黒冠と灰環が、同じ古い声で鳴った
千景は、敷居の外側に腰を下ろしていた。
本家の内側には入らない。
黒冠の姫として、そこはまだ線を越えない。
けれど、手には椀がある。
ベロが出した粥だ。
「黒冠の姫も食べるのか」
牧人が言うと、千景は椀に息を吹きかけながら言った。
「出された飯を無駄にするわけにはいかないよ」
小太郎は千景の足元で丸くなっている。
食べているのは千景だけではない。
クロは肉の量を確認し、ヒナは梁の上で椀を抱え、ナナは右奥の戸の前で小さく粥をすすっている。
そんな時に。
黒冠王座が鳴った。
ごん。
続いて、本家の奥で、灰環の石板も鳴った。
ごん。
まるで、別々の場所にある古い扉が、同じ合図に返事をしたようだった。
音はよく似ていた。
けれど、同じではない。
黒冠の音は、閉じた王座の奥で、古い冠がゆっくり動くような音だった。
灰環の音は、もっと低い。
濡れた灰の底で、沈んでいた何かが、こちらを見上げたような音だった。
門前の空気が止まる。
ヒナは椀を持ったまま、梁の上で固まっていた。
「やだ……」
「今、二つ鳴った?」
ナナが右奥の戸の前で、耳を少し動かして短く言った。
「鳴った」
「低い」
イトは梁の端で糸を張っている。
「黒」
「灰」
「同じところ、引っかかった」
ミズハの水桶の水面には、黒と灰の輪が同時に映っていた。
混ざらない。
けれど、離れない。
ミズハは水面を覗き込み、嫌そうに眉を寄せた。
「お互いに嫌ってるのに、下の方だけつながってるみたいね」
牧人は全力で嫌な顔をした。
「その言い方、すごく嫌だな」
「私も嫌よ」
イシコが地面に、ぽてりと手を置く。
「石、下、ふたつ」
「でも、もっと下、ひとつ」
牧人は、ますます眉間のしわを深くした。
「ひとつ?」
まめじいは帳面を脇に抱えたまま、旧帳場と黒冠の影を何度も交互に見ていた。
普段なら、すぐ書く。
だが、今は筆が止まっている。
その止まり方が、よくなかった。
まめじいが書かない時は、だいたい本当に面倒な時だ。
「まめじい」
牧人が声をかけると、まめじいはゆっくり顔を上げた。
「親父殿」
声が低い。
「これは……別々の迷宮という扱いではありませぬ」
門前が静まり返った。
牧人は聞き返す。
「どういう意味だ」
まめじいは、旧帳場の奥に光る灰色の線を見た。
それから、千景の足元に広がる黒冠の影を見る。
「灰環と黒冠は、姿も性質もまるで違います」
「灰環は、流れ着いたものを受け入れる迷宮」
「黒冠は、入ったものを戻さぬ迷宮」
「性質は違います」
そこで、まめじいは一度、言葉を切った。
「ですが、もっと古い根が同じでございます」
「どちらも、旧時代の管理構造から伸びた枝」
「役目を分けられた、大迷宮の残りでございましょう」
ヒナが梁の上で、お椀を抱きしめながら小さく言った。
「やだ、話が急に根っこから怖い」
豪志が、空いた椀を片手にそっと手を上げた。
「つまり、灰環さんと黒冠さんは、長年疎遠だった本家と分家みたいなものでしょうか」
ナナが短く言った。
「たぶん、もっと泥沼」
「ズブズブ!」
ニコが素早く板を出した。
黒と灰、根っこ同じ
牧人はその板を見た。
「分かりやすいけど、帰りたくない実家感があるな」
ニコは照れくさそうに、板を裏返した。
根っこ、こわい
「それは本当にそう」
クロの右が、牧人の椀を見ながら低く言った。
「根っこより肉だ」
牧人はお玉を向けた。
「今は根っこの話をしてるんだ。肉は待て」
ヒナが吹き出した。
「やだ、若頭に待てが出た!」
ベロが大鍋の前で、至って真面目な顔で言った。
「肉の話は大事だ」
「ベロまでそっちに行くな」
ベロは少し考えてから言った。
「でも、大事だ」
「飯目線で理解しようとするな」
千景が、牧人の必死なツッコミに小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消える。
黒冠の影が、千景の足元で静かに揺れていた。
ただ揺れているのではない。
こちらを見ている。
灰環の奥の石板も同じだ。
黒と灰。
違う迷宮が、同じ古い場所を見ている。
---
まめじいは、帳面を開いた。
