↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
104/144

灰環核は、家を認めなかった


灰環棄還核が、完全に目を覚ました。


捨てるための古い核が。


捨てさせない家主を、排除するために。


旧帳場の奥で、灰色の光が濃くなっている。


黒冠の影も、門前の端で静かに揺れていた。


戻さない迷宮と、選別する迷宮。


同じ古い根を持つ二つの枝が、本家の門前で同時に鳴った。


ごん。


その余韻が消えたあと、場は重く沈んだ。


沈んだ。


……はずだった。


「ごちそうさま」


敷居の外側で、千景が椀を置いた。


ぴかぴかだった。


粥は、一粒も残っていない。


牧人は思わず見た。


「食べ切ったな」


「出された飯を残すのはよくないからね」


黒冠の姫というわりに、食べ方はきれいだった。


ただし、さっきまで灰環棄還核が起動していた場面である。


普通は、もう少し緊張する。


少なくとも、食後の感想を言う空気ではない。


ヒナが梁の上で小声で言った。


「やだ、姫が灰環ラスボス起動直後に完食してる」


ナナが短く言う。


「強い」


ベロは鍋の前で少しだけ頷いた。


「残さないのはいい」


「ただの粥かと思ったら、すごく美味しかったよ」


ベロが得意げに言った。


「出汁にこだわってるからな」


「出汁はなに?」


「それっぽいもの色々だ」


「……」


千景は立ち上がった。


足元で丸くなっていた小太郎も、ゆっくり起きる。


茶色いトイプードルにしか見えない。


だが、クロの三つの首は、小太郎が動くたびに目だけで追っていた。


小太郎は、何も気にしていない顔で一度だけあくびをした。


「じゃあ、私は戻るね」


牧人は眉を寄せた。


「戻るのか」


「うん。お腹いっぱいになったし、甘いもの買いに行きたい」


門前の空気が、一瞬だけ止まった。


ヒナが吹き出した。


「やだ、姫の撤退理由が甘味!」


千景は涼しい顔だった。


「ご飯のあとは甘いものだよ」


「今、灰環の奥が起きてるんだけど」


「起きてるね」


「それで菓子を買いに行くのか」


「うん。考えるには糖分がいるの」


セイランが、横から静かに言った。


「姫、黒冠側への報告が先です」


「買ってから、報告すればいいでしょ」


「店に寄る前提なのですね」


「寄るよ。今日の分、まだ買ってない」


牧人は額を押さえた。


「その判断でいいのか」


「いいよ。私は黒冠側に戻らないといけないし、王座も鳴った。向こうも向こうで、たぶん面倒な顔してる。だから、お菓子を買ってから考える」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、黒冠の姫の作戦会議にお菓子が必須!」


