黒鷲槍に落ちた白い牙
《黒鷲槍》本部の観測室は、窓がない。
外から見れば、ただの攻略ギルドの本部だ。
だが、その地下にある観測室だけは、普通の部屋ではなかった。
壁には黒冠の管理点を映す観測盤が埋め込まれ、机の上には何枚もの記録板が並んでいる。
部屋の中央には、黒い水鏡。
そこに、黒冠大迷宮の通路が映っていた。
曲がった回廊。
閉じかけた扉。
毒が溜まる坂道。
黒雷の痕。
戻るはずだった道が、いつの間にか別の壁になっている場所。
犬飼ミツルは、その水鏡の前に座っていた。
彼は、黒冠で起きていることを見ている。
それが、《黒鷲槍》観測係の仕事だった。
黒冠は、普通の迷宮ではない。
地図が狂う。
退路が焼ける。
扉が閉じる。
魔物が階層ではなく、もっと古い支配に従って動く。
だから、《黒鷲槍》は観測室を作った。
どの道がいつ閉じたか。
どの札が焼けたか。
どの部隊が何分遅れたか。
どの荷物持ちが戻らなかったか。
記録する。
残す。
それが犬飼の仕事だった。
黒冠周辺の大手攻略ギルド、《黒鷲槍》。
装備もある。
人員もある。
観測室もある。
外冠から中層までの攻略記録も、他のギルドよりはるかに多い。
表向きは、黒冠攻略の第一線。
だが、犬飼は知っている。
黒冠で怖いのは、魔物だけではない。
記録を消せと言う人間も、同じくらい怖い。
犬飼は、古い記録板のひとつを見た。
そこには、かつての外冠回廊の映像が残っている。
黒い群れ。
餌にされた臨時荷物持ち。
黒い大剣を背負った女。
茶色いトイプードル。
そして、逃げなかった少年。
真柴リオ。
犬飼は、その記録を消さなかった。
消せと言われた。
《黒鷲槍》の隊長――鷲尾レントは、はっきり言った。
記録から消しておけ、と。
犬飼は、うなずいた。
そして、消さなかった。
別の棚。
別の記録箱。
誰も見ない場所。
そこに、そっと移した。
なぜかは、今も言葉にできない。
ただ、あの少年がいたことを、なかったことにしてはいけない気がした。
あの女が拾ったことを、数字にならないからと消してはいけない気がした。
犬飼は、観測係だった。
見たものを消したら、自分の仕事が死ぬ。
そう思っていた。
その日までは、それだけで足りていた。
その日までは。
---
観測盤の端に、新規加入者の名が浮かんだ。
犬飼は、ふと手を止めた。
八代玲臣。
元《白閃牙》前衛。
A級深層経験あり。
対大型魔物戦闘経験あり。
前線突破能力、高。
現場判断、要監督。
退路管理、低評価。
臨時戦力として黒冠外冠攻略隊へ編入。
犬飼は、その文字を何度か見返した。
白閃牙。
別の都市圏で名の通った攻略ギルドだ。
そこの前衛だった男が、なぜ黒鷲槍に流れてきたのか。
資料の行間は、多くを語らない。
だが、犬飼には分かった。
拾ったのではない。
置かれたのだ。
使いやすい場所に。
戦闘能力は高い。
前に出る。
名誉欲がある。
過去に傷がある。
取り返したいものがある。
そういう人間は、黒冠では使いやすい。
そして、壊れやすい。
犬飼は、観測盤の端に小さく記した。
八代玲臣。
戦闘力あり。
退路意識、低。
鷲尾隊長、臨時前衛として採用。
要観測。
その時、背後の扉が開いた。
「犬飼」
鷲尾レントが入ってきた。
整った制服。
無駄のない歩き方。
声はいつも低く、乱れない。
この男は怒鳴らない。
怒鳴らずに、人を置いていく。
