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黒冠王座は、親父を王とは認めなかった


黒冠の影は、本家の門前の境界線で、静かに揺れていた。


飯の匂いは、まだ残っている。


ガルドレイは去った。

飯は食わなかった。

黒冠は本家に入らないと言った。

道も飯場も水場もいらないと言った。


それでも、黒冠王座は閉じなかった。


拒んだのに、閉じない。


それが一番面倒だった。


牧人は、門前の地面に浮かんだ黒い文字を見ていた。


読めない。


読めないが、嫌な感じだけは分かる。


こういう時の文字は、だいたいろくなことを書いていない。


まめじいが帳面を抱えたまま、低く読み上げる。


「黒冠王座、判定」


黒い影の文字が、地面の上で少し濃くなった。


「守谷牧人、黒冠王に非ず」

「守谷牧人、黒冠家主に非ず」

「家主権限、黒冠領域に及ばず」


牧人は、少しだけ息を吐いた。


「よかった」


ヒナが梁の上で目を丸くした。


「やだ、親父が選ばれなくて安心してる!」


「安心するだろ。黒冠の王なんて、絶対に無理だ」


「落選して、残念だね」


「いや、立候補してない」


ニコが、すぐに板を出した。


親父、黒冠王、落選


牧人は言った。


「その板は出すな」


クロの右が低く笑った。


「落選か」


「嬉しそうに言うな」


「嬉しくはない」


「顔が嬉しそうなんだよ」


右は牙を見せた。


「黒冠の王など、面倒そうだ」


牧人は真顔で頷いた。


「クロもそう思うだろ」


千景が敷居の外側で、少しだけ笑った。


「そこは一致するんだ」


千景が、門前に座る三つ首の黒い魔物を見た。


「そういえば名前、クロっていうんだ」


クロの右が、少しだけ顔を上げる。


「ああ」


千景は、少し懐かしそうに目を細めた。


「いい名前だね。うちにも、クロがいたんだけど」


牧人は、少しだけ表情を緩めた。


「そうなのか」


「うん、もう、いなくなっちゃったけど」


門前が、少し静かになった。


ヒナも梁の上で、茶化すのをやめた。


牧人は、言葉を選ぶように聞いた。


「……どのくらい一緒にいたんだ」


千景は、少し考えた。


「一秒くらい」


「一秒!?」


牧人の声が裏返った。


ヒナが梁の上でずるっと滑りかける。


「やだ、どういうこと?」


クロの右が低く言った。


「一秒でいなくなったのか」


「うん。チョコレートだから」


「チョコレートかよ!」


牧人が叫んだ。


千景は真顔だった。


「黒くて、つやつやしてたから、クロって名前をつけた」


「なんでチョコレートに名前つけてんだよ」


「今もクロは、私の中で生きてる」


「いい話みたいに言うな!」


ベロが鍋の前で頷いた。


「食べ物への愛情を感じる」


「感じるな!」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、黒冠の姫は、お菓子愛がすごい!」


千景は、少しだけ得意そうに胸を張った。


「名前をつけたものは、大事にするよ」


「食べたけどな」


「大事に食べた」


「そこ、言い方で何とかなると思うな」



そこで、黒冠の影が、足元で静かに揺れた。


さっきまでの軽い空気が、少しだけ戻される。


お菓子に名前をつける女。

黒冠に姫と呼ばれる女。

そして、黒冠王座に、まだ仮の座を押しつけられている女。


牧人は、千景の足元の影を見た。


笑い話は笑い話で終わらない。


黒冠では、名前も、役目も、座も、簡単には軽くならない。


クロの中央が低く言う。


「灰環とは違う深さだ」


左も静かに続けた。


「本家に引き込むものではない」


牧人はクロを見た。


「分かるのか」


右が不機嫌そうに言った。


「分かる。気に入るかどうかは別だ」


「分かるなら十分だ」


「十分ではない」


「何が」


「道中の飯場を作るなら、肉の量を先に決める必要がある」


「今じゃない」


ヒナが梁の上で笑う。


「やだ、王座判定の横で肉の話を始めた!」


ベロが鍋の前から真顔で言った。


「肉は重要だ」


「ベロまで乗るな」


「飯場を作るなら、肉は要る」


牧人は額を押さえた。