「これまで灰環は、流れ着いたものを受け入れる迷宮として見えておりました」
「行き場を失った魔物」
「傷ついた迷い人」
「世界から押し出された者」
「帰る場所を失った者」
牧人は、本家の門前を見渡した。
飯の列。
寝床。
受付。
ぷる。
水桶。
ニコの板。
ベロの大鍋。
たしかに、そういうものが集まっている。
まめじいは続ける。
「しかし、本来は、ただ受け入れる場所ではなかったのかもしれませぬ」
「流れ着いたものを分類する」
「戻すものと、沈めるものを分ける」
「名を薄くし、帰還路を選ぶ」
「戻る資格がないとされたものを、奥へ留める」
牧人の表情から、ふっと温度が消えた。
「待て」
声が低くなる。
「戻る資格、だと?」
まめじいは静かに頷いた。
「石板が、そのような意味の言葉を示しております」
牧人は旧帳場の奥を見た。
奥から、じわじわと灰色の光がにじみ出ている。
「誰が決めるんだよ、そんなもの」
誰も答えなかった。
答えられるものではなかった。
まめじいが、静かにその名を告げる。
「灰環の最深部で、その判断をしていた中枢が、今回の接続で目を覚ましたようでございます」
旧帳場の石板に、冷たい文字が浮かび上がった。
灰環大迷宮・旧帰還選別核。
続いて、もう一つ。
灰環棄還核。
まめじいが読み上げる。
「灰環棄還核……」
「はいかんきかんかく、と読むのでございましょうか」
ヒナが梁の上で、ぶるっと震えた。
「やだ」
「名前からして嫌」
ナナが短く同意する。
「嫌な名前」
豪志が、ここぞとばかりに知的な顔を作って手を上げた。
「略して、灰環核というのはいかがでしょうか。黒冠と灰環が重なっている感じもあり、語呂も――」
ザガが豪志を見た。
「お前、今それが必要だと思って言ったか?」
豪志は一瞬で縮こまった。
「いえ……敵にも呼び名があった方が、話し合いの場で便利かと……」
ニコが、そっと板を出した。
灰の奥の捨て場所
牧人はその板を見て、少しだけ目元を緩めた。
「……そっちの方が、俺たちには分かる」
ニコは板を胸に抱えたまま、ちょこんと頭を下げた。
灰の奥の捨て場所。
本家の門前には、あまりにも似合わない言葉が置かれた。
ベロも、大鍋をかき混ぜる手を止めている。
クロの三つの首も、旧帳場の奥へ視線を向けていた。
千景がぽつりと言った。
「黒冠は、一度入ったら外へ戻さない」
「灰環は、戻す価値があるかないかを分ける」
「けれど、根っこが同じなら――」
セイランが、静かに言葉を継いだ。
「旧時代の管理機構が残した役割が、形を変えて今も動いているということです」
牧人は、ぎり、と奥歯を噛んだ。
「……仕分けなんて言うなよ」
声は決して大きくなかった。
だが、門前の全員の耳に、重く届いた。
「他人が帰るかどうかを、勝手に決めるな」
「戻る資格がどうとか、使えるとか使えないとか」
「どこのどいつが、そんなことを決めていいって言ったんだよ」
ヒナが、牧人の怒りに小さく息を呑んだ。
豪志も口を閉じた。
ナナは右奥の戸の前で、いつでも飛び出せるように重心を落とした。
クロの中央が、低く唸る。
「親父」
牧人は旧帳場の奥に視線を固定したままだった。
「つまり、それがそこにいるってことだな」
「その、灰の奥の捨て場所が」
まめじいは悲痛な面持ちで頷いた。
「はい」
「今回は、強大な竜でも魔王でもございませぬ」
「灰環という迷宮そのものを、選別する捨て場所として動かしてきた中枢核」
「それこそが、灰環棄還核にございます」
牧人は大きく息を吐き出した。
その息は、いつになく冷たかった。
相手には、噛み砕くための牙もない。
引き裂くための爪もない。
こちらを威嚇して吠えるわけでもない。
ただ淡々と、決める。
戻すもの。
沈めるもの。
名を残すもの。
名を薄くするもの。
使えるもの。
使えないもの。
その無機質さこそが、一番胸くそが悪かった。
「最低だな」
牧人は吐き捨てるように言った。
「俺が一番嫌いな相手だ」
千景が、そんな牧人の横顔を静かに見つめた。
「そうだね」
「お前は黒冠で、こういうのと戦ってたのか」
「少し違う。黒冠は、閉じ込めた。灰環は、選ぶ。戻していいものと、捨てていいものを」
千景の目が細くなる。
