マッキーは、チカと呼ばなかった
本家の仮受付には、まだ列ができていた。
受付小屋は、まだ補修中だった。
柱にはひびが残り、入口の板は少し傾いたままだ。
それでも、まめじいの帳面は開いている。
ニコの板も出ている。
名前、あとでいい
飯、先でもいい
並ぶ
灰色の小さな影たちは、その板の文字を見つめながら、律儀に順番を待っていた。
名前を持たない者たち。
番号だけで呼ばれていた者。
役目だけを与えられていた者。
名前を覚える前に、奥へ沈められていた者。
まめじいは一体ずつ、丁寧に聞いた。
「お名前を」
「……ない」
「では、今は未定と書きますね」
「飯は、食べますか?」
「ほしい」
「ベロ殿、粥を」
「出す。熱いから気をつけろ」
同じやり取りが、何度も繰り返された。
けれど、不思議と流れは止まらなかった。
仮受付一番。
仮受付二番。
仮受付三番。
名前ではない。
だが、確かな記録だった。
記録されたものは、少なくとも、この世にいなかったことにはならない。
どうやら灰環核は、その事実が気に入らないらしい。
旧帳場の奥で、灰色の光が何度も激しく揺れていた。
「仮記録、増加」
「名薄化、阻害」
「帰属点、拡大」
まめじいがその冷たい文字を読み上げるたびに、牧人は眉間にしわを寄せた。
「だから、まだ名前は決めてないって言ってるだろ」
「ただの仮の番号だ」
ヒナが梁の上で、お椀を抱えて泣き笑いする。
「やだ、親父がラスボス相手に、名前は勝手につけないって真面目に説明してる!」
ナナが短く言った。
「同意、大事」
「押しつけは、だめ」
ニコが板を出す。
名前は、勝手に決めない
牧人は頷いた。
「そうだ」
「本人が嫌なら、いくらでも後でいい」
ベロが粥をよそいながら言った。
「飯は、今でいい。待たなくていい」
「そこだけは絶対に譲らないな、ベロ」
「温かいうちが、一番うまい」
「それはそうだが」
そんな、いつも通りの本家の空気の中で。
門前の端に伸びる影が、静かに、そして重く揺れた。
黒い影だった。
灰環の、あの不気味な灰色ではない。
もっと深く、どこまでも沈んだ黒。
黒冠の影。
ニコが最初に気づいて板を出した。
黒冠、来た
牧人が顔を上げる。
影の端から、千景が姿を現した。
足元には、茶色いトイプードルの小太郎。
手には、街で買ってきた焼き菓子の紙袋がある。
千景は袋から一つ取り出し、齧りながら仮受付の列を見ていた。
いつも通り食べている。ただし、減るのが遅い。
一口齧ったまま、灰色の影たちを長く見つめている。
ヒナが梁の上から、興味深そうに目を細めた。
「姫、お菓子食べてる」
ナナが短く言った。
「甘い匂い」
ベロも鍋の前で、大真面目に頷いた。
「菓子」
ヒナは、少しだけ声を落とした。
「姫、あの子たちを見てる」
ナナが短く言った。
「うん」
「顔、違う」
千景は、何も言わずに仮受付の列を見ていた。
灰色の影たち。
名なしの個体。
未定と書かれて、ベロの温かい粥を受け取り、少しずつその輪郭を戻している者たち。
千景は、笑わなかった。
いつもの、あの掴みどころのない軽さがない。
牧人は、その表情を見て、喉元まで出かけた声を言いかけた。
「チ――」
そこで言葉を止めた。
空気が、小さく張り詰める。
千景の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの少し。
他の者なら確実に見逃すほどの小さな揺れ。
けれど、牧人はそれを見た。
名前が嫌なわけではない。
千景は、千景と呼ばれることには慣れている。
黒冠の姫と呼ばれることにも、面倒だと思いながら、もう慣れている。
けれど、その二文字だけは違った。
チカ。
昔の距離のまま、昔の痛みごと引き戻される呼び方。
牧人だけが、まだ何もなかった頃の声で呼べてしまう名前。
だから、千景は揺れた。
牧人は、その揺れを見た。
そして、その二文字を飲み込んだ。
「……今は、何て呼べばいい」
門前が、静まり返った。
