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名を消された者たちが、受付に並んだ


灰色の小さな影たちは、門前に立っていた。


一体。

二体。

三体。


人間にも見えるし、魔物にも見える。


けれど、どちらとも言い切れない。


体の輪郭が、すりガラスのように薄い。


細い腕。

薄い肩。

灰をかぶったような髪。

顔のパーツはあるのに、そこには誰かを呼ぶための手がかりがなかった。


目はある。


でもその目もまた、自分がどこを見ていいのか分からないように、宙をさまよっていた。


まめじいは、仮受付の机の前で筆を構えていた。


受付小屋は、補修中である。


柱にはひびが残り、入口の板はまだ傾いている。


イシコが石を捏ね、イトの糸が仮留めをしている真っ最中だ。


それでも、受付は開いている。


ニコの板にも、しっかりと出ていた。


受付、補修中

でも名前は聞きます


その板の横に、灰色の影たちが並んだ。


極めてお行儀よく、並んだ。


ヒナが梁の上で、お椀を抱えたまま目を丸くした。


「やだ……、この状況で、ちゃんと並んでる」


ナナが短く言った。


「えらい」

「割り込みなし」


豪志が、受付、補修中の大きな札を必死に抱えながら、少し震えた声で言った。


「お、俺よりしっかりと受付のルールを守っていますね、この方々……!」


ナナが横からじろりと見た。


「豪志、薪の片付け」


「はい!」


牧人は、灰色の影たちをじっと見ていた。


古い核が流してきたものだ。


本家がどう出るか、試すために。


名を持たないもの。

記録の外に落とされたもの。

地底に留められていたもの。


あちら側にとっては、もう記録の外へ落としたものかもしれない。


だが、ここに来た。


門前の長机の前に立った。


それなら、まずは受付だ。


まめじいは、こほんと咳払いをし、最初の一体に向き直った。


「では……お名前を」


灰色の影は、しばらく何も言わなかった。


口を開く。


しかし、音が出るまでに少し時間がかかった。


「……ない」


門前が静かになる。


まめじいの筆が、宙で止まる。


「ない、でございますか」


「ない」


影は、弱々しく同じ言葉を繰り返した。


「呼ばれたことが、ない」

「番号は、あった」

「役目は、あった」

「でも、名前は、ない」


ヒナが梁の上で、お椀をぎゅっと抱きしめた。


ナナが目を細める。


ネムが右奥の布団から、珍しく眠そうではない顔を覗かせた。


ニコは板を胸に抱えた。


まめじいは、少しだけ困った顔をした。


帳面には、名前を書く欄が四角く用意されている。


いつもならそこに、人間か魔物かの名前を書く。


だが、相手には名前がない。


まめじいは、助けを求めるように牧人を見た。


牧人は、実にあっさりと言った。


「じゃあ、今呼ぶ名前をここで決めるか?」


灰色の影が、ゆっくりと牧人を見た。


「決める……?」


「うん、今すぐここで決めてもいいし、嫌なら、ひとまず飯を食ってからでもいい」

「腹が減ってると、名前なんか考えられないだろ」


ベロが、大鍋の前で静かに頷いた。


「腹が減ると、考えが細る」


クロの右も、負けじと低く言った。


「肉がないと、さらに判断が鈍る」


牧人は振り返ってお玉を向けた。


「お前は、肉の話ばかりだな」


ヒナが小さく笑った。


でも、その笑いは少し震えていた。


ニコが板を出した。


名前、あとでいい


灰色の影は、その板をしばらく見つめていた。


「あとで……いい?」


牧人は頷いた。


「いい、名前は急いでつけるものじゃない」

「でも、呼ぶ時にないと困るから、仮の呼び名だけでもいい」

