親父は、灰環核に修理代を請求した
受付小屋は、まだ立っていた。
立ってはいた。
ただし、当然ながら無傷ではない。
正面の柱に一本、はっきりとしたひびが入っている。
机の端は、削り取られたように欠けていた。
入口の看板代わりの板も、少しだけ斜めに傾いている。
まめじいの帳面は無事だった。
ニコの板も無事だった。
誰の名前も、何一つ消えていない。
それは、よかった。
本当に、よかった。
だが、牧人はひびの入った柱を見つめ、腕を組んだままじっと黙っていた。
ヒナが梁の上から、そっと首を傾げて覗き込む。
「親父?」
ナナが短く言った。
「怒ってる」
ザガも、槍を肩に預けながら牧人の横顔を見た。
「怒ってるな。目が笑っていない」
クロの右が低く呟いた。
「怒り方が静かだ」
「こういう時の親父は、本気だ」
牧人は、ゆっくりと旧帳場の奥を睨んだ。
灰色の光は、まだ消えていない。
灰環核。
灰の奥の捨て場所。
受付小屋を壊そうとした、頑固で古い核。
牧人は静かに言った。
「壊したなら、直せ」
全員の動きが止まった。
灰色の光も、一瞬だけ驚いたように揺れた気がした。
牧人は指を一本ずつ折りながら続けた。
「いや、自分で直せないっていうなら、修理代くらい払え」
「受付が使えないと、迷子が困るだろ」
「怪我人も右奥へ行けなくなる」
「飯だけのやつだって、どこへ並べばいいか分からなくなる」
「まめじいの机も、ちょっと傾いてる」
「これじゃ帳面に書きづらいだろ」
「あと、ニコの板を立てるための溝も曲がった」
「不便だ」
ニコが、自分の板を胸にぎゅっと抱きしめた。
そして、新しい板を素早く出した。
灰環、弁償
ヒナが梁の上で吹き出した。
「やだ、ラスボスに弁償請求してる!」
豪志がまだ少し震えながらも、真面目に手を上げた。
「親分さん、請求書の宛名はどうしましょうか」
「灰環大迷宮御中でしょうか」
「それとも、灰環棄還核様でしょうか」
ナナが短く言った。
「様、いらない」
「敬称なし!」
ベロが、大鍋の前で真顔で言った。
「もし鍋を壊されたら、もっと高い」
「おい、そこを鍋基準で考えるな」
牧人が返すと、ベロは頑なに首を横に振った。
「あの鍋は、鉄が厚い。高い」
クロの右が鼻を鳴らす。
「俺たちの肉の代金も、上乗せして請求に入れておけ」
「関係ないものの費用を上乗せするな。ただの便乗だろ」
ヒナが笑った。
「やだ、若頭がここぞとばかりに便乗請求しようとしてる!」
まめじいは、帳面をしっかりと胸に抱えていた。
さっきまで、受付小屋を狙われて手が震えていた老人である。
だが、牧人の言葉を聞いた途端、まめじいの目が変わった。
それは、恐怖に震える老人の目ではない。
帳面係の目だ。
「親父殿」
「何だ」
「請求、ただちに記録いたします」
「記録するのか」
「はい、これぞ私の仕事でございます」
まめじいは筆を執り、素早く帳面に走り書きした。
受付小屋損傷。
正面柱ひび。
机端部欠損。
入口板傾き。
ニコ殿の板置き場、軽微損傷。
原因、灰環棄還核による攻撃。
請求先、灰環核。
牧人は満足そうに頷いた。
「うん、しっかり書いておけ」
ヒナが梁をどたどたと叩いた。
「やだ、まめじいが本気でラスボス相手に請求帳を作ってる!」
ザガが額を押さえた。
「親分もまめじいも、命拾いした直後の切り替え方がおかしいだろ」
ナナが短く言った。
「でも、大事。壊したら、直すのが当然」
「お前までそれを認めるのか、ナナ」
「壊したら、直す」
イシコが、ひびの入った柱にそっと手を当てたまま、ぽつりと言った。
「直す」
「でも、壊したやつ、とても悪い」
牧人はすぐ頷いた。
「そうだ」
「壊したやつが悪い」
ニコが板を出す。
壊したら、直す
ベロが頷く。
「鍋も」
「だから鍋は壊れてないだろ」
---
