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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ  作者: 織田雪村
第六章

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日本復活⑯ 三人の男と山上ヶ岳

2003年(平成15年)9月


西吉野村から大峰へ。


手術から4ヶ月。スティーブは完全に回復していた。体力測定の結果も良好で、医師からも「登山は問題ない」との許可が出た。


いよいよ約束を果たす時が来た。


当日、私たちは早朝5時に出発した。

参加者は私とスティーブ、そしてもう一人。イーロンで、私たちは山への敬意を表すため、一週間前から五穀と肉を断ち、その日に備えていた。


「トイチロウ、本当に2000メートル近くも登るのか?正気か?」


イーロンが不平を漏らす。彼は運動が得意ではない。


「心配しなくていい。出発地の標高が900メートルほどで、目的地は1719メートルの山頂にある建物だ。差し引きすると?」


「800メートル程度か……だったら何とかなりそうだな……」


これはかなり楽観的な言い方で、まるで印象操作を得意とするメディアのような表現だ。

出発地点の標高はもう少し低いし、登山路は実際にはそれほど楽な行程ではない。かなり体力を消耗するだろう。だが、私には彼をこの場に連れてくる理由があった。


「イーロン、君はテスラのテストコースをここで作るんだ。この山道を体験すれば、日本の地形がどれほど過酷か分かる。平地が少なく、勾配がきつく、冬は凍結する。そういう環境でEVが走れるかどうか自分の足で確かめるんだ」


そう言うと、イーロンは渋々頷いた。



登山口は天川村の洞川(どろがわ)温泉から始まる。修験道の伝統に従い、私たちは白装束に身を包んだ。

スティーブは興味深そうに、自分の姿を鏡で確認している。


「これが、日本の山岳信仰の正装か……」


「そうだ。ここから先は俗世を離れる。君たちは今日、修験者だ」


まずは給水だ。ここは名水百選にも選ばれた「ごろごろ水」で知られ、「面不動鍾乳洞」の観光などが雑誌やテレビで紹介されて、多くの観光客で賑わいを見せてもいる。


私たちはクルマを清浄大橋手前の駐車場に停め、山上ヶ岳への険しい道を登り始めた。ここから目的地までは片道4時間以上かかるだろう。


近くにいた修験者たちが「懺悔文」を唱え、時折ホラ貝を吹き鳴らしながら登っていた。懺悔文の内容は「懺悔懺悔(さんげさんげ) 六根(ろっこん)清浄(しょうじょう)……」という、神仏に向き合うためのいわばスイッチのような役割なのだという。


修験者たちは、私たちを見て最初は物珍しそうにしていたが、やがて表情を引き締めた。私たちが何者なのか明らかに知っている顔だった。


そんな反応はいつものことだったので、気にせずしばらく歩くと現れたのが「従是女人結界」の石碑とゲートだ。ここから先の女性の立ち入りは厳禁とされる。


女人結界は、日本の霊山と呼ばれる場所にかつて多く存在していたが、明治以降は高野山を含め、ほとんどの女人結界が解除されていった。そんな中にあってもここには現存している。


ユネスコの世界遺産登録への推薦に際し、この女人結界の是非が議論されたが、結果は解除されることなく登録への準備が進んでいる。

前世の記憶のとおり、来年には「紀伊半島の霊場と参詣道」の一部として登録されるだろう。


女人結界門を超え、次第に勾配が増していく。

イーロンが息を切らし始めた。


「クソ……こんな急斜面、テスラのテストには最適だな……」


彼は汗を拭いながら、周囲の地形を観察していた。険しい山道、切り立った崖、遠くまで連なる山々。


「トイチロウ、この地形でEVのバッテリーがどれだけ持つか、データが欲しい。それに……電力インフラだ。この山奥で、どうやって電力を確保する?日本は自然災害が多い。送電網が寸断されたら?」