「たぶん、灰環の方が性格が悪い」
ヒナが小声で突っ込む。
「やだ、姫が迷宮に性格悪いって言った」
ナナが短く被せる。
「悪い。友達になりたくない」
「ナナまで追撃に入った!」
ニコが素早く板を掲げた。
灰の奥、すごく性格悪い
牧人は、ニコの板に深く頷いた。
「……その板、残していい」
「事実だから」
まめじいは、事務方としての最後の理性を振り絞って咳払いをした。
「帳面には、もう少し穏当な表現で記載いたしますが……」
「いや、直球でいい。その方が、何と戦うのか分かる」
ヒナが梁の上で、ついに笑い出した。
「やだ、まめじいが正式な帳面に“性格が悪い”をどう書くか真剣に悩んでる!」
豪志が、名誉挽回とばかりに手を上げる。
「では、“極めて協調性に欠ける旧い中枢”ではいかがでしょう!」
ザガが、深いため息と共に言った。
「お前がまとめると、急に近所の困った人みたいになるな」
豪志は、それでも嬉しそうに胸を張った。
「身近な問題に落とし込むことこそ、私の役目です!」
ナナが小さく呟いた。
「少し、分かる」
豪志の顔が輝いた。
「今、ナナさんに褒められました!」
ニコが素早く板を出す。
豪志、一ミリくらい役立つ
豪志は、ついにその場で男泣きを始めた。
「一ミリでも嬉しい!」
ヒナが梁を叩いて笑った。
「やだ、灰環のラスボスみたいなのが起動したとこなのに、豪志が少し報われてる!」
牧人も、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いて笑った。
けれど、すぐに視線を旧帳場へ戻す。
笑い事で済む相手ではない。
ただ、こうして笑える仲間がいることだけは、今の彼の救いだった。
---
旧帳場の奥で、灰色の光がさらに濃くなった。
ごん。
今度は、灰環の底だけが鳴り響いた。
黒冠の影は、静かにそれを見ている。
千景が不快そうに眉を寄せた。
「灰環の奥、怒ってるね」
セイランが淡々と答える。
「黒冠王座は、観測しています。干渉はしていません」
「黒冠らしいね。見てるだけで面倒を増やす」
セイランは否定しなかった。
牧人は一歩前に踏み出し、旧帳場を睨む。
「まめじい」
「その灰環棄還核とやらは、俺たちの何が気に入らないって言ってる」
まめじいは、石板に刻まれていく文字を指で追いながら読み上げた。
「……やはり、本家の家主方針が、向こうの古い選別に干渉しているようでございます」
「俺のやり方の、どこが悪い」
「誰も捨てられない場所。この方針そのものが、旧帰還選別の仕組みと衝突しております」
牧人は鼻で笑った。
「衝突も何もあるか。俺はただ、うちの前で勝手に人を捨てるなって言ってるだけだ」
「それが、向こうにとっては妨害なのでございましょう」
「やっぱり、性格が悪いな」
ナナが短く拳を握った。
「悪い」
「出入り禁止」
ニコが全力で板を出す。
灰の奥、やっぱり性格悪い
牧人は力強く頷いた。
「よし、その板は保存だ」
まめじいは、もはやツッコミを入れる気力もなく、帳面に小さく書いた。
極めて非協力的な中枢。
ヒナが梁の上でお腹を抱える。
「やだ、まめじいの事務処理能力が、迷宮の悪口をきれいにすることに使われてる!」
豪志が、ここぞとばかりに提案する。
「では、今後の対策として“灰環町内会からの厳重注意”という形にしましょう!」
ザガが槍の柄で、豪志の頭を軽く小突いた。
「灰環は町じゃないぞ」
「でも、親しみやすい方が戦いやすいですから!」
ナナが、再び短く判定を下す。
「少し、分かる」
「ほら、二回目の同意をいただきました!」
ニコが素早く板を書き換える。
豪志、調子に乗る
豪志は肩を落とした。
「上げて落とすんですね……」
ヒナがそれを見て、さらに笑った。
本家の空気は、いつだってこうだ。
どんなに恐ろしい敵が来ようとも、彼らは彼らのペースを簡単には崩さない。
---
だが、石板に刻まれる文字は、さらに冷たさを増していった。
まめじいの声が、強張る。
「旧帰還選別核、再起動」
「流入個体、分類再開」
「名薄化、再評価」
「帰還路、再選別」
牧人は、さらに一歩、その冷たい光に向かって足を踏み出した。
「やめろ」
だが、旧帳場の奥は答えない。