「八代の登録は済んだか」
「はい。臨時前衛として、黒冠外冠攻略隊に編入済みです」
「前に出せるか」
犬飼は一瞬だけ黙った。
「前衛能力は高いです」
「ただ、黒冠で必要な退路確認や道札への理解は、まだ不足しています」
鷲尾は、興味がなさそうに言った。
「前に出せるかと聞いた」
犬飼は、唇を結んだ。
「……出せます」
「なら十分だ」
鷲尾が出ていく。
扉が閉まる。
犬飼は、水鏡に映る千景の姿を見た。
黒い大剣。
茶色い犬。
その後ろを歩く、リオ。
犬飼は、記録板に手を置いた。
消さなかった記録は、まだそこにある。
まだ、消えていない。
---
訓練場では、八代玲臣が剣を振っていた。
重い剣だった。
黒冠の外冠でよく出る甲殻魔物を想定した、厚い刃。
八代はそれを、力任せに振るう。
速い。
重い。
実際、弱くはない。
模擬の黒甲殻が、正面から割れた。
周囲の隊員が、少しざわつく。
八代は剣を肩に担ぎ、笑った。
「黒冠だろうが、前を斬れば進める」
その声を聞いて、訓練場の端にいた真壁ダンが顔を上げた。
黒鷲槍第一隊隊長。
無骨な男だった。
鷲尾の右腕と呼ばれている。
だが、犬飼は知っている。
真壁は、鷲尾とは違う。
真壁は現場を見る。
良くも悪くも、目の前の人間を見てしまう。
真壁は八代に近づいた。
「前しか見ないやつは、黒冠で後ろから死ぬ」
八代の眉が動く。
「何だと」
「黒冠は、斬れば進める場所じゃない」
「戻る道を見ない前衛は、味方を殺す」
八代は鼻で笑った。
「俺は白閃牙の前衛だった」
「そこらの荷物持ちとは違う」
真壁は、八代を見下ろした。
「だった、だろ」
訓練場の空気が固まった。
八代の顔が、わずかに歪む。
「……何だと」
「元、白閃牙」
「今は黒鷲槍の臨時前衛」
「肩書きで道は戻らない」
八代の手が剣の柄を握る。
真壁は動かなかった。
「黒冠で前に出たいなら、まず戻る道を覚えろ」
八代は低く言った。
「説教か」
「現場の話だ」
八代は舌打ちした。
「黒冠の連中は、後ろ向きな話ばかりする」
「道だの退路だの」
「敵を倒せば進めるだろうが」
真壁の目が冷えた。
「その考えで来るなら、俺の隊では動くな」
八代が言葉を詰まらせた。
周囲の隊員が目を逸らす。
真壁は、それ以上言わなかった。
ただ、犬飼の方を見た。
「犬飼」
「今日の実地、観測を厚くしろ」
犬飼は頷いた。
「はい」
真壁は八代に戻る。
「お前も映る」
「勝手に動けば、残るぞ」
八代は笑った。
「残せばいい」
「俺が黒冠で結果を出すところをな」
犬飼は、何も言わずに記録板を握った。
その強気が、ひどく危うく見えた。
---
作戦室には、黒冠外冠の地図が広げられていた。
ただし、黒冠の地図は信用しすぎてはいけない。
通路は動く。
扉は閉じる。
毒道は濃くなる。
戻るつもりだった橋が、ある日、壁になる。
犬飼は、観測盤の横に立って説明していた。
「今回の再調査区域は、外冠南西回廊」
「過去に上位群体の出現が確認された地点です」
「現在は主群の反応は薄いですが、退路変動が増えています」
真壁が地図を見て言った。
「鴉宮の道札は」
犬飼は一瞬だけ鷲尾を見る。
鷲尾は無表情だった。
犬飼は、必要最低限だけ答えた。
「三箇所で確認」
「真柴リオの記録札と思われる青札が、退路上で機能しています」
八代が鼻で笑う。
「女一人が、迷宮を仕切ってるとでも?」