「それも嫌なら、番号のままでもいいし、全部嫌なら飯だけ先に食ってろ」


ここで豪志が、親切心から勢いよく手を上げた。


「親分! 仮の名前なら、俺がいくつか案を考えましょうか!」


ナナが即答した。


「だめ」


「えー、ジャガイモとかニンジンとか鶏肉とか、色々考えたんですけど」


「カレーの具はだめ」


「……じゃあ、もうカレー!」


「もっとだめ」


ヒナが梁の上で吹き出した。


「やだ、豪志の頭の中はカレーでいっぱい!」


灰色の影は、その騒がしいやり取りを見ていた。


理解しているのかは分からない。


だが、さっきより少しだけ、目の揺れが小さくなった。


まめじいは帳面の名前欄を見つめ、筆を置くのではなく、余白に小さく書き込んだ。


仮受付一番。

名、未定。

飯、先。


牧人がそれを覗き込む。


「それでいいな」


まめじいは満足そうに頷いた。


「名前がないなら、ないという事実を記録いたします」

「そして、決まるまで未定と残します」

「記録の外には、絶対に落としませぬ」


灰色の影が、かすかに震えた。


「外……じゃない?」


まめじいは、ゆっくりと、語りかけるように答えた。


「はい、今、この帳面に入りました」


ヒナが梁の上で、目元をこすりながら笑った。


「やだ……、受付が急に命名所みたいになってる」


ナナが短く言った。


「でも、いい」

「名前は増える」


「うん」


ヒナも、鼻をすする。


「いい」


---


二体目の影が前に出た。


一体目よりさらに小さく、子どものようだった。


獣の耳らしきものがあるが、それも薄く、灰に溶けかけている。


まめじいが、少しだけ声を柔らかくした。


「お名前を」


「……ない」


「では、今呼ぶ名は、後で決めますか?」


影は、まめじいを見た。


それから、じっと牧人を見る。


「……飯」


牧人はすぐに頷いた。


「よし、飯だな」


ベロが、温かい湯気の立つ大鍋をかき混ぜる。


「粥、ある」


「食えるか?」


灰色の影は、自分の薄い手を見た。


椀を持てるのか、自分でも分からないような手だった。


ベロはしばらくその手を見ていた。


それから、木の椀ではなく、平たくて浅い皿を出し、台の上に置いた。


「持たなくていい」


影は、皿を見つめた。


「いい……?」


「いい」


ベロは真顔で頷いた。


「食える形で出す」

「並んだなら、出る」


ニコが板を出した。


並んだら、飯


灰色の影は、浅い皿にそっと顔を近づけた。


立ち上る湯気に触れた瞬間、その輪郭が少しだけ濃くなる。


ほんの少しだ。


けれど、さっきより確かにそこにいるのが見える。


ヒナが梁の上で息を呑んだ。


「やだ、温かい湯気で、形が戻りかけてる……?」


ミズハが水桶を抱えながら言った。


「たぶん、あの子たち、名前を消されて薄くなりすぎてるのよ」

「温かいものに触れるだけで、自分を取り戻せる」


ベロが深く頷いた。


「飯は、何者でも元に戻す」


牧人は小さく笑った。


「その言い方、今はすごく合ってるな、ベロ」


クロの右が、どさくさに紛れて言った。


「肉ならもっと戻るぞ」


三体目の影が、クロの声に驚いたのか、少しだけ後ずさった。


まめじいがそれに気づき、声をかける。


「怖ければ、無理に今でなくても構いませぬ。後でもいいですよ」


「後……?」


「はい、順番は飛ばしませぬ。あなたの番は、ここにちゃんと残ります」


まめじいは、優しく帳面に書き添えた。


仮受付三番。

名、未定。

飯、確認中。

怖がり。急かさない。


豪志が、隣で涙ぐみながら言った。


「まめじいさん、受付の記録が優しすぎます……!」


ナナが短く言った。


「豪志も見習って」

「いつもバタバタしない」


