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受付小屋が、灰環核の攻撃を受け止めた


本家の受付小屋の影が、灰色に染まり始めた。


最初は、ただの薄い影だった。


朝の光が雲に隠れた時のように、地面の色が少し沈む。


だが、すぐに違うと分かった。


影が、動いている。


地面から染み出すように。


小屋の柱へ。

敷居へ。

机の足元へ。

まめじいの帳面が置かれた棚へ。


灰色の線が、細い蛇のように伸びていく。


ヒナが梁の上で声を上げた。


「来る!」


ナナが右奥の戸の前から一歩出た。


「受付」


イトの糸が、空を走る。


白い糸ではない。


迷宮の灰を受けて、少し銀色に光る糸だった。


「囲う」

「落とさない」


イシコが無言で地面に両手をついた。


石畳が、低く鳴る。


受付小屋の下から、厚い石の根が伸びるように盛り上がった。


小屋を支える。


小さな建物の足元に、急に太い骨が入ったようだった。


ベロは鍋の蓋を押さえたまま言った。


「飯場は下げる」


「飯場も狙われるか?」


牧人が聞くと、ベロは真顔で言った。


「飯は守る」


「まあ、とりあえず頼む」


クロが門前で立ち上がる。


三つの首が、同時に灰色の影を見た。


右が低く唸る。


「受付を狙うとは、趣味が悪い」


中央が言った。


「親父を直接狙わぬのは、分かっている」


左が続ける。


「あそこには、来た者の名がある。削らせれば、灰の奥の思うままだ」


牧人は受付小屋を見た。


小さな小屋だ。


雨風を防ぐ屋根。

まめじいの机。

帳面。

ニコの板を立てる場所。

避難者の名前を書く紙。

迷子を案内する矢印。

怪我人を右奥へ回す札。

飯の列を分ける板。


最初は、ただの受付だった。


今は違う。


誰かがここに来て、名前を言う。

言えなければ、待つ。

書けなければ、まめじいが代わりに書く。


飯か、怪我か、迷子か、寝床か。


ここに来れば、すべての行き先が決まる。


受付小屋は、来た者を「来た者」として残す場所だった。


灰環核にとっては、たぶん一番邪魔だ。


まめじいが震える声で石板を読む。


「灰環核、判定」

「受付機能、選別妨害装置」

「名記録、沈降処理阻害」

「帰還点化、確認」

「排除、開始」


ヒナが叫んだ。


「やだ、受付小屋を装置扱いした!」


豪志が顔を青くしながら手を上げた。


「ひどい! 受付小屋にも人格があるのに!」


ザガが短く言った。


「ねえよ!」


ニコが震えながら板を掲げた。


受付小屋、装置じゃない


牧人は頷いた。


「そうだ」

「装置じゃない」


彼は、灰色に染まり始めた受付小屋の前に立った。


「ここは、来たやつを追い返さないための場所だ」


灰色の影が、ぐにゃりと歪んだ。


そして、輪になった。


灰色の輪。


黒冠の影が開いた時のような、深い黒ではない。


乾いた灰を水で固めて、無理やり円にしたような色だった。


輪の内側は、空ではなかった。


底だった。


見ると沈みそうになる。


名前を忘れそうになる。


自分がなぜそこに立っているのか、どこへ帰るつもりだったのか、一瞬だけ薄くなる。


牧人の背中に、冷たい汗が流れた。


「見るな!」


まめじいが叫んだ。


「輪の内側を長く見てはなりませぬ!」

「名を薄める類の干渉でございます!」


ヒナが梁の上で目を逸らす。


「やだ、見てるだけで気持ち悪い!」


ナナが右奥の戸を背にして、短く言った。


「見ない」

「来たら斬る」


イトの糸が灰色の輪へ絡みに行く。


だが、糸が触れた瞬間、灰になる。


イトが小さく息を呑んだ。


「糸、食べた」


ミズハが水桶を投げるように傾けた。


水が宙で刃になり、灰色の輪を斬る。


じゅ、と嫌な音がした。


水が濁る。


ミズハは顔をしかめた。


「水が嫌がってる」


ベロが鍋の前で低く言った。


「灰が混ざると飯がまずくなる」


牧人は振り返った。


「今、飯の味の話か?」


「大事だ」


ヒナが梁の上で叫んだ。


「やだ、緊急時なのに飯の話!」


---


灰色の輪が、大きくなった。


受付小屋の正面に、もう一つ。


左側に、もう一つ。


地面から、灰の輪が三つ浮かぶ。