灰色の光が、旧帳場の奥で大きく波打った。
石板に、冷たい文字が浮かび上がる。
まめじいが眉をひそめて読み上げた。
「家主、交渉不能」
牧人は眉を寄せた。
「誰がだ」
まめじいは少しだけ困った顔をした。
「……親父殿のことかと存じます」
ヒナが、梁の上で笑いをこらえきれなかった。
「やだ! 灰の奥にまで“話が通じない”って言われてる!」
豪志が妙に真面目な顔で頷いた。
「たしかに、攻撃した直後に修理代を数え始める家主は、相手からすれば交渉不能かもしれません」
牧人は、石板を睨んだまま言った。
「交渉不能じゃない」
「壊されたから直せ、直せないなら払えって言ってるんだ」
「普通の話だろ」
灰色の文字が、さらに続いた。
「請求概念、無効」
「修理責任、非成立」
「受付破損、選別処理過程」
牧人の目が、すっと細くなった。
「無効じゃない」
「そこにひびがあるだろ」
「責任はある」
「あと、処理過程とか言うな」
「お前が勝手に、うちの受付を壊しただけだ」
ヒナが梁の上で言った。
「やだ、親父がラスボスの難しい言葉を、全部“壊したなら直せ”に戻してる!」
まめじいは、石板の文字をさらに追った。
「……ただし」
「受付修復要求、記録」
まめじいの筆が、そこでぴたりと止まった。
その顔が、ぱっと明るくなる。
「親父殿」
「何だ」
「請求、向こうも記録いたしましたぞ」
牧人は石板を見た。
「記録しただけだろ。払うとは言ってない」
「記録されることが重要なのでございます」
まめじいは、本当に嬉しそうだった。
帳面に残る。
記録される。
向こうがどれほど無視しようとしても、確かにその一行が相手の底に残った。
それは、まめじいにとっては絶対的な勝利だった。
牧人は言った。
「で、本当に払うのか、あいつ」
まめじいは静かに答えた。
「払わせましょう」
門前が、変な静けさに包まれた。
ヒナが梁の上で、お椀を抱えたまま目を丸くする。
「やだ……、まめじいが一番、容赦ないこと言った」
ザガが低く笑った。
「請求係が、一番本気になったな」
ナナが短く言った。
「強い」
ニコが板を出す。
まめじい、取り立て
まめじいは、少しだけ咳払いをした。
「取り立てではございませぬ」
「正当な、帳簿上の請求でございます」
ニコは素早く板を裏返した。
まめじい、正当な請求
「うむ、それでよろしい」
牧人は旧帳場の奥を見た。
「聞いたか」
「払わせるらしいぞ、まめじいが」
灰色の光が、少しだけ強くなった。
怒っているのか。
困っているのか。
判断はつかない。
ただ、本家側の空気は少しだけ元気になった。
古い迷宮相手に、柱の修理代を請求する。
普通に考えれば、正気ではない。
でも、本家では壊したら直す。
直せないなら、弁償してもらう。
それだけだった。
---
そこへ、澄玲が息を切らせて駆け込んできた。
後ろには、水越の副官と、ローが続いている。
ローは大きな記録石を抱えていたが、その顔は真っ青だった。
「親分さん!」
澄玲は、受付小屋の無残なひびを見て、表情を強張らせた。
「受付小屋が……」
「帳面は無事だ。怪我人もいない。柱はイシコが直してる」
牧人が先に言うと、澄玲は一瞬だけ口を閉じた。
それから、深く肩を下ろして息を吐いた。
「それは、よかったです。本当に」
水越の副官も、受付小屋の割れた柱と、旧帳場の奥の光を静かに見比べていた。
「外縁の封鎖は強化しました」
「灰色の影響がこれ以上、外へ漏れないよう、監察局からも通達を出しています」
牧人は頷いた。
「助かる」
ローは記録石を抱え直しながら、震える声で言った。
「こ、これ、撮っていいんですか?」
「いや、撮っちゃ駄目ですよね?」
「でも記録しないと、絶対にまずいやつですよね?」
「世間に出したら、世界がひっくり返るやつですよね?」
