黒冠の強硬派は、飯を断った
灰環棄還核。
その文字が旧帳場の奥に浮かんでから、本家の門前は妙に静かになった。
静かになった。
……はずだった。
「食卓防衛隊、第一班、配置につきます!」
受付小屋の横で、豪志が紙袋を抱えたまま妙に張り切っていた。
ザガが額を押さえる。
「いらん」
「ですがザガさん。灰環の奥が本家を敵として見たんですよね。ということは、食卓が狙われる可能性もあるのでは」
「お前は食卓から離れろ」
ナナが短く言った。
「邪魔。座って」
豪志は胸を押さえた。
「今日のナナさん、いつもより切れ味が鋭い!」
ニコが板を出した。
豪志、食卓から離れる
「板にまで命令された!」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、灰環の奥より先に豪志が排除されてる!」
牧人は旧帳場の方を見た。
灰色の光は、まだ奥で鈍く揺れている。
黒冠の話だけでも面倒だった。
そこへ灰環の奥まで起きた。
普通なら、もっと深刻になるべきなのだろう。
だが、本家では、深刻な話の横で豪志が食卓防衛隊を作ろうとしている。
世界は広い。
そして、うちの門前は狭い。
牧人は深く息を吐いた。
「とりあえず、飯を増やすか」
ベロが当然のように頷く。
「増やしてる」
「早いな」
「話が増える時は、飯も増える」
「嫌な法則だな」
ヒナが梁から言った。
「でも本家だと、だいたい合ってる!」
千景は敷居の外側に立ったまま、少し呆れたようにそれを見ていた。
「灰環の奥が起きたのに、飯を増やすんだ」
牧人は答えた。
「飯が足りない方が困るだろ」
「そこなんだ」
「そこだな」
千景は何か言いかけて、やめた。
代わりに、小さく笑う。
「本当に変な家」
「もう何回目だ」
「数えてるの?」
「忘れた」
セイランは、千景の少し後ろで静かに立っていた。
昨日と今日で、ずいぶん本家の空気に慣れたようにも見える。
だが、足元の影はまだ硬い。
黒冠の使者として、彼は本家を見ている。
そして黒冠の奥へ、何かを伝えているのだろう。
牧人には、そういう難しいことは分からない。
分からないが、セイランが椀を受け取る時に少しだけ迷うことは分かった。
昨日、飯の列に並ばされたせいで、黒冠の使者としての何かが少し削れたらしい。
悪いことをした気はする。
だが、飯は出した。
なら、たぶん悪くない。
---
その時、本家の門前に黒い音が落ちた。
ごん、ではない。
石の音でも、輪の音でもない。
鉄の塊を、遠くからゆっくり引きずってくるような音だった。
小型魔物たちが、飯の列で一斉に体を縮める。
ぷるが、ぷるんと低く沈んだ。
ミズハの水桶の水面が、黒く波打つ。
イトが梁の上で足を止めた。
「重い」
「黒い」
「怒ってる」
ザガが槍を握った。
「来たか」
千景は目だけを動かした。
「早いね」
牧人は嫌な予感しかしなかった。
「誰だ」
セイランが静かに答えた。
「ガルドレイ殿です」
「食卓を叩き割るかもしれない人か」
「はい」
牧人は真顔になった。
「食卓を下げるか」
ベロが鍋の前で言った。
「下げるな。守れ」
ニコが板を出した。
食卓、守る
豪志が勢いよく立ち上がる。
「食卓防衛隊、出番ですね!」
ナナが即答した。
「座って」
「出番が来た瞬間に着席命令!」
ヒナが梁の上で笑う。
「やだ、豪志が防衛する前に防衛されてる!」
門の向こうに、黒い影が立った。
人型だった。
だが、人間には見えない。
黒い鎧のような外皮が、肩から腕、胸、脚まで覆っている。
鎧を着ているのではない。
体そのものが、鎧の形をしている。
頭部の左右には黒い突起があり、古い兜の飾りのように見えた。
胸には、黒雷で焼かれたような古い傷が幾筋も走っている。
一歩進むたび、地面の影が硬くなる。
ガルドレイ。
そう名乗られる前から、牧人は分かった。
これは、飯の列に自然に並ぶタイプではない。
ガルドレイは敷居の手前で止まった。
千景へ向けて、低く頭を下げる。
「姫」
千景は返した。
「来るの早いね、ガルドレイ」
「黒冠の道が、灰環の家に汚されると聞いた」
牧人は小さく眉を寄せた。
