴る」
ヒナが笑った。
「やだ、最後の条件が物理!」
千景は真顔だった。
「大事だよ」
「前衛は、前に出られるから勝手に出る」
「でも勝手に出る前衛は、邪魔」
牧人は少しだけ笑った。
「分かる気がする」
セイランが記録片に向かって告げる。
「黒冠側、仮登録」
「犬飼ミツル、観測記録役」
「真壁ダン、現場救助役」
「いずれも、姫の正式な一党には非該当」
「必要時のみ連携」
千景は頷いた。
「それでいい」
「二人とも、まだうちの仲間じゃない」
「でも、使えるところに置く」
豪志が手を上げた。
「では俺も、本家の重要な役目として――」
ナナが即答した。
「板持ち係」
「もう決まってる!」
ニコが板を出した。
豪志、板持ち係
豪志は胸を押さえた。
「誇りを持ちます!」
牧人は呆れながら言った。
「持つのか」
「はい!」
「俺にも役割があるので!」
千景はそれを見て、少しだけ目を細めた。
役割がある。
それは、本家にも黒冠にも必要なことだった。
家にいる者。
道に立つ者。
飯を出す者。
記録を残す者。
板を持つ者。
役割は、名前と同じくらい、人をこの世に留めることがある。
ただし、押しつけられた役割は違う。
自分で受け取った役割でなければ、ただの鎖になる。
千景は、それを黒冠で嫌というほど見てきた。
---
灰環核の石板が、低く鳴った。
ごん。
門前の空気が、再び重くなる。
まめじいが帳面を抱え直した。
「親父殿」
「灰環核が、今の記録受理に反応しております」
牧人は嫌な顔をした。
「またか」
「あいつ、本当に受付を嫌がるな」
ニコが板を出す。
受付、効いてる
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、ラスボスに受付が効いてる!」
ナナが短く言った。
「効くなら、続ける」
ベロも頷いた。
「飯も出す」
クロの右が言った。
「肉も」
牧人はお玉を構えた。
「お前は少し黙れ」
まめじいが、石板の文字を読み上げる。
「外部記録、受理」
「消去対象、保持」
「帰還選別、阻害」
「家主方針、拡大」
「黒冠記録、混入」
牧人は眉を寄せた。
「混入って言い方が気に入らないな」
千景も黒い影を見た。
「灰環から見たら、黒冠の記録が入ってくるのは嫌なんだろうね」
「知ったことじゃないな、受付に来たなら受ける」
牧人は即答した。
まめじいが少しだけ嬉しそうに頷いた。
「親父殿らしいお言葉でございます」
ニコが板を出す。
来たなら、受ける
灰環の奥で、灰色の光が嫌そうに揺れた。
本当に嫌そうだった。
ヒナが梁の上でそれを見て笑った。
「やだ、今の板、灰環核にすっごく嫌われてる!」
牧人は言った。
「じゃあ、出しとけ」
ニコは誇らしげに板を掲げた。
来たなら、受ける
灰色の光が、さらに強く揺れた。
---
その時、仮受付の列にいた灰色の小さな影が、ぽつりと言った。
「記録……残る?」
まめじいが振り返る。
「はい」
「残します」
「名前、なくても?」
「なくても」
「呼ばれたくなくても?」
「呼ばれたくなくても」
灰色の影は、少しだけ皿を抱え直した。
ベロが出した粥は、もう半分ほど減っている。
「じゃあ……」
「あとで、考える」
まめじいは、優しく頷いた。
「はい」
「あとで、一緒に考えましょう」
ニコが板を出す。
あとで、考える
千景は、その板を見つめた。
あとで。
それは、すぐに決めろと言われ続けた者にとって、救いになる言葉だった。
すぐ名前を決めなくていい。
すぐ役割を選ばなくていい。
すぐ誰かのものにならなくていい。
すぐ帰り道を決めなくていい。
あとで考える。
その時間を与えられることが、どれほど大きいか。
黒冠の奥にいる名なしの者たちにも、この言葉が必要なのかもしれない。
千景は、少しだけ息を吐いた。
「黒冠にも、受付がいるね」
牧人が見る。
「作るのか」
「受付っていうか」
「道端の仮受付」
「名前を聞く場所」
「帰り道を聞く場所」
「呼ばれたくないなら呼ばない場所」
牧人は少し考えた。
「飯もいるな」
ベロが即座に言った。
「飯はいる」
クロの右も言った。
「肉もいる」
千景は笑った。
「黒冠の受付に肉を置いたら、魔物が集まりすぎるよ」
「では多めに置け」
「そういう問題じゃない」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、黒冠仮受付、開く前から肉不足!」
ナナが短く言った。
「水もいる」
ミズハが水桶の横から頷く。
「水場なら手伝えるわよ。黒冠の水、嫌な味しそうだし」
イシコがひびの入った受付小屋の柱を撫でながら言った。
「石もいる」
「黒冠、床、たぶん不安定」
イトが梁から糸を垂らす。
「糸、張る」
「迷子、落ちない」