私は、ここぞとばかりに答えた。


「だから、分散型電源が必要なんだ。イーロン、この山を見ろ。森林資源が豊富だ。バイオマス発電が使える。それに、この急峻な地形には無数の沢がある。小規模水力発電を設置すれば、集落ごとに独立した電源を確保できる」


スティーブが口を挟んだ。


「太陽光パネルは?日本製のパネルは高効率だろう」


「その通りだ。三洋電機の技術を使えば、山間部でも十分な発電が可能だ。問題は蓄電だが……」


イーロンが目を輝かせた。


「それこそ、テスラの出番だ!車載バッテリーを家庭用蓄電池として使う。災害時には、EVが移動式電源になる。トイチロウ、これは……ビジネスになる」


私は頷いた。これは東日本大震災のような災害で威力を発揮するはずだ。


「日本は災害大国だ。地震、台風、豪雪。電力の途絶は命に関わる。だからこそ、この地に分散型エネルギーの実証実験拠点を作る。君のテスラも、ここで鍛えられれば、世界中のどんな環境でも走れるようになる」


イーロンは険しい山道を見渡し、小さく笑った。


「……なるほどな。この修行、無駄じゃないかもしれない」


私たちはさらに登り続けた。標高1500メートルを超える頃には呼吸が乱れ、足取りが重くなっていた。しかも鎖にしがみつかないと登れない難所が複数あった。

だが、スティーブは黙々と登っていた。


「スティーブ、大丈夫か?」


「ああ……不思議だな、トイチロウ。身体は疲れているのに、心が澄んでいく」


彼は崖を登り切って立ち止まり、眼下に広がる山々を見つめた。


「この景色を見ていると……自分がどれだけ小さな存在か分かる。Appleも、iPodも、すべてが些細なことに思える」


私は息を切らしながら彼の横に立った。


「それが、山岳信仰の本質だ。人間の無力さを知り、自然の偉大さに畏敬を抱く。西洋の宗教とは違う。ここでは、人間が神に近づくんじゃない。山に入ることで、自分が自然の一部だと思い知らされるんだ」


スティーブは深く息を吸い込んだ。


「……分かる気がする。なぜ君が、紀伊山地を本拠に選んだのか」


そして登り始めて4時間半。私たちはついに山上ヶ岳の頂上に建つ、大峯山寺蔵王堂に着いた。

標高1719メートル。修験道におけるもっとも重要な施設の一つでもあり、眼下には紀伊山地が果てしなく広がっていた。


「ここが、1300年前から続く聖地だ。役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験道の根本道場だ。ここで修行した男たちが、日本の精神文化を形作ってきた」


「こんな場所に、どうやってこれほど大きなものを建てたのだ?」


イーロンが呆れたように言った。

彼が想像していたサイズよりも大きかったのだろう。

スティーブは下調べしていたらしく、大きな驚きはなかったらしいが、それでも不思議そうに言った。


「それよりも、こんな銅像やら石碑を、どうやってここまで運んだんだ?あの鎖にしがみつかないと登れないような崖をどうやってクリアしたんだ?」


「それだけ、人びとは熱心に信仰したということだろうね」


実際にどう運んだのかは知らない。だが、それだけの信仰の熱量があったということなのだろう。


二人は周囲を見渡し、1300年の歴史の重みと、先人たちの労苦に思いを馳せているように見えた。


思い出したようにスティーブがぽつりと言った。


「確か蔵王堂は二つあるのだろう?」


「そうだ。ここは『山上の蔵王堂』とも呼ばれているが、20kmほど離れた吉野山には『山下の蔵王堂』がある。あちらは東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇る木造建築物だぞ」