千景は真顔で頷いた。


「必須だよ」


豪志が小さく手を上げた。


「姫様、もしよろしければ、私がおすすめの菓子店を――」


ナナが短く言った。


「黙って」


「はい!」


千景は少し笑った。


「気持ちだけもらっておくね」


「今、私、姫様に気持ちだけ受け取っていただきました!」


「豪志、うるさい」


ザガに言われ、豪志は口を閉じた。


千景は、旧帳場の奥を見た。


灰色の光は、まだ消えていない。


「ここから先は、灰環の話でしょ」


牧人は黙った。


「黒冠は見てる」

「でも、ここで前に出るのは、たぶん違う」

「マッキーが、中心に立つかどうかの話だから」


千景の声は軽い。


でも、最後だけは軽くなかった。


牧人は言葉に詰まった。


千景はそれ以上、追わなかった。


セイランが頭を下げた。


「冥門組本家の皆様」

「黒冠は、古路反応を観測します」

「ただし、灰環棄還核への直接干渉は、現時点では行いません」


ヒナが梁の上で言った。


「黒冠が本当に見てるだけ宣言した」


千景は小太郎を見下ろした。


「行こ、小太郎」


小太郎が短く鳴いた。


「わふ」


クロの右が低く唸る。


「……犬の形をしているだけのやつが、帰るか」


牧人はクロを見た。


「まだ気にしてるのか」


「気にしてはいない」


「嘘つけ」


中央が静かに言った。


「気にしている」


左も続ける。


「だが、今は灰環だ」


右は不満そうに黙った。


千景は少し笑い、敷居の外側から一歩下がる。


黒冠の影が、その足元で細く開いた。


道というより、黒い裂け目に近い。


千景は、最後に牧人を見た。


「マッキー」


「何だ」


「受付、守りなよ」


牧人は旧帳場の奥を見た。


それから、小さく頷いた。


「守る」


「じゃあね」


千景は黒い影の中へ歩いていった。


小太郎がその後ろを、とことこと続く。


セイランも一礼し、黒冠の影へ消えた。


黒い影は、門前の端で一度だけ揺れ、細く閉じた。


黒冠の気配が薄くなる。


本家の門前から、黒冠の姫はいなくなった。


小太郎の小さな足跡だけが、敷居の外側に少し残っている。


ヒナが梁の上で息を吐いた。


「やだ、嵐みたいに来て、粥食べて、甘いもの買いに帰った」


ナナが短く言った。


「強い」


ベロも頷く。


「残さなかった」


牧人は言った。


「そこばっかり評価するな」


だが、軽口はそこまでだった。


黒冠が退いたあとも、灰色の光だけは残っている。


むしろ、黒冠が薄れたことで、旧帳場の奥の灰色が目立つようになった。


灰環棄還核。


灰の奥の捨て場所。


そいつは、帰ってくれなかった。


---


旧帳場の石板が、低く鳴った。


ごん。


まめじいが、帳面を抱え直した。


「来ます」


牧人は受付小屋の前に立った。


「何が」


まめじいは、石板の文字を追う。


「灰環核が、本家を調べ直しております」


「調べ直す?」


「先ほどは、存在そのものへの拒絶でございました。今度は、具体的に本家の何が邪魔なのかを見ているようでございます」


牧人は嫌な顔をした。


「見なくていい」


ヒナが梁の上で頷く。


「やだ、灰色の奥に家の中をじろじろ見られるの、すごく嫌」


ナナが短く言う。


「気持ち悪い」


ニコが板を出した。


見ないで


牧人は頷いた。


「気持ちは分かる」


灰色の文字が浮かぶ。


まめじいが読み上げた。


「対象、冥門組本家」


牧人は、さらに嫌な顔をした。


「うちか」


「はい」


「名指しするなよ」


「すでに名指しでございます」


ヒナが椀を抱えたまま言った。


「やだ、ラスボスに家の場所を知られてる感じがする!」


豪志が真っ青な顔で手を上げた。


「親分さん、こういう時は表札を外した方がよろしいでしょうか」


ナナが即答した。


「遅い」


「ですよね!」


ニコが板を出す。


本家、見られてる


牧人は板を見た。


「出すと余計に嫌だな」


ニコは板を裏返した。


本家、負けない


「そうだ」


灰色の文字は、淡々と続いた。


「管理外帰属点」