真壁は即答した。
「仕切っている」
作戦室が静まり返った。
真壁は地図を指で叩く。
「黒冠で道を残すのは、今は鴉宮千景だ」
「扉も、魔物も、影も、あの女の動きに反応している」
「認めたくなくても、黒冠はもう姫を中心に回っている」
八代の笑みが消えた。
「黒鷲槍がそれを認めるのか」
真壁は低く返した。
「認める認めないの話じゃない」
「帰るための話だ」
作戦室が少し静かになった。
八代は笑い飛ばそうとしたが、笑いが浅かった。
「迷信か」
犬飼が小さく言った。
「観測記録では、事実です」
八代が犬飼を睨む。
犬飼は少し肩を縮めたが、言葉は引っ込めなかった。
「鴉宮千景が通過した後の道は、短時間ですが崩落率が下がります」
「真柴リオの青札がある退路は、帰還率が高い」
「小太郎と呼ばれる小型犬については、複数の魔物が回避反応を示しています」
鷲尾が口を開いた。
「そこまでだ、犬飼」
犬飼は黙る。
鷲尾は静かに言った。
「今回の目的は、外冠回廊の再確保」
「鴉宮千景の評価会ではない」
八代が口の端を上げた。
鷲尾は地図の一点を指した。
「八代」
「お前は先行前衛として、南西回廊の封鎖点を開く」
「真壁、お前は第一隊の指揮」
「犬飼、全行程を記録しろ」
「はい」
犬飼は答えた。
鷲尾の指が、地図の端にある小さな印で止まる。
そこには、臨時探索者三名、荷運び二名、と書かれていた。
「この五名を補助に使う」
真壁の目が細くなる。
「補助ですか」
「荷物と札運びだ」
「黒冠では足が必要になる」
真壁は黙った。
犬飼は、その沈黙を記録した。
---
実地攻略は、最初から嫌な匂いがした。
黒冠の空気は重い。
壁が近い。
音が吸われる。
足音だけが妙に遠くへ響く。
臨時探索者たちは、緊張した顔で荷を背負っていた。
正式な黒鷲槍の隊員ではない。
日銭のために雇われた者。
札を運ぶ者。
荷を運ぶ者。
危険な道で、最初に息が切れる者。
八代は彼らを見て、顔をしかめた。
「足手まといだな」
臨時探索者の一人が、びくりと肩を震わせる。
真壁が低く言った。
「荷を運ぶ者がいなければ、前衛は薬も札も使えない」
八代は笑う。
「なら、役に立つ位置に置けばいい」
その言い方に、犬飼の指が止まった。
水鏡越しでも分かる。
真壁の目つきが変わった。
「八代」
「何をする気だ」
「安全確認だ」
八代はそう言って、臨時探索者の一人に手を振った。
「お前、先に行け」
「十歩進んで、戻れ」
臨時探索者は青ざめた。
「え……」
「聞こえなかったのか」
真壁が割って入る。
「待て」
「その先は札が入っていない」
八代は真壁を見る。
「だから確認するんだろ」
「囮だろうが」
低い声だった。
回廊の空気が、さらに重くなる。
八代は肩をすくめた。
「黒冠では普通にやるんじゃないのか」
「戻れない道があるなら、軽いやつを先に出す」
「合理的だ」
真壁が一歩近づいた。
「その配置を組むな」
八代は笑った。
「トップは鷲尾さんだろ」
「お前は現場の番犬」
真壁の顔から表情が消えた。
その瞬間だった。
通路の奥で、黒い扉が閉じた。
ごん。
犬飼の観測盤に警告が走る。
退路札、二枚不安定。
南西回廊、封鎖開始。
毒道濃度、上昇。
犬飼は叫んだ。
「真壁さん!」
「右退路、閉じます!」
「臨時探索者を下げてください!」
真壁が即座に動いた。
「全員、後退!」
「札持ちは中央へ!」