「そうだったのか。大仏殿が一番大きいというのは知っていたが、吉野山が二番というのは初耳だ」


スティーブも知らなかったらしい。まあ、どんなものでも二番は知る人ぞ知る存在なのだろう。


「だから二番じゃ駄目で、一番を目指さないとな」


イーロンが真面目な顔をして言ったが、実に彼らしい表現だと思った。


ともかく、この蔵王堂は、昔は山上と山下の一体で信仰されていたが、現在では切り離されている。どちらも、もうすぐ世界遺産に指定されるだろう。


「ここの本尊は蔵王権現と呼ばれているんだ。山上の本尊は岩から、山下の本尊は桜の木から湧出したと言われている」


だから吉野山では桜の木を大切にしてきたのだろう。



お祈りを済ませた後、私は二人を断崖絶壁の縁へと案内した。そこには、修験者たちが待ち構えていた。


「スティーブ、イーロン。ここからが本番だ」


この場所で行われる修行のクライマックスとも言える場所。通称「西の(のぞ)き」だ。


この行は本来、部外者には容易に許されないが、私が事前にお願いしていたのだ。


イーロンが絶句した。


「……待て。まさか、あそこから?」


断崖の端には、わずかな足場しかない。その先は、垂直に切り立った崖。はるか下には、岩と樹海が広がっている。


修験者の一人が、厳粛な声で告げた。


「これより、西の覗きの行を行う。懺悔せよ」


イーロンが私を見た。


「トイチロウ……これは、冗談じゃないんだな?」


「ああ。修験道の核心だ。自分の罪を認め、死と向き合う。それが、この行の意味だ」


彼らも私たちの正体を知っているのだろうが、そんな素振りは見せず、行の手続きをしてくれた。

最初はイーロンだった。


修験者たちが彼の足首を掴み、断崖から落ちる寸前まで彼の身体を突き出す。

イーロンの悲鳴が、山にこだまする。


「うわああああ!!クソ、クソ、クソ!!やめろ、引き上げろ!!」


修験者が叫ぶ。


「懺悔せよ!己の罪を認めよ!」


それを私がそのまま英語に翻訳して叫んだ。


「わ、分かった!分かった!!俺は……俺は傲慢だった!カネのことしか考えてなかった!人を見下してた!だから、頼む、引き上げてくれ!!」


修験者がさらにイーロンを追い込む。


「社会に貢献するか!?自分だけ儲けようとの考えを捨てるか!?」


「イエス!必ず実行する!だから助けて!!」


修験者たちがイーロンを引き上げる。彼は地面に這いつくばり、荒い息をついていた。全身が震えている。


「……死ぬかと思った……」


次は、スティーブだった。


彼は静かに断崖の端にうつ伏せになった。修験者たちが彼の足首を掴む。

崖から突き出された瞬間、スティーブは軽く全身を震わせた。だが、彼は叫ばなかった。


沈黙が続いた。

修験者が問う。


「懺悔せよ!」


スティーブが、静かに口を開いた。


「……私は、多くの人を傷つけた。完璧を求めるあまり、他人の痛みを無視した。娘を捨てた。仲間を裏切った。そして……死を、恐れていた」


彼の声は、震えていた。


「だが、今……この瞬間、私は理解した。死は終わりじゃない。生きることの意味を、問い直す機会なんだ」


修験者たちが、スティーブを引き上げた。

彼は地面に座り込み、深く息を吐いた。その目には、涙が光っていた。


そして、いよいよ私の番が来た。

修験者たちが私の足首を掴む。崖の下が見えた瞬間、世界が反転したように感じた。

眼下には、果てしない奈落。


一歩間違えば、死。


「木下藤一郎。懺悔せよ!」


私は、心の奥底に封じ込めていた言葉を、ついに口にした。


「……私は、傲慢だった。未来を知っているという、その驕りでここまできた。他人を救ったのは、正義ではなく、私利私欲だった。そして……」


私は、声を絞り出した。


「羽柴秀樹という、もう一人の自分に会うことを恐れている!」


修験者たちが、私を引き上げた。地面に戻った瞬間、膝が崩れた。


とうとう口に出してしまった。この世界に来て30年以上経つが、初めて言ってしまった。周囲の修験者たちには何のことかわからなかっただろうし、スティーブたちも日本語は理解できなかっただろう。