「俺も受付帳に“急かさない、見守る”って書かれたいです!」


「豪志は“すぐ騒ぐ、いつもうるさい”」


「扱いがひどい!」


ヒナが笑った。


笑いながらも、少しだけ目元が潤んでいた。


---


旧帳場の奥で、灰色の光が一段と強くなった。


まめじいが顔を上げる。


「文字が出ます」


石板に、冷たい文字が浮かび上がる。


「名なし個体、受付通過」

「帰還選別、阻害」

「仮記録、発生」

「無断命名、確認」


牧人は眉を寄せた。


「まだ名前はつけてないだけだぞ」

「勝手な言いがかりを言うな」


まめじいは石板を読みながら、少し考えた。


「親父殿、仮受付一番、二番、三番と帳面に記録したこと自体を、向こうは“名前をつけて個として扱った”と見なしているのかもしれませぬ」


「古い決まりが細かすぎるな」


ニコが板を出した。


名前、まだ


灰色の光が、細かく揺れる。


石板に文字が続いた。


「家主方針、名薄化を阻害」

「受付記録、個体固定」

「飯供与、輪郭回復」

「帰属点、拡大」


ヒナが、涙目のまま小さく笑った。


「やだ、ご飯を出しただけで、うちの縄張りが勝手に広がってる!」


ベロは、当然のように言った。


「飯を食えば、体も心も戻る。当たり前だ」


「ベロの料理人理論が、大迷宮の古い核より強いの何なの……」


ナナが短く頷いた。


「飯、一番強い」


クロの中央が低く言った。


「名を記し、飯を出し、寝床を示す」

「それだけで、ここは帰る場所になる」


右の頭が続ける。


「そこに肉が加われば、さらに強固になる」


左の頭が静かに遮った。


「今は黙れ」


右の頭は、つまらなそうに唸って黙り込んだ。


牧人は、灰色の影たちを見た。


一体目は、まだ皿を不思議そうに見つめている。


二体目は、粥を少しずつ口に運んでいる。


三体目は、列の端で恐る恐るこちらを見守っている。


名前はまだない。


でも、もう「いないもの」ではなかった。


まめじいの帳面に書かれ、ニコの板に示され、飯の列に並んだ。


それだけで、彼らの灰色の輪郭は、確かに少しずつ戻り始めていた。


牧人は言った。


「よし、次」


まめじいは頷く。


「はい、仮受付四番、お進みください」


四体目の影が出てきた。


いたのか、と誰もが思った。


旧帳場の影の端に、さらに薄い影が静かに佇んでいた。


一体だけではなかった。


五体目。

六体目。

七体目。


灰色の小さな影たちが、様子を伺うように、次々と門前へにじみ出てくる。


ヒナが息を呑んだ。


「やだ、まだいる……」


まめじいは、一瞬だけ筆を止めた。


それから、すぐに帳面の新しい真っ白な頁を開く。


「並んでください」

「順番に、聞きます」


ニコが板を出した。


名前、あとでいい

飯、先でもいい

並ぶ


灰色の影たちは、その板の文字をじっと見た。


そして、本当に並び始めた。


お互いに肩を寄せ合うようにして、受付の前に一列に。


豪志が、震える声で言った。


「親分さん……」

「これ、なんか緊張しますね」


ナナが短く言った。


「当たり前」


「ですよね!」


牧人は、豪志を見た。


「豪志、その板、まだ持てるか?」


豪志は、涙を拭って背筋をぴんと伸ばした。


「持てます!」

「絶対に落としません!」


ニコが新しい板を書き上げ、豪志に手渡した。


名なし受付

順番に聞きます


豪志は、それを両手でしっかりと高く掲げた。


少し手が震えている。


でも、逃げなかった。


ヒナが梁の上で、小さく呟いた。


「やだ、豪志が本当に立派な板係になってる……」


ザガが低く返す。


「今は、あいつにしかできない大事な役だ」


豪志の目が、みるみる涙で潤んだ。


「ザガさん……!」


「泣くな、板が揺れて文字が見えなくなる」