ナナが短く言った。
「ロー、落ち着いて」
「はい」
ヒナが梁の上で言った。
「やだ、ローがいつも以上に混乱してる!」
ローは牧人を見た。
「親分さん、今、何を言いました?」
「あの灰色の奥に向かって」
牧人は普通に答えた。
「修理代を払えって」
ローは、抱えていた記録石を落としかけた。
澄玲が、無言で両手で頭を抱えた。
水越の副官も、表情こそ動かさなかったが、目が少しだけ泳いでいた。
「……請求先が、大迷宮の古い心臓部とは」
「前例がありません」
牧人は言った。
「前例がないと、請求しちゃいけないのか?」
副官は沈黙した。
その顔は、そんなはずはないと言いたそうで、しかし「できる」と言い切るには、あまりにも荒唐無稽すぎるという顔だった。
澄玲が疲れた声で言った。
「……理屈としては、相手が明確な存在としてそこに対応し、損害を与えた原因として残っているなら、請求という行為自体は……」
そこで、澄玲はぴたりと言葉を止めた。
自分が何を真面目に解説しているのか、途中で気づいた顔だった。
ヒナが笑う。
「やだ! 澄玲さんがラスボスへの弁償請求を、大真面目に考え始めちゃった!」
澄玲は額を押さえた。
「考えたくありません」
「でも、記録がある以上、職務として考えざるを得ないんです」
まめじいが胸を張った。
「受付修復要求は、先ほど灰環核側にもしっかりと記録されました」
澄玲はまめじいを見た。
「……それが、一番困るんです」
「記録は大事でございます」
「大事ですけど!」
ローが震えながら言った。
「これ、本気で世間に出したらひっくり返りますよ」
「冥門組本家が、大迷宮の核に柱の弁償を要求、ですよ」
「絶対に、今日一番の話題になります」
豪志が手を上げた。
「見出しとしては、かなり強いですね!」
ニコが板を出した。
灰環、弁償
ローは板を見て、さらに震えた。
「ニコさんの板が、一番強い……」
ヒナが笑った。
「やだ、また板の勝ち!」
澄玲は深く息を吐いた。
「公開はしません」
「少なくとも、灰環核の動きや、受付小屋が攻撃された事実は、今はまだ出せません」
「ただし、被害の記録と、その補修の記録だけは公的に残します」
牧人は頷いた。
「それでいい」
「こっちは本当に直さないと困るからな」
副官が静かに言った。
「補修するための資材については、都市側でもすぐに手配いたします」
イシコが、柱に手を当てたまま言った。
「石、いる」
「あと、木も、いる」
ベロが大鍋の前で言った。
「作業するなら、飯もいる」
副官は、一瞬だけ止まった。
「……飯も、ですか?」
ベロは真顔で言った。
「働くなら、食う」
「当然だ」
副官は、しばらく考えた。
そして、大真面目に頷いた。
「それは、確かにそうですね」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、都市防衛局まで、本家の飯優先ルールに染まっていく!」
---
補修はすぐに始まった。
イシコが土台の石を固める。
ザガが割れた古い木材を外していく。
ナナが散らばった小さな釘を拾い集める。
イトが糸で仮の留めを作る。
ミズハが水で柱の灰を洗い流す。
ぷるが、ぷるんと残った灰の濁りを吸い取っていく。
ベロは鍋を守りながら、作業する者たちへ次々に椀を配っていた。
豪志は、大きな札を持ってそこに立っていた。
受付、補修中
でも名前は聞きます
ヒナが梁の上から言った。
「豪志がまだあの看板係をやらされてる!」
豪志は胸を張った。
「俺にも、大事な持ち場がありますので!」
ナナが短く言った。
「豪志、板を落とさないで」
「はい!」
まめじいは、近くに仮の机を出した。
ひびの入った受付小屋の横に、簡単な木の台を置き、そこに帳面を広げる。
牧人は言った。
「少し休めよ、まめじい」