だが、口に出すことで、自分が正しいと思ってきたことへの疑問が生じたような気がした。


三人とも、しばらく何も言えなかった。


スティーブが、ようやく口を開いた。


「……トイチロウ。この行の意味が、分かった気がする」


私は頷いた。


「人間は、死と向き合って初めて、生の意味を知る。『西の覗き』は、その象徴なんだ」


イーロンが、震える声で言った。


「……もう二度と、やりたくない。だが……忘れられない体験だ」


私たちは立ち上がり、洞川温泉への帰路についた。歩きつつ、私は二人に告げた。


「スティーブ、イーロン。俺たちは世界を変える技術を持っている。だが、技術だけでは人は幸せにならない。この山が教えてくれるのは、人間が自然の一部だということだ。それを忘れた技術は、必ず人を傷つける」


イーロンは大きく頷き、前世のイーロンなら絶対に言わないようなことを言った。


「それと、際限なく肥大を続けていくのも問題なのだろうな。どうすればいいのかは分からないが、さっき死にかけてそんなことを思った」と。


これは大きな心理的変化だろうと思う。問題はこれを具体的にどうつなげていくかだろう。


スティーブも私の言葉を聞いて頷いた。


「……トイチロウ、君が作ろうとしているのは、単なるビジネス拠点じゃないんだな」


「ああ。ここは、未来の技術者たちが魂を研ぐ場所だ。AIも、EVも、すべてがこの山で試される。そして、この地に住む人々の暮らしを支えるエネルギーシステムも、ここで完成させる」


イーロンが口を開いた。


「そのためにテスラが役に立つというわけだな」


「その通りだ。歴史は繰り返すから、この先の日本では大きな災害が起きるはずだ」


私は二人を見据えた。


「その時、この地が『自立したエネルギー拠点』として機能していれば、日本中のモデルになる。君たちの技術が命を救うんだ」


スティーブとイーロンは、互いに視線を交わした。


「……やろう」


スティーブが言った。


「Appleの技術も提供する。エネルギー管理システム、スマートグリッドの制御。すべてをこの地で実証する」


イーロンも頷いた。


「テスラのバッテリー技術も惜しまない。そして、この山道をテストコースにする。世界一過酷な環境で鍛えたEVを、世界に売り出す」


私は二人の手を取った。


「ありがとう。これで、この場所を選んだ成果が出るはずだ」


私たちは山を下り始めた。夕暮れの光が、紀伊山地を黄金色に染めている。

スティーブが、ふと立ち止まった。


「トイチロウ……手術を受けて良かった。この景色を、この感覚を、失わずに済んだ」


彼の目には、涙が光っていた。


「君が救ってくれたのは、私の命だけじゃない。私の未来も救ってくれたんだ」


私は頷き、二人に言った。


「そうかもしれないな。じゃあ、生きていることを実感するために今夜は洞川温泉に泊まろう。あそこの郷土料理は美味いぞ。イノシシなんて食べたことがないんじゃないか?スティーブも、たまには肉を食べたっていいだろう?」


そう言うと、二人の表情が崩れ、イーロンが叫ぶように言った。


「ああ。肉が食べたくて仕方ない!一週間も我慢したんだ。肉が食べたい!」


そうだった。しばらく節制していたから身体が肉を欲している。


それと地下鉄工事の進捗も確かめておくか。


「この場所は交通の便が悪いが、五條市から洞川温泉までの地下鉄工事が進んでいるから、もっと来やすい場所になるだろうな」


私がそう言うと、二人の表情に僅かな陰が差した。


「……いくら温泉街でも、この場所には手を加えないほうがいいんじゃないのか?聖地への入り口だろう?」


イーロンがそう言ったが、そう言われるとそうなんだが。既に工事は始まってしまっている。


指摘を受けて、自分は間違っているかもしれないと初めて思った。

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