ヒナも茶化さず、豪志も板を持ったまま、神妙な顔で口を閉じている。
かなり偉かった。
千景は、牧人を見た。
「何て?」
「呼び方だ」
「チカって、呼びそうになった」
「でも、今それで呼んでいいのか分からなかった」
千景は答えない。
牧人は続けた。
「千景でいいのか」
「黒冠の姫って呼ばれた方がいいのか」
「それとも、今は呼ばない方がいいのか」
「俺が勝手に昔の呼び方を使うのは、違うだろ」
千景は手の中の焼き菓子を見る。
甘い菓子の匂いがする。
千景は、仮受付に並ぶ灰色の影たちを見た。
まめじいが、一体ずつ聞いている。
名前がないなら、未定と書く。
呼ばれたくないなら、呼ばない。
嫌な番号なら、書かない。
飯だけ先でもいい。
そのやり取りを、千景はずっと見ていた。
牧人は言った。
「今、目の前の受付で、ずっと同じことをやってるからな」
灰色の影の一体が、浅い皿を抱えながら、不思議そうに二人を見ていた。
名前のない者たちが、黙って二人の言葉に耳を傾けている。
まめじいも、筆を止めて見守っていた。
牧人は、千景を真っ直ぐに見つめた。
「だから、お前にも同じことを聞く」
「今、何て呼べばいい」
千景は答えなかった。
すぐには、言葉が出てこなかった。
小太郎が、千景の足元で小さく、優しく鳴いた。
「わふ」
千景は、少しだけ目を伏せた。
「……千景でいい」
短い声だった。
少し遅れて、付け足す。
「今は」
牧人は頷いた。
「分かった」
それから、ちゃんと呼んだ。
「千景」
千景は、その呼び方を聞いた。
少し遠い。
けれど、嫌ではなかった。
今の自分を見て、呼び直された名前だった。
千景は焼き菓子をもう一口食べた。
「でも、ずっと禁止したわけじゃないからね」
「分かってる」
「使っていい時は、お前が決めろ」
千景は少しだけ笑った。
「そういうところ、真面目だね」
「真面目かな」
ニコが、そっと板を出した。
勝手に呼ばない
千景はその文字を見て、もう一度笑った。
そして焼き菓子を口へ放り込んだ。
---
仮受付の列が、また一つゆっくりと進んだ。
まめじいが筆を構える。
「お名前を」
「……ない」
「では、今は未定と書きますね」
「呼ばれたく、ない」
「では、呼びません」
「ただし、あなたの順番はここにしっかりと残します」
まめじいは、帳面にさらさらと書き留めた。
仮受付十一番。
名、未定。
今は呼ばれたくない。
飯、少し。
右奥では、ネムが布団を一枚ずつ敷いていた。
「名前、あとでいい」
「眠いなら、先に寝ていい」
その短い声に、灰色の影が少しだけ安心したように頷いた。
その文字を、千景はじっと見つめていた。
今は呼ばれたくない。
その一文を。
まめじいは、まるで何でもない日常の記録のように書いた。
だが、それを帳面に残すのは、普通の受付ではあり得ない。
名前がなければ困る。
呼び名がなければ、欄が埋まらない。
欄が埋まらなければ、先へ進めない。
でも、この本家の受付は違った。
呼ばれたくない。
それすら、大切な意思として記録する。
牧人が横から声をかける。
「飯は食うか?」
灰色の影は、小さく頷いた。
「少し、ほしい」
ベロがすぐに、浅い皿を差し出した。
「少し、出す」
「熱いから気をつけろ」
ニコが板を出す。
少しでもいい
ヒナが梁の上で、目元をこすりながらまた泣き笑いした。
「やだ……」
「受付がどんどん、世界一優しい場所になっていくじゃない」
ナナが短く言った。
「いいこと」
「飯が出るのは、いいこと」
「うん」
ヒナは頷いた。
「いいことだね」
千景は、その光景を眺めながら、ぽつりと言った。
「黒冠にも、いるよ」
牧人が千景を見た。
「何が」
「名前を失ったやつ」
「ただの番号だけで呼ばれていたやつ」
「役目だけを渡されて、名前なんか与えられなかったやつ」
「呼ばれたくない、嫌な名前しか持ってないやつ」
千景の声は、静かだった。
「黒冠の奥にも、たくさんいるよ」
「そういう子たち」