「汚すつもりはないぞ」
ガルドレイの黒い顔が、牧人へ向いた。
目の奥に、黒い火のようなものがある。
「お前が灰環の親父か」
「そう呼ばれてる」
「人間か」
「まあ、人間だな」
ガルドレイは、門前を見た。
飯の列。
小型魔物。
人間の避難者。
受付小屋。
鍋。
ニコの板。
ぷる。
梁のヒナ。
戸の前のナナ。
門の横にいるクロ。
その視線がクロで一度止まった。
クロの右が牙を見せる。
「見るな」
ガルドレイは答えない。
次に、ガルドレイの視線が小太郎へ落ちた。
小太郎は千景の足元で座っている。
茶色いトイプードル。
「小太郎殿も来ておられるか」
牧人は目を瞬かせた。
「殿?」
ヒナが梁の上で小声で言う。
「やだ、強硬派が犬に敬称つけた」
小太郎は答えない。
耳だけを少し動かした。
千景が言った。
「今日は見てるだけだよ」
「ならばよい」
牧人は小太郎を見た。
やっぱり、ただの犬には見えない。
いや、見た目はどう見ても犬だ。
困る。
ガルドレイは、再び牧人に視線を戻した。
「灰環の親父。黒冠は、お前の家ではない」
「それはさっきも言った。黒冠は黒冠でいい」
「ならば道をつなぐな」
「道は、もう反応してるんだろ」
「閉じればいい」
牧人は少し黙った。
「閉じたら、困るやつが出るんじゃないのか」
ガルドレイの影が、重く広がった。
「帰れなかった者に、帰る場所など要らん」
「帰れなかったから、我らは黒冠になった」
「戻れぬ道の底で立った者に、今さら道を差し出すな」
門前が静かになった。
その言葉は、千景のものより荒かった。
だが、筋は通っていた。
痛いくらいに。
牧人は、すぐには返せなかった。
ガルドレイはさらに言う。
「飯と寝床で、黒冠を柔らかくするつもりか」
「名前を聞いて、列に並べて、家に入れるつもりか」
「我らは、灰環の飯場に下る気はない」
ベロの手が、鍋の前で止まった。
「飯を馬鹿にするな」
声は低かった。
本家の空気が、別の意味で冷えた。
ヒナが小声で言った。
「やだ、ベロが本気で怒った」
ガルドレイはベロを見る。
「人間の飯など食えるか」
ベロの目が細くなる。
「人間の飯じゃない」
「なに!?」
「本家の飯だ」
ヒナが小さく言った。
「そもそも、ベロは人間じゃないし」
ガルドレイが黙った。
ベロはお玉を握りしめたまま、さらに言った。
「食いたくないなら食うな」
「でも、飯を馬鹿にするな」
「飯は、食うやつの腹に入る」
「人間か魔物かは関係ない」
クロの右が頷いた。
「肉もだ」
牧人は言った。
「そこは今、足さなくていい」
右は不満そうだった。
ガルドレイは、ベロの鍋を見る。
湯気が立っている。
肉は少ない。
野菜が多い。
だが、匂いは悪くない。
ガルドレイは鼻を鳴らした。
「軟弱な匂いだ」
ベロの額に、青筋のようなものが浮いた。
「親父」
「分かってる」
牧人は慌てて一歩前に出た。
「ベロ、待て」
「あんたも、食いたくないなら無理に食わなくていい」
ガルドレイが牧人を見る。
「当然だ」
「でも、腹が減ったら置いとく」
ガルドレイの影が止まった。
「何?」
牧人は普通に言った。
「食いたくないなら食わなくていい」
「でも、あとで腹が減るかもしれないだろ」
「その時に、鍋を最初から作り直すのは大変だ」
「だから、冷めても食えるものを残しておく」
「食うなら食えばいい」
「食わないなら、明日の朝に別のやつが食う」
場が静かになった。
ガルドレイは、しばらく牧人を見ていた。
それから、低く言った。
「屈辱だ」
牧人は困った顔になった。
「飯を置いとくだけで?」
「施しを受けるつもりはない」
「じゃあ、置いとくだけだ。受けるかどうかは、お前が決めればいい」
千景が、少しだけ目を細めた。
セイランも黙っている。
まめじいは筆を構えていた。
ガルドレイは、その筆を見て嫌そうに言った。
「書くな」
まめじいは微笑んだ。
「記録係でございますので」
ニコが板を出す。
黒冠強硬派、飯いらない
ガルドレイの黒い外皮が、ぎしりと鳴った。
「その板を下ろせ」
ニコは首をかしげた。
板を裏返す。
黒冠強硬派、あとで食べるかも
ガルドレイは一歩踏み出しかけた。