「帰還選別、阻害」

「分類構造、乱れ」

「家主方針、干渉継続」


まめじいの声が重くなる。


「親父殿、向こうは、本家そのものを異常点として認識しております」


牧人は腕を組み、旧帳場の奥を睨みつけた。


「管理外って、勝手に言うな」

「うちにはちゃんと受付があるぞ」


空気が一瞬だけ止まった。


ヒナが目を丸くする。


「やだ、親父がラスボス相手に受付の有無で反論してる……!」


ニコが、待ってましたとばかりに板をひっくり返した。


灰環も受付へ


牧人は板を見た。


「……まあ、窓口のルールとしては、それが一番公平だな」


ザガがこめかみを押さえた。


「親分、そこを認めるな」


豪志が勢いよく手を挙げた。


「では、灰環核様用の受付番号札を作成してまいります! 相手が大きそうなので、かなり大きめの札を!」


ナナが短く言った。


「いらない」

「邪魔」


「ああっ、私の案が受付前で却下された!」


ヒナが梁の上で笑い出す。


「やだ、旧い迷宮のラスボスにも、まず並べって言ってる!」


ベロが大鍋の前から、真顔で付け加えた。


「受付を通らない勝手なやつには、飯は出ない」


牧人は振り返った。


「お前、あいつを並ばせて、最終的には飯を食わせる前提で話してるのか?」


「並べば出る」


ベロは揺るがない。


「それがうちの飯だ」


旧帳場の奥の灰色の光が、わずかに揺れた。


まるで、本家の生活感がありすぎる会話を理解できず、少し詰まったように見えた。


牧人は、それを見て少しだけ胸がすいた。


いや、安心できる状況ではない。


まったくない。


だが、あの偉そうな古い核が、受付と飯の話で一瞬止まったように見えたのは、ほんの少しだけ気分がよかった。


---


灰色の文字が、さらに浮かぶ。


「魔物個体、群れ構造を逸脱」

「家族化、確認」

「人間個体と魔物個体、同一食列に混在」

「敵対分類、不成立」


まめじいが読み上げた瞬間、門前の飯の列に並んでいた小さな魔物たちが、一斉に体を縮めた。


そのすぐ隣には、椀を抱えた人間の子どもが立っている。


子どもは魔物たちの様子を見て、少しだけ不安そうに身を寄せた。


牧人は、その子どもたちと魔物たちを見た。


いつもの、飯を待つ姿だった。


それから、旧帳場へ向き直る。


「同じ列に並んで、順番を待って、同じ飯を食って何が悪いんだ」


灰環棄還核は答えない。


ただ、文字だけが冷たく出続ける。


「本来敵対すべき分類群、混在」

「捕食対象、保護対象化」

「災厄級個体、家内役割取得」

「門番、若頭、飯列整理、確認」


ヒナが、にやにやしながらクロを見た。


「やだ、若頭、思いっきり飯列整理係って扱われてるよ!」


クロの右が、牙を鳴らした。


「なんだその役割は」


中央が、ぼそりと言った。


「実際、毎日のように並ばせている」


左も続ける。


「割り込みは減った」


右は黙った。


ヒナが手を叩いて笑う。


「本人が一番反論できてない!」


ニコが嬉しそうに板を掲げた。


若頭、列を整える


クロの右が低く唸る。


「文字に残すな」


ニコは板をくるりと裏返した。


若頭、見るだけで整う


牧人は、口元を緩めた。


「そっちの方が強そうだな」


右は少しだけ鼻を高くした。


灰色の文字は、さらに続く。


「災厄級個体、支配系統外」

「家主への従属、未確認」

「しかし、家主周辺に定着」

「分類不能」


牧人は眉を寄せた。


「従属って言うな」

「うちの連中が、俺の命令を大人しく聞くように見えるか?」


クロの中央が静かに言った。


「あり得ない」


左が、静かに続けた。


「だが、ここが帰る場所ではある」


その言葉に、牧人は少しだけ黙った。


面と向かって言われると、どうにも胃のあたりに重いものが残る。


豪志が、ハンカチで涙を拭いながら勢いよく手を上げた。


「俺も! 俺もここを帰る場所だと思っております!」


ナナが短く現実を突きつける。


「豪志、泣いてないで薪の片付け」


「一瞬で現実に引き戻された!」


ニコがそっと板を出した。


豪志、泣きながら片付ける


「せめて泣き止んでからやらせてください!」