まめじいは首を振った。
「受付を止めるわけにはまいりませぬ」
「怪我人も、迷子も、飯を食べるだけの者も、すぐに来ますので」
その言葉通り、門前にはすでに何人かが並び始めていた。
小型の魔物が一匹。
人間の老人。
水の入った袋を抱えた少年。
みんな、少し不安そうに、ひびの入った受付小屋を眺めている。
牧人は、その並ぶ列を見た。
それから、傷ついた柱を見た。
「……そうだな」
「受付は閉められない」
ニコが板を出した。
受付、やってる
まめじいはそれを見て頷いた。
「それは出しておかないといけませんな」
ヒナが笑った。
「やだ、攻撃された直後なのに通常営業!」
ベロが当然のように付け加えた。
「飯も、出る」
「それも書くか?」
牧人が聞くと、ニコがすぐに別の板を出した。
飯も出る
クロの右が不満そうに言った。
「俺たちの肉は?」
ニコは少し考え、新しい板を出した。
肉は確認中
右が不満そうに唸る。
「確認中とは何だ」
「早く作れ」
牧人は笑った。
「今はそれでいい」
「並んどけ」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、若頭の肉だけ審査中!」
水の入った袋を抱えた少年は、ひびの入った受付小屋を見て、ずっと黙っていた。
怖いのだろう。
灰色の輪。
割れた柱。
慌ただしく動く大人たち。
それだけで、子どもには十分すぎる。
豪志は、大きな札を持ったまま、その少年の前にしゃがんだ。
「怖くないぞ」
少年は、豪志を見た。
「……ほんと?」
「本当だ。俺は怖い時ほど遊ぶ」
「なんで?」
「怖いからだ」
「意味わかんない」
「俺も、たまに分からない」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、豪志が子ども相手に正直」
少年は少しだけ口元を動かした。
「じゃあ、しりとり」
「いいぞ」
豪志は胸を張った。
「俺からいく」
少し考える。
「そうだな。俺はカレーが好きだから……カレーうどん」
「あ」
豪志が固まった。
「しまった」
少年が言った。
「終わったね」
「“ん”では、次が続かない」
「そうだね」
豪志は真顔でうなずいた。
「じゃあ、一周回って“あ”ってことにしよう」
「なんで!?」
「“あ”で頼む」
「えぇ……じゃあ、アメリカ」
「“か”だな」
豪志は満足げにうなずく。
「カレーラーメン」
「あ」
「しまった」
少年が声を上げた。
「また終わった!」
「“ん”では、次が続かない」
「そうだよ!」
「じゃあ、一周回って“あ”ってことにしよう」
「だからなんで!?」
ヒナが梁の上で腹を抱え始めた。
「やだ、豪志がしりとりのルールをねじ曲げてる!」
豪志は真剣だった。
「“あ”で頼む」
少年は、少し笑っていた。
「よーし! じゃあ……赤!」
「“か”だな」
豪志は子供を見て、ニヤリと笑った。
「カレーご飯」
ザガが横から叫んだ。
「そこはライスだろ!」
豪志はハッとした。
「しまった!」
「しりとりにならないよ。アハハ!」
少年が、とうとう笑った。
さっきまで握りしめていた水袋の手が、少しだけ緩む。
ニコが板を出した。
豪志、しりとり弱い
豪志は胸を押さえた。
「俺は子どもを安心させようとしただけなのに!」
ナナが短く言った。
「少し、できた」
豪志は目を輝かせた。
「今、少し役に立ちましたか!」
「少し」
「十分です!」
牧人は、そのやり取りを見て、少しだけ息を吐いた。
受付小屋には、まだひびがある。
灰環核は、まだ旧帳場の奥でこちらを見ている。
それでも、列に並んだ子どもが笑った。
なら、受付はまだ生きている。
古い核の攻撃で、受付小屋には傷が残った。
でも、列は動いた。
名前は書かれた。
飯も出た。
右奥の寝床も、いつも通りに開いていた。