黒冠の影が、足元でわずかに深くなる。
まるで、その千景の言葉に反応したように。
セイランが、静かに姿を現した。
いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
「姫」
千景は振り返らなかった。
「分かってるよ」
セイランは静かに報告を続ける。
「黒冠内にも、名なし個体の記録は存在します」
「ただし、黒冠では多くの場合、名の欠落は、所有の記録と役割の記録に置き換えられています」
ヒナが、露骨に嫌そうな顔をした。
「やだ、言い方がもう嫌い」
「冷たい」
ナナが短く言った。
「嫌い」
「ものじゃないのに」
牧人も眉を寄せた。
「所有って、誰が誰を自分のものにするんだよ」
セイランは淡々と答える。
「旧体制では、強い個体が弱い個体を所有することがありました」
「番号、用途、配置」
「名ではなく、その三つで管理される者も存在しました」
千景が、紙袋を握る手に少しだけ力を込めた。
「ヴァルザークがいなくなっても、そういう記録は残ってるよ」
「簡単には消えない」
「消したら、なかったことにされちゃうからね」
牧人は、千景の横顔を見つめた。
「だから……ずっとこっちを見てたのか」
「うん」
千景は、仮受付に並ぶ灰色の列を静かに見つめた。
「本家が、名前のない子をどうするのか」
「黒冠の古い影が、見てた」
「私も、ずっと見てた」
「それで、どう思った?」
千景は答えなかった。
代わりに、袋の中から丸いお菓子を一つ、そっと取り出した。
しかし、自分では食べなかった。
仮受付の列の端にいた、灰色の小さな影の前に歩み寄り、そっと差し出した。
「甘いもの、食べられる?」
灰色の影は、驚いたように千景を見上げた。
手を伸ばしかけて、不安そうに止まる。
千景は、優しく言った。
「嫌なら、後でいいよ」
牧人は、それを聞いて少しだけ目を細めた。
千景は、さっき牧人が言ったことを、ちゃんと受け取っていた。
灰色の影は、ゆっくりと、その菓子を受け取った。
指先が薄くて、今にもこぼれ落ちそうだった。
ベロが、すかさず小さな平皿を差し出した。
「そこに置け」
「こぼれない」
千景は「ありがとう」と微笑み、その皿に菓子を置いた。
灰色の影が、皿の菓子にそっと顔を近づける。
甘い匂いに触れた瞬間、その子の輪郭が、確かに少しだけ濃くなった。
ヒナが息を呑む。
「やだ……」
「お菓子でも、元に戻るの?」
ベロが深く頷いた。
「甘い飯だ」
「元に戻る」
「お菓子だよ」
千景が即座に訂正する。
ベロは、少しだけ考えて、頑なに言い直した。
「甘い飯」
「……絶対に譲らないね、君」
クロの右が、我慢できずに低く言った。
「甘い肉は、そこにないのか?」
牧人が即答した。
「お前は、肉ならなんでもいいんだろ」
ヒナが笑った。
重くなりかけていた門前の空気が、少しだけいつもの賑やかさに戻った。
千景は、もう一つ菓子を取り出した。
今度は、自分の口に入れた。
ゆっくりと、味わうように。
「……甘いね」
「そうか」
そこで少しだけ迷ってから、千景は付け足した。
「……マッキー」
牧人は、何も言わずにただ笑った。
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その時、黒冠の影が、波打つように小さく震えた。
セイランは、影の中から黒い薄片を取り出した。
紙ではない。
影の断片をそのまま固めたような、不気味な記録片だった。
「黒冠周辺の大手攻略ギルド、《黒鷲槍》より、消去される前の観測記録が流出しました」
牧人は眉を寄せた。
「黒鷲槍?」
千景が、低く答える。
「黒冠の外側で、一番大きい攻略ギルドの一つだよ」
「装備も、人も、観測班も持ってる」
「でも、嫌い」
「最後だけ急に感想だな」
「大事な情報だよ」
千景の目は笑っていなかった。
「黒冠で帰り道を軽く見る連中は、長生きしない」
「なのに、あそこは何度もそれをやる」
セイランが続けた。