だが、八代は逆に前へ出た。
「今なら抜ける!」
「八代、戻れ!」
真壁の声を無視して、八代は剣を抜いて走った。
臨時探索者が一人、つられて前に出る。
黒い扉の隙間から、影のような魔物が流れた。
八代は一体を斬った。
確かに斬った。
だが、その足元の道札を踏み割った。
犬飼の観測盤が赤く染まる。
退路札、破損。
退路認識、乱れ。
臨時探索者二名、孤立。
犬飼の喉が詰まった。
「札が……」
真壁が怒鳴る。
「八代!」
八代は振り返った。
「魔物は斬った!」
真壁の怒りが、声を低くした。
「道を殺したんだよ、お前は!」
八代は一瞬、意味が分からない顔をした。
その間に、臨時探索者の一人が毒道へ膝をついた。
「助け……」
真壁が即座に走った。
「救助優先!」
「第一隊、右を開けろ!」
通信石から、鷲尾の声が入った。
「前進継続だ、真壁」
「封鎖点は近い」
「臨時の二名は捨てろ」
真壁の足が止まった。
犬飼は、水鏡の前で固まる。
鷲尾の声は、いつも通りだった。
怒ってもいない。
焦ってもいない。
ただ、荷物を一つ置くような声。
「真壁」
「聞こえているな」
「攻略を止めるな」
真壁は、毒道で倒れかけた臨時探索者を見た。
その奥で、八代が苛立ったように言う。
「進めるんだろ」
「なら進めばいい」
「足手まといを拾っていたら、黒冠なんか攻略できるか」
真壁は、八代を見た。
「お前は一度、誰かを置いていった顔をしている」
八代の顔色が変わった。
「……何だと」
「分かるぞ」
「そういう顔は、現場で嫌というほど見てきた」
「置いていった後に、自分は悪くないと言い続ける顔だ」
八代の剣が震える。
「黙れ」
真壁は通信石を握った。
「鷲尾隊長」
「救助を優先する」
鷲尾の返答は冷たかった。
「命令違反だ」
「現場判断です」
「俺の命令より、自分の判断を優先するのか」
真壁は、短く答えた。
「はい」
通信の向こうが、静かになった。
犬飼は、その一言を記録した。
手が震えていた。
だが、記録した。
---
「犬飼」
鷲尾の声が、観測室にも直接入った。
犬飼は背筋を伸ばす。
「はい」
「今の観測記録を処理しろ」
犬飼は、口の中が乾くのを感じた。
「処理、とは」
「八代隊の配置ミスは、迷宮変動」
「道札の破損は、黒冠の不規則干渉」
「真壁の命令違反は、通信不良による現場混乱」
「臨時探索者の負傷は、黒冠毒道の急変」
犬飼は、水鏡を見た。
そこには、全部映っている。
八代が臨時探索者を先に出そうとしたこと。
真壁が止めたこと。
八代が札を踏み割ったこと。
鷲尾が捨てろと言ったこと。
真壁が救助を選んだこと。
全部。
犬飼は、低い声で言った。
「これは、迷宮変動ではありません」
鷲尾の声が、少しだけ低くなる。
「犬飼」
犬飼の手が震える。
怖い。
上に逆らうのは怖い。
黒鷲槍に残れなくなるかもしれない。
観測室から追い出されるかもしれない。
自分の居場所がなくなるかもしれない。
それでも、犬飼は観測盤に手を置いた。
「これは、人間の判断です」
「八代玲臣の配置」
「鷲尾隊長の前進命令」
「真壁隊長の救助判断」
「全て、観測記録に残っています」
「消せ」
短い命令だった。
犬飼は、目を閉じた。
脳裏に、昔の映像が浮かぶ。
黒い群れ。
餌にされた少年。
それを拾った女。
茶色い犬。
消せと言われた記録。
あの時、自分は消さなかった。