ネムは右奥の戸口から、じっと見ていた。
「帰れなかった人も、寝る場所はいる」
それだけ言って、また布団を整えた。
牧人は、周囲を見渡した。
「お前ら、もう手伝う気なのか」
ナナが短く言った。
「困ってるなら」
ベロも言った。
「飯がいるなら」
クロの右が言った。
「肉があるなら」
「最後だけ理由が違うな」
千景は、少しだけ目を伏せた。
本家は家だ。
黒冠は道だ。
でも、道の途中にも、立ち止まる場所はいる。
名前を決める前に粥を食べられる場所。
呼ばれたくない名前を、無理に書かれない場所。
帰るか進むかを、あとで考えていい場所。
黒冠に、そんな場所があってもいいのかもしれない。
千景は、黒い影を見る。
「セイラン」
「はい、姫」
「黒冠側に、仮受付を作る」
「でも、本家のものにはしない」
「黒冠の道端に置く」
「来たやつに、名前と帰り道を聞く」
「嫌なら、聞かない」
「飯は……まあ、考える」
ベロが即座に言った。
「飯は考えなくていい」
「要る」
千景は苦笑した。
「じゃあ、要る」
クロの右が言った。
「肉も」
「肉はあとで」
右が不満そうに唸る。
ニコが板を出した。
黒冠、仮受付
飯、いる
肉、あとで
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、黒冠の新制度が板で決まっていく!」
牧人はその板を見て、少しだけ笑った。
だが、すぐに灰環の奥を見た。
灰環核の光は、まだ消えていない。
黒鷲槍の記録を受けたことで、灰環核はさらに本家を敵視するだろう。
黒冠にも仮受付を作るなら、黒冠の名なしと灰環の名なし、両方が動く。
話は増える。
問題も増える。
でも、牧人はもう、減るとは思っていなかった。
「まめじい」
「はい」
「黒冠仮受付の欄も作っとけ」
「承知いたしました」
まめじいは、ためらわず新しい頁を開いた。
ヒナが笑う。
「やだ、まめじいが新事業みたいに帳面を増やしてる!」
豪志が手を上げた。
「親分さん! 黒冠出張受付所という名称はどうでしょう!」
ナナが短く言った。
「だめ」
「早い!」
ニコが板を出した。
黒冠仮受付
豪志は板を見た。
「もう決まってる!」
牧人は頷いた。
「それが一番分かりやすい」
千景も言った。
「うん」
「それでいい」
黒冠の影が、門前で静かに揺れた。
拒んではいない。
ただ、重く見ていた。
灰環核の石板が、また低く鳴る。
ごん。
まめじいが顔を上げた。
「親父殿」
「灰環核より、新たな判定です」
牧人は嫌な顔をした。
「今度は何だ」
灰色の文字が、旧帳場の奥に浮かんだ。
外部記録保持、拡大。
黒冠名なし群、流入予測。
帰還選別、阻害増大。
受付機能、再排除要。
続いて、最後の一行。
名なし深層群、追加放出。
門前の空気が、凍った。
仮受付に並んでいた灰色の影たちが、びくりと震える。
ナナが短剣に手をかけた。
「来る」
クロの三つの首が、同時に低く唸る。
ベロが鍋の蓋を閉めた。
「飯、守る」
ニコが板を抱えた。
まめじいは帳面を閉じない。
牧人は、旧帳場の奥を睨んだ。
「また流す気か」
「名なしの子たちを」
千景が、静かに黒い大剣の柄へ手を置いた。
「灰環だけじゃない」
「今度は黒冠側にも反応するかもしれない」
「どういう意味だ」
「名前を失った子たちが、こっちを見た」
「黒冠の奥も、たぶん動く」
黒冠の影が、門前の端で深く広がる。
灰色の光と、黒い影。
二つの迷宮が、本家の仮受付を見ていた。
牧人は、まめじいの帳面と、ニコの板と、並んでいる名なしの影たちを見た。
それから言った。
「受付は閉めない」
ニコが板を出した。
受付、閉めない
灰環の奥で、灰色の光が膨れ上がった。
黒冠の影も、静かに濃くなる。
千景は、牧人の横に立った。
「黒冠側の名なしは、私が見る」
牧人は頷いた。
「灰環側は、俺が受ける」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、親父と姫が受付で並んだ」
ナナが短く言った。
「強い」
豪志が板を抱え直した。
「俺も板係として立ちます!」
ニコが新しい板を出した。
名なし受付、続行
ベロが鍋を叩いた。
「飯、追加」
クロの右が言った。
「肉も追加」
牧人は言った。
「今は言うと思った」
右は満足そうに鼻を鳴らした。
灰環核が、深層の扉を開こうとしている。
黒冠の奥も、それに呼応しようとしている。
本家の門前に、また新しい列ができようとしていた。
名前のない者たち。
帰り道を消された者たち。
記録から消されかけた者たち。
そのすべてを前にして、仮受付の板は、まだ出ていた。
名前、あとでいい
飯、先でもいい
並ぶ
そして、その隣にもう一枚。
受付、閉めない