「送信者は、犬飼ミツル」
「関連人物、真壁ダン」
「そして、記録対象に、八代玲臣の名があります」
その名前を聞いた瞬間、牧人の表情が完全に凍りついた。
「……八代?」
門前の空気が、これまでとは別の意味で冷えた。
牧人は低い声で聞いた。
「黒鷲槍の中から出た記録なのか」
セイランは頷く。
「はい」
「黒冠攻略中における、退路の軽視、囮の配置、道札への不当な干渉」
「低ランク探索者たちの被害が、詳細に記録されております」
「なお、当該記録は黒鷲槍上層により、消去指示が下されていた模様」
千景の目が、すっと細くなった。
「真壁さんの名前があるね」
牧人が聞いた。
「知ってるのか」
「真壁さんは知ってる」
「黒鷲槍の中では、まだ現場を見てる方」
千景は、黒い記録片を見る。
「犬飼ミツルは、知らない」
「でも、記録を消さずに流したなら、少なくとも観測係としては信用できる」
セイランが静かに補足した。
「犬飼ミツルは、黒鷲槍の観測班所属です」
「姫の動きも、以前から観測記録に残していた人物と思われます」
千景は少し嫌そうな顔をした。
「一方的に見られてたってこと?」
「はい」
「それはちょっと嫌」
ヒナが梁の上で小さく言った。
「やだ、観測係への評価が一瞬で下がった」
千景は記録片を見つめたまま言った。
「でも、消さなかったなら、話は別」
「見たものを消さないやつは、黒冠では貴重だよ」
牧人は、無言で拳を握りしめていた。
受付では、名前を奪われた者たちが並んでいる。
黒冠には、名前を失った者たちがいる。
そして今度は、記録を消されかけた者たちの真実が、ここへ届いた。
名前も、帰り道も、生きていた記録も。
世の中は、消そうとするものばかりだ。
牧人は、低く、押し殺した声で言った。
「消すやつばかりだな、本当に」
千景は、黒い記録片を見つめた。
「黒鷲槍は、そういうところだよ」
「お前は、知ってるのか」
「うん」
千景は短く言った。
「知ってる」
「だから、大嫌い」
短い言葉だった。
けれど、それだけで全てが伝わるには十分だった。
まめじいが、静かに帳面を広げたまま言った。
「親父殿」
「記録を消さなかった者がいるのなら、その記録もまた、我が本家の受付でしっかりと受け取るべきかと存じます」
牧人は、力強く頷いた。
「ああ、そうだな」
「名前を聞くのと、全く同じだ」
「消される前に、ここにしっかりと残す」
ニコが、心を込めて板を出した。
記録も、消さない
千景は、その板をじっと見つめていた。
そして、ほんの少しだけ、確かに頷いた。
「黒冠の奥の連中にも、見せた方がいいよ」
「名前を失った子たちだけじゃない」
「帰り道を勝手に消された子たちも、あそこにはたくさんいるから」
牧人は、千景を真っ直ぐに見つめた。
「……千景」
その呼び方に、千景の肩がわずかに震えた。
けれど、今度は、もう逃げなかった。
千景は黒い記録片を見つめたまま、静かに言った。
「黒鷲槍は、名前を消すんじゃない」
「帰り道を消す」
「置いていった子を、最初からいなかったみたいに扱う」
牧人の目が細くなる。
「……置いていった子?」
千景は頷いた。
「黒冠で、そういう子がいた」
「荷物持ちだった」
「帰り道を閉じられて、餌みたいに置かれていた」
「でも記録の上では、たぶん迷宮変動とか、判断不能とか、そんな言葉で片付けられる」
ヒナが梁の上で、顔をしかめた。
「やだ、最低」
ナナが短く言った。
「嫌い」
千景は続けた。
「だから、記録を消さなかったやつがいるなら」
「それは、見ないふりできない」
黒冠の影が、門前の端で静かに、深く広がっていく。
次の真実が、その黒い水面に映り始めようとしていた。
黒い水面に、狭い観測室が映る。
黒鷲槍の紋章。
そして、八代玲臣の名。
消されかけた記録が、そこにあった。
本家の仮受付は、まだ開いていた。
名前のない者たちの次に来たのは、この世から消されかけた、彼らの大切な生きた記録だった。