石板の文字は、ただ淡々と続く。
「家主方針、異物」
「受付機能、過剰」
「飯場、分類阻害」
「寝床、沈降阻害」
ヒナが梁の上で本当に怒った顔をした。
「ちょっと、私たちのご飯と寝床を邪魔扱いした!」
ベロの目が、大鍋の湯気の中で光った。
「俺の飯場を、邪魔と言ったな」
クロの右が牙を剥く。
「親父、噛むか」
牧人は低く言った。
「まだだ」
右が不満そうに喉を鳴らす。
「まだなのか」
「まだだ。お前は飯を守ってろ」
ナナが右奥の戸の前で、静かに言った。
「でも、あの石板、すごく嫌い。出入り禁止」
「ああ、俺も大嫌いだ」
牧人はそう答えて、拳を握った。
石板の文字は、さらに非情な言葉を吐き出す。
「戻る資格なき個体、深層保持」
「名なきもの、記録外」
「役なきもの、沈降」
「壊れたもの、廃棄」
その最後の一語。
廃棄。
その文字が浮かんだ瞬間、本家の門前の空気が変わった。
ぷるが、ぷるんと小さく縮む。
ミズハの水桶の水面が、激しく波打った。
イシコが地面に置いた両手に力を込め、石畳がきしむ。
イトの糸が、風もないのに高い音を立てて震えた。
ネムが右奥の部屋から、珍しく完全に目を覚ました顔を出す。
「親父」
ナナが、戸の前から牧人の背中を見た。
「だめ」
「あいつ、だめ」
牧人は、ゆっくりと石板の文字を睨み据えた。
「廃棄、なんて言葉はな」
声は静かだった。
「この場所には存在しないんだよ」
「体が壊れたやつも」
「名前を奪われて、自分が誰だか分からなくなったやつも」
「誰の役にも立てないって、自分を責めてるやつも」
「世界から帰る資格がないって言われたやつも」
牧人は、迷わず一歩前に出た。
「お前らが勝手に捨てていいやつなんて、この場所には一人もいない」
灰色の光が、牧人の言葉に反発するように膨れ上がる。
千景の足元で、黒冠の影がうねった。
千景は、ただ黙って牧人の背中を見ていた。
さっきまで、中心に立つことから逃げるなと刺した相手。
その牧人が今、灰環の奥の冷たい仕組みを正面から睨みつけている。
今度は逃げないのか。
その場所に、本当に立つのか。
千景の目は、それを見ていた。
牧人は、一歩も引かなかった。
旧帳場の奥で、石板が最大級の警告音を響かせる。
ごん。
そして、灰色の文字が空間に浮かんだ。
家主方針、拒絶。
帰還路再接続、禁止。
家主権限、削除対象。
灰環棄還核、起動。
まめじいの顔から血の気が引いた。
「親父殿……」
「これは、本格的な拒絶にございます」
ヒナが梁の上で息を呑み、ザガが槍を静かに構え直す。
クロの三つの首が、同時に低く唸った。
ベロが大鍋の重い蓋を閉める。
「飯、守る」
ナナが、腰の短剣に手をかけた。
「寝床、守る」
イトが梁の隙間に何重もの糸を張る。
「戻るところ、持つ」
イシコが、地面の石を押さえた。
「本家の石、渡さない」
ミズハが水桶を抱え直した。
「水一滴、汚させないわよ」
ニコが、渾身の力を込めて板を掲げた。
捨てるの、絶対にだめ
牧人は、その板を背中で感じながら、旧帳場の奥を指差した。
「ああ、その通りだ」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「ここは、誰も捨てられない場所だ」
灰色の光が、本家を飲み込もうと押し寄せる。
黒冠の影も、呼応するように存在感を増していく。
戻さない迷宮と、冷たく選別する迷宮。
同じ古い根を持つ二つの枝が、本家の門前で同時に鳴っていた。
そして牧人は、武器も持たず、特別な防具もつけず、お玉さえ持たずに、ただその境界線の中心に立っていた。
もう、逃げ道は探していなかった。
豪志が、震えながらも手を上げた。
「お、親分さん……。俺も、一ミリくらいは盾になります」
ザガが、呆れたように、しかし少しだけ温かい目をして言った。
「お前は、三秒だけ黙ってろ」
豪志は涙目で頷いた。
「はい、今度は本当に黙ります」
三秒ではなかった。
本当に黙った。
ニコが、そっと板を裏返す。
親父、立った
牧人はそれを見て、何も言わなかった。
止めなかった。
灰環棄還核が、完全に目を覚ました。
捨てるための古い核が。
捨てさせない家主を、排除するために。