「はい!」


---


列は、ゆっくりと進んだ。


「お名前を」


「……ない」


「では、今呼ぶ名は後で」

「飯は?」


「……ほしい」


「ベロ殿、粥を」


「出す」

「たくさんある」


「お名前を」


「忘れた」


「では、忘れたと記録します」

「思い出したら、いつでも書き直しましょう」


「直せる……?」


「はい」

「帳面は、何度でも直せます」


「お名前を」


「番号なら、ある」


「その番号で呼ばれたいですか?」


「嫌」


「では、書きません」

「ここでは、嫌な名前を無理に書く必要はありません」


そのやり取りが交わされるたびに、旧帳場の奥の光が激しく揺れた。


名なし個体が受付を通るたび、古い核の決まりが、足元から静かに、確実に乱れていくのだ。


牧人は、その様子を静かに見守っていた。


この戦いは、大剣や魔法では勝てない。


名前を聞く。

飯を出す。

嫌なら待つ。

そして、帳面に残す。


ただそれだけの、地味で、不器用で、本家らしいやり方が、大迷宮の古い仕組みを崩していた。


ヒナが梁の上で、泣き笑いしながら言った。


「やだ、地味なのに、すっごく効いてる」


ナナが深く頷いた。


「効いてる」

「あの古い核、困ってる」


ニコが誇らしげに板を掲げた。


受付、効く


牧人は、それを見て少しだけ笑った。


「それ、しばらく出しとけ、ニコ」


ニコが誇らしげに板を掲げた。


受付、効く


牧人は、それを見て少しだけ笑った。


「それ、しばらく出しとけ、ニコ」


その時、門の外から、低い骨笛の音が響いた。


一度。

少し間を置いて、もう一度。


本家の内側にいる者たちが、いっせいに顔を上げた。


ヒナが梁の上で羽を広げる。


「やだ、今度は外?」


ナナが短く言った。


「南側」


ザガが、誰より早く門の方を見た。


その顔から、さっきまでの笑いが消える。


「南根道だ」


牧人も振り返った。


「ドルグの方か」


「ああ」

「灰が、南根道側にも流れた」


ザガは槍を手に取った。


「ドルグは中層にいる。ここから声が届く距離じゃない」

「だが、本家の命令を送るための連絡札と、若い衆の伝令がある」

「そこを乱されると、ドルグたちが今の状況を知らないまま動くことになる」


まめじいが、旧帳場の石板と帳面を見比べる。


「親父殿。灰環核の揺れが、南根道方面にも滲んでおります」

「このままでは、ドルグ殿へ通す本家の連絡が乱される恐れがございます」


ヒナが顔をしかめた。


「やだ、正面で受付されたから、今度は南側を邪魔してるの?」


ミズハが短く言う。


「嫌な手ね」


クロの中央が低く唸った。


「本家からの指示が届かねば、南根道の動きが遅れる」


右が牙を剥く。


「小賢しい」


左が静かに言った。


「通路を閉じるのも、若い衆を下げるのも遅れれば、灰の影が本家の裏へ回り込む」


ザガは、槍を肩に担いだ。


「親分。俺が出る」


牧人は、名なしの影たちの列を見た。


受付前には、まだたくさん並んでいる。


まめじいは筆を止められない。

ベロは粥を出し続けている。

ニコは板を書いている。

ナナは怖がる子を急かさないように見ている。

ヒナは上から全体を警戒している。

クロは門前を睨んでいる。


そしてザガは、門の外へ向かおうとしていた。


「一人でか?」


牧人が言うと、ザガは頷いた。


「ああ、南根道への連絡が切れたら、ドルグたちが今の状況を知らないまま動く」

「通路を閉じるのも、若い衆を下げるのも遅れる」

「その隙に、灰の影が本家の裏へ回り込む」


ザガは、門前の列を一瞥した。


「ここに並んでるやつらを、横から襲わせるわけにはいかない」

「だから、俺が連絡線を守る」