まるで、受付小屋を囲んで削ろうとしているようだった。


イシコが、低く唸った。


普段は、あまり怒らない。


石のように静かで、必要なことだけを言う。


そのイシコが、地面に手を押しつけたまま、目を細くした。


「小屋、壊すな」


石が鳴る。


ごご、と低く。


受付小屋の土台に、さらに石が巻き付いた。


柱の根元。

壁の下。

帳面の棚の下。


小屋を、地面ごと抱え込む。


灰色の輪が、その石に触れた。


石の表面が、ぱきりと白く割れる。


イシコの肩が、わずかに震えた。


牧人が声を上げる。


「イシコ!」


イシコは答えない。


その代わり、もっと強く地面を押さえた。


「直す」


短い声だった。


「壊されたら、直す」

「壊れる前に、支える」


ヒナが梁の上で息を呑んだ。


「やだ、イシコ姐さんが静かに怒ってる……」


ナナが短く言った。


「怒ってる」


イシコは、もう一度言った。


「受付、壊すな」


灰色の輪が、石を削る。


イシコの作った石の根に、細いひびが走った。


それでも、石は崩れなかった。


---


まめじいの帳面が、ばさりと開いた。


風はない。


それなのに、帳面の頁がめくれていく。


一枚。

また一枚。

また一枚。


そこには名前があった。


人間の名。

魔物の名。

まだうまく書けていない名。

まめじいが聞き返して、横に小さく読みを書いた名。

ニコが板で確認した名。

豪志が余計な説明をして、あとで線を引かれた欄。


全部が、灰色の光を受けて震えていた。


まめじいが帳面を抱え込む。


「消させませぬ」


声が震えていた。


だが、手は離さなかった。


「この帳面は、ただの紙ではございませぬ」

「来た者が、来たと残った証でございます」


灰色の輪から、細い灰の糸が伸びた。


帳面へ向かう。


ニコが飛び出しかけた。


ナナがそれを止める。


「だめ」


「でも」


「守る。前に出すぎない」


ニコは唇を結んだ。


それから、板を掲げた。


名前、消すな


板が、薄く光った。


誰も予想していなかった。


ニコ本人も、たぶん予想していなかった。


板の白い面に書かれた文字が、灰色の光を弾く。


ぱちん、と乾いた音がした。


灰の糸が逸れた。


ヒナが目を丸くする。


「やだ、ニコの板、光った!」


豪志が叫んだ。


「板が正式な装備に!」


ナナが短く言った。


「前から強い」


ニコは自分の板を見た。


「……強い?」


牧人は頷いた。


「強い」


ニコの目が、少しだけ丸くなる。


それから、もう一枚板を出した。


受付、守る


その板も、薄く光った。


灰の輪が、わずかに揺れる。


まるで、その単純な言葉を嫌がっているようだった。


---


灰色の輪が、今度は正面から押し寄せた。


輪ではなく、灰の波になった。


受付小屋の戸口へ向かう。


その前に、クロが立った。


三つの首が、同時に吠える。


門前の空気が震えた。


灰の波が一瞬止まる。


右が牙を剥く。


「小屋を狙うなら、まず俺を通れ」


中央が続ける。


「ここは、本家の入口だ」


左が低く言う。


「帰る場所を、削らせはしない」


灰の波が、クロの前脚に触れた。


じゅう、と黒い毛が少し焦げる。


クロの右が低く唸った。


「痛いな」


牧人が叫ぶ。


「クロ!」


中央が振り返らずに言った。


「親父、受付を見ていろ」


「でも」


右が苛立った声で言う。


「でもじゃない」

「前で受けるのは、俺たちの役目だ」


左が続ける。


「親父は受付の前にいろ」

「あそこを空けたら、誰が来た者の名前を書く」


牧人は、唇を噛んだ。


クロの前脚に、灰色の濁りがじわりと広がる。


そこへ、ぷるが飛び出した。


ぷるん。


小さく鳴いて、クロの足元に貼りつく。


「ぷる!」


牧人が叫ぶ。


ぷるは答えない。


灰色の濁りを、吸った。


ぷるん。


体の色が、少し灰色に濁る。


ミズハが水を飛ばす。


「ぷる、無理しないで!」


ぷるん。


ぷるは、少しだけ震えた。


でも離れない。


灰の濁りを吸う。

少しずつ。

少しずつ。


クロの右が低く言った。


「小さいの」


ぷるん。


「助かる」