黒冠王座が、牧人を王ではないと判定している。


かなり重い場面のはずだった。


なのに、クロとベロは肉の量を気にしている。


本家は、こういうところが本家だった。


---


黒い文字は、さらに続いた。


まめじいが読み上げる。


「黒冠姫、継続」

「黒冠大迷宮、独立領域」

「古路反応、継続」


その一行で、千景の足元の影が少しだけ深くなった。


姫。


黒冠の者たちが、千景をそう呼ぶ。


王ではない。


けれど、ただの攻略者でもない。


牧人は、千景を見た。


千景は、別に嬉しそうではなかった。


むしろ、面倒くさそうな顔をしている。


「お前も、嫌そうだな」


牧人が言うと、千景は肩をすくめた。


「そりゃあね。私は、王様になりたくて竜を斬ったわけじゃないし」


「だよな」


「でも、斬ったのは私だから、開いた道を見ないふりもできない。黒冠の奥に残った子たちを、知らないふりもできない」


千景は、黒い影を見た。


「だから、姫って呼ばれるくらいは我慢してる」


ヒナが梁の上で小声で言った。


「やだ、姫が我慢制だった」


ザガが低く返す。


「軽く言ってるが、重いぞ」


「分かってるけど、言い方が姫っぽくないんだもん」


千景はヒナを見上げる。


「姫っぽくなくて悪かったね」


「悪くないよ! なんか、思ったより親父寄りなだけ!」


「それはちょっと嫌」


牧人は小さく傷ついた。


「俺の扱いが雑じゃないか」


千景は即答した。


「昔からでしょ」


牧人は黙った。


昔から。


その一言が、思ったより痛かった。


---


セイランが静かに頭を下げた。


「黒冠王座の判定は明確です」

「守谷牧人殿は、黒冠の王ではありません」

「黒冠領域への家主権限もありません」

「黒冠は、冥門組本家の帰属下には入りません」


牧人は頷いた。


「それでいい」


早かった。


自分でも驚くくらい、そこだけは早く言えた。


「俺は黒冠を家にしたいんじゃない」

「黒冠の王座に座りたいわけでもない」

「黒冠のやつらを、うちの家族扱いして引っ張り込みたいわけでもない」


千景が牧人を見る。


牧人は続けた。


「ただ、道がつながるなら、迷子が出る」

「怪我人も出る」

「腹を減らしたやつも出る」

「黒冠に帰るやつもいれば、灰環へ来るやつもいるかもしれない」

「だったら、道案内と飯場と水場くらいは考えた方がいい」


ヒナが梁の上で言った。


「やだ、親父が王座の話をまた道案内に戻した!」


ニコが板を出した。


王座より、道案内


牧人は板を見た。


「いや、王座も大事なんだろうけどな」


ニコは板を裏返した。


親父、王座、向いてない


「それは合ってるけど出すな」


クロの右が低く言った。


「向いてない」


「お前まで言うな」


中央が静かに言った。


「親父は、王座に座るより、椀を持っている方が似合う」


ヒナが吹き出した。


「やだ、若頭が褒めてるのか分からない!」


牧人は少し考えた。


「たぶん褒めてない」


左が低く言った。


「だが、間違ってはいない」


「余計に嫌だな」


ベロが鍋の前で頷いた。


「椀は大事だ」


「お前はそこだよな」


「飯だからな」


千景は、そのやり取りを見ていた。


目の奥が、少しだけ柔らかくなる。


だが、笑い切ってはいなかった。


---


黒冠王座の影が、もう一度揺れた。


黒い文字が、地面の上で組み替わる。


まめじいが読み上げた。


「王権、非所持」

「支配意志、なし」

「黒冠支配、不成立」

「古路接続、別件」


牧人は眉を寄せた。


「支配意志って、何だ」


まめじいが答える。


「支配する意志、でございましょうな」


「ないな」


即答だった。


ヒナが笑った。


「やだ、親父が支配意志ゼロ!」


豪志が手を上げた。


「では、私が代わりに、食卓防衛隊の隊長として――」


ナナが短く言った。


「無理」


「まだ何も支配してないのに!」


ニコが板を出した。


豪志、支配、無理


豪志は膝から崩れた。


「黒冠王座に判定される前に、本家で判定された!」


ザガが呆れたように言った。


「お前が何を支配するんだ」


豪志は少し考えた。


「今日のおかずを」