豪志が板を抱えたまま、ぎょっとした顔をした。


「ザガさん、外へ行かれるんですか!」

「では、俺が代わりに前線へ――」


「出るな」


ザガは即答した。


豪志は勢いよく背筋を伸ばす。


「はい! 前線には出ません!」


「板を持っていろ」

「今のお前の仕事は、それだ」


豪志は、両手で板を握りしめた。


「はい」

「名なし受付、順番に聞きます。絶対に落としません」


ザガは短く頷いた。


「それでいい」


ヒナが梁の上で、小さく笑った。


「やだ、ザガが豪志の扱いを分かってる」


ナナが短く言った。


「適材適所」


ニコが新しい板を出した。


ザガ、南根道の連絡を守る


ザガはそれを見て、少しだけ口の端を上げた。


「そうだ」

「ドルグへの連絡を切らせない」


牧人は一歩近づいた。


「無理はするな」

「戻れるうちに戻れ」


ザガは槍を肩に担ぎ、軽く肩をすくめた。


「親分にそれを言われると、妙に重いな」


「毎回言ってるだろ」


ザガは、もう一度だけ門前を見た。


名なしの影たち。

帳面。

板。

鍋。

受付小屋。


「ここは任せた」


ナナが短く言う。


「そっちも」


「分かってる」


ザガは門の外へ走った。


槍の石突きが、石畳を一度だけ叩く。


その音を最後に、ザガの背中は、南根道へ本家の命令を通す連絡線の方へ消えていった。


牧人は、その背中を一瞬だけ見送った。


それから、すぐに受付へ向き直る。


「よし」

「こっちはこっちで止めるな」

「名前を聞く。飯を出す。順番を飛ばさない」


まめじいが筆を構え直す。


「承知いたしました」


ニコが板を掲げる。


受付、続行


灰色の影たちは、少し不安そうに外を見た。


だが、ベロの粥の湯気が上がり、まめじいの帳面が開かれ、豪志の板が高く掲げられているのを見て、また一歩ずつ列を進め始めた。


---


石板に、次々と拒絶の文字が浮かび上がる。


「仮名記録、増加」

「飯供与、増加」

「名薄化、失敗」

「深層保持群、輪郭回復」

「帰属点、拡大」


まめじいは、筆を走らせたまま言った。


「親父殿、向こうは、名なしの個体たちを流せば、本家が対処しきれずに混乱すると踏んでいたのでしょうな」


「まあ、実際ちょっと混乱してるけどな」


牧人が苦笑いしながら言うと、まめじいは受付前の列を見渡した。


豪志が必死に板を持つ。


ニコが板を書く。


ベロが粥をよそう。


ミズハが水を配る。


ナナが怖がる子を急かさないように見守る。


ヒナが後ろを警戒する。


クロが門前を睨む。


イシコが小屋を直し続けている。


まめじいは、静かに微笑んだ。


「はい、混乱はしておりますが、私たちの受付は、止まっておりません」


牧人は頷いた。


「なら、上出来だ」


豪志が手を上げた。


「親分さん!」

「仮受付八番様が、粥のおかわりを希望されています!」


ベロが即座に言った。


「出す」

「いくらでも食え」


ナナが短く言った。


「おかわり、自由」

「たくさん食べると、早く戻る」


ニコが板を出す。


おかわり、あり


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、もうおかわりを要求する元気が出てる!」


灰色の影の一体が、皿を両手でしっかりと抱えながら、少しだけうつむいた。


「……いい?」


牧人は、優しく答えた。


「いいぞ、足りないなら、いつでも言え」


影は、皿の縁を見つめた。


「言って……いい?」


「ああ、いいぞ」


まめじいが、帳面に書き記す。


仮受付八番。

粥、おかわり。

言っていいと確認。


ヒナがその手元を覗き込み、目元を押さえた。


「やだ、まめじいの取るメモが、一言一句優しすぎる……」