ぷるが、少しだけ誇らしげに膨らんだ。


ヒナが梁の上で涙目になりながら笑った。


「やだ、ぷるが若頭に褒められて膨らんだ!」


---


灰色の輪が、受付小屋の屋根へ回り込んだ。


イトの糸が、そこを縛る。


何重にも。

何十重にも。


灰の輪が糸を削る。


イトの指先が震える。


「切れる」

「でも、まだ持つ」


ヒナが飛んだ。


梁から舞い降り、灰の輪の前で羽を広げる。


「こっち見なさいよ!」


灰の輪が、わずかに向きを変える。


ヒナは笑った。


怖がっていないわけではない。


顔は引きつっている。


でも笑った。


「私に釣られてる!」


ナナが地面を蹴った。


灰の輪の根元に短剣を突き立てる。


「ここ、切る」


短剣が灰色に染まりかける。


ナナは顔をしかめた。


「嫌い」


「ナナ!」


ミズハが水を流す。


刃の灰を洗い落とす。


「一人で触りすぎないで!」


「うん」


ナナは短く答え、すぐにもう一撃入れた。


イシコの石。

イトの糸。

ミズハの水。

ナナの刃。

ヒナの目くらまし。

クロの前脚。

ぷるの吸収。

ベロが守る大鍋。


そして、まめじいの帳面と、ニコの板。


受付小屋は、小さな建物だった。


だが、その小さな建物を守るために、本家の全員が動いていた。


豪志も動いた。


受付小屋の横で、震えながら大きな板を持っていた。


受付、一時停止中

でも名前は消えません


ヒナが叫んだ。


「やだ、豪志が板を持ってる!」


豪志は涙声で言った。


「ニコさんに書いていただきました! 俺はただ持っているだけです!」


ナナが短く言った。


「それでいい」


「持っているだけで褒められた!」


ザガが灰の輪を槍で弾きながら言った。


「喜ぶのは後だ!」


「はい!」


豪志は板を抱えたまま、受付小屋の横に踏ん張った。


三秒ではない。


今度は、ちゃんと立っていた。


---


灰の輪が、最後に一つにまとまった。


三つの輪が重なり、巨大な灰色の輪になる。


受付小屋の正面。


その中心が、黒く沈んだ。


まめじいが叫んだ。


「来ます!」

「記録を、まとめて落とす気です!」


牧人は受付小屋の前に立った。


ザガが叫ぶ。


「親分、下がれ!」


クロの中央も言う。


「後ろだ、親父!」


牧人は下がらなかった。


受付小屋の後ろには、帳面がある。


帳面の後ろには、名前がある。


名前の後ろには、ここに来た者たちがいる。


下がれるわけがなかった。


牧人は、灰色の輪を睨んだ。


「ここは、選別する場所じゃない」


灰の輪が迫る。


「ここは、受付だ」


ニコの板が光る。


受付、守る


まめじいの帳面が開く。


名前の列が、淡く光る。


イシコの石が受付小屋を抱える。


イトの糸が縛る。


ミズハの水が輪の縁を削る。


ナナが灰の根を切る。


ヒナが上から声を張る。


ベロが大鍋を守る。


クロが前で受ける。


ぷるが灰の濁りを吸う。


豪志が板を抱えて叫ぶ。


「受付は!」

「一時停止中ですが!」

「名前は!」

「消えません!」


ヒナが空中で叫んだ。


「やだ、豪志が今日はまとも!」


ザガが叫ぶ。


「今は褒めるな! 調子に乗る!」


豪志は泣きながら言った。


「もう乗ってます!」


「乗るな!」


その瞬間、灰色の輪が受付小屋にぶつかった。


音はなかった。


かわりに、名前が消えそうになる感覚があった。


一瞬だけ、牧人は自分の名前を忘れかけた。


守谷。


牧人。


本家。


親父。


その言葉が、遠くなる。


だが、背後でニコの板が光った。


受付、守る


まめじいの帳面が、ばさばさと頁をめくる。


そこに書かれた名前が、次々に浮かび上がる。


ぷる。

ニコ。

ナナ。

ネム。

イト。

イシコ。

ミズハ。

ベロ。

ザガ。

ヒナ。

クロ。

豪志。


そして。


守谷牧人。


牧人は、息を吸った。


戻ってきた。


「……勝手に薄くするな」


彼は、低く言った。


「名前は、ここにある」


灰色の輪が、弾けた。


小さな灰の粒になって、門前に散る。


ぷるが、ぷるんと飛びついた。


灰を吸う。


吸う。

吸う。

吸う。