門前に、いつもの本家らしい笑いが戻った。


だが、旧帳場の奥の灰色の光だけは、一向に笑う気配を見せなかった。


---


灰色の文字が、次へ進む。


「帰還不能個体、再帰還を確認」

「名喪失個体、再命名を確認」

「役割喪失個体、本家内役割を取得」

「沈降予定個体、地上滞留を継続」


まめじいが一つ一つ読み上げるにつれて、牧人の表情から笑みが消えていく。


「もう元には戻れない」と見捨てられたもの。


名前を奪われたもの。


役割を失ったもの。


地底の奥へ沈められるはずだったもの。


それが、今、この門前の長机の周りで粥をすすり、笑っている。


ぷるが、牧人の足元でぷるんと揺れた。


ニコが、板を抱きしめる。


ナナは右奥の戸の前で、視線を落とさず立っている。


ネムが右奥の暗がりから、眠たげな瞳でこちらを見ていた。


イトの糸が、梁の隙間で細く光っている。


牧人は、ゆっくりと息を吐いた。


「再命名なんて、変な言い方するな」

「俺たちはただ、名前を呼んだだけだろ」


まめじいが静かに言った。


「親父殿、向こうにとっては、その“名前を呼ぶ”という行為自体が、旧い分類を崩す異常なのでございましょう」


「異常で結構だ」


牧人は即答した。


「名前がないなら、名前を聞けばいい」

「名前を忘れてしまったなら、思い出すまでここで待てばいい」

「どうしても新しい名前が欲しいって言うなら、みんなで一緒に考えればいい」

「それだけの話だ」


ニコが、静かに板を差し出した。


名前、大事


ナナが、短くその言葉に体重を乗せる。


「大事」

「名前、ないと呼べない」


ネムも、右奥の布団の中から、ぽつりと眠そうな声を漏らした。


「……呼ばれると、寝てても起きちゃう」


ヒナが、梁の上で思わず吹き出した。


「やだ、ネム基準だと、名前って目覚ましなのね!」


ベロが、鍋をかき混ぜながら真面目に頷いた。


「飯の時間が来たら、俺も名前を呼ぶ。冷めるから」


「ああ。それも大事なことだな」


牧人がそう言うと、灰色の光が一段と膨れ上がった。


「名付与、分類妨害」

「個体記録、再固定」

「沈降処理、遅延」


牧人は、その光を真っ直ぐに見据えた。


「遅らせてるんじゃない」

「俺が、ここで止めてるんだ」


旧帳場の奥が、苛立ったように重く鳴った。


ごん。


---


灰環棄還核は、本家の中をさらに見た。


飯場。

寝床。

水桶。

門前。

右奥。

石の壁。

糸の梁。

ぷるが吸った灰の跡。

ニコの板。


そして、受付小屋。


その瞬間、灰色の光が明らかに強くなった。


まめじいが息を呑む。


「親父殿、受付小屋を見ています」


牧人の顔が変わった。


「受付を?」


まめじいは頷く。


「はい、向こうにとって、一番邪魔なのは、どうやら飯場よりも受付のようでございます」


ヒナが梁の上で眉を寄せた。


「飯場より?」


ベロが不満そうに言った。


「飯場も重要だ」


「もちろん重要だよ。でも、あいつにとっては受付の方が嫌なんだ」


牧人は受付小屋を見た。


まめじいの帳面がある。

避難者の名前がある。

小型魔物の記録がある。

迷子の行き先がある。

怪我人の控えがある。

誰が来て、誰が飯を食べて、誰が寝床に入ったのか。


全部、そこにある。


まめじいが低く言った。


「灰環核は、名を薄くし、記録外へ落とす」

「受付小屋は、その逆でございます」

「来た者の名を聞き、書き残し、用件を受け、行き先を記す」

「向こうにとっては、本家の心臓のように見えているのでしょう」


ニコが板を抱えた。


「心臓?」


ヒナが小さく言った。


「やだ、受付小屋が急に重要施設っぽくなった」


豪志が手を上げた。


「実際、重要施設です!」

「受付がないと、誰が迷子で、誰が怪我人で、誰が飯だけ食べに来たのか、全部分からなくなります!」


ザガが槍を構えながら言った。


「まあ、そこが潰されたら困るのは事実だ」


ミズハも水桶を抱え直す。


「名前も、行き先も、薬の記録も、あそこにあるものね」


イトが梁の上から糸を垂らした。


「糸、張る」

「受付、囲う」