なら、今も消せない。
犬飼は、観測盤の側面に指を走らせた。
編集前記録。
写し作成。
送信先、二つ。
監察局。
それから、黒冠の姫の道へ。
犬飼は小さく息を吐いた。
「観測記録は、消してはいけません」
鷲尾の声が消えた。
いや、通信が切られた。
犬飼の手元に、赤い警告が浮かぶ。
観測権限、一部停止。
犬飼は笑わなかった。
ただ、震える手で、記録の送信完了を確認した。
送信済み。
それだけで、少し息ができた。
---
現場では、真壁が毒道へ踏み込んでいた。
「動けるやつからこっちへ来い!」
「荷を捨てろ!」
「命が先だ!」
臨時探索者の一人が泣きそうな声を上げる。
「荷を捨てたら、報酬が」
真壁が怒鳴った。
「生きて戻れば、俺が払う!」
八代が叫ぶ。
「勝手なことをするな!」
「お前、黒鷲槍を裏切る気か!」
真壁は、毒に足を焼かれながら振り返った。
「隊員を切り捨てる命令には従わない」
「臆したのか」
真壁の目が据わる。
「違う」
「お前らみたいになりたくないだけだ」
八代の顔が赤くなる。
「俺ら、だと?」
真壁は答えなかった。
その時、黒い扉が、ぎい、と鳴った。
閉じかけていた退路の隙間に、青い札が一枚貼りつく。
青い光が細く伸びる。
リオの青札は、ただの目印ではない。
近くにある同じ札同士を、短い間だけつなぐ。
声も、光も、帰る方向も。
黒冠で迷子を出さないために、リオが何度も作り直した道具だった。
犬飼の通信が、雑音混じりに入った。
「右通路、三十秒だけ開きます」
「青札の反応があります」
「真柴リオの札です」
「まだ帰還点として生きています」
真壁が顔を上げる。
壁際に、青い札が一枚貼りついていた。
黒冠の影に半分呑まれかけながらも、まだ細く光っている。
八代が顔をしかめた。
「真柴リオ……誰だ、それは」
犬飼の声が一瞬だけ詰まった。
「以前、黒鷲槍の作戦で置き去りにされた臨時荷物持ちです」
「鴉宮千景に救助された後、退路を残すようになった少年です」
「その札が、まだ生きています」
真壁は、臨時探索者を支えながら言った。
「使えるのか」
「はい、三十秒だけなら、退路になります」
八代が怒鳴った。
「信用できるのか!」
真壁は即答した。
「戻る道があるなら使う」
青札が、ぱちりと小さく鳴った。
閉じかけていた扉の隙間が、細く開く。
黒冠の影が、内側から押し返された。
そこへ、小さな足音がした。
とことこ、と。
茶色いトイプードルが、扉の向こうから現れた。
小太郎だった。
続いて、黒い大剣を背負った女が、一人だけ出てくる。
鴉宮千景。
他には誰もいない。
千景は、小太郎の反応と青札の光だけを辿って、ここへ来たのだ。
千景は真壁の後ろにいる臨時探索者たちを見た。
毒で膝をついている者。
荷を捨てられずに震えている者。
帰り道を見失いかけた者。
千景の目が、少しだけ冷えた。
「また、置いてくの?」
真壁は短く言った。
「俺は拾う側に回る」
「救助線に入れてくれ」
千景は真壁を見る。
「踏み荒らさないなら」
「荒らさん」
「じゃあ、こっち」
八代が顔を歪める。
「お前……」
千景は、そこで初めて八代を見た。
「誰?」
千景は、八代に興味がなさそうだった。
八代の顔が固まった。
白閃牙の前衛だった自分。
黒鷲槍に拾われた自分。
もう一度、誰かに認められるはずだった自分。
その全部を、千景は一言で通り過ぎた。
誰?