「ぷる、あんまり無理しないで!」


ミズハが水を流し、灰を薄める。


イシコの石が、最後まで受付小屋を支えていた。


だが。


ぱきん。


小さな音がした。


受付小屋の正面の柱に、ひびが入った。


机の端も、少しだけ欠けた。


まめじいの帳面は無事だった。


ニコの板も無事だった。


だが、受付小屋には、はっきりと傷が残った。


イシコが、それを見た。


無言だった。


いつもより、ずっと無言だった。


そして、ぽつりと言った。


「直す」


牧人は、ひびの入った柱を見た。


それから、すぐに振り返った。


「怪我はないか」


全員が、一瞬だけ止まった。


受付小屋が傷ついた。

灰環核の攻撃を受けた。

柱にひびが入った。

机も欠けた。


それなのに、牧人が最初に聞いたのは、建物のことではなかった。


怪我はないか。


ヒナが梁の上で目を丸くした。


ナナが短く言った。


「ない」


イトが指を見た。


「糸、切れた」

「でも、痛くない」


ミズハがぷるを抱える。


「ぷるは灰を吸って、頑張ったわ」


ぷるん。


ベロが言った。


「飯は無事」


牧人は見た。


「お前は?」


「無事」


クロの右が不満そうに言った。


「少し焦げた」


「大丈夫か」


「焦げただけだ」


ミズハが即座に言った。


「あとで洗うわ」


右は少し嫌そうな顔をした。


豪志が座ったまま板を抱えて、震える声で言った。


「お、俺は……少し腰が抜けましたが、心は立っております」


ナナが短く言う。


「座ってる」


「気持ちは立ってます!」


ヒナが笑った。


笑ったけれど、少しだけ声が震えていた。


「やだ、豪志が一番正直」


まめじいが帳面を抱えたまま、深く頭を下げた。


「親父殿、帳面は、無事でございます」


牧人は頷いた。


「まめじいも無事か」


まめじいは、少しだけ目を見開いた。


それから、ゆっくり頷いた。


「はい、無事でございます」


牧人は、ようやく受付小屋を見た。


「イシコ」


「直す」


「頼む」


「うん」


イシコは、ひびの入った柱に手を当てた。


石の粉が、静かに集まる。


木の割れ目に、薄い石の筋が入っていく。


完全には戻らない。


傷は残る。


けれど、倒れない。


受付小屋は、立っていた。


ニコが板を出した。


受付、耐えた


牧人はそれを見て、ゆっくり頷いた。


「耐えたな」


ヒナが梁の上で息を吐いた。


「やだ、受付小屋が初撃を受け止めた……」


ベロが真顔で言った。


「強い小屋だ」


クロの右が言う。


「肉の記録は守った」


「そんな記録はない」


牧人が返すと、少しだけ笑いが戻った。


本当に少しだけだった。


でも、戻った。


---


旧帳場の奥で、灰色の光がまた動いた。


まめじいが、顔を強張らせる。


「まだ、文字が出ます」


牧人は受付小屋の前に立ったまま、旧帳場を睨んだ。


石板に、冷たい文字が浮かんだ。


受付、排除失敗。

記録保持、継続。

家主、対処要。


ヒナが、低く言った。


「やだ、今度は親父を見てる」


ナナが短く言う。


「来る」


クロの三つの首が、同時に牧人の前へ出た。


ザガも槍を構える。


ベロは鍋の前で蓋を握り直す。


ニコは板を抱えた。


まめじいは帳面を抱えた。


イシコは受付小屋に手を当てたまま、灰色の光を睨んだ。


牧人は息を吐いた。


受付小屋は、守った。


だが、灰の奥の捨て場所は諦めていない。


次に来るのは、家主。


つまり、自分だ。


牧人は小さく言った。


「やっぱり、話は減らないな」


豪志が震えながら手を上げた。


「親分さん」

「次も一時停止札、持ちますか」


ナナが短く言った。


「持って」


牧人も頷いた。


豪志は、泣きそうな顔で頷いた。


「はい」

「本日、俺、持ち場があります」


ヒナが少しだけ笑った。


「やだ、豪志がちゃんと役に立ってる」


灰環核の光は、冷たく強くなっていく。


本家の受付小屋には、一本のひびが残った。


けれど、帳面は残った。


名前も残った。


そして、受付はまだ閉じていなかった。


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