「おかずの支配は渡さない!」


ベロが鍋蓋を振り上げて言った。


「失礼しました!」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、豪志の支配はベロに止められた!」


千景が、少しだけ肩を震わせた。


笑ったのを隠そうとしている。


隠せていない。


牧人は、それを見て少しだけ安心した。


安心してから、すぐに思い直す。


安心している場合ではない。


今は黒冠王座が反応している。


だが、こういう笑いがないと、息が詰まるのも事実だった。


---


千景が、静かに言った。


「マッキーは、昔から中心に立ちたがらない」


門前の空気が、少し変わった。


牧人は、言葉に詰まった。


千景の声は、怒鳴っていない。


けれど、さっきまでの笑いの混じった声ではなかった。


「マッキーは、目の前に来た人を追い返さない」

「怪我してたら手当てする」

「腹を空かせてたら飯を出す」

「行く場所がないなら、ここにいていいって言う」


牧人は黙って聞いていた。


「そこは、昔から変わってない」


千景は少しだけ笑った。


でも、目は笑っていなかった。


「でもね」

「その場所が、本当に誰かの居場所になった時」

「その子が、マッキーを中心にして立とうとした時」

「マッキーは、急に一歩下がる」


牧人の喉が、少しだけ動いた。


何か言おうとして、言えなかった。


「自分はただ飯を出しただけだ」

「自分はただ道を教えただけだ」

「自分はただ、置いておいただけだ」

「そうやって、自分が中心になったことを認めない」


千景は、黒冠の影を見た。


「だから、残るんだよ」

「マッキーの優しさに助けられたのに」

「マッキーが中心に立たないせいで、どこに立てばいいのか分からなくなる子が」


牧人の喉が、少しだけ動いた。


何か言おうとして、言えなかった。


千景は笑っている。


でも、目は笑っていない。


「だから、助かった人の後ろにいた子が、どこに立てばいいのか分からなくなる」

「帰った人の後ろに、帰れなかった子が残る」

「その子が、マッキーを恨むかどうかは別だよ」

「でも、覚えてる」


牧人は、何も言えなかった。


本家の誰も、茶化さなかった。


豪志も、今度は黙っていた。


ヒナが小さく呟いた。


「やだ、豪志が空気読んでる……」


ナナが短く言った。


「えらい」


豪志は泣きそうな顔になったが、声は出さなかった。


かなり偉かった。


千景は、牧人だけを見ていた。


「マッキーは、王になりたい人じゃない」

「支配したい人でもない」


そこで、少しだけ声が低くなる。


「でも、マッキーが一歩引いたせいで、頼った子が宙ぶらりんになることもある」


牧人は、ようやく声を出した。


「……チカ」


「何?」


「俺は、逃げてたのか」


千景はすぐには答えなかった。


黒冠の影が、足元で静かに揺れている。


小太郎が、千景の隣で耳を少し動かした。


千景は、ゆっくり言った。


「いつもじゃない。でも、そういう時はあった」


それは、断罪ではなかった。


だからこそ重かった。


牧人は目を伏せた。


逃げていた。


そう言い切られた方が、まだ反発できたかもしれない。


だが、千景は「いつもじゃない」と言った。


逃げていない時も知っている。


逃げた時も覚えている。


その言い方が、一番逃げ場をなくした。


---


黒冠王座の影が、もう一度震えた。


まめじいが身を乗り出す。


「まだ、続きがございます」


黒い文字が浮かぶ。


黒冠姫、確認。

姫権限、限定継続。

王座、空位に非ず。

王、非設定。

姫、仮座保持。


牧人はまめじいを見た。


「どういう意味だ」


まめじいは少し考えた。


「黒冠に王は置かれていない」

「ただし、千景殿が姫として仮の座を保っている」

「そのような意味かと」


千景は嫌そうな顔をした。


「仮の座って言い方、嫌だなあ」


セイランが静かに言った。


「実態に近い表現かと」


「セイランまで真面目に言わないで」


「真面目な案件ですので」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、黒冠の姫も役職名に困ってる!」