まめじいは、手を止めない。


「これもまた、大事な確認にございます」


---


そのころ。


黒冠の深部。


影の水面には、本家の門前の様子が映し出されていた。


千景は、街で買ってきた焼き菓子の紙袋を膝に置いたまま、黙ってそれを見つめていた。


隣にはセイラン。


少し離れて、リオが大きな地図帳を抱えている。


ノアは黒い欠片を耳に当てて、静かに水面を見つめている。


千景の足元には、小太郎がちょこんと座っていた。


甘い、焼き菓子のいい匂いが漂っている。


けれど、千景はまだ袋を開けていなかった。


セイランが静かに言った。


「姫」


千景は答えない。


水面の中では、名なし個体たちが、本家の受付に順番に並んでいる。


名前がない。


けれど、追い返されない。


飯を出され、嫌なら待てと言われ、仮の欄に「未定」と書き残される。


リオが、ぽつりと呟いた。


「……黒冠にも、名前を持たない個体は、たくさんいます」


「うん」


千景は、ようやく静かに答えた。


「いるね」

「たくさん」


セイランも、黙って目を伏せた。


黒冠にも、ただの識別番号で呼ばれたものがいる。


役目だけを与えられ、名前を持つ前に、使い捨てられたものがいる。


千景は、その光景を嫌というほど知っている。


だから、笑えなかった。


本家の門前で、豪志が泣きそうな顔で板を掲げている。


名なし受付

順番に聞きます


ヒナが梁の上でお椀を抱え、ニコが板を出している。


名前、あとでいい


千景は、膝の上の袋を見つめた。


いつもなら、すぐに開けて食べているはずだった。


けれど、今日はどうしてか、手が動かなかった。


小太郎が、足元で小さく鳴いた。


「わふ」


千景は、ゆっくりと息を吐き出した。


「マッキー……」


水面の中の牧人は、灰色の影たちに向かって、笑って言っていた。


「飯を食ってからでいい」

「名前は、逃げないから」


千景は、ただ黙って、その受付の様子を見つめ続けていた。


---


本家の仮受付では、また一体、名なし個体が前に出た。


まめじいが筆を構える。


「お名前を」


「……ない」


「では、今は未定と書きますね」


牧人が横から言った。


「飯は食うか?」


灰色の影は、少しだけ迷い、それから小さく頷いた。


「……ほしい」


ベロが、お玉を動かす。


「出す」

「熱いから気をつけろ」


ニコが板を出した。


名前、あとでいい

飯、今でいい


ヒナが、涙目のまま言った。


「やだ、受付が本当に、いちばんあったかい場所になってる……」


灰環核の石板が、また重く冷たく鳴り響いた。


ごん。


文字が浮かぶ。


「無断命名、確認」

「仮名記録、増加」

「帰属点、拡大」

「家主方針、深層保持群へ侵入」


まめじいが読み上げると、牧人は旧帳場の奥を睨んだ。


「だから、無断じゃない」

「本人が嫌なら、いつでも後でいいって言ってるんだ」


ナナが短く言った。


「同意、大事」

「無理やりは、だめ」


豪志が板を掲げたまま、力強く頷いた。


「俺もナナちゃんの意見に同意します!」


ナナが、視線だけで突っ込んだ。


「豪志は今、板を落とさないことに全力を出して」


「はい!」


ニコが、最後に大きな板を掲げた。


名前は、勝手に決めない


牧人は深く頷いた。


「そうだ」

「本人が、自分で決める」


灰色の光は、さらに強く暴れるように明滅した。


だが、本家の受付に並ぶ列は、もう二度と止まらなかった。


名前のない者たちにも、必ず順番は来る。


そして、その順番を飛ばす者は、この本家には一人もいなかった。


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