壊そうとしたものは、何一つ壊れていなかった。
---
旧帳場の奥で、灰色の光が再び不穏に動いた。
まめじいが、顔を強張らせる。
「……また、文字が出ます」
全員の動きが、一瞬だけ止まる。
牧人は仮受付の横に立ったまま、旧帳場を睨んだ。
石板に、冷たい文字が浮かぶ。
まめじいがそれを読み上げた。
「受付、排除失敗」
「修復行為、継続」
「家主方針、再拡散」
「請求概念、記録残存」
まめじいの口元が、少しだけ上がった。
「やはり、請求は記録に残ったままでございますな」
牧人は旧帳場を見る。
「払う気はありそうか?」
まめじいは石板を見つめる。
「今のところ、全くございませぬ」
「じゃあ、督促だな」
澄玲が、また頭を抱えた。
「お願いですから、迷宮相手に督促状を送りつけるという、新しい概念をこの世に作らないでください」
豪志が手を上げた。
「親分、俺が督促状の文面を考えましょうか!」
ナナが短く言った。
「だめ」
「早い!」
ニコが板を出した。
灰環、まだ払ってない
ローが記録石を抱えて呻いた。
「その看板、未払い請求として強すぎる……」
ヒナが笑った。
「やだ、未払い扱い!」
ベロが鍋の前で言った。
「食い逃げより悪い」
「飯は食ってないだろ」
牧人が言うと、ベロは真顔で返した。
「壊し逃げ」
牧人は頷いた。
「確かに、それだな」
澄玲は、もはやその場に座り込みそうな顔だった。
「壊し逃げ……」
まめじいは、帳面にしっかりと書き留めた。
灰環核。
受付小屋損傷。
修復要求、記録済。
支払なし。
壊し逃げ。
牧人はそれを覗き込んだ。
「まめじい、最後のは本当に書くのか?」
「本家側の正式な認識として、残しておきます」
「まあ、そうだな」
ヒナが梁の上で腹を抱えた。
「やだ、あの中枢核が、帳面で壊し逃げ犯として登録されちゃった!」
その時だった。
灰色の光が、急に温度を失ったように冷たくなった。
門前の笑い声が、ぴたりと止まる。
石板に、新しい文字が浮かび上がった。
「家主、対処要」
「受付、直接排除困難」
「別処理、開始」
まめじいの顔が強張った。
「……別処理?」
旧帳場の奥で、灰色の輪が小さく開いた。
さっき受付小屋を襲ったものより、ずっと小さい。
だが、その内側は、ずっと暗かった。
輪の内側から、何かがゆっくりと流れてくる。
人影ではない。
魔物とも言い切れない。
細い腕。
薄い体。
顔の輪郭はあるのに、その名前を呼ぶための印が、どこにも見当たらない。
一体。
二体。
三体。
灰色の小さな影が、旧帳場の奥から、本家の門前へ滲み出てくる。
ヒナが息を呑んだ。
「何、あれ……」
ナナが短く言った。
「名がない」
イトの糸が、震える。
「薄い」
「今にも、落ちそう」
まめじいが、かすれた声で石板を読んだ。
「名なし個体」
「深層保持群」
「本家前へ流出」
「家主方針、反応観測」
牧人は、その灰色の小さな影たちを見た。
胸の奥が、冷たくなる。
古い核は、受付小屋を直接壊すことはできなかった。
だから今度は、名前を持たないものを、ここに流してきたのだ。
本家が、本当にそいつらの名前を聞くのか。
記録するのか。
飯を出すのか。
それとも、諦めて見捨てるのか。
試すつもりなのだ。
ニコが、震える手で、けれど真っ直ぐに板を出した。
名前、聞く
牧人は、小さく、けれど力強く頷いた。
「そうだ。ニコ」
彼は一歩、灰色の影たちに向かって踏み出した。
「まずは、受付だ」
灰色の影たちは、何も答えなかった。
ただ、門前に頼りなく立っていた。
名前を持たないまま。
どこへ帰ればいいのかも、知らないまま。
受付、補修中の板の横で、まめじいは震える手で、けれど静かに筆を持った。
本家の仮受付は、まだ閉じていなかった。
だから、名前のない者たちにも、順番は来る。