ザガが槍を構える。
ナナが右奥の戸の前で低く構える。
クロの右が牙を見せる。
小太郎が、耳だけを動かした。
ガルドレイは止まった。
そして、千景を見た。
「姫。これは侮辱です」
千景は肩をすくめた。
「本家の板は、だいたい誰にでも刺さるよ。私もさっきから、変な家って言いすぎてるし」
「笑い事ではありません」
「笑わないと、やってられない場所もあるんだよ」
ガルドレイは黙った。
千景の声に、ほんの少しだけ黒冠の奥の音が混じっていたからだ。
ガルドレイは牧人を睨む。
「黒冠は、灰環の親父など認めん」
「道も、飯場も、水場も、案内板も不要だ」
「帰れなかった者は、帰れなかったから強くなった」
「今さら帰り道など、弱さを呼ぶだけだ」
牧人は、静かに聞いていた。
怒らなかった。
言い返しもしなかった。
それが、ガルドレイには余計に腹立たしかったらしい。
「何か言え」
牧人は少し考えた。
「腹が減ってるのか?」
ガルドレイの影が、ぴたりと止まった。
ヒナが梁の上で崩れた。
「やだ、親父が最悪のタイミングで聞いた!」
ガルドレイの声が低くなる。
「……俺を侮辱しているのか」
「いや、怒り方が少し空腹っぽかったから」
「親分」
ザガが横から低く言った。
「それは火に油だ」
ベロが鍋の前で言う。
「空腹はよくない」
ナナも短く言う。
「よくない」
ニコが板を出す。
空腹、危険
豪志が手を上げた。
「私も空腹時は踊りの切れが悪くなります!」
ナナが言った。
「踊らない」
「ダメですか!」
千景が、とうとう少し笑った。
ガルドレイは、黒い外皮をぎしぎし鳴らしながら背を向けた。
「黒冠は、この接続を認めん」
千景が言った。
「ガルドレイ」
彼は止まる。
千景は、少しだけ声を柔らかくした。
「黒冠へ戻るの?」
ガルドレイは振り返らなかった。
「戻る、ではない」
「じゃあ?」
「そこにしか、いられなかっただけだ」
千景は黙った。
ガルドレイは、低く続ける。
「帰る道などなかった」
「外へ戻れなかった」
「だから、黒冠で生きるしかなかった」
「それを今さら、帰ればいいなどと……」
千景の目が、少しだけ細くなった。
「……そうだね。私も悪かった」
ガルドレイは答えなかった。
そのまま黒い影を引きずって、門前から去っていく。
重い足音が遠ざかった。
本家の門前には、また飯の匂いが戻った。
ベロが鍋をかき混ぜる。
いつもより、少しだけ乱暴だった。
「ベロ」
牧人が声をかける。
ベロは鍋を見たまま答えた。
「飯を馬鹿にした」
「分かってる」
「食わないのはいい」
「うん」
「でも、馬鹿にするのは違う」
牧人は頷いた。
「それは、そうだな」
ベロはしばらく黙っていた。
それから、鍋の底をゆっくり混ぜる。
「飯は、従わせるために出すものじゃない」
牧人は少し驚いて、ベロを見た。
ベロは真顔だった。
「食いたいやつが食う」
「いらないやつは、食わない」
「それだけだ」
「……そうだな」
牧人は、少しだけ息を吐いた。
「それでいい」
ヒナが梁の上で、少しだけ笑った。
「やだ、ベロが一番ちゃんと本家の飯を分かってる」
ベロは当然のように言った。
「飯番だからな」
ニコが板を出した。
ベロ、飯番
ベロはそれを見て、ほんの少しだけ頷いた。
気に入ったらしい。
まめじいが帳面に記す。
黒冠強硬派ガルドレイ来訪。
本家接続、拒否。
飯、拒否。
本家の飯、懐柔に非ず。
牧人は帳面を覗き込んだ。
「懐柔って書くと、また難しくないか」
まめじいは筆を止めずに答えた。
「では、こういたしましょう」
帳面に、もう一行が足された。
飯は、食いたいやつが食う。
牧人は少しだけ頷いた。
「それなら分かる」
ニコが板を出した。
飯、食いたいやつが食う
ベロは鍋の前で、力強く頷いた。
「それでいい」
牧人は、門の向こうを見た。
ガルドレイの黒い影は、もう見えない。
ただ、地面には重い足跡のような黒ずみが少し残っていた。
本家の門前に来た。
飯を拒んだ。
黒冠は本家にならないと言った。
道も飯場も水場もいらないと言った。
それでも、牧人には、ガルドレイを敵だとは思えなかった。
嫌なやつではある。