牧人は千景を見た。


「お前も仮なのか」


「仮が多いね、この辺」


「本当に多い」


ニコが板を出した。


親父も仮

姫も仮


牧人と千景が同時に言った。


「出すな」

「それは出さないで」


二人の声が重なった。


門前が一瞬、妙な空気になった。


ヒナが目を輝かせる。


「やだ、息ぴったり!」


千景は顔をしかめた。


「そこ拾わないで」


牧人も言った。


「拾わなくていい」


ニコは少し残念そうに板を下ろした。


豪志が小さく手を上げる。


「では、お二人の共同拒否記念に紙吹雪を」


ナナが短く言った。


「だめ」


「分かってました!」


ザガが低く笑った。


「分かってるなら出すな」


---


黒冠の影は、閉じない。


だが、暴れもしなかった。


まるで、判定だけを置いて待っている。


黒冠は本家ではない。

牧人は黒冠の王ではない。

千景は黒冠の姫として仮の座にいる。

古路は反応している。


整理された。


整理されたはずなのに、問題は減っていない。


むしろ、きれいに並べられただけだった。


牧人は深く息を吐いた。


「つまり」


みんなが牧人を見る。


牧人は言った。


「黒冠は、うちじゃない」

「チカは黒冠の姫で、でも王様ではない」

「道は反応してる」

「だから、飯場と水場と道案内の話は残る」


千景が少しだけ目を細めた。


「だいたい合ってる」


牧人は安心しかけた。


千景が続ける。


「でも、最後に逃げないでね」


牧人は止まった。


「何から」


「中心に立つことから」


牧人は何も言えなかった。


千景は、それ以上追わなかった。


追わないのが、逆に痛かった。


ベロが鍋の前から言った。


「飯、できた」


空気が少しだけ戻る。


ヒナが梁の上で、ほっとしたように笑った。


「やだ、ベロの飯が場面転換みたいになってる!」


ベロは真顔だった。


「飯は区切りだ」


「強い!」


クロの右が頷く。


「肉は?」


「ある」


「よし」


牧人は少しだけ笑った。


黒冠王座。

千景の指摘。

自分の弱さ。

古路。

灰環棄還核。


全部、まだそこにある。


それでも、飯はできた。


食わなければ、考えられない。


牧人はそう思った。


「食うか」


ヒナが梁から飛び降りた。


「食べよ食べよ! 重い話は、一回椀を持ってから!」


ナナが短く言った。


「並ぶ」


ニコが板を出す。


重い話、飯のあと


牧人は板を見た。


「それは少し違う」


ニコは板を裏返した。


重い話、飯を食べながら


「もっと違う」


千景が、少しだけ笑った。


「でも、この家らしいね」


牧人は答えなかった。


否定はできなかった。


---


その時。


黒冠の影が、低く鳴った。


ごん。


門前の全員が、動きを止めた。


その音は、灰環の旧帳場で聞いた音に似ていた。


だが、同じではない。


灰環の音は、沈んだ石の音だった。


黒冠の音は、閉じた王座の奥で、古い冠が動く音だった。


まめじいの筆が止まる。


千景の表情も、わずかに変わった。


セイランが低く言った。


「古路が、さらに深く反応しています」


牧人は、嫌な予感しかしなかった。


「また話が増えるのか」


ニコが板を出した。


話、増える


牧人は言った。


「出すな」


黒冠王座は、もう一度鳴った。


ごん。


本家の奥では、灰環の石板もまた、薄く灰色に光っていた。


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