八代の顔から、血の気が引いた。
犬飼の通信が、低く入った。
「記録上、退路札を踏み割ったのは八代玲臣です」
「それにより、臨時探索者二名が孤立しました」
真壁も言った。
「その男が、道札を踏んだ」
千景の目が、初めて八代をまともに見た。
「へえ」
声は軽かった。
でも、空気が変わった。
「道を踏んだんだ」
八代は言い返す。
「うるさい! 魔物を斬ったんだ。札一枚がなんだ」
千景が一歩前に出た。
「札一枚じゃないよ」
「帰るための道しるべだよ」
青札が、千景の足元で細く光っている。
かつて餌にされかけた荷物持ちが残した、帰るための印。
千景は続けた。
「黒冠では、道を軽視したやつからくたばる」
八代の顔が歪む。
「無所属の女が、俺に」
真壁が遮った。
「八代、黙れ」
八代が振り返る。
「お前まで」
真壁は、臨時探索者を肩に担ぎながら言った。
「お前は今、前衛じゃない」
「退路を壊した荷物だ」
八代が絶句した。
その言葉は、かなり効いた。
荷物。
かつて、牧人をそう扱う側だった男が、今度は現場の足を引っ張る荷物と言われた。
千景は、少しだけ首を傾げる。
「荷物に失礼じゃない?」
真壁は一瞬だけ目を閉じた。
「……訂正する」
「八代、お前は危険物だ」
千景が頷いた。
「それなら分かる」
八代の手が剣に伸びる。
その瞬間、小太郎が一歩前に出た。
「わふ」
たった一声。
八代の足が止まった。
なぜ止まったのか、八代本人にも分からなかっただろう。
体が、本能で止まった。
千景は言った。
「今、それを抜いたら、小太郎が怒るよ」
八代は、茶色いトイプードルを見た。
「犬が、何だ」
小太郎は、ただ見上げていた。
八代の喉が、小さく鳴った。
犬飼は、その映像を水鏡で見ていた。
そして、震える手で記録した。
八代玲臣。
犬を前に、抜剣停止。
理由、不明。
本人、自覚なし。
犬飼は、思わず小さく呟いた。
「……これも、消せない」
---
救助は、長くはかからなかった。
長くかけられる状況ではなかった。
青札が細く光っている。
リオが以前に残した退路の印。
それが今、黒冠の影に半分呑まれながらも、まだ消えずに道を示していた。
犬飼の通信が、途切れ途切れに入る。
「青札の光を追ってください」
「左の赤い影には入らないでください」
「そこは、あと十秒で閉じます」
真壁が負傷した臨時探索者を肩に担いだ。
「聞いたな」
「青い方へ行け!」
臨時探索者たちが、よろめきながら青札の光へ向かう。
千景は前に立っていた。
黒い大剣を抜き、閉じかける扉と影の魔物の間に立つ。
足元では、小太郎が低く唸っていた。
影の魔物たちは、小太郎の前で足を止める。
近づきたいのに、近づけない。
千景はその隙に、剣の腹で床を叩いた。
風が走る。
影の群れが、少しだけ押し戻された。
「今」
真壁が叫ぶ。
「行け!」
臨時探索者が一人、青い光の先へ転がるように走った。
続いて二人目。
毒で足が動かない者は、真壁が背負った。
犬飼の声が、さらに細くなる。
「青札の反応、弱まっています」
「急いでください」
八代は、その外側に立っていた。
剣を握っている。
魔物を斬る力はある。
だが、誰も八代に指示を求めない。
誰も八代の前進を待たない。
今この場で必要なのは、敵を一体斬ることではなかった。
青札を踏まないこと。
退路を壊さないこと。
負傷者を戻すこと。
閉じる前に、全員を通すこと。
そのどれも、八代はできていなかった。
犬飼の声が、淡々と告げる。
「八代玲臣」
「現在、救助線外で停止」
「救助行動、確認できません」
八代の顔が歪んだ。
「ふざけるな」
「俺はまだやれる」
「俺は前衛だ!」
千景は振り返らなかった。
影の群れを押さえたまま、軽く言う。
「前に立ってるだけなら、邪魔な壁」
八代の息が止まる。
真壁が負傷者を背負ったまま、低く続けた。
「前衛は、後ろを戻すために前に立つ」
「それが分からないなら、お前は前衛じゃない」
八代は、何も返せなかった。
剣を握っている。
力もある。
魔物を斬ることもできる。
だが、この場で人を戻しているのは、かつて荷物持ちだった少年が残した青札だった。
外から道を読んでいるのは、記録を消さなかった観測係だった。
負傷者を背負っているのは、命令を捨てた真壁だった。