かなり面倒でもある。
食卓を叩き割る可能性もある。
だが、あれは本家を嫌っているというより、黒冠を奪われたくないのだと思った。
たぶん。
牧人は、そういうことを考えるのが得意ではない。
得意ではないが、今のは少しだけ分かった。
「黒冠は、黒冠のままでいたいんだな」
牧人が言うと、千景が少しだけ目を細めた。
「うん」
「本家に入りたいわけじゃない」
「そう」
「じゃあ、無理に入れる話じゃないな」
「それ、最初から言ってる」
「聞いてたけど、今ちょっと分かった」
千景は少しだけ笑った。
「遅い」
「悪い」
「でも、分かったならいいよ」
ザガが腕を組んだまま言った。
「分かったところで、あいつはまた来るぞ」
「だろうな」
牧人は嫌そうな顔をした。
「食卓は守った方がいいか」
豪志が勢いよく立ち上がった。
「では、食卓防衛隊を正式に――」
ナナが短く言った。
「いらない」
「早い!」
ニコが板を出した。
食卓防衛隊、結成前に解散
豪志は胸を押さえた。
「結成前なのに解散って!」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、黒冠の強硬派より豪志の部隊の方が先に拒否された!」
ベロは鍋の前で言った。
「食卓は俺が見る」
豪志が小さく手を上げる。
「では、私は補佐に」
ナナがもう一度言った。
「いらない」
「二回目!」
牧人は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けた。
重い話は終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
黒冠。
灰環棄還核。
帰れなかった側。
戻る道。
本家に入らない黒冠。
黒冠を飲み込まない本家。
どれも、簡単な話ではない。
だが、簡単ではない話の横で、豪志が勝手に部隊を作ろうとして、ナナに二秒で解散させられている。
本家は、そういう場所だった。
それでいいのかは分からない。
でも、それがないと、たぶん誰も息が続かない。
その時だった。
門前の端で、黒い影が静かに揺れた。
旧帳場の石板ではない。
黒冠の影だった。
セイランが顔を上げる。
「黒冠王座が反応しています」
千景も、足元の影を見る。
黒い文字が、地面の影に浮かび上がった。
黒冠王座、判定。
灰環本家、黒冠領域への家主権限なし。
黒冠大迷宮、独立領域。
古路反応、継続。
少し置いて、さらに一行。
飯場、水場、道案内。
接続時、暫定協議。
牧人には読めなかった。
まめじいが、低く読み上げる。
「黒冠王座、判定」
「灰環本家、黒冠領域への家主権限なし」
「黒冠大迷宮、独立領域」
「古路反応、継続」
そこで、まめじいは少しだけ目を細めた。
「飯場、水場、道案内」
「接続時、暫定協議」
牧人は、少しだけ安心した。
「つまり、黒冠はうちじゃないんだな」
千景が頷いた。
「うん。黒冠は黒冠」
「灰環より大きくて、危なくて、面倒な迷宮だよ」
「それは分かった」
「分かってない顔してる」
「うちじゃないことは分かった」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、親父の理解がそこだけ!」
ニコが板を出した。
黒冠、うちじゃない
でも道は見る
牧人は板を見て頷いた。
「それが一番分かりやすい」
牧人は言った。
「でも、道を見るってことは、話は続くのか」
セイランが静かに頷く。
「はい」
牧人は空を見上げた。
「話は減らないな」
豪志が小さく手を上げた。
「では、道を見る係として食卓防衛隊を――」
ナナが短く言った。
「却下」
「道も食卓も守れない!」
ニコが板を出した。
豪志案、却下
豪志は膝から崩れた。
「黒冠王座より判断が早い!」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、豪志だけ即決!」
黒冠の影は、静かに揺れていた。
拒んだ。
だが、閉じなかった。
ガルドレイは飯を食わなかった。
黒冠は本家に入らなかった。
それでも、道の話だけは、まだ終わらなかった。