イシコが地面に手を置いた。


「石、固める」

「小屋、倒さない」


ベロが鍋の蓋を押さえたまま言う。


「飯の記録もある」

「守る」


牧人は少しだけ笑いかけた。


「飯の記録って何だ」


「誰が食ったか、誰がまだか、大事だ」


「大事だな」


クロの右が言った。


「肉の記録もあるか」


「ない」


「作れ」


「今じゃない」


ヒナが吹き出した。


「受付小屋防衛戦で肉台帳を要求してる!」


少しだけ笑いが戻った。


でも、灰色の光は冷たいままだ。


---


石板に、新たな文字が刻まれる。


まめじいが読み上げる。


「管理外帰属点」

「帰還選別、阻害」

「家主方針、拡散源」

「受付機能、異常中枢」


牧人は眉を寄せた。


「受付が異常?」


「向こうから見れば、でございます」


「向こうの見方がおかしい」


「はい」


ナナが短く言った。


「おかしい」


ニコが板を出した。


受付、正常


牧人は頷いた。


「そうだ。正常だ」


まめじいが、少しだけ息を吸った。


「さらに出ます」


灰色の文字が、冷たく浮かんだ。


「優先攻撃対象、選定」


門前の空気が止まった。


ヒナの笑いが消える。

ザガが槍を握る。

クロの三つの首が、低く唸る。

ナナが一歩前へ出る。

ミズハの水が、静かに刃の形になる。

イトの糸が、受付小屋の周囲に走る。

イシコの石が、小屋の土台を包む。


牧人は旧帳場の奥を睨んだ。


「何を狙う気だ」


石板に、最後の一行が浮かぶ。


受付小屋、攻撃対象。


その瞬間、本家の門前が静まり返った。


受付小屋。


まめじいが毎日、必死に書き留めてきた帳面がある。


ここに逃げ込んできた者たちの、不格好な名前の記録がある。


小さな迷子の魔物たちの足跡がある。


怪我をした者が、どこへ向かって、どう生きていこうとしたのかの控えがある。


本家が、ただの飯場ではなく、家としてここに存在した証明のすべてが、その小さな小屋に詰まっている。


その場所を、灰環核は攻撃対象に選んだ。


まめじいの手が震えた。


「受付小屋を……」

「私たちの記録を……」


ヒナが、梁の上で身を乗り出して叫んだ。


「そこはだめ!」

「絶対に触らせない!」


ナナが無言で、右奥の戸の前から一歩を踏み出し、短剣の柄に手をかけた。


「守る」


ザガが、槍を構える。


「親分、下がってろ」

「ここからは俺たちの番だ」


クロの三つの首が、同時に牙を剥き出しにして、前脚で地面を削った。


「来るなら、あの石板ごと噛み砕いてやる」


ベロが大鍋の蓋を叩き、その場に立つ。


「みんなの飯の記録が、そこにある」

「守る」


ニコが、震える手で、それでも板を落とさないように両手で抱え込んだ。


灰環、受付へ

でも壊すの、だめ


牧人は、そのニコの板を見た。


それから、自分たちの小さな受付小屋を見た。


まめじいの使い古された筆。

ニコが毎日、一生懸命に書き直した看板。

傷だらけの受付の机。

不器用な字で書かれた、みんなの名前。

ぷるが吸い取ってくれた、古い灰の匂い。


ここにあるものは全部、彼らがここに来て、生きてきた証だった。


牧人は、ゆっくりと一歩前に出た。


「受付は、指一本触れさせない」


その声は、決して絶叫ではなかった。


けれど、本家の門前の隅々にまで届いた。


「ここに来たやつを、名前のないものに戻させない」

「記録の外に落とさせない」

「最初からいなかったことになんて、絶対にさせない」


旧帳場の奥で、灰色の光が膨れ上がる。


牧人は、その光の前に立った。


受付小屋を守る盾のように。


今度は、手に武器も、お玉も持っていない。


けれど、その背中は、どんな壁よりも動かなかった。


ニコが、少し震える手で、それでも力強く板を高く掲げた。


受付、守る


牧人は、その小さな文字を背中で感じながら、短く答えた。


「ああ」

「絶対に守る」


灰環棄還核が、低く重く鳴った。


ごん。


本家の受付小屋の影が、じわじわと、不吉な灰色に染まり始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。