そして退路の前に立っているのは、千景だった。
八代玲臣は、そこにいた。
だが、救助線の中にはいなかった。
最後の臨時探索者が青い光の先へ抜ける。
犬飼の声が震えた。
「全員、通過確認」
「青札、反応低下」
青い光が、ふっと細くなる。
扉が重く閉じた。
ごん。
黒冠の道が、また沈黙する。
千景は剣を背に戻し、小太郎を見下ろした。
「小太郎、戻ろう」
小太郎は千景を見上げて、シッポを振った。
真壁は息を切らしながら、八代を見た。
八代はまだ、剣を握ったまま動けなかった。
黒冠は、嫌になるほどはっきり見せつけていた。
剣を振るだけの前衛より、帰り道を残した荷物持ちの方が、今この場では役に立っている。
---
救助が終わった後、真壁は黒鷲槍の通信石を床に置いた。
鷲尾の声が、そこから低く響く。
「真壁」
「戻れ」
「処分は後で決める」
真壁は通信石を見た。
「処分は要らん」
「何?」
「俺は黒鷲槍を抜ける」
通信の向こうが、一瞬だけ黙った。
鷲尾の声は、それでも乱れなかった。
「今の自分の発言を理解しているのか」
「している」
「帰り道を潰して進む攻略に、現場はついてこない」
「俺も、もうついていかない」
「黒鷲槍での地位を捨てる気か」
真壁は、臨時探索者たちを見た。
震えている者。
毒で顔を青くしている者。
それでも生きている者。
「捨てる」
「こいつらを捨てるよりは、軽い」
鷲尾の声が低くなる。
「後悔するぞ」
真壁は通信石を踏み砕いた。
ばきん。
通信が切れた。
千景がそれを見ていた。
「いいの?」
「ああ」
真壁は正直に言った。
「もう、戻る気はない」
千景は頷いた。
「そう」
「驚かないのか」
「黒冠で帰り道を潰す組織にいたら、長生きできない」
真壁は少しだけ笑った。
「それはそうだな」
犬飼の声が、別の小さな通信片から聞こえた。
「真壁さん」
「犬飼か」
「僕も、戻れないと思います」
「観測権限を切られました」
「編集前記録は、監察局と鴉宮側へ送りました」
真壁は目を細める。
「お前、やったのか」
「はい」
「怖いです」
「でも、消せませんでした」
犬飼は、しばらく黙った。
それから、小さく答えた。
「観測係なので」
「見たものを、消したくありません」
千景は少しだけ笑った。
---
一方、黒鷲槍の観測室では。
鷲尾レントが、無言で犬飼の席を見ていた。
観測盤の一部は空になっている。
編集前記録は消えていない。
すでに送られた後だ。
八代は、戻ってきてからずっと黙っていた。
いや、黙っているというより、言葉を探していた。
「俺は悪くない」
ようやく出た声は、それだった。
鷲尾は八代を見ない。
「役に立たなかったな」
八代の顔が引きつる。
「……」
「魔物は斬った」
「だが、退路を壊した」
「真壁を離反させた」
「犬飼に記録を流された」
「臨時探索者は鴉宮側に救助された」
「結果として、こちらの損害だけが増えた」
淡々とした声だった。
八代は拳を握る。
「俺はまだやれる」
鷲尾は、ようやく八代を見た。
「このざまでか」
八代は言い返せなかった。
黒鷲槍に拾われたと思っていた。
もう一度、前衛として返り咲けると思っていた。
だが、今の八代に残ったのは、真壁の言葉だけだった。
危険物。
荷物より悪い。
そして、千景の一言。
誰?
八代の奥歯が鳴った。
「鴉宮千景……」
その名だけを、憎しみのように呟いた。
鷲尾は、そんな八代を見て、静かに言った。
「使えるなら使う」
「使えないなら捨てる」
八代は、その言葉に気づいていなかった。
自分が、今度は使われる側に置かれていることに。
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犬飼ミツルは、観測室には戻らなかった。
真壁ダンは、黒鷲槍の隊章を外した。
臨時探索者たちは、千景の道札を追って生還した。
八代玲臣は、黒鷲槍に残った。
残れたのではない。
残された。
鷲尾レントの手元に、まだ使えるかもしれない駒として。
その日、《黒鷲槍》は二人を失った。
一人は、現場を見る前衛。
もう一人は、記録を消さない観測係。
そして、黒冠の姫は、二つの目を得た。
一つは、現場で人を置いていかない目。
もう一つは、外から見た真実を消さない